夜のホテルフロント
ホテルの夜勤は暇そうに見えて、業務が多岐に渡る。
館内の見回りもあれば、事務作業もあるし、夜だからこそ苦情や客の体調でトラブルが起きることだってある。
そういう時に対応しなければならないのだから、おちおち寝てはいられない。
フロントに電話がかかってくるのは、決まって悪い兆候だから、一刻も早く対応しなければならないのだ。
深夜1時。フロントからバックヤードに戻って伝票処理を行なっていた彼は、ふと顔を上げた。
足元の空気が揺れたように感じたのだ。
表の自動ドアが開くとまだ冷たい春の夜気が入ってくる。
今のはそういう感覚だった。
予約が無くても飛び入りで宿泊できないものかと深夜に訪ねてくるお客もいる。
だから彼は自然とフロントへ出ていった。
ちょうど自動ドアが閉じていくのが見えたが、誰かが入ってきた様子はない。
それならフロントの傍にあるティーバッグや化粧水などの消耗品を取りに来たお客がいたのかとそちらに目を遣るが、そこにも誰もいなかった。
彼が裏に戻ろうと考えるまでの短い間。
彼の視界の中央にまだ各種アメニティの置き場が映っているその時に、視野の端でガラスが映す景色が揺れる。
反射的に自動ドアの方へ向き直ると、自動ドアが何かを招き入れるようにまた開いていた。
彼はスーツの背筋を冷えた空気が撫でたように感じていたが、静かに息を吐いて、この状況を業務として捉える。
困ったものだ。
こんな時間に自動ドアのセンサーが不調を起こしたとしても修理する手立てはない。
彼は日勤の従業員への申し送りとしてメモを残すことにした。
「正面入り口の自動ドアのセンサーが誤作動を起こしやすくなっています。
メーカーに確認を依頼してください」
細いペン先のインクが、さらさらと紙の上に文字列を作っていく。
角張った几帳面さを感じさせる文字が並んでいく間にも、自動ドアはもう一度、そこにいないはずの客を出迎えるように開き、名残惜しそうに閉じていった。
彼が申し送りを書き終えた頃に、フロントの電話が鳴った。客室からの内線だと分かるパターンの鳴り方だと認識した彼は、少しだけ眉を顰めて受話器を手に取る。
「はい、フロントです」
彼の抑えめの落ち着いた声が、誰もいないエントランスに響く。
「あの、フロント係の方?
今さっき……1時5分頃だったと思うんですが、おたくの係員を名乗る方がインターホンを数回押してきましてね。
客室係とだけ言ってたのですが、何の用でしたか?」
「確認いたします」
相手は女性だった。
中年と思しきその声は、既に迷惑と困惑とを漂わせていた。
電話に表示された部屋番号は735。
こんな時間に客室係が連絡する理由はない上に、フロントの彼も何の連絡も受けていない。
そのため、他のお客の悪戯か、この女性自身がふざけているだけである可能性を考えつつも、彼は宿泊者の情報を照会する。
「お部屋は735号室で間違いありませんか?」
「ええ、合っています」
735号室に宿泊しているのは男性とその同伴客である電話先の女性の二人。
案の定この客室に対して、客室係が訪問したフラグは立っていなかった。
彼は、眉を寄せると心から詫びるような声を出す。
「申し訳ございません。
私共の客室係がお客様にお知らせすることがあったという報告は上がってきておりません。
何かの間違いかも——」
彼が言い淀んでいたところで、受話器の向こう側が息を呑んだような気配があった。
「——あなたですよね? さっき部屋に来たの」
女性は先ほどよりも低い調子で、断定するようにそう言う。
何かの確信があるような言い切りだった。
俄かに矛先が自分に向いた感覚に、彼の声は必要以上に丁寧さを増す。
「いえ、私はフロントで待機しておりましたので」
女性が受話器の向こうで言葉を探している気配を彼は感じていた。
「そうでしたか? 『申し訳ございません』の言い方がそっくりだったので」「……申し訳ございません」
彼は反射的に謝ってから、今自分が謝る理由はないことに気づいた。それでも女性は呆れたように息を吐いた。
「——その『悪いと思っている自分』を無防備に差し出して、こちらが矛を納めるように誘導するみたいな言い方」「ご不快な思いをさせてしまい……」
そこまで言いかけて逡巡する。
それでも彼はその言葉を掛けるしかなかった。
「……申し訳ございません。ですが——」
「その調子で3回も謝られたら特徴くらい覚えますよ」
彼は、瞼が痙攣するように細かく動くのを感じていた。
「悪戯の可能性が高いと思われます。
もしご不安でしたら、別のお部屋をご用意いたしますが——」
「いえ、今のところは結構です。
夫も休んでいますし、続くようならまた電話します」
電話は静かに切れた。
相手の女性は「関わらぬが吉」と判断した様子だ。
彼は勝手に犯人だと断定されたような居心地の悪さと、詫びても弁明しても嫌疑が晴れる見込みのないやるせなさに、胃がきりきりと縮むように感じていた。
それでも、先ほどの女性が嘘を吐いているとは彼には思えない。
そういう悪戯をして喜ぶタイプではない様子だったのだ。
フロントに嫌がらせをするタイプには共通の空気感がある。
電話口からも漂う妙な卑屈さだったり、高揚感だったり、相手によってそれぞれだが、あの女性からはそういうものを感じなかった。
ただ迷惑し、原因を知りたいという空気しかなかったのだ。
——それも、彼が犯人だという納得で解消してしまったようだが。
彼は、バックヤードの防犯カメラを確認する。
記録の映像は大まかな時間を指定できるが、あの女性客の思い違いの可能性もあるので、1時ちょうどから1時5分過ぎまでを確認することにした。
7階の廊下が映し出される。エレベーターホールから通路に向く画角と、件の部屋の前の通路が映った画角がモニターに映る。
該当の時間帯、従業員はおろか客すらも出入りをしていなかった。
一人だけアイスペールを持って製氷器に向かった男性客がいたが、疑わしい動きは何一つしていなかった。
自分ではないという証明にはなるが、あの女性に
「私じゃありません。防犯カメラの映像があります」
なんて言うのは栓なきことだとは分かっている。
それでも、彼は、その謝罪が確かに自分の物ではなかったという証明を探している気がしていた。
防犯カメラの映像履歴は、気づけば夕方のフロントまで遡っている。
それは彼が今のシフトに入った時間帯だった。
「宅配ピザを取りたいから、フロントで受け取って部屋まで持ってきてくれない?」
若い男性客の声が入っている。
引いているスーツケースからビジネス利用っぽい雰囲気を漂わせながら、ワックスのかかった髪を撫でつける手つきがいかにも仕事ができる風な空気感だ。
彼自身もこの客のことは覚えている。
「申し訳ございません。
当館はセキュリティ上の問題で、宅配業者の利用をお断りしております」
「そうなんだ。じゃあいいや」
相手はあっさりと引き下がった。
でも彼はこの場面をもう一度巻き戻す。
「申し訳ございません」
彼は自分の言葉に眉を顰める。
こんな声で自分は謝っていたのか。
その声は自分が思っていたよりも過剰に演技がかっていて、どうにも不慣れに感じていた。




