司書さんのごめんなさい
図書館の本に対して、一般的にどのようなイメージがあるだろうか。
シミがある。
破れている。
色褪せている。
要するに「汚い」と思っている人は多いだろう。
特に小さなお子さんへの読み聞かせに使う絵本なら、殊更に敏感にもなるものだろう。
実際に検索エンジンに、「図書館 絵本」まで入れると、予測変換には「破いた」、「汚した」に並んで「汚い」という言葉が上がっている。
幼児向けに力を入れているうちの図書館では、大人の本はUV消毒機にかけるだけだが、絵本は一冊ずつ拭いている。
小学生中学年までを対象にした本が並ぶ一角は、図書館の中でも一際大きな窓に面しており、小さな噴水のある公園が一望できる。
日中は暖かく、日が長くなってきたとはいえ、閉館の時間が近づく頃には、部屋の中にも、窓の外を見ても、子どもの姿はなくなる。
こんな時間帯は、日が沈んで薄紫に暮れていく外の景色が、少し寂しそうに見えるのだった。
閉館が近く、もう絵本を借りにくる利用者さんもいなくなったので、返却ボックスに入っていた本を一冊ずつ拭いていた。
絵本を拭いている時は、中身も注意深く確認することになっている。
特に食べ物を扱うお話だと、絵本の登場人物に見せてあげようとしたのか、飲み物のシミが残っていたり、食べ物のカスが挟まっていたりすることがよくある。
最近驚いたことでいえば、「うどんのうーやん」に某冷凍うどんと思しき讃岐風の麺が、押し花ならぬ「押し麺」として挟まっていたのだった。
小さい子にとっては食べやすいうどんは身近で、その身近なものが人格を持って活躍していると心躍るのだろう、と微笑ましく思う。
一冊の絵本の中身を点検している時だった。一番最後のページから、ひらりと便箋らしき紙が落ちてきた。そこには、妙に身に覚えのあることが、まだ慣れていないひらがなで書いてあった。
「わたしは、いつもあやまってばかりです。
だれもおこっていないのに、ごめんなさい。
ほんをはこぶおしごとのとちゅうでも、すみません。
ちいさいこたちにまで、ごめんね。
きょうは、おじいさんがさがしているほんが、ほかのひとにかりられていてなかったので、もうしわけありませんといいました。
おじいさんは、
『いいんだよ。またくるね』
って、いってくれたのに、
『すみません。ごそくろうおかけします』
そういって、ふかいおじぎをしました。
なにもわるいことをしていないのに、あやまってしまいます」
誰だろう。
ずっと見られていたのか。
理想的な大人の姿じゃなく、ペコペコ頭を下げる卑屈な人間の姿を晒していたのかと思うと、耳が熱を持って、居心地が悪くなってくる。
私の手元が止まっているのを見かねてか、児童書担当のベテランパートの矢本さんが、
「どうしたの」
と尋ねてくれる。
「すみません。何でもないんです」
また、だ。
「すみません」が癖になっている。
私が拭いている途中だった本を、矢本さんが持ち上げた。
「ああ、『ごめんねともだち』ね。
今日、この本の読み聞かせの後に、『謝る時の気持ち』ってタイトルで作文を書いたのよ。
あなたのことを書きたいって言う子がいてね」
矢本さんは、私が読んでいた便箋を指さしている。
「すみません。
私、まだ仕事をちゃんとこなせてなくて、ご迷惑ばかりおかけしているから、こうやって謝ってばかりで、それで——」
この発言自体が余計な謝罪だ。
「なんというか……すみません」
俯く私を見て、矢本さんは悪戯っぽく笑っている。
「この子にね、司書さんがどうして謝ったか想像してみて、って聞いてみたのよ。
ねえ、何て言ってたと思う?」
「『私は失敗ばかりだから謝っています』……とか?」
矢本さんは小さく吹き出した。それから、
「『みんなが居心地良くいれるように、自分が悪いってことにしてる』だって」
矢本さんは笑っているけど、どこか真剣だった。
「子どもって、よく見てるわよね。
私はあなたのそういうところ、好きよ」
そう言って、書架に本を返しに向かう。
こちらに背中を向けたまま、
「でも、自分を擦り減らさない程度にね」
その一言はやけに胸の奥に重さを持ったまま染み込んでいった。
便箋に視線を戻すと、子どもらしい絵が添えらえていた。
本を書架に戻しながら、頭の上にビックリマークを浮かべたポニーテールの女の人が、「ほんをさかさまにかえさないように、きをつけましょう」と言っている。
本当に子どもって、よく見ているんだなあ。
窓の外はすっかり暗くなっていた。




