第3話「交際0日婚……じゃないけど」
イベントから数日が経っても、悠翔の中ではあの時間が夢のように思えてならなかった。
ただのファンである自分が、アイドルの如月天音にステージから名指しされ、声をかけられた。しかも、ファンレターを読んでくれていたという衝撃。
「そんなわけないだろ……」
何度も自分に言い聞かせようとしたけど、記憶に焼きついた彼女の視線は、確かに悠翔“だけ”を見ていた。
そんなある日の夕方、学校から帰宅した悠翔は、制服のまま鞄を机の上に置いた。その拍子に、イベント会場で受け取ったパンフレットがひらりと落ちた。拾おうとしたその瞬間――中から、小さな封筒が挟まっていたのに気づく。
差出人は書かれていない。けれど、その裏には小さな文字でこう書かれていた。
「手紙、ありがとう。――K.A.」
一瞬、時が止まった。
K.A.――Kisaragi Amane。
手が震えながら封を切ると、中には一枚のメモと、小さなQRコードが印刷された紙が入っていた。
「これは一度だけ有効なチャットコードです。
安全な通信ができるアプリに接続されます。
返信は無理でもいい。でも、君と話してみたかった。」
瞬間、心臓の鼓動が強くなる。
息をするのを忘れるほど、頭が真っ白になった。
「まさか……」
迷いながらも、QRコードを読み取ると、指定のアプリが開いた。
そして、画面にはひとつのメッセージが浮かんでいた。
天音:やっと届いたんだね。こんにちは、“1番くん”。
その夜、ふたりの秘密の会話が始まった。
彼女はいつも通り、丁寧で落ち着いた文面だった。だけど、その言葉の端々に、まるで友達に話すような柔らかさがあった。
悠翔も、はじめは言葉を選びながら返したけれど、彼女が「今日の夕飯、失敗した話」とか、「妹たち元気?」なんて気さくに聞いてくるものだから、だんだんと素の自分を出せるようになっていった。
それから、毎晩10分だけのチャットが、ふたりの日課になった。
天音は、ファンとしてじゃなく、“天野悠翔”として接してくれる。
そして悠翔も、“アイドル”ではなく、“如月天音”という一人の女の子と話していると実感するようになっていた。
数日が経ったある晩、彼女がぽつりと打ち込んだ。
天音:ねぇ、これって“交際0日婚”って感じじゃない? 笑
天音:まだ付き合ってるわけでもないけど、誰にも言えない関係で、内緒で話しててさ…
悠翔:じゃあ、俺が「付き合ってください」って言ったら、どうする?
天音:それは…
天音:うーん、それはまだ早い、かな?笑
天音:でも、少なくとも今、君と話してる時間がすごく好き。
悠翔の胸が、ぎゅっと締めつけられた。
“好き”という言葉。
それは、恋人へのものじゃなくても、彼女の心から出た素直な感情だと分かったから。
「……なんでこんなに嬉しいんだろう」
画面を見つめながら、悠翔はこっそりと笑った。
この関係が恋になるかどうかなんて、まだ分からない。
だけど、確かに彼らは今、**誰にも知られていない“ふたりだけの関係”**を歩み出していた。
交際0日婚ではないけれど、
ふたりの距離は、もう確かに、恋に向かって動き始めていた。
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