第8話 チラつかせたのは風○のクーポン
俺は鳴上との息が詰まるような会話を終えて、異様な空気の業務エリアを逃げるように走り出た。そして管理室のドアの前に辿り着いた。
パワハラをされたという話が業務エリア中に広まっている今、俺は社会的に終わりを迎えようとしていた。それを広めたのが、特に信じるに値すると考えていた部下であっただけに俺は酷く哀しみを覚えていた。
今の時代、当人がパワハラだと思えばそれはパワハラになるのだ。本人の気持ちを汲んで話をしたとか、可能な限り背景や事情に寄り添おうとしたとかは、もはや関係がない。つまり、俺の状況は詰みに等しかった。
目の前に待っているのは死だった。お父さんお母さん。産んでくれてありがとう。さようなら。今俺は大量にかいたぬめり気のある汗のせいで、身体全体が訳が分からない程痒いです。特に背中と脇腹と足の裏辺りが。これを掻けずに人生を終えるのが残念でなりません。
心残りがあるまま死刑台に向かうような気持ちで管理室をノックして中に入り、葛木と顔を合わせた。葛木はこのタイミングに限って、電話をしながらペンで何かを書いていた。
俺はデスクの前で葛木の手が空くのを待っていた。葛木は受話器を持って会話をしながら入室した俺を一瞬見たが、すぐに手元のパソコンに目線を戻してペンを放り投げ、肩と耳で受話器を挟んで会話しながらキーボードに何かを打ち込み始めた。
そして葛木は要件が済んだ瞬間、寸分も感情の無い声で失礼しますと言い、ドゴンと勢いよく受話器を置いた。葛木が電話を切り急いだのがはっきり伝わってくる振る舞いだった。
受話器を置いて顔を上げた葛木は殺気を放った瞳を細めて俺を睨み、「何?」とだけ静かに、怒気の籠った早口で俺に問いかけた。普段は笑っているか寝ているかどちらかの男なのだが、彼には一か月に数回くらい四肢が裂けそうになる程忙しいタイミングがあるらしく、それがちょうどよりによって今だったようだ。本当に最悪である。何も悪い事をしていなくても謝罪したくなるような威圧感があり、大きな猫を目の前にして逃げ場を失くした小さなネズミになったような気持ちだった。
「すいません、お忙しい中」
「お前今の時間来客対応の補助と提案資料の修正じゃねぇの?」
「すぐに報告したい事案がありまして」
「何分必要?俺十五時半には出張でここ出るけど」
「えっと……さ……」
「は?」
「三十分も、掛からないはずです」
「資料は間に合うの?十七時に提出じゃ遅ぇんだけど」
「報告の方が優先度が高いと判断しています。万が一間に合わない場合は再度ご相談します」
「あっそう」
葛木はさして興味も無さそうに溜息混じりにそう言って全身脱力し、面倒くさそうに首を曲げた。面談議事録を差し出すと、葛木は首を曲げたまま黙ってそれを受け取りペラペラと捲り眺めた。
俺はこれまでの経緯と状況、トラブルを起こした女性社員とは再びすり合わせをして今後の事を決めたいという点も含めて、余す事なく説明した。一瞬でも気に障らすような事をすれば即死が待っているような緊張感に喉が乾燥して時折声が掠れ、両足が地震で崩れ落ちそうな脆い柱のように震える寸前なのを必死に堪えていた。
統括席の椅子に深く座った葛木は、ダルそうな態度で俺の話を聞いていた。俺が話をしている間、彼はずっとぼんやりと退屈そうな顔をしていた。意識がそこにあるのかすらよく分からなかった。青空を見て寝っ転がってるしかやる事がないから青空を見て寝っ転がってるみたいな目で面談の議事録を眺めていた。
やがて俺の話を聞き終えた葛木は、弾かれるかのような勢いでガタリと立ち上がった。椅子が後方にバタンと音を立てて倒れた。
葛木はくしゃくしゃになった議事録を握りしめながら、ただ俺を見つめていた。影を作った葛木の顔には、何の表情も無かった。
「時枝……………」
床が破裂するかのように響く乱暴すぎる足音が、早足に一歩一歩俺に近づいてくる。そして俺のすぐ目の前にやってきた。俺はもはや葛木の顔を直視する事が出来なかった。呼吸をする事も出来ない。息を吸うな、呼吸をするのは危険過ぎると本能が大音量で警鐘を上げているのだ。もはや身体のどこかを動かす事も震える事もその場に崩れ落ちる事も許されない程の極限状態だった。
葛木が俺のすぐ目の前に立ち、俺を見つめているのをはっきりと感じていた。沈黙はたかが二秒程だったが、一時間くらいに感じる程濃厚だった。
そして葛木は目に涙を浮かべて腹を叩き、かつて見たことが無い程大笑いしだした。
「ハッハッハッハッハッハッハ!!!!!神妙な顔して何言うのかと思ったらよ!!心配させるんじゃねぇよ!!!ダーーーーーッハッハッハッハッハッハ!!!!!」
それは俺が入社して以降、一番の大爆笑だった。葛木は心底楽しそうに目尻を上げ、居酒屋に居るみたいなノリで俺と肩を組んだ。そしてニヤニヤしながら俺の顔を覗き込むと、再び大口を開けて更なる大笑いを天井に激突させた。大笑いに、大笑いを重ねた。
「退屈してる上司に『娯楽』を与える!!お前はいつからそんな『出来た』部下になったんだよ!??ハッハッハッハッハ!!!!」
彼は本気で笑い過ぎて泣いていた。一般人の一か月分の笑いを凝縮して放出していると思わされるくらいに大口を開けて笑っていた。恐らくこの笑い声は管理室の外にも響いている事だろう。
葛木はたびたび一瞬我に返って、再び俺の顔を見た。そしてその度に大爆笑を重ねた。それが五、六回繰り返された。
反応に心底困っている。
そのデリカシーの無さに、もはや若干怒りすら湧いてきた。
「いいんだよ!ンなもん気にしなくて。女なんてどいつもこいつもゴミしかいねぇんだから」
「ゴミ!?」
「時枝。やっぱね、お前は分かってねぇのよ。焦るべきとことそうじゃねぇとこを」
何でこの男はこんなに笑っているんだろうと俺は思った。心から楽しそうで、それでいてどこか企みありげに笑う葛木は管理室の出入口にさっさと歩いていき、勢いよく扉を開け放った。どうすればいいか分からず突っ立っていると彼は振り返り、「お前も来るんだよ」と呆れたように言った。
葛木という人間がもつ徹底すらされた男尊女卑精神も、俺にとって全く同意する事の出来ない点のひとつだった。故にこの支社内の管理職も男性ばかりで、女性は一人しか存在しない。
俺は風を切るようにさっさと前を行く葛木の後ろを歩き、業務エリアに戻った。
業務エリアは未だに騒然としているどころか、繁忙の時間を越えて来客が居ない事を良い事にほとんど誰も仕事に手を付けておらず、タスクが完全に停滞していた。伊藤を筆頭に、各チームごとで塊を作ったメンバー達がヒソヒソ話に花を咲かせている。
葛木は数秒の間鋭い瞳でフロアを睥睨していたが、やがて機材スペースへ歩いていってマイクを一本取り、スイッチを入れて音量を調整し始めた。一体何をする気なんだこの男はと思いながら俺はその背中を眺めていた。
「時枝さんってそういえばこの間、あれも忘れてたのよ?」
「そうなの?ほんっと口だけ。それっぽい事だけは言う」
「もう時枝さんの発言は何も信用出来ないっすね」
葛木はカッと目を見開き、まるで時限爆弾が直下で大爆発したかの如く腹からの怒号をぶちかました。
『うるっせぇんだよ!!!!!さっさと全員!!!!!持ち場に戻れ!!!!!』
俺が気づいた時には、ビル全体が膨大な激昂の光と白い熱を放ったと同時に崩落するかのような怒声が響き渡っていた。
自分の手足がどこにあるかも見失う程に四方八方が揺れ、その衝撃波で窓ガラスが全部砕け散ったと錯覚する程に一切容赦のない怒号だった。フロア内でヒソヒソ話をしていた百五十人弱の社員全員がその錯覚に陥ったのか、噴火した火山の炎の海に投げ込まれたかのような顔でビクリと姿勢を正した。
そしていつの間にか自分たちを睨んでいる葛木に気づき、フロアの全員がひぃ、と怯えてすたたーっと持ち場の席に戻って行った。
その様は檻から脱走したライオンが目の前にでも現れたかのようであり、火にあぶられた人間が死を目前に狂いながら湖を探し求めるかのようであり、天変地異を目の当たりにして逃げ惑う人間を見ているかのようだった。
一番面食らっていたのは陰口の筆頭であった伊藤だった。伊藤は恐怖で全身が震えあがり、顔面蒼白で自席に戻ろうとするが、怯えるあまり派手にその場で美しくすっ転び、その顔面を硬い床に猛打して両の鼻から鮮血を噴き出した。
葛木の斜め後方にいた俺ですら、全てを吞み込んで吹き散らかす爆風の熱に曝されたかのような気持ちになっていた。
『体制に文句がある奴は全員俺に言いに来い!次下らねぇ私語をした奴は即減給だ。分かったか!!!!!』
はい……と、怯えを含んだ力のない社員達の返事がフロアに響き渡った。
そしてあっという間に騒動前の、いつもと全く変わらない、慌ただしい業務風景に戻ってしまった。
業務フロアが平常運転に戻るまでに二分すらかからなかった。そこまでを見届けて、その場をさっさと去ろうとする葛木を俺は慌てて呼び止めた。
振り返った葛木は、もう既に業務フロアの騒動など興味を失くして別件に思考を割いているような顔をしていた。
「ありがとうございました。すいません。手間をお掛けして」
「あ?あぁ。二度とつまんねぇ事で手間取らすんじゃねぇぞ。ただでさえ仕事なんてつまんねぇんだから。自分を負け組だって周囲に喚き散らかすようなトロールに明日なんか要らねぇんだよ」
「はあ。すいません」
「常にチームプレイしてるって事は忘れるなよ?集団で本気で何かを成そうとした時、難易度や敷居の高さは恐れなくていい。んなもんは配置が適切で連携が取れてて、砂粒ばかりの根性さえありゃどうにでもなっから。だがな、仲間に足を引っ張られる可能性は真っ先に潰さなくちゃならねぇ。それが全体の為だ。それはひいてはお前の為であり、お前が大切にしたい部下の為であり、社員達それぞれが大切に想う人間達の為だ」
「はい」
「再発してまた全体のタスクが止まったら誰が責任取んだ?それくらい分かれ。てか、あれくらいお前一人で出来ろ」
「い、いやあ……流石にそれは」
「俺がこの時間いなかったらお前あの騒ぎどうするつもりだった訳?」
「えっと……」
新聞でも読んでるかのような何ともない表情で俺に訊ねてくる葛木の口調は、残酷なまでに冷徹だった。事務的で早口なのに、それでいて全世界で自分以上に正しい人間は居ないと言わんばかりの殺気にも似た力を放っていた。
この男が言っている事は半分くらいは正しいのかもしれないが、残りの半分、言い方的な部分には思うところがあると言わざるを得なかった。少なくとも、出来ろという日本語は正しいのか?という疑惑が浮かんだ事だけは確かだった。しかしそれらの点については触れないでおく事にした。
俺は口ごもっていたが、そんな俺の様子を真正面から見ていた葛木は表情も態度も変える事はなかった。脱力した様子の彼は黙ったまましばらく口ごもる俺を見つめていたが、やがて「だが」と言い、悪い目つきを更に細めてニヤリと頬を吊り上げた。
「お前がこの世の終わりみたいな顔で報告してきたのは結構面白かったわ。どんなやべぇ報告してくるんだこいつと思っただろうがよ。ガッハッハッハッハ!」
「勘弁してくださいよ……。俺は真面目に」
再び豪快に笑い出す葛木を見て、俺は溜息を吐くしかなかった。
ひとしきり笑った葛木は思い出したかのように一瞬だけ目を見開き、我に返った。そして「まぁ、これやるから元気出せよ」と言って、落ち着きの無い仕草で懐を漁りだした。バスの運賃精算の時に財布が上手く取り出せず後ろの人達をずっと待たせてる人間を見てるような仕草だった。ようやく何かを取り出し終えて、俺に手渡した。
見てみると飲み屋の半額クーポンが三枚。あまりお酒は飲まないが………。
「頂いていいんですか?ありがとうございます」
「これも要るか?そんなのよりもっとイイモンだぜ………?」
葛木はニヤニヤと、一層いやらしく笑いながらそう言って、もったいぶるように懐からチラつかせたのは風○のクーポンだった。
「いやでも!これはほんとにいいやつだからな。いや、どうしよっかなぁ」
「いりません」
俺が真顔でそう即答すると、葛木は露骨にしゅんとしてほんの少し寂しそうに唇をすぼめた。奥さんもいるのにこの人は一体何をしているんだ?と俺は思った。
「まぁまぁ!良いから取っとけって」
「要りません!マジでいらないです!!やめてください!!」
俺は全身で拒否を示して抵抗したが、完全におちゃらけた笑みで迫りくる葛木を止める事は叶わなかった。俺は風〇のクーポンをスーツのポケットに強引にねじ込まれてしまった。ていうか謎にもったいぶってた癖に結局寄越すのかよと思った。
葛木は満足そうにケラケラと笑いながら、今度こそ去っていった。俺はその背中を複雑な目で見送った。要らねぇ………。絶対捨てるからな、こんなの。さっき鳴上が来た時そそくさと逃げていった男性の部下のデスクの引き出しにでも捻じ込んでしまおうかと一瞬考えたが、それは流石にやめておこうと思った。
その後残念ではあるが、女性社員は葛木の判断と取り計らいによって、俺たちとは別の支社へ異動する事となった。
彼女とは一年の付き合いがあったから、彼女が異動する前に少しでも会話をしたかった。せめて挨拶をしたかった。だけど結局、それも叶わなかった。彼女のデスクは俺が気づいた時には既に荷物も何もかも片付けられていて、かつてそこで誰かが働いていたとすら思わせなかった。




