第7話 気持ちが真剣そのものなら
パソコンで時刻を確認すると十四時くらいだった。ちょうど契約内容の見直しや購入検討前の相談の来客が大量に押し寄せ、両手両足を目いっぱいばたつかせても回らない程度には業務エリアが忙しい時間帯だった。しかし俺は何一つとして仕事が手がつかず、デスクで頭を抱えていた。
繁忙前とはいえ少しずつ職場が落ち着いてきたと感じつつあったが、流れが突如として変わった。
業務エリアは異様な雰囲気に包まれていた。
サバンナの危険な猛獣が汚物の臭いを放っており、それが檻に閉じ込められていて、その檻を遠巻きから見物でもするかのような目線が大量に俺に降り注いでいた。
大切に育てていた盆栽が、ある日突然鉢植えごとひっくり返って台無しになっていたみたいな気持ちだった。今起きている出来事は、もはやそんな規模ではないが……。
俺の率いるチームで、大量のミスが発生した。小さな納期漏れや失念、不備等が積み重なって、社内の事務処理側で膨大な確認作業が必要となる二次被害が発生。即会議レベルの重大事故だった。
そしてそれを起こしたのは、まだ入社二年目の女性社員だった。彼女は俺のチームの子で、実直な姿勢があり今後業績を伸ばす見込みがあった。しかし数か月前から明らかに不調というか、何か様子が変だったのだ。彼女には何度か相談出来る場を作って話を聞こうとしたものの、全て断られてしまっていた。
確かに思い返せば俺自身も、散々怒られた時期があった。入社して一年目の頃は優先順位を付けられずにタスクを失念し、最悪だった時は取引先にも迷惑を掛けて謝罪したものだった。だが、今回はそれらを凌駕した大ごとだった。
俺は朝一早々、ミーティングエリアに彼女を呼び出した。可能な限りその心情に寄り添おうと努めながらヒアリングをした。
しかし彼女の態度は頑なだった。納期は理解していたが手が回らなかった、確認する暇も無かったの一点張り、おまけに不貞腐れるような態度。俺は改めて再発防止策について話し合おうとしたが、彼女は聞き入れる耳を持たなかった。
『私が悪いんでしょ。ハイハイ。時枝さんに私の気持ちなんて分かるわけないでしょうね!』
『いや!待って。話はまだ』
『代わりに私の仕事全部やって下さいよ。気持ち分かりますから』
彼女は小汚い豚小屋でも見るかのような目をしていたが、どこか泣きそうな表情にも見えた。そして怒鳴るようにそう言うと、さっさと俺に背を向けてミーティングエリアを出て外回りに行ってしまった。
しかし俺は人の良心を信じていた。彼女が懸命に、汗を流して取引先の為に尽力できる人物だと間近で見ていたから知っていた。故に、ここで自分のチームのメンバーである彼女を見捨てようという気にはならなかった。むしろここが一番の乗り越え時であるとすら思った。
長年使われて黒ずんで縮んだ雑巾でも見るような目で俺を見てきた事だけは謝って欲しいと思った。その点だけは普通にムカついて殺すぞと思った。だが、それと仕事の事は分けて考える必要があった。
俺は一旦現状知り得る限りの状況を踏まえた仮の改善運用を作り、彼女と再び話せる夕方を待った。これでそのまま、改善運用が走るくらいで話が終わればまだ良かったのだ。
今から二時間くらい前、俺が取引先から戻ると部下の一人である男性社員が血相を変えて走ってきて、俺に報告を上げた。
内容はその女性社員が食堂で泣き喚いていたというものだった。そして彼女は周囲の社員達に手当たり次第、俺からパワハラを受けたと言って回っていた。
「時枝さんがパワハラ……?」
「ヤバ」
「ウチらも気をつけないとね」
彼女がまだ二年目の子であるのも相まって、話が広まった業務エリアへの影響は破壊的なものだった。十二時くらいから今この時までにかけての騒動は、徐々に声量と勢いを増している。その背後に正義を掲げたかのような一体感は、今にもデモ活動でも起こしそうな勢いだった。その一体感を普段の仕事の時に出してくれよと俺は思ったが、到底それを口に出せる状況ではなかった。
「このご時世にパワハラなんてね」
「Twittorに晒そうぜ」
「労基に相談しろって、あの子に伝えてきます!」
俺は視線とヒソヒソ話の集中砲火を浴びて一切の身動きも取れないまま、ただデスクに座っていた。俺の中に残存している絞りカス程度の誇りと自尊心を用いて体裁を保っていた。そうやって体裁を保つためにただ座っているだけの事に、全身の百パーセントの力を使っていた。逆にそうでもしていなければ、俺は今すぐにでも叫んでこのビルから逃げ出してしまいそうだった。
感じる目線と聞こえるヒソヒソ話の全てが鋭利な切れ味を秘めており、切られるというよりも勢いよく投げられてゴリゴリと身が削られていくようだった。そしてそんな状況によって心を無残に、荒々しく食い散らかされる感覚を経験したことがある人はどれだけいるものだろうか?
給料も要らないし明日からクビでいいから、もう帰らせて欲しいと思う事って。
「ちょっと偉くなった気になってない?もしかして」
「大人しい感じなのにさ」
「調子乗んなってな」
色とりどりの、どこか囀るかのような罵倒の声があちこち聞こえた。それはまるで共通の得物を見定めた獣たちの圧だ。俺はデスクに座ったまま耳を塞いだ。日々俺を含めて皆が激務でストレスを溜めているから、その分が圧に上乗せされている感じがした。
思い返してみればつい先日、プレゼンのミスで葛木にこってり絞られたばかりだった。今、その名誉挽回をしなければならない重要な時だったというのに。
事象の規模を考えれば今すぐにでも管理室にいる葛木に報告を上げなければならないが、流石にもう今回はただでは済まされないだろうと思った。業務エリアはもう既に、誰にも収拾をつける事は出来ないであろうと思わされる程に空気が荒れ狂っていた。
葛木にこれからどれ程怒られる事になるのか、ある程度付き合いが長い俺ですら想像もつかない。俺は完全にツキに見放されていた。
俺が消えて皆幸せになるなら、もうそれでいいのではないかとすら感じ始めた。紙の上を走らせていたペンのインクが切れていくら書こうとしても紙が白いままであるかのように俺の頭は思考が出来ず真っ白だった。正真正銘、パニック寸前だった。俺は眼球だけを上下左右に忙しく動かして崩壊しそうな精神を誤魔化していた。頭が真っ白になった人間は、ゆく宛てもなく右往左往するのだ。
「猫被ってるのよ。結局ね」
この空間で間違いなく一番活き活きしているのは、バックアップの伊藤だった。伊藤は弱い小動物をいたぶるような瞳で、楽しそうに微笑んで俺を見つめていた。隣にいる川村ら、取り巻きの女性社員達がせせら笑う声が聞こえた。
先ほど報告に来てくれた男性社員は騒動に耐えかねて、再び俺のデスクに走ってきた。流石に部下の前で頭を抱えている訳にはいかず、俺は少しだけ背筋を伸ばし姿勢を正した。彼はそんな俺の顔を見て、冷静さを取り戻したように息を吐き出した。怜悧な瞳に、微かに焦りと不安を滲ませた顔をしていた。
「大丈夫ですか。時枝さん」
「一応、どうにか」
「伊藤の奴ら、明らかにこの騒動を意図して大きくしようとしていますよ」
「………」
「幼稚な奴らばかりでくだらないですね。どうしますか?俺は何があっても、時枝さんの事を信じて──」
彼が静かに声を潜めてそう言いかけた時、俺ら二人の背中に確かに激突した、緊迫感の塊のようなものがあった。確実にそれを感じ取ったであろう彼の頬がぴくりと動いた。
それを受けた男性社員はバツの悪そうな笑みを浮かべて、来客があったようなので俺はこれで……みたいな事を小さく言って走り去っていってしまった。今から起こるであろう出来事に、様々な意味で関与したくないというかのようだった。
やがてゆっくりと、厳かで威厳ある足音が鼓膜を打った。それは葛木が来た時の足音とはまた異なる足音だった。それはやがて俺の目の前まで歩き着き、ピタリと止まった。
「全く腹立たしいですね」
それは怒りに満ちた声だった。俺が顔を上げると、同僚の鳴上が腕を組んで眉根を寄せて立っていた。そして騒然とする業務フロアをぐるりと睥睨し始めた。
見ていて思わずこちらまで引き締まる程に、鳴上は威風堂々、逞しい男だった。このような状況でも、一切動じる気配は無い。身長百七十八センチメートルという大柄な体格。太い眉。狩人のようにつりあがった目。分厚い唇、そして威厳ある立ち振る舞いと厳格な雰囲気。それら全てを融合したその姿は、目の前に壁があると思わせる程の迫力とプレッシャーがあった。
引き締まったスーツの着こなしは、その上からでも身体が鍛え上げられていると分かる。
それもそのはずだった。小耳に挟んだ話では、鳴上には高校時代柔道インターハイという実績があるらしい。その実績もあってか、普段の発言の態度や行動には確固たる自信を感じさせる男だった。
更に鳴上は俺の一年後の入社だったにも関わらず、俺よりも先に管理職へ昇格している。飛ぶ鳥を落とす勢いでメキメキと実績を上げる様は、所謂『出来る男』であった。
「鳴上さん。どうしてあなたが怒ってるんですか」
立ち上がってそう問いかけてはみたものの、これ程の騒ぎであればこいつが来るだろうと事が起きた瞬間から分かっていた。完璧主義的な仕事をする鳴上は、データやアンケート結果に基づいた社内調整や業務改善全般を担当している。発生したインシデントやこういった騒ぎを合理的に丸く収め、再発を断固として防ぐ責任を担っていた。
先日食堂で寝過ごした結果インシデントを起こした橋本も、この男と葛木の審議によって厳しい処分の餌食となった。何も言い逃れ出来ないまま一般社員への降格に加えて部署異動。当たり前と言えば当たり前かもしれないが、鳴上との会話を終えてここを出て行く時の橋本の瞳には生気が宿っていなかったのが酷く印象的だった。
彼がわざわざここまでやってきたのは、俺に対しての手厳しい処分についての何かを言い渡す為である事はもはや明白だった。鳴上は騒然とするフロアを睨んだまま、静かな口調で言った。
「それはそうでしょう。この様な騒ぎを起こされては、ね」
「申し訳ないです。正直、こんな風になるとは思いもしませんでした……全く情けない話です」
「いえいえ。違いますよ、時枝さん」
俺はよく分からなくてえ?と問い返した。鳴上はただただ威厳と共存して力強く腕を組んで佇み、静かで理知的な瞳で俺を射抜いていた。そして厳かな動作で両腕を上げてみせて瞑目し、取るに足らないとでもいうような口調で言った。
「時枝さんの共有されていた、面談の議事録を読ませていただきました。その上で申し上げますが、女性社員の……名前は忘れてしまいましたが、彼女が逆恨みをしているとしか思えませんね」
「…………」
「もはや改善運用を走らせる必要性すら無いでしょう。時枝さんがやるべき事は簡単です。葛木統括に、レベルが低い者を切り捨てるよう進言すればいいのですよ。ここが学校ではない事を理解出来ていない人間なんて邪魔なだけですし、時枝さんの時間をこれ以上奪われても困ります」
その大柄な体躯から放つオーラから想像もさせない程、言っている内容は合理的であり静かで理性的な口調だった。
「俺も同じようなミスをしたことがあったから、気持ちは分かるんですけどね。そういう思いも含めて伝えたつもりだったんだけど、あの子には全然伝わらなかったみたい」
「こんな馬鹿馬鹿しい事象で葛木統括の手を煩わせるのも奇妙な話かもしれませんね。夕方彼女が外回りから戻ったら、私からも″しっかり″伝えておきましょう」
「え?いやそれはいいですよ。彼女今、相当不安定ですし」
「ご心配には及びません。不手際を起こした社員の懲罰に関わる審議はもともと私の役割ですし、時枝さんにこれ以上付き合わせる必要も無くなるでしょう」
「それは大丈夫です、本当に!」
鳴上は会話を重ねれば重ねる程、縄をきつく締めるかのようにその表情を厳しく引き締めていった。俺は反対し続けるが、その度に鳴上の巨躯は更なる怒りを放ち始めた。筋の通らない女性社員の態度に、到底納得出来ないようだった。
しかし彼女は入社二年目であり、まだまだ学生に毛が生えたような女でしかない。
直属の上司との面談でメンタルを削られた挙句、こんな巨漢がダブルパンチなんて喰らわせようもんなら、明日から出社すらしないのは確実だろう。それだけは阻止しなければならないと、俺は思った。
「どこが大丈夫なんですか。ここで対応をなあなあにすれば、ろくな反省もなく居座られる事になるでしょう」
「なあなあにはするつもり無いですよ。きちんと謝罪すべき部分は謝罪してもらった上で、前に進んでもらいます。鳴上さんよりも俺の方が、彼女を見てきたつもりです」
「ああいった人間に口先で謝られても、私は全く信用出来ませんね。はっきり言って人間性すら疑わしいです。なのでここは私が」
「いや!いいですから!ほんと!俺のチームの子なんで!」
激昂寸前、腕を組んで鬼の形相の鳴上を説得し続けるがその終わりは全く見えなかった。その間も依然としてフロア内は騒然としたままだった。
そしてついに鳴上はその静かだった声量を拡声器でも使っているかのように上げ、俺を断罪するかのように力強く指さした。
「甘い。甘い甘い甘い甘い甘い、甘すぎるッ!あなたのやり方は感情的で、人情的で、それでいて何も生み出す事はないでしょう。我々管理職のやるべき事は会社の益を生み出す事であり、自分本位に喚き散らす弱者を守る事ではありません。命がけの狩りによって人間は初めて命を繋いだのです。ままごとで繋ぎとめられる生命などありはしない!」
「…………」
「履き違えている。誤っている。思い違いだ。勘違いをしている!確かにあなたは出来る男だ、時枝さん。だがその甘いお考えを聞くに、管理職には向いていないのではありませんか?」
鳴上は厳かに俺を指さしたまま、まるで演者のような口調で言った。理知的に、それでいて屈強に細められた瞳は真っ直ぐに俺を射抜いて反論を待っていた。その視線ひとつだけで絞め殺されてしまいそうな程の力を感じた。
俺は一度目を瞑って身体の震えを抑えた。そして瞼の裏に焼き付けられたたった一人の、強烈なまでの存在感を放つ黒ずくめの女の、輝きを放つ姿と笑顔をお守りにし、勇気を貰って答えた。
「俺を管理職に任命してるのは他でもなく葛木さんですよ。葛木さんの目が曇ってるっていうお話をされてますか?」
「………何?」
鳴上は俺を指さした手はぴくりとも動かさないまま、若干頬を強張らせて目を細めた。
「一応今教育指導の主任をしている身から言わせてもらうんですけど、鳴上さんみたいに最初のうちから何でもこなせる人なんて一握りなんですよ。狩りだって子どものうちから出来るものじゃない」
「子どものお守りにも限度があるでしょう。増してや感情のままに喚き散らすなど言語道断」
「誰にでも抜け落ちている部分はあります。その後の本人の心持ちと、反省と、頑張り次第です」
「頑張って努力してそれが、必ず報われるとでも仰るつもりですか?」
「いいえ、そうは思いません」
「では、時枝さんの言ってる事は破綻しているでしょう」
「いいえ、破綻していません」
「報われる可能性があるかも分からない努力や頑張りに、何の意味が」
「自分を、好きになれる」
何か胸に引っかかるものがあったのか、鳴上は眉を顰め、俺を射抜く力強い理知の瞳がほんの微かに揺れた。
「………これが趣味の話であれば私も同意見です。しかしこれは仕事であって」
「気持ちが真剣そのものなら仕事も趣味も関係ありませんよ。気持ちが真剣そのものなら、の話ですけど。物事への向き合い方は自分自身への向き合い方と同じなんです。誠実に向き合った自分自身の事も、過ちを犯した自分自身の事も、世間の目や他の誰かの目よりもまず先に自分自身の心の目が見ているんです。仕事を終えたその先には、その人の人生の時間がある。自分が自分を嫌って大切にせずに生きる人生は暗くて、どんよりしていて、そして誰の救いの手も取る事が出来ないんです。そしてさっきの彼女は、そういう表情をしていました。俺たちはあくまで、仕事を終えた後の時間のために生きているはずです」
「…………」
「余計なお世話だと本人が言うならそれでいいです。ですが、彼女がもし、自分自身に失望したままこの場所を終えたくないと願っていたとしたら、その機会を与えない訳にはいきません。今回は顧客側に甚大な被害を及ぼしたって訳でもないですし。なので、夕方に再度しっかり彼女と話をしてから決めます」
鳴上はそこまでやり取りをして、ようやく俺を指さしていた手を降ろした。
「…………以前から思ってはいましたが、やはり私達は意見が合いませんね」
「まぁそうですね。でも、誰も彼も同じことしか言わなくなったら組織として終わってると俺は思ってますよ。ムカつく事もそりゃありますけど」
「私なら迷わずに、その社員が真っ先に切り捨てられるよう働きかけますが」
「彼女にはまだ伸び代があります。俺自身、環境に伸ばしてもらったようなものですし」
鳴上は厳かで真剣な眼差しと表情を一切変える事なく俺を見つめていたが、その瞳は揺れているように見えた。
ようやく怒り心頭状態から落ち着いた鳴上は、クールで理知的な眼差しに戻って俺を一瞥した。そして、何事も無かったかのようにスタスタと自席に戻っていった。
ピリピリした空気感から解放され、俺は座り直してぐったりと項垂れた。このまま三時間くらい何もせずに座っていたいと俺は思った。鳴上と会話すると毎回のように、荒波のような疲労が全身にドッと押し寄せる。これから疲れさせられるのが確定していたのに、何故その直前にこんなに疲れさせられなければならないのだろうと思った。
そんな文句を心の中で垂れながら、結局俺は席を立って管理室の前を訪れた。葛木に事象を報告するためだ。一億パーセント、怒られる事は確定していた。
俺は覚悟を決めて、管理室のドアをノックした。ノックした一秒後くらいにそういえば遺書を書き損ねてしまったと思ったが、既に時は遅かった。




