第6話 それはまるで優美なお姫様
長かった残業を終えた俺は、仕事を終えてアパートに帰ってきていた。夕飯は最寄り駅から十分も歩けば着けるカツ丼屋で既に済ませていた。
シャワーを浴び終えて着替えをして布団に入り、布団から頭と腕だけを出して、渚と通話を繋いで一緒にスマホゲームをして遊んでいた。
再び連絡先を交換してしまえば、あとは昔のように誘われるがままの日々だった。日常生活に、渚との連絡のやり取りが違和感なく溶け込んでいた。連絡の内容は重要性の欠片も無い、他愛ないものばかりだった。
再会した時、外見こそ垢抜けてはいたが、こうして通話して話している限り彼女の中身はほとんど変わってはいなかった。渚はあまりにも純粋だった。よく笑い、よく嬉しがり、よく悲しみ、よく怒る女の子のままだった。
時刻は深夜の二時だが、あまりにも仕事で疲れすぎて逆になかなか眠る事が出来なかった。疲労もここまでくると身体が睡眠を拒否するようになるのだ。
後五時間もすれば身支度をして、会社に行かなくてはならない。それなのに俺は一体何をしているんだ?と俺は思った。しかし紛れもなく、この時間が俺の中の癒しになっている事も確かだった。
一週間前、確かに俺のメンタルはズタボロになっていた。それをまたも渚に救われた。またも、だった。
彼女に三年間連絡を拒否していた事を謝って、お礼を言わなけれなならなかった。なのに俺はなかなかそれを切り出せなかった。状況に流され続けるかのように、派手に移り変わるゲーム画面を見ていた。
渚がずっと絶え間なく喋り続けているのもあるが、俺自身が勇気を持って切り出す事が出来ずにいるのだ。むしろ、彼女の方から恨み言を言うかのようにして言及してきてくれるかもしれないと思った。だが、その点について彼女から触れてくる気配は全く無かった。
渚は自分が好きな料理の事や、先日観た面白いアニメの事についてひたすら話していた。
俺はそれに対してうん、うんとうなずいたり、それはこうだったっていう事?みたいな風に質問を交えながらずっと聞いているだけだった。
協力プレイをしてデイリークエストとアイテム収集が一通り終わると、渚が思い出したように『あ!』と声を上げた。
『ヒロー。次のお休み一緒に出掛けようよ』
「んー?いいけど。どこに行くの」
『ジャンボメッセで、テレ東のイベントやるんだって。好きな声優さんのサイン会とかもあるんだー!ひひ。楽しみ』
「いいね。でも、ジャンボメッセでしょ?結構遠くない?」
俺がそう返すと、渚は呆れるものでも見たかのようにやれやれと溜息をついた。
『四十分電車に乗るだけじゃん。鼻ほじってればすぐ着くでしょ?』
「四十分鼻ほじり続けるのはちょっと……」
『弱気になってる暇なんて人生に一秒もないから』
「はいはい」
俺は高校時代の事を思い出した。渚と一緒に電車に乗ってあらゆる土地に出掛け、オタク向けのイベントによく参加していた。それが、俺と渚の高校時代の一部だったのだ。
イベントではしゃぐ渚の姿はアクティブだった。そんな渚を見守っていたら、あっという間に一日が終わっていたなんて事もざらだったな、と思った。
そしてそれらの記憶は、引き出しの奥に仕舞われていたものを引っ張り出したかのように、俺の中に鮮やかに蘇っていた。
……………………………………………………
会社が休みの土曜日を迎えた。窓から外を見ると、どんよりと空全体を濃い影を孕んだ雲が覆っており、その隙間から微かにではあるが透き通るような青空がちらりと見えた。悪くない天気だなと思いながら俺はシンクの流しで蛇口を捻り、顔を洗って少し苦い水道水を飲んだ。
少し外の空気を吸いたくて玄関から出ようとしたが、扉の上らへんをデカくて黒くて訳の分からない虫が這っていて俺は世界の終焉みたいな悲鳴を上げた。それを殺虫スプレーで駆除して自然に還した後、念のため部屋中のあらゆる家具をどかしたりひっくり返してみたが生き物は何もいなかった。
空気を入れ替えて掃除機をかけ、インスタントコーヒーを飲みながらスマートホンを操作して使わなくなった漫画サイトのサブスクを解除した。そして時間になったのを見て着替えてリュックを背負い、部屋を出て鍵を閉めた。
俺は約束通りに駅前で渚と合流した。渚はこの日も、全身真っ黒づくめの恰好だった。
肩の少し上まで伸びた明るくて柔らかい茶髪に、黒のフードパーカーと黒のミニスカート。そして頭には、洗練されたデザインの黒のキャップを被っていた。
渚は退屈そうに目を細めて、顔に暗い影を作りながらスマホを眺めていた。しかし俺が渚の名前を呼ぶと、俺に気づいた渚はぱぁっと明るくなって消失していた表情に花を咲かせた。そして手を振りながら、満面の無邪気な笑みでこちらへ走ってきた。
キャップをつけていなかったら間違ってキスでもしてしまいそうな程、渚は至近距離まで近づいてきた。相変わらず、俺が心臓を跳ねさせている事など知る由も無いだろうと思った。
俺の目を覗き込む渚の瞳は、眩しすぎるくらいにきらきらと輝いていた。今すぐにこの場を離脱してしまいたい気持ちと、この笑顔を独り占めしたくてたまらない気持ちが俺の胸の中に共存していた。
「一緒にイベント行くのなんて、すっごく久しぶりだね?」
「ほんとにな。曇ってるけど、雨降んないみたいだから良かったよ」
渚は俺の表情に覇気がないと思ったのか、じとっとした目で俺を見つめた。そして突っかかってくるかのように、腰に両手を当てたポーズで更に顔を近づけてきた。
「何ー?その顔。今日楽しめるかが重要なんだよ?月曜日からまたお仕事なの分かってる?月曜なんかもう来ないくらい羽目を外して外しまくれ?羽目なんて外す以外何の存在価値があるの?」
「努力するよ。でもそれってもう死んでない?」
「言われてみればそうかも。でもこれくらい言わないとどうせヒロは羽目を外さないでしょ?」
「ありがとう。渚は元気そうで安心したよ」
「私には元気以外何の取柄もないもの」
「絶対そんな事無いと思うよ。絶対に」
俺がそう言うと、渚は驚いたように数回瞬きをして頬を桜色に染めた。そしてひひ、と楽しそうに笑って振り返り、駅の構内へ走っていった。
俺もそれを追って構内に入り、切符を買った。そして渚と、昔のように一緒に電車に乗った。
高校時代、何かのきっかけを経たあたりのタイミングから、渚は私服の際ずっとこの黒づくめの恰好をするようになったのだ。何着も同じストックを持っているらしく、何日連続して会っても同じ恰好だった。
しかしどのタイミングで、何がきっかけでそうなったかまでは思い出す事が出来なかった。
土曜九時半過ぎの電車は混んでいたが、乗り始めて五分くらい経ったあたりで人が減り、車両端っこの二人で座れる座席に腰を下ろすことが出来た。
電車に乗っている間は渚とゲームをしたり、ぼーっと外を眺めたりして過ごした。四十分の間に様々な人が乗ってきて、それぞれのタイミングで降り去って行った。ドア横には最新技術で開発された、巨大な人間洗濯機が展示される万博の広告ポスターが貼られていた。隣に座る渚はそれを見て「エ〇ァンゲリオンみたい」と言った。確かにそうだなと俺は思った。
何度も乗った電車のはずなのに、不思議な時間を過ごしているような気持ちだった。今もなお止まる事なく時は刻一刻と刻まれているはずなのに、懐かしい過去を見ているかのような感覚だった。渚と離れ離れだった時間はもう二度と戻らないから、その分を取り戻さなくちゃいけないと思っていた。しかし、『不安も焦りも必要ないんだよ』と時間が俺に言い聞かせてきているかのように、穏やかさだけが空間に鎮座していた。
あっという間に四十分が経過し、俺と渚は電車を降りて十分程歩いた。そしてジャンボメッセの入口へ進むための大きな広場へ辿り着いた。
開場まで三十分くらい時間があるくらいには余裕をもって来たはずだったが、広場には既にざっと数えて何百人規模の長蛇の列が蠢くように占めていた。
「わー。相変わらずでっかいねここ」
「だなあ。しかも激混みなのがここからでも見える」
渚を見ると、並んでいる大量の人間を見てほんの少し表情を引きつらせていた。これから並んだとて、入場直後ごった返した人の海に押し流されるのが目に見える光景だった。俺はそれが耐えられなかった。
なので人がある程度捌けるまで、近くの漫画喫茶で時間を潰す事を渚に提案した。渚も同意見らしく、快くそれを受け入れた。そういった部分の考え方は割と合うのだ。
そしてふと、気になっていた事を渚に聞いてみた。
「そういえばさ。渚が就職したのって高級イタリアンだったよな。順調なの?」
「んー?辞めたよ?」
「辞めたの!?」
「うん!辞めた!全然辞めた!今はね、ニートだよ」
「ニート」
「ごめん、違う違う。間違えた。終身名誉自宅警備会長!終身名誉自宅警備会長やってる!」
「二回言うな。同じ意味だろ」
「でも、呼び方変えるだけでかっこいいでしょ?」
「確かにかっこいい」
「そうでしょ?偉いからちゃんと畏まってね?」
「はいはい。でもまたどうして?」
「お給料がすごく良かったから貯金は結構出来たんだけど、ブラックでさ。この間辞めちゃったんだー」
「そうだったの」
「うん」
この時、渚の表情の雲行きがかなり怪しくなったので俺はこの話をやめた。俺と渚は肩を並べて、漫画喫茶に向かって歩いていた。広場のうじゃうじゃとした列の後ろを通り、国道沿いの歩道を歩いた。
百五十メートルも歩けば漫画喫茶に辿り着くことが出来るのだが、その道中で俺と渚は時折すれ違う人々からじろじろとした目線を浴びた。やがて気づいたが、見られているのは俺ではなく渚のようだった。
確かに渚は恰好こそ癖が強かったが、全体としての風貌には人を惹きつける華と存在感があった。それだけ注目されながらも渚の目は真っ直ぐで胸を張り、堂々としたものだった。
「ていうかさ。ヒロは今は何のお仕事してんの?麻〇の密輸?コ〇インの密輸?あっ!分かった!拳〇の密輸とか!?………まさか、白い〇の密輸っていうんじゃないでしょうね?」
「何でだよ。何も『分かった!』じゃねえ。全部やってねえわ。てか何で危ない路線なんだよ。密輸から離れろ」
「スリルあってカッコいいよねー。………はっ!ちゃんと捕まんないようにしてよ!?」
「やってねえって言ってんだろ」
「そんなに怒んなくたっていいじゃん」
「怒ってはないよ別に」
「うん。知ってる」
「何なんだ本当にお前は」
「営業のお仕事ってやっぱりかなりしんどいの?」
「慣れだとは思うんだけど、今のところ結構しんどいかな」
渚は俺が営業の会社に就職した事を、何だかんだできちんと覚えてくれていた。渚の目と声に誤魔化している様子は感じられず、はっきりと覚えている事を口にしているようだった。俺は胸が暖かくなるのを感じた。
そんな話をしているうちに、俺たちは漫画喫茶に歩き着いた。店内に入り、安価で空いているカフェスペースを陣取った。
カフェスペースに入ると、渚が「この椅子にしよー」と言って楽しそう笑いながら指さした。俺は渚の指さす先を見て思わず何で?と訊きそうになった。
それは小さなソファだった。体格が大きな男性とかなら、二人座るのは不可能になるくらいに小さい。
このソファに二人で座るにはグッと詰める必要があった。即ちお互いの身体の距離がゼロになり、密着するのが誰の目からでも明らかなサイズのソファだった。
改めて俺は渚の顔を見た。彼女の瞳は満ち満ちた期待によって輝いていて、俺は曖昧に頷くしかなかった。
その場でカフェスペースをぐるりと見渡してみても、人はがらがらで八割強の席が空いていた。もっと大きなソファや、テーブル席なんかもあった。
今のご時世危ない事も多いから、ほんのちょこっとだけ大げさな防犯対策かもしれないと考える事にした。
俺はここでどれだけ物騒な出来事が発生しても、渚を守り切ると胸に誓った。結局最後までそんな事は起こらないのだが……。
キャップを取った渚が漫画を持って来て座ったのを見て、俺は背負っていたリュックを降ろしてアイスクリームを取り行くために足を進めた。
食べ放題のアイスクリームを二つの小皿に山盛りにしたところで、俺は渚にどのタイミングで謝ろうかを考えた。もちろん謝るのは、三年音信不通だった件だ。
きっと、渚は俺の方からその話を切り出すのを待っているのかもしれない。
ちょうどいい機会が今訪れているし、今その話をしてしまおうと考えた。そして俺は二つのアイスの小皿を手に持って、緊張しながらソファへ足を進めた。
「な、なぁ。渚」
そう呼びかけて渚の顔を覗き込んだが、ソファに深く座った渚は目を瞑り、気持ち良さそうにグーグーと熟睡していた。
……………………………………………………
渚が心地よさそうに熟睡しているのを見た俺は、アイスを両手に持ってる事も忘れてすっ転びそうになった。渚の右手を見ると、持っていた漫画がほぼずり落ちて下に落ちかけていた。
一時間くらいしたら起こしてあげようと思い、俺は持って来た小皿のアイスをゆっくりと目の前のテーブルに置いた。小洒落た透明なデザインの、膝上くらいの大きさのテーブルだった。
アイスを置いて一息つき、俺は渚の横に詰めて座った。こうして腰を下ろすと、確かに眠ってしまいそうになるくらい座り心地の良いソファだった。そして渚の右手から零れ落ちかけていた漫画を取って読んだ。
しかし、漫画を読むのに集中する事は出来なかった。俺の目は漫画から引きはがされていき、不可抗力によってすぐ隣の寝ている渚へ吸い寄せられた。
俺は寝ている渚をじっと見つめた。もう既に数十秒以上見つめていると思う。もし突然起きて、見つめていたのがバレてしまったらどうしたら良いのだろう。
その時になればすぐ目を逸らすつもりでいたが、渚が起きる様子はなかった。
俺は高揚していた。渚がすぐ傍で寝ている事にこれ以上ない程心臓が鳴り響き、呼吸の仕方も、手足の動かし方も、一足す一が二であるという事も、何もかも忘れる程に激しい感情が俺の全身をのたくっていた。
幼さの残った渚の寝顔は、赤ちゃんの寝顔でも見ているかのように無垢だった。桃色のふっくらした唇が無防備を曝しており、守る義務が課せられた危ういものを見ている気持ちになった。このまま永遠に眺め続けていられるくらい、癒される寝顔だった。
この寝顔を誰にも見せたくなかったので、俺は辺りを見渡した。しかし相変わらず辺りにはほとんど人は居なかった。人が増える様子すら無かった。皆、近くのイベントで並んでいるからだろうと俺は一安心した。
そこまで考えて、俺は非常に重要な点を今まで一度も疑問視してこなかったことに気がついた。それは何故渚が俺なんかに会いたがり、遊びたがるのだろうという事だ。
ひとつの可能性として挙げられるのは、渚が俺の事を好きであるという説だ。
そして俺は首を横に振り、それは無いだろうと自分に言い聞かせて戒めた。面と向かって言うのは勇気がいるし言えそうにもないが、渚は魅力的な女性だった。
俺なんかにはもったいないくらい魅力的な女性だと本気で思っているし、好きになって交際するというなら、俺よりももっと相応しい人がいるだろうと思う。
それに、何で渚が俺の事を好きになるっていうんだ?俺は高校を卒業すると同時に、渚に何も言わずに連絡を絶ったのだ。
渚は失望したはずだ。俺に会いたがるのは何か理由があるはずだった。復讐?もはやそれでも構わなかった。俺は一度のみならず二度までも、渚に救われたのだ。最後に裏切られ傷つけられたって、それが彼女のする事ならきっと俺は受け入れられる。
渚の顔を見つめながらそんな風に考えていると、不意に渚の首がかくんと曲がった。俺はすぐに渚から目を逸らして漫画を読んでいる振りをしたが、本当に渚の態勢が変わっただけだった。
そのまま渚の頭と身体が俺の肩と腕に委ねられた。完全に、寄りかかられる態勢へと移行していた。
気を紛らわす一心で漫画を読み続けたが、俺の目は結局渚に吸い寄せられていった。
そして無防備を曝して寝息を立てる渚の、美しい桃色の唇や呼吸に合わせて自然に上下している胸、柔らかく透き通るように繊細な手指、ミニスカートから伸びる黒タイツの太ももと綺麗な形の脚を眺めた。
こうして渚の身体を見ていると、俺に会いたいのが何でなのかとか、復讐がどうだこうだとかいう思考を繰り広げていた自分が全部馬鹿らしく感じた。ちっぽけな蟻の巣でも覗き込んでいる方がまだ楽しめるのではないかと思えるくらい下らなく思えた。そんな事、もはや全部どうでも良いではないかと思った。
渚に目を奪われている。俺は、渚に目も心も理性も何もかも全部奪われていた。
たったそれだけの事実に一体どんな理屈が必要なのだろうか?何故人は理屈にこだわりたがるのだろう?
そこまで考えて、俺は右手で自分の頬をぺちぺちと強めに叩いて理性を取り戻した。そして身をよじり、渚に寄りかかられた左腕を自由な状態にした。
半径十メートル以内にはもう聞こえてしまっているのではないかと思うくらい、俺は心臓をバクバクと高鳴らせていた。慎重に渚の両耳の上らへんを優しく指先で支え、曲がった首を真っ直ぐに戻した。
これで渚が寝起きに首を痛めたと顔を顰めてしまう事は無いだろうと思って、俺は再び漫画を読み進めた。
ふと俺は身をよじって、ポケットからスマートホンを取り出した。時間を見てみれば、既に漫画喫茶に入ってから三十分程が経過していた。もうそんなに経ったのか、というのが正直な感想だった。
テーブルに置いておいた山盛りのバニラアイスが、原形を留めていなかった。山盛りだった風貌が縮まっていて、小皿の三分の一くらいを液状化したアイスだったものが満たしていた。
俺はアイスが二つとも残念な結果となる前に食べてしまおうと思い、一度立ち上がってアイスの小皿を手に取ろうとした。
しかしその瞬間、渚がむにゃむにゃとうわ言のような事を言いながら、俺の左腕にしがみついてきた。身動きの一つも出来なくなった俺は思わず声を漏らした。
見ると渚は依然として目を瞑って寝息を立てていた。俺の左の頬に渚の体温を感じさせる頭頂部がくっついていて、肘には胸が押し付けられていた。
俺の全身も脳も、この世の全てがまったく訳が分からなくなる程の衝動が激しく暴れまわっていた。渚の身体が信じられない程柔らかくて熱いのを、頬から感じる頭の感触から感じ取っていた。
そして仄かに、フローラルのシャンプーのいい香りがして全身の力が全て抜けそうになった。
俺は心を無にする事に努めた。悟りを開いて空間と調和する事を求め、静かに目を閉じた。しかしどう考えても悟りを開ける訳はなかった。しがみついてきている渚の、熱と際限ない鼓動を感じていた。首にあたる息すら熱かった。
気付けば俺の左手の甲が、渚のスカートの上にちょこんと乗っていた。渚の右太もも、足の付け根らへんに図らずして乗っていた手の甲から、じんわりとした熱を感じ取っているという状況に今になって気づいた。
渚は今もなお俺の腕に抱きついて、容赦なく胸を押し付けてきていた。顔は見えないけれど、一定の呼吸を刻んでいるあたり眠っているのだと思う。ひとまず俺の全ての思考回路がショートして爆発していっているのだけは確かだった。
俺は最大限不慮の事故を装い、どさくさに紛れて悪戯に、手の甲で渚の太ももを内ももにかけてゆっくりと優しく撫でた。すると渚の身体が小さく、ぴくんと跳ねた。
俺は渚の反応と犯罪的な太ももの柔らかさに驚いて、慌てて手をどかした。信じられないくらい柔らかかった。同時に、ひれ伏したくなる程の罪悪感に見舞われた。まるで欲望に負けて万引きでもしたみたいな気分だった。しかしそれを上回る程、俺は今の状況に爆発的な興奮を覚えてしまっていた。
起きてしまったら不味いという気持ちと万が一起きていたらどうしようという気持ちと、渚の身体から感じる熱と自分の身体が発する熱で、心臓をバクバクと鳴らし続けていた。
激しく喉が渇くのを感じていた。そして崩壊して吞み込まれていく自我の中でふと、渚に微かな変化が生じた事に気づいて疑問が湧いた。
寝ている人間の鼓動ってこんなに早いのか?
寝ている人間の呼吸ってこんなに浅くて、早いのか?
渚は眠り続けている。本当か?本当に眠り続けているのだろうか?しかし俺の鼓動の方が遥かに早い上に到底平常ではなく、比較出来そうにないのでそれらを考えるのはやめた。
理性という理性をぐちゃぐちゃに掻き回されながら、微かに残る理性で慎重に腕を動かした。そして渚の身体とかくんと曲がった首を、千年に一度しか発掘されない宝珠よりも大切に支えて角度を元に戻した。
何度真っ直ぐに戻しても渚の身体は俺にもたれかかり、寝言みたいな何かを口にしながら何度も何度も左腕にしがみついてきた。その度に俺は手の動きに細心の注意を払いながら渚の身体と首を元に戻し、漫画を読み進めた。
それを繰り返すうちに、ようやく一時間が経過した。渚は未だに俺の腕にしがみついていた。
正直なところこのまま永久にこうしていたい気持ちもあった。しかしこの状況が続けば大切な何かが本当に崩壊しそうだなと思ったのと、起こさずに後から文句を言われるのは避けたいと考えたので、俺は渚の膝をぽんぽんと叩いて起こしてあげた。
渚は寝ぼけ眼を指で擦りながら、ゆっくりと俺の方を見た。
「んー……。……え?ヒロ?何でいるの?」
「お前が誘ったんだろが!?」
アイスはどちらの小皿も、完全に溶けて無残に液状化していた。
結局ほとんど頭に入ってこなかった漫画は渚に渡し、返却を頼んだ。俺はテーブルを拭いてアイスの小皿を返しに行くためにソファを離れようとした。
しかし目の前に立っている渚はほんのりと頬を赤く染めながら腰に両手を当てて、眉を吊り上げて俺を睨んでいた。怒っているとか、悲しんでいるとかではない。
まるで自分の思い通りにいかないものに対して疑念をぶつけるような、そんな目だった。
「あ、あの?渚さん?どうしたの?」
「…………」
「本の返却お願いしたのが嫌だった?」
「違う」
「アイス食べたかった?時間無い訳じゃないし、今から持ってこようか?」
「違う。いらない」
「もっと寝てたかった?」
「違う」
「もっと早く起こして欲しかった?」
「違う」
「じゃあ、どうした?」
「……………別に!」
思い当たる節を全て挙げて訊ねてみたが、渚はぷいっと俺から目を逸らして、漫画を返却しに行った。漫画を持つ右手は握りしめられており、漫画がぎりぎりと丸く握り潰されていた。
俺はchatGPTに女性の感情について質問をした。もっと女性に質問をしたり、コミュニケーションを取ってくださいと返ってきた。恋の正解は人それぞれでしかないのだ、と俺は思った。
……………………………………………………
俺は渚と一緒にジャンボメッセのイベントホールに入場した。約九千人が入る事が出来る広々としたスペースであり、そこでは同人誌の出店やコスプレイヤー達が熱気と賑わいを見せていた。
渚は昔から、物欲に正直に買い物をする女だった。とはいっても、ミーハーには程遠い性質だった。何でも集めたり買ったりする訳ではなく、自分が好きだと思ったシリーズだけを重点的にかき集めるタイプだ。
そして社会人となった渚はそれが顕著になっていた。俺のリュックサックは既に、渚に持たされる事になった戦利品で大部分を占めていた。
こんなに買い物するって分かってたはずなのに、何で渚は小さなポシェット一つしか持ってきていないんだ?俺はその点について若干呆れなくもなかったが、渚が時折振り向いて見せる笑顔が全てをどうでも良くさせた。
渚は無邪気にぱたぱたと走り、グッズや創作物に目を輝かせた。そしてふとした時に俺の方を振り返って笑うのだ。楽しいね、とでもいうかのようだった。
心から、この時間を楽しんでいるようだった。そしてその笑顔を見せられれば、そんなに楽しんでくれてるならいいけど、と思ってしまうのだ。もしもこれが渚じゃなかったら、まず間違いなく今すぐにその場に座り込んで不貞腐れるだろうと思う。
そして今日の目当てであったコーナーに小一時間以上並び、渚が大ファンであるという女性声優のサインを受け取って握手をして今日の目的を果たした。流石の渚もこの時は緊張したようで、表情も声もガチガチになっていた。
会場を出る頃にはとっくに夕方になっていた。俺は渚と一緒に駅前にあるがらがらのカフェに入り、店内端っこのテーブル席に座った。満面の笑みの渚が正面に座っていて、俺の心には紛れもなく春のような暖かい風が吹いていた。
「今日、ほんとに楽しかったー」
「そうだな。渚、ガチガチになってたけどな」
「は?何?東京湾に沈みたい?」
「すみません」
「おいおい。簡単にビビッて謝ってんじゃねーよ。おめーオスだろー?えー?魂燃やして英雄になれ?」
「どうしたの突然?」
「分かんない」
「分かんないのかよ」
俺は無骨なウインナーと存在の主張が激しいピーマンが大量に入ったナポリタンスパゲッティを食べ、ネルドリップのコーヒーを飲んだ。
渚は小さなブロッコリーがごろごろと入ったトマトソースグラタンと、生クリームがホイップされたいちごのババロアを食べていた。
渚の食事の仕方は挙動の一つ一つが丁寧に洗練されていた。高校時代から彼女の食事の所作は綺麗だったが、その面影すら無い程に磨きがかかっていた。高級イタリアンで勤めていた名残なのだろう。
それはまるで優美なお姫様を見ているかのようで、もし彼女がドレスなんて着用しようものなら完全にそれになるだろうと俺は思った。今しがた東京湾がどうのこうのとか言い出したのが別世界の話だったかのように思わされた。
ふと渚は半分グラスに残ったババロアを咀嚼して飲み込むと、丁寧にスプーンを置いて俺の目を真っ直ぐに見つめた。
「ねー、ヒロ。私のお家に寄って行ってよ」
「そりゃ寄るよ。この戦利品の山ほとんど渚のなんだし」
「そうじゃなくてさ。ゲームしたり、ゆっくりしていかない?何なら、泊まっていったっていいしね?私、明日の予定は午後からだから」
表情からどういう気持ちなのかは正直見えないが、渚はじーっと、身動きはおろか瞬き一つすらせずに俺を見つめていた。俺はどう返答すべきなのかを、後でまとめて食べるために皿の端に寄せていたウインナーを口に運んで咀嚼しながら考えた。
気持ちを包み隠さないなら、寄りたかった。渚ともっと長い時間を一緒に居たいと思った。
だが俺の中でしこりとなっている、渚への罪悪感がそれを許さなかった。
「すぐ帰るよ。仕事がそこそこ体力使うから、来週に備えてゆっくり寝ていたいし」
「どうして?そう思うなら尚更来たら?眠くなるなら寝たっていいんだよ?お布団あるし。お腹すいたらご飯も作れるよ」
「今晩、宅配頼んでるんだよ。二十時くらいに。平日は残業が二十一時過ぎる事もあって頼めないからさ」
「………ふーん。いいけど」
そう言いながらスプーンを手に取り、ババロアを口に運んだ渚は眉間に皴を寄せていた。全然『いいけど』と口にする人間の顔ではなかった。宅配の話はもちろん作り話だった。俺は空気を紛らわせたくて、質問をした。
「明日は何の予定があるの?」
「お料理教室ー。和食にも興味があったから教わりたくて。お金を払って何度か通ってたんだけど、この間先生に私に講師になって欲しいって言われちゃって。明日からはほんの少しだけど、お給料ももらえるんだよー?」
「調理師資格持ってるんだっけ?」
「うん。イタリアンで二年務めて受験出来る条件が揃った時、お給料増えるならいいかなって受けたの」
「すごいな。やっぱり渚の料理は美味いし、凄いんだよ」
「だから今だってうちに来て、食べて行ったらいいのにって言ってるんでしょ!?このバカたれ!」
「バカたれ!?」
その後俺と渚はカフェを出て電車に乗り、最寄り駅に辿り着いた。渚のマンションを目指す道中はアニメキャラクターの名前でしりとりをしたり、ゲームのクエストの攻略方法の話なんかをしていた。
マンションに辿り着いた頃には夜の十九時だった。入り口で戦利品を渡して帰ろうとすると、渚は微かに不服を燻った顔をしていた。そして再び「入っていってよ。お願い」と、絞り出すように言った。俺は宅配があると言って断った。ちょっとでいいからと言い腕を引っ張られたが、断ってその手を払った。
別れ際、渚が扉を閉める時、俺はまた電話するよと言った。渚はうんと言ってくれて声は平静を装っていたが、やっぱり眉間に皴を寄せていた。
そして俺は自宅のアパートに帰ってきて、さっさと風呂を済ませて布団に横たわった。そして結局今日、三年間音信不通だった件を謝らずに一日を終えてしまっていた事に気が付いた。渚の感触を思い出して自分が自分でなくなるのではないかと思う程心臓が激しく跳ねて高揚し、最終的にはやっぱり寄れば良かったなと後悔しながら眠った。
翌日、日曜日の空は晴れ渡っていた。ゆっくりと家で過ごしたが、激しく無味無臭で途方もなく無感動な一日を過ごす羽目になった。普段は漫画やアニメを見たり、ゲームをしたりして過ごすのだが、全くそれらをやろうと思わなかった。かといってコーヒーを飲む気にもニュースを読む気にもなれず、どこかに遊びに行く気にもなれなくて、布団でごろごろして迫る月曜日を憎みながら過ごした。
スマートホンを見て十三時になってるのを見た時、今頃渚は俺の事など忘れて皆の為に料理を教えているんだ、と考えた。そして俺の身体はこの小汚くて薄暗い空間と一体化し、調和してしまったかのように思った。布団でゆっくり寝ていられるこの時間を平日は心から望んでいたはずなのに、何ひとつとして心が躍る事は無かった。それが何故なのかは分からなかった。ふとしたタイミングが訪れる度、俺はずっと渚の事を考えて心を揺さぶられていた。




