第5話 聞くまでもなく知ってるから
そういえば実家に居る時はこんな風に何も考えなくてよくて気楽だったな、などという事を思い出しながらうつ伏せに寝っ転がっていた。そして渚の後ろ姿を見つめた。鼻歌を歌いながら、楽しそうに料理をしていた。
お肉を炒めたり、野菜を切ったりしている渚の姿を見て、自分が酷く昔にタイムスリップでもしたかのような気持ちになった。
普段のあどけない雰囲気や言葉遣いからは想像すら出来ないが、渚は料理を含めた家事全般が並外れて得意な女だった。特に料理の腕は一級品で、庶民舌でしかない俺が食べるにはもったいないと感じるような品ばかり作り出した。
渚はあっという間に具材を完成させて、鍋に放り込んで火にかけた。そして手を洗い、充足した表情で瞑目し、一息ついて額を拭った。
そんな渚を、俺はずっと見つめていた。視線が勝手に吸い込まれていくのだ。
不意に、渚が俺の方を向いて目が合った。充足し、ほんの少し疲れが滲んだ顔だった渚は、俺と目が合うときょとんとして目を丸くした。しかしすぐに企みありげで嬉しそうに笑って見せ、「どうしたのー?」と言ってエプロンのまま俺の傍に滑り込んできた。
うつ伏せに寝ている俺に、渚は四つん這いの態勢で急接近してきた。距離を詰めるという次元ではない渚の大胆さに、俺は心臓が激しく跳ねるのを感じた。
渚の澄んだ瞳は俺の目だけを真っ直ぐに見つめていて、他のものなんて一切眼中にも無いように見えた。
初恋の相手と、二十センチくらいしか顔と顔の距離がない状態だった。
「どうしてそんなに私を見てるの?もしかして甘えたくなっちゃった?」
「馬鹿。……やっぱり渚は、料理してる姿が似合ってるなって思ったんだよ」
「ほんと?」
俺は本当だよと少し食い気味に返した。渚は数秒じっと俺の目を覗き込んだ後、意味深な間を作ってゆっくり立ち上がった。そして俺を見下ろし、「ふーん」と言って悪戯っぽく笑みを浮かべてみせた。渚は心底上機嫌だった。
「さっき私の名前呼んでたもんね?」
「あ!えっと、忘れて?」
「絶対忘れなーい」
渚は言い逃げするかのように、黒いスカートを揺らしながら早足でダイニングへ戻っていった。ぱたぱたと、自分以外の足音がこの部屋に響くのが新鮮だった。
もはや当然の流れではあったが、渚は俺が漏らした声の事をしっかりと覚えていた。顔が燃えるように熱くなって、俺は堪らずその辺に転がっていたラノベを読んだ。
身体中から迸る熱のような何かを、文字に集中して誤魔化そうとした。しかし残念ながら何一つ気休めになってはくれなかった。やがてカレーの匂いがした。
俺は渚と一緒にテーブルについてカレーを食べ、麦茶をごくごくと飲んだ。単純な具材で出来た簡素なもので、如何にもカレーといった風貌のカレーだった。だが、今まで食べたカレーの中で一番美味いかもしれないと忖度なしに思った。これまでの一番はお袋のカレーだった。
そしてそのまま、買ってきた焼き肉弁当も食べた。それは美味くも不味くもなかった。
渚が作ってくれたカレーをおかわりをして二杯目も残さずに平らげた。満腹をかみしめ、御馳走さまと言った。そのまま食器を洗おうとしたが、渚はそれを止めた。そして自分の食器と一緒に洗い、片付けてくれた。
心地よくて、リラックスして足を伸ばした。何となく天井を仰いでいると、渚はテーブルを挟んで俺の向かいに体育座りをした。そしてじっと覗き込むように、どこか俺の事を伺うように見つめてきているのを感じた。
「でー?どうして悩んでるのー?」
「悩んでる?」
「悩んでるからあんなにイライラしてたんでしょ?……まさか昨日も一昨日も、本当に私が嫌いだから逃げたの?」
「嫌い……!?俺が、お前を嫌いな訳」
俺は眺めていた天井から勢いよく目を離し、思わず身を乗り出してそこまで言いかけた。
しかし、その時の渚はこれまで一度も見たことがないような顔をしていた。それを見た俺は、喉が詰まったかのように言葉が何も出てこなくなった。
俺をじっと見つめる渚の強気の瞳は痛ましげに潤んで、口元を震わせていた。
今この時までずっと抑えきれない程に大きな感情を自分の中に無理に抑え込んでいて、たった今、それが全部出てきそうになっているかのような目だった。今投げた質問に、人生の全てを賭けているかのような顔だった。
俺は一昨日と昨日の夜渚が見せてくれた笑顔や、綺麗な夜空、桜の事を思い出した。そして同時に、渚の目の前で曝してしまった醜態も強制的に脳裏に駆り出されてきた。
「見損なっただろ。俺の事」
「……どうして?」
「昨日あんなにみっともない所見せたのに、何でお前は」
「ちゃんと自分自身の足で立ってるから、苦しいし悩むんだよ。みっともないなんて思う訳ないよね」
俺は渚の真剣な眼差しに射抜かれ、息が詰まる思いだった。まるでこの場に縫い留められてしまったかのように、身動きすら出来なかった。
目線を交錯させたまま、十数秒の沈黙があったかのように思う。見つめれば見つめる程、彼女の瞳に嘘偽りなど存在しなかった。
金縛りから逃れるように、俺は息を深く吐き出した。
「………………ありがとう。渚」
「…………」
渚はどこへともなく目を逸らした。美しい茶髪が頬を隠して、どんな表情かを見る事は出来なかった。
「仕事が忙しい上に上手くいかなくて、自棄になってただけなんだよ」
「知ってるよ?」
「え?」
経緯を含めて諸々を説明しようとしたが、渚はそれを遮り、再び顔を上げた。顔を見せた渚は眉を吊り上げており、べーっと舌を出した。そして俺を睨みつけ、声を張り上げた。
「ヒロが私を嫌いになる訳なんてないもんね?知ってるよ。そんなの、聞くまでもなく知ってるから!」
「聞くまでもなくって……聞いてるじゃんか」
「うるさい!」
「え?ていうか何でこのタイミングで怒る?」
「あのさ。とりあえず昨日私から逃げたのを謝れ?」
「はい。本当にすいませんでした」
「あとまたライヌ交換しろ?ほら早くっ!おめーさっさとしろ!?」
「はい」
先ほどの表情は一体何だったんだと思いながら、俺はぷんすかと怒る渚をちらちらと伺いながらスマートホンを起動した。
そしてライヌというメッセージや通話が無料で出来るアプリを開いて、渚を三年ぶりに友達登録した。
渚は俺のアカウントが登録された事を確認すると、たった今見せた怒りなどどこかに消え、力を加えたらすぐ綻んでしまいそうな繊細な微笑みで画面を見つめていた。
今にも肺中の息を、ありったけ吐き出しそうな微笑みであるように見えた。肩の荷が全て降りて心底安心したかのような彼女の目尻は、微かに湿っていた。
渚はそんな微笑みをすぐに切り替えて立ち上がると、あろうことか俺のすぐ隣に歩いてきて腰を下ろし、体育座りをした。肩と肩が、ぴったりとくっつく程の至近距離だった。
「嫌じゃないんだもんね?」
「え?そりゃ嫌じゃないに、決まってるけどさ」
慌てふためく俺を見つめて、渚はひひ。と笑ってみせた。その頬は赤らんでいた。
俺は渚から必死に目を逸らしていた。しかし距離が近ければ近い程に、渚が美しい風貌である事がはっきりと分かった。思わず凝視したくなる程だった。
柔らかくて綺麗な茶髪、大きな瞳、長い睫毛、桃色の唇が肩と肩で隔てたすぐそこにあった。
渚はいつの間にか笑い終えていて、じっと俺の顔を見つめていた。その瞳は、どこか甘えたがっているかのような熱を宿していた。
心臓が騒ぎ立てるように、何度も何度も鳴り響いているのを感じた。俺は改めて、渚に恋をしたままなのだと確信した。
くっついている肩から伝わってくる渚の温もりが、笑顔が、まるでこれが俺の今日まで生きてきた理由であるかのように、確かにそこに存在していた。
そして彼女と初めて出会った、あの日の事を思い出した。瞼の裏に鮮やかに蘇るのは緑と青が滲む、満開の桜並木の丘の景色だった。
俺の中の凝り固まった何かが、熱されたチョコレートのように優しく溶けてゆくのを感じていた。
無限に反芻し続けていた葛木の厳しいフィードバックが、もはや自分の人生において些細ですらない出来事であったかのように感じた。食堂で言われた心ない言葉や散らかった弁当箱、路地裏の大男に浴びせられた罵声など、そこらに生えている雑草とどれほど大差があるだろうと思った。
とりあえず距離が近すぎるから、離れて欲しいと思った。それと同時に、ここにずっと渚を縫い留めておきたいという相反する気持ちが沸々と湧き上がった。
昨日逃げた事は謝ったが、渚を三年間ブロックして連絡を取らなかった事は謝れていなかった。俺はそれを謝らなければならないと思った。
そう思ったが俺はこの日結局勇気を出せず、それを言い出す事が出来なかった。
何よりも、今すぐに渚を抱きしめたいという激情が俺の中を渦巻いていた。
抱きしめようと思えば抱きしめられる。もう渚がどこにも行かないように縫い留めていられる。それだけ渚はすぐ傍に居た。俺と渚の間にある距離はゼロだった。
だけど、それも出来なかった。
渚を傷つけた俺に、謝る勇気も出せない俺に、そんな資格は無いと思ったのだ。




