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私は頑張るあなたの味方!  作者: #N/A
第1章 『救済の桜』
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第4話 完膚なきまでに切り裂いて

 かつてない程長い残業を終えた俺はアパートに帰ってきた。スマートホンを見てみるとちょうど二十三時だった。


 帰り道を歩いている時、俺は転職先をどこにしようかというのを考えていたはずだった。しかし気づいた時には、人が死んだときに出るドーパミンは痛みに勝るのだろうかとか、この世界から消えた魂はどこへゆくのだろうといった事を考えていた。


 俺は居間に入り、コンビニで買ってきた焼肉弁当の袋を開封すらせずテーブルにぶん投げた。スーツを脱いで部屋着に着替え、さっさと部屋を暗くして布団に入り毛布を頭から被った。


 無慈悲に放り投げられた袋と弁当は、ガサッと哀しい音を立てて無残に潰れていた。社会人になったから、三年が経ったから何なのか?それが何なのか?俺は何も変わっていなかった。気を抜いたら、俺は今すぐにでも下唇を噛み切ってしまいそうだった。


 俺がここ最近不調だの不運だの、会社にとっては関係が無い話なのだ。会社は就業規定に基づいた労働と給与を与え、俺はそれに準じるという利害の関係にあるからだ。逆に言えば、そういった関係でしかなかった。利害以外にこの関係を結びつけるものは、何も無いのだ。


 お風呂に入る気力も、夕飯を食べる気力も浮かんではこなかった。しかし、布団に入って目を瞑っても眠る事が出来なかった。


 俺は負の感情と痛みと哀しみだけを動力源に心臓を動かして呼吸をしていた。下劣な夜闇が、俺の魂を好き勝手に侵食していくのを感じた。


『人は自由に生きるべきなんだよ!ヒロがヒロ自身を壊しちゃう、その前に』


 何故かは分からないけれど、不意に言葉が頭を過ぎった。三年前、渚が俺に言い放った言葉だった。何かの拍子に思い出す、ずっと忘れられない言葉だった。その時の渚の表情や目を、昨日の事のように鮮明に思い出す事が出来た。


 俺は”鎖”に縛られて生きていた。”鎖”は俺に、物心ついた幼少期からずっと生きづらさと辛さを与え続けてきた『苦しみ』そのものだった。


 そして高校時代、渚は俺の目の前でその″鎖″を自分勝手にぶち壊し、俺を人生規模の呪縛から易々と解き放ってみせ、満足そうに笑ったのだ。


 その笑顔と俺の中に駆け巡った衝撃を思い出すたびに、恋に落とされた瞬間の感覚が蘇る。


 俺は今更、昨日の夜に渚を振り切って帰ってきたことを後悔した。こんな夜に渚と話す事が出来たらと思った。


 葛木の厳しいフィードバックの事がずっと頭の中をぐるぐるしていた。大きく自信を失ったし、やっていける気がしないとも思ったが、それ以上に、昨日の夜に渚が見せた曇った表情の方が俺にとって大ダメージだった。確実に、俺の全身に亀裂を走らせた。


 自分の心に素直になれたら、素直な心で渚と話す事が出来たら良かったのにと思った。きっと楽しかったかもしれないのに。相談にだって乗ってくれたかもしれないのに。


 せめて昨日の夜、渚に嗤って欲しかった。無様で滑稽で惨めで哀れでどうしようもなく見苦しい俺を指さして、嗤って見捨ててくれさえすれば俺は救われたのに、と思った。


 自分の生の価値に湧き出た疑問すらもエネルギーに変換し、この部屋にある何もかもをめちゃくちゃにして口蓋垂が擦り切れる程叫びたかった。何が全部お前のせいだって?後悔は、内臓がぐつぐつと煮込まれて全身の血液が沸騰するかのような怒りに変わっていた。何が『全部お前のせい』なんだよ。馬鹿なのか俺は?大馬鹿野郎だ俺は。どれだけ馬鹿だったら気が済むんだよ。


 しかしそんな事を考えたところで全ては手遅れでしかなかった。何もかも全てが自業自得だった。そして一昨日の夜この目に焼き付けられた、美しい夜空と桜の木の下で渚が俺に笑いかける姿を瞼の裏に引っ張り出した。


 久しぶりに見た渚はかつての面影を思わせぬ程に垢抜けていて、幻想を見ているかのように綺麗だった。彼女はまた一段も二段も成長して変わったのだと、その存在感と自信から伝わってきた。


 一昨日と昨日見た渚の姿は、実はまぼろしだったのではないか?あまりにも不運が続くものだから、現実を逃避しているのではないか、と俺は思った。


 そもそも、渚が俺に会いに来るわけが無かった。自分が渚にした事を考えれば当然の思考の帰結だった。改めて考えてみれば、考えるまでもない事だった。


 途方もない程の自分自身の滑稽さに、もはや溜息も涙も出てはこなかった。心が、ゆっくりと黒ずんで枯れてゆくのを感じていた。気付けば俺は、渚の名前を呼んでいた。


「………………渚………」

「呼んだ?」

「は、えっ!?う、うわぁぁぁぁあぁぁぁああ!?」


 俺は口から心臓が出るのではないかと思うほどびっくりして、お腹から叫び声を上げて飛び起きた。返事が返ってきた?返事が返ってきたとはどういう事だ?俺には分からなかった。まるで、渚がこの部屋の中にでも居るかのようではないか、と思った。


 しかし現実を逃避するあまり聴こえた幻聴にしては、あまりにも切れ味と立体感がある声だった。聞き間違える事があるはずもない声だった。そしてその声はどんよりとして救いようのない俺の部屋の空気を、完膚なきまでに切り裂いて照らした。


 俺は尻もちをついたままの態勢で腕を動かし、声が聞こえた方向とは反対に身をよじらせて逃げた。暗闇の部屋の中で、何が起きたのかも分からないままだった。この感情が恐怖なのか、仮にまぼろしであったとしても渚の声を聞くことが出来た事への喜びなのかは、分からなかった。


 身をよじらせ続けるとやがて、背中が壁に激突した。大きな音で激突し、隣人に壁をドンドンと叩かれた。しかし、そんな事は俺にとって些末以外の何でもない事だった。


 やがてパチンという乾いた音と共に、部屋の照明が点灯した。居間の入り口を見るとスイッチを押した渚が立っていて、俺は息を吞んだ。


 驚き過ぎて開いた口も塞がらなかった。渚は不可思議なものを見つめるかのような目で、尻もちをついた状態の俺を真っ直ぐに見下ろしていた。


 渚はやがて、お腹を抱えながら俺を指さしてげらげらと笑いだした。俺はたちまち赤面した。


「ヒロ、顔。死にそうじゃん!大丈夫?死ぬ?死ぬの?はははっ!あっはっはっはははは!」

「うっ……!うるせー!何でここにいるんだよ!いつからいたんだよ!何でここが分かった!どうやって入ってきたんだよ!ていうかインターホン押すなり、呼ぶなりしろよ!相変わらずツッコミどころばっかだなお前は!」


 俺はあまりの恥ずかしさを押し隠したいがために、早口でまくし立てた。しかし渚は笑い過ぎるあまり、俺のまくし立てなどもはや耳に入っていないようだった。


 渚は目に浮かんだ涙を指で拭いながら、しんどそうに繰り返し息を吐き出した。


「さっきから何回もインターホン押したし、呼んだのに返事しないし電気消すからじゃん。あは、あっはは!はははっはぁっ!!ゲホッ!ゲホッゲホッ!はっはははっ。ゲボッ」

「笑い過ぎだろ」


 押してくれていたインターホンも、渚が呼ぶ声にも、俺は気づく事が出来なかった。俺は如何に自分が、自分だけの殻に閉じこもっていたのかに気がついた。


 渚はひとしきり笑い終えると、涙を拭ってひぃひぃと息を吐き出しながら黒パーカーのポケットをごそごそと漁った。そして何やら薄いカードのようなものを取り出して、俺に差し出した。


 受け取ってみると、他でもなく俺の運転免許証だった。


「はい。返してあげるー」

「えっ?何でこれ、渚が」

「逆に聞くけどそれ、何で鞄のサイドポケットなんかに入れてたの?普通お財布じゃない?」


 渚は優しさを含んだ口調で問いかけてきた。俺は受け取った運転免許証を見つめた。それには、微かに粉末状の泥がついていた。思い当たるのは、昨日渚から走り逃げようとした時に鞄を落とした時だった。


 その時にサイドポケットに入っていた運転免許証も、落としてしまっていたのだ。それをわざわざ渚が拾って、洗ってくれていたのだと気づいた。何かの手続きの時に運転免許証を提出したものの時間がなくて、受付の女性から返却されたのを慌ててサイドポケットにねじ込んだ事をまさかこんな形で思い出すとは思わなかった。


「住所はそれ見て分かったから、勝手だけど家の前で待ってたの。で、ヒロが帰ってきたからそれ見てここまで来た。鍵はヒロが閉めなかったんじゃん」

「うそ?鍵開けっ放しだった?」

「うん」


 渚はあっけらかんと答えた。俺はもはや、ある種の驚愕を覚えた。自分の身の周りの、何ひとつ見えてはいなかったのだ。聞くことも出来なかったのだ。視界が徐々に色彩を失って灰色がかっていっている事に、本人が気づくことは出来ないのだと俺は思った。


 汚れ、傷つき、薄ぼやけていっているのは世界ではなく自分の視界だと認識する事すら、本人には困難な事なのだ。


 今、視界は鮮やかだった。全ての色を取り戻していた。心臓はこれまでと何も変わらずに一定の鼓動を刻んでいた。


 ふと、渚は何かに気づいたように目を見開いた。無遠慮に俺の横を通り過ぎて歩いていき、テーブル上に投げられっぱなしだったコンビニ袋を持ち上げた。袋を覗きこんだ渚は何も表情を変えなかった。渚に拾い上げられた事によって、無残に形の崩れた袋が再び袋の形になった。


「今日のご飯これだけ?」

「あ、ああ……」

「足りるの?」

「分からん。足りないかも……」

「じゃあ、作ってあげるー。どうせ冷蔵庫の中何もないんでしょ?材料も買ってきたから大丈夫」


 トントンと進んでいく状況に、俺は尻もちの態勢のままうん、うんとうわごとのような返事をするしかなかった。


 渚はポシェットからピンク色のエプロンを取り出して、真っ黒のパーカーの上から身に着けた。エプロンには小さな可愛らしい絵柄の、シャチの刺繍が散りばめられていた。


 何故シャチなのだろう?と思ったが、俺は質問しなかった。


「お米ある?」

「ある。自炊しようとして失敗したやつの残りが、一キログラムないくらい」

「カレーなら一時間くらいですぐ作れるから。カレーでいいよね?」


 渚はグレーのポリエステル素材のエコバッグを漁って材料を取り出しながら、事務的な口調で訊ねてきた。その表情はあっけらかんとしていて、何を考えているかよく分からなかった。


 社会人になって以降の、彼女の顔の作り方を俺は知らなかった。何をするかを決めたから、もうあれこれ考えずさっさと動こうとしているように見えた。彼女なりの真面目な顔なのかもしれない。


「もちろんいいよ。好きだから」

「分かった。用意出来たら呼んであげるから、寝てたりしてていいよー」

「ああ……ごめん。今日はそうするよ」


 俺がそう答えると渚はあっけらかんとした顔のまま振り向いて、改めて俺の顔を見た。そして苦虫を嚙み潰したみたいな顔をした。本当に嫌な気持ちになったというより、そういう顔をわざわざしてみせてるように見えた。


「ていうかさー。いつまであの世と交信してるみたいな顔してんの?死んだ後考えればいいような事を今考えたってさ、仕方ないじゃん」

「…………」

「私たちは人以前に生き物であって動物でしょ?文明や知恵が高度だとしても、神様から見れば私たちなんて犬とか猫みたいな動物に変わりないの。嫌な事があったら嫌な気持ちになるし、沢山頑張ったら疲れるし、お腹もすくし、眠くもなるし、好きになったものに触れていたいし、生きていたいようになってるんだよ。それに抗うなんて馬鹿みたい」


 一通り材料を取り出した渚はそう言えるとダイニングに向かい、カレーを作り始めた。俺は渚の言葉に甘えた。本当は渚を手伝いたかったが、今はその気力が湧いてこなかった。布団に横になり、目を瞑って時間を潰した。


 時折身体を起こしてスマートホンでニュースをチェックしたり、ゲームアプリのログインボーナスを受け取ったりしていた。そうしているうちにいい匂いが鼻をくすぐって、着々とお腹が空いてくるのを感じていた。


 俺は生きているのだ。



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