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私は頑張るあなたの味方!  作者: #N/A
第1章 『救済の桜』
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第3話 愛おしいものを見るような微笑み

 残業を終えると時刻は十九時半だった。俺は会社のビルの玄関前で、柱から顔だけを出して辺りを見渡していた。


 今日も疲れていたが、その疲れが気にならない程に心臓が鳴り響いていた。


「時枝さん、何してるのあれ……?キモくない?」

「さあ……。なんか、怖い。無視して行きましょ」

「触らぬ神に祟りなしよ」


 ヒソヒソと話し、せせら笑いながらビルの出入口から足早に出て行くのは先日休憩時間を勝手に伸ばしていた伊藤と川村だった。距離としては五メートルくらい離れていた。しかし彼女らは声を潜めてヒソヒソと話していた事で、むしろはっきりとその声が聞こえていた。


 俺が振り返ると伊藤と目が合った。伊藤は財布を落とした人間でも見るような憐れみの表情で、眉を垂れ下げて俺を見ていた。しかし目が合った途端にパッと顔を背けて小走りになり、二人とも風のように去って行った。


 特に伊藤は、俺の事を心底嫌悪しているらしかった。そうなった事にきっかけと呼べるものはなかった。大卒で俺より年上というのもあり、プライドみたいなものがそうさせているのだろうと勝手に考えてはみたが結局その真意は分からなかった。


 だが俺はそんな彼女らに対して、今パッと考えた以上の関心を持つことが出来なかった。正直に言ってそれどころではなかった。


 俺は如何にして、草津くさつ なぎさに遭遇する事無く帰るかを、脳みそをフル回転させて考えなければならなかった。


 高校を卒業して離れ離れになったと同時に、連絡先をブロックしてSNSまでブロックしたというのに、まさかこの大都会の中でまた渚に出会ってしまうとは思いもしなかった。


 次に遭遇してついてこられ、よもや住んでいるアパートを特定なんてされてしまえば最後、渚は絶対に入ってきて夕飯を振る舞ってくれたり部屋の掃除をしてくれたりと俺の世話を焼くだろう。


 それだけは絶対に避けなければならなかった。渚に良くしてもらう資格なんて、俺には無いからだ。


 柱の陰から何度も何度も辺りを検めたが、どうやら渚は居ないようだった。当然といえば当然なのだが、俺は安堵した。


 俺は誰ともすれ違わずに済むであろう、暗い路地裏の道を選んで歩いた。向こう側に見える街灯の光を目指していた。


 出来る限り足音を立てないように足底の力を殺しながら歩いたが、道は午前中に降った雨によってぬかるんでいた。一歩踏むたびに想像以上に大きくぴちゃりと音を鳴らした。


 足元だけ見て歩いていたら、俺は目の前にいる大男に気づく事が出来ずに真正面からぶつかった。


 如何にもこういった路地裏を歩いていそうな、柄の悪い大男だった。背は見上げる程に大きく、体躯は自分自身のウエストをそのまま倍にしたような太さを持ち、体格差は相当なものだった。


 何百キログラムもの砂鉄が入っている、自分の身の丈ほどの大袋にでもぶつかったかのようだった。相手は直立だったにも関わらず、ぶつかった俺は結構な衝撃を受けて尻もちをつき鞄を落とした。


 尻も手も雨で濡れて泥まみれになり、ぶつかった頬はじりじりと痛んでいるがそれどころではない状況だった。


「オォォイ!お前どこを見て歩いてんだ。目ぇーはついてんのか?えぇ?」

「す、すいません!?」

「お前名前はなんてんだ。言ってみろ」


 男は顔を真っ赤にして激昂していた。薄暗い路地裏ですらはっきり分かる程真っ赤な顔だった。俺は急いで鞄を拾い上げて、全力ダッシュで男の横を駆け抜けた。


 路地裏を一気に駆け抜けて、少し人が多い通りに出た。俺は膝に手をつき、肩で呼吸を整えた。念のため後ろを振り返ってみたが、大男は追いかけてきていなかった。


 スーツも革靴も鞄も、既に泥だらけになっていた。昨日の帰り道も今日の帰り道も全力で走っている。我ながら愉快な人生だなと俺は思った。そして何もかも全部放り出してその場に座り込んでしまいたいような気持ちが込み上げた。


 最も生を実感させられる時間というのは、危機に瀕した時間なのだと思った。呼吸が、回転させた脳が、息を切らした身体が何よりもそれを証明していた。


 家に帰るために、重い足を上げて歩き出した。堪えようと思っても、気づけば俺は俯いていた。


「ついてなかったね?」

「全くだよ。最近ほんとについてないわ」

「そうなんだ?神社にお祓いに行こうよ。ついてってあげるー」

「本当に?ありがとう。頼むわ」


「頼むわ」と伝えた直後くらいに、流石に俺はかつてない程混乱して慌てた。そして心霊現象を咄嗟に確かめるみたいにしてバッと顔を上げた。


 見るとそこにはいつの間にか、一番出会ってはいけない女が立っていた。


 渚は慌てふためいた俺を、じっと見つめていた。心の中まで全て覗き込んでくるかのような真っ直ぐな瞳だった。まるで、顕微鏡を通して小さな何かを見つけようとしているような目だった。


 そして彼女はやがて「ひひ」と、悪戯っぽく笑った。


 今日改めて見ても、やはり渚の風貌には明るく絢爛な雰囲気があった。この辺りの地面は泥と水たまりで薄汚れているが、渚がこの場に立っているだけで汚れの方から嫌がって逃げていきそうな風に見えた。


「渚!?なんで」

「なんではこっちのセリフなんですけど。再会早々逃げるとか信じらんない」


 俺は咄嗟に訊いたが、渚はそう言って腕を組み、心底機嫌が悪そうに眉を吊り上げて頬をふくらませた。その仕草は本当に子供っぽくて、まるで十代の少女のようだった。自分と一緒に高校を卒業した同じ社会人だなんて事実を、嘘みたいに感じさせた。


 だが、この世のありとあらゆる仕草と呼ばれるものの中で、そんな少女のような仕草と強気に見開かれた瞳こそが渚を最も違和感なく引き立たせていた。性質として、渚はそういう女だった。


 他の同年代の女性が渚と同じような振る舞い方をしてもどこか違和感を生むことになるだろう、と俺は思った。そんな幼さの残る態度こそが、彼女が本心で俺と向き合ってくれている証左であると俺は理解していた。


 渚は気を取り直したように目を見開くと、ほんの僅かに頬を上げた。そして俺のスーツを上から下、そして前から後ろというように立ち尽くしている俺の身体の周りをくるくると楽しそうに周って眺めた。


 そしてスーツを眺め終えた渚は、再び真正面に立った。頬を上げていたはずの渚は呆れとも侮蔑ともつかない顔をしていた。どれだけ洗剤を使って擦っても取れない床汚れでも見るように目を細めて俺を見つめていた。


「何だその顔は……」

「どうしてヒロはいつもそうやって一貫性が無いの?いくら何でもだよ」

「一貫性?」

「どうせスーツで泥遊びする決断に至ったならさ、もっと全身泥の中に沈めるくらい派手にやったらいいじゃん。中途半端過ぎ。そんな機会あんまり無いでしょ?」

「この世の誰もそんな決断しないよ!?訳分からんくらいデカい男に路地裏でぶつかって絡まれて、逃げてきたらこうなってたんだよ」


 俺がそう言うと、渚は愛おしいものを見るような微笑みを浮かべた。そしてそのまま腕を少し伸ばして、俺の頬に指先を当てた。いつの間にか俺の頬には泥がついていて、それをサッと払ってくれた。


 崖から小石がパラパラと落ちるかのように、頬から泥カスが落ちていくのを俺は無心で見ていた。渚は落ちた泥カスを見届けてから顔を上げ、再び俺の目を見ると悪戯っぽくひひ、と笑い、真正面から更にグッと近づいてきた。


 パーソナルスペースの概念すら爆破する大胆な距離の詰め方だった。目の前にある渚の笑顔に俺は心臓を跳ねさせることしか出来なかったが、やがて渚は笑顔をどこか不満そうな表情に変えた。そして俯き、頬を桜色に染めた。


「……ヒロ、昨日久しぶりに見たら大人っぽくなってたから、すごくドキドキしてたのになー。何で今日は可愛いところまで見せてくれるの?親切心?」

「やめろ。俺は可愛くない」


 俺はそう言いつつも、渚の染まった頬を見て更に心臓が激しく跳ね、高揚して喉を鳴らしていた。渚は自分が見せている不満げに染めた頬のいじらしさも、俺が今どんな思いでその目の前に立っているのかも全く分かっていない。


「どうして、可愛いって思うの?守ってあげたくなるから?不完全だから?未成熟だから?どっちにしても私がヒロを守ってあげるね?可愛いものに可愛いままでいて欲しいって思うのは罪かもしれないけど、そんな理屈はこの私がぶち壊すから」

「だから俺は別に可愛くない。ぶち壊すな」

「スーツ、洗ってあげよっか?大変でしょ?」

「いいよ。これくらいならまだ簡単に落とせるし」


 俺は出来る限りそっけなく答えた。多分、俺の頬も赤らんでいるのだと思う。俺にとってそんな渚という存在は眼福であり、癒しであり、心の支えであり、何年経とうとも大切なかけがえのない人そのものだった。


「ねー。また連絡先教えてよ」


 渚は笑って、何気ない仕草でポケットからスマートホンを取り出した。スマートホンを片手に持って器用に操作しているのを見つめながら、俺はこれまでの不運について考えた。


 さっき会社の出入口で変な目で見られたのも。


 あの大男と電柱でぶつかる羽目になったのも。


 スーツも靴も鞄もこんなに泥まみれになったのも。


『ついてなかったね』って?


「全部お前のせいだろ」


 俺は気づいたら小さく、低い声で渚にそう言っていた。思慮や配慮といったものを欠片もする事が出来ず、ほぼ反射的に飛び出した言葉だった。


 渚はスマートホンから顔を上げた。俺の言葉は空気中に霧散してくれる事などなく、はっきりと渚に伝わっておりその表情を曇らせていた。


 俺は渚を置いて歩き去ろうとした。しかし渚は「ねえ。待って」と言って俺に手を伸ばした。それは明るい声ではあったが先ほどまでとは対照的に、どこか気持ちが沈んだのを隠し切れない声だった。


 渚の手が届く前に俺は再び走り出した。家に帰るために、全力で走った。


 しかし地面が水と泥だらけである事を放念していた俺は、足を滑らせて泥まみれの地面に派手に転んだ。鞄も放り落とした。


 水浸しで重量のある大きなスポンジが、硬くてざらざらしたアスファルトの上にこすりつけられるみたいな音がした。


 俺は奥歯をきつく噛みながら急いで上半身を起こした。そしてスーツがもはや救いようがない程泥まみれになってしまったのも構わず、鞄を拾い上げて再び地面を蹴って走った。


 その場を去れるのに、時間はかからなかった。ほんの一瞬だけ、俺は走りながら渚の方を振り向いた。


 渚は追ってきてはいなかった。彼女は全力疾走する俺の背中ではなく、少し俯きながら何もない地面を見つめていた。


 立ち尽くしている渚は薄く笑っていた。


 それは俺の事を笑っているという訳でもなければ、幸福さを感じさせる笑みでもなかった。自嘲的で、投げやりな笑みだった。心地の良い夢から無理やり自分自身を引っ張り出そうとして、鋭い痛みを感じた時に出るような笑みだった。


 俺は前を向いた。そして風も桜も月も夜も何もかもを置き去りにして走った。今にも見開いた目から涙が落ちそうだった。


 そして同時に、自分自身がもっともっと深いところに落ちていくような感覚を覚えた。俺が走って目指す家は目に見えないだけで深いところに落ち続けており、俺自身も深い深い地の底に走っているのだという風に思った。


 俺は、走る事しか出来なかった。


 最寄り駅に着いてコンビニに入った。鳥そぼろ丼と煮卵を持ってレジに進むと、店員はかさぶただらけの肌でも見ているような目で俺を見た。スーツが流石に汚れすぎていた。


 アパートに帰り着くと俺のスーツの泥は乾いて固形になっていた。俺はスーツをお湯と重曹で洗い、ドライヤーで冷風を二時間くらいの間あて続けた。ただでさえ疲れていたのに、それで腕も足も完全にクタクタになってしまった。その後買ってきた鳥そぼろ丼と煮卵を食べて水道水を飲み、風呂に入って寝た。



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 翌日、俺は午前中の会議で教育指導とトークスクリプトに係るプレゼンを担当した。そして俺は擁護しようが無い程にミスを連発した。俺は管理室に呼び出され、葛木にこってりと絞られる事となった。


「この文章と図で伝わる訳ねぇだろ。隣のグラフなんて、もはや関係ないデータ引っ張ってるしよ」

「す、すいません」

「クライアントと第三者機関も見んだよこれを。本当に分かってんのか?」

「はい……」


 普段のふざけた振る舞いからは考えられない程、葛木は数字にめっぽう強い男だった。そんな彼からの指摘に、俺は何一つ弁明も反論も出来ずにいた。頷き、謝罪を繰り返す以外に無かった。


 葛木はフィードバックの時、決して声を荒げたり怒鳴ったりするタイプの男ではなかった。俺がデスクの前で立って話を聞いているのを、席に座った彼は退屈めいた瞳と口調で、淡々と静かに修正点とプレゼンの重要性について喋り続けていた。


 それなのに、顔と腹を何度もぶん殴られているかのような感覚を覚えた。あまりの圧迫感に、口と鼻から血が噴き出すのではないかと思う程だった。今辛うじて俺が耐え忍んでいるのは、葛木とは入社当時から付き合いがあり信頼関係が構築されているからだった。


 もしそうでもなければ、あるいは他の人間なら、その場で崩れ落ちて泣き出す程の威圧感だろうと俺は思った。資料から目を離して俺を見上げた葛木は、ろくでなしのどうしようもない人間でも見るような目をしていた。それは怒りも含まれるかもしれないが、呆れの方が強い目だった。


「何してんの?マジで。こんな初歩で足引っ張られても困るんだよ」

「はい……」

「これがこんなんで例の商談はほんとに間違いねぇんだろうな?こんなプレゼンとは比べ物にもなんねぇぞ?」

「だ……大丈夫です」

「つーかさ、新しくなった作成ソフト使えっつったよな。何で古いわけ?人の話聞いてる?」

「………すいません」


 俺は情けない表情で謝る以外に、出来る事は何も無かった。管理室を出た俺は業務フロアに戻った。業務フロアは依然として殺伐としており、当然まだまだ仕事は残っていた。


 この後すぐに今指摘された点を全て修正して、受発注システムのメンテナンス作業、契約件数とノルマの管理、納期調整の電話を三本して、連携部署宛ての提案資料の作成までを今日中に終わらせなければならなかった。


 例の大型商談を進めるために、午後は取引先にも出向かなければならなかった。大型商談まで失敗したら、取り返しがつかない事になる。俺はそれを今さっきのやり取りをもって、肌ではっきりと感じ取っていた。


 デスクに戻ると、バックアップ事務から回されてきた書類が大量に積み上げられていた。書類を一枚確認してボールペンを持とうとしたが、俺はペンを握る事が出来なかった。


 ()()()()()()()()()()()()()()()。何度手に取ろうとしても、ペンは虚しい音を立ててデスクに落ちた。手がぶるぶると震え、視界は霞み、汗は滂沱に流れ心臓の鼓動はけたたましく、呼吸は不規則になっていた。


 食堂へ足を運び、俺は温かい緑茶を飲んで休憩しながらスマートホンを開いた。イヤホンを装着してアプリで音楽をシャッフルし、静かなアニメソングを聴いた。それはどこか聴き馴染みのあるバラードだった。


 休憩している間も休憩した後も、ずっと俺の手は震えていた。これは何の歌だっただろう?脳みそが際限なく暴れていた。何で思い出さないんだ。今すぐに思い出せと、怒り狂うかのように思考がのたくっていたが、俺は結局思い出す事が出来なかった。



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