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私は頑張るあなたの味方!  作者: #N/A
第1章 『救済の桜』
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第2話 その女の笑顔を見た瞬間に

 管理職といってもあくまで俺が就いている会社特有の呼称であり、実態は一般的な企業における『主任』や『係長』という呼び名の役職の動きに近しい事をしているだろうと思う。


 クライアントや取引先とのやり取りの都合上、かなり柔軟に対応が必要な課だった。運用変更や商品のリニューアルが度重なる点も相まって、俺の業務エリアは慢性的にカオスだった。つまり社員一人一人の負担が大きいのである。


 そのカオスさによって退職者が多く、ずっと安定していない状況だった。すぐに人が足りなくなり、俺は必要に応じてプレイヤーとして現場に出る事も大いにあった。故に、管理職に昇格してからは仕事が単純に倍以上に増えたという事になる。


 葛木の話では全体の運用面が固まって安定し、残業塗れ状態を脱するまではあと三か月程度を見込んでいるという事だった。


 残業を終えて会社を出た。スマートホンを見ると二十一時十分だった。


 俺は今日も今日とて、足元をフラつかせながら駅に向かって歩いていた。意識を保つので精一杯な程に、肉体が疲労していた。


 周りからは俺が酔っぱらいのように見えていたかもしれないけれど、白濁とした意識下ではそれを修正するのも困難な事だった。


 鞄をどこかに落としていってしまうのではないかだけが心配で、中身の少ないビジネスバッグの持ち手を握る握力を強めていた。橋本の散らかされた弁当箱や伊藤から向けられた敵意剥き出しの眼差しが脳裏にちらつくので、それで込み上げる感情を全部握力に変換する事でそれを実現していた。


 しかし天を見上げて、ほんの一瞬だけ全てを忘れた。


 小さな光が滲み輝く藍色の星空と、大きな桜の木が風に吹かれて美しく揺れていた。


 高気圧の空気が全身とこの街を撫でる、心地の良い夜だった。恵まれた天候の中で、綺麗な夜空と一緒に桜の木を拝めるのは今だけかもしれないと俺は思った。


 しかし、頭のてっぺんから足のつま先までに至る全ての細胞に全身全霊の力を込めないと、一歩すら踏み出す事も出来なかった。


 会社から五分くらい歩くと、商店街や繁華街へ通じる大きな道路へ出た。朝出社する時も夜退勤する時も関係なく賑わっている大通りであり、人でごった返していた。


 朦朧とする意識の中で、俺はお布団の素晴らしさについて考えた。そして疑問に思った。何故人はお布団から出て会社へゆき、働くのだろう?金の為に人は働かねばならないとか、生活の為に人は働かねばならないだとか、そういう話じゃない。そんな次元の話をしたくて今俺はこれを考えている訳ではないのだ。


 つまり何が言いたいかというと、肉体から発しきれる精力という精力を全て絞り出したから、この後一秒でも早くお布団に入りたいと、それだけの話がしたかったのだ。ただそれだけの話でしかないのだ。


 人が生きる中で疑問を抱くのも、立派な大義名分を掲げてそれを成し得ようとするのも、結局は目の前のちっぽけな欲望を満たしたいからでしかないのだ、と俺は思った。


 その時、突然両肩に衝撃が走った。


 俺は何が起きたかさっぱり理解出来ずに、思わず大きく目を見開いた。とうとう身体を壊してしまったのかと考えたが、それは杞憂だった。


 俺の両肩は、どうやら誰かの手によって掴まれているようだ。両肩を掴まれた以上、歩いていた足を止める他はなかった。


 ただ、危害を加えようとしてくるような雰囲気でない事だけは確かに感じ取っていた。しかしそれが結局誰の手なのか、俺には心当たりが全くなかった。


 やがてその両手は器用に、絶妙な力加減で、俺の肩甲骨のツボをぐりぐりぐりぐりと押してきた。


 思わず俺は変な吐息をもらした。脳みそに電流を流れされているかのようだった。毎日のようにデスクに座ってパソコンを睨み、疲れ切っているこの身体にあまりに染み渡る刺激だった。


 幽体離脱でもさせられそうな強烈さとキレのある感覚を、往来の真ん中で味わわされていた。


 後ろにいる人間が誰なのかという疑問を、二秒くらい忘れた。もはや、自分がまだ帰り道の途中であるという事実すら一瞬頭から消え去った。


「………ふーっ」

「あぁっふわぁーー!?」


 蕩け切っていた俺の耳元に、温かな息を吹きかけられた。背筋を大きなムカデが這い回ったかのような感覚を味わって、俺はとうとう変な悲鳴を上げた。


 急いで両肩の手を振りほどいたが、辺りを見渡してみると俺は既に往来の大勢の人々の視線の的となっていた。


 一瞬猛烈に恥ずかしさが込み上げたがその後、こんな事をしてくれた人物は一体誰なんだという憤慨が瞬く間にそれを塗り替えた。


 バッと振り返るとそこにはあまりにも懐かしい顔であり、それでいてあまりにも見慣れた女がきょとんとして俺を見つめていた。


 彼女は俺のあまりに疲れきった表情を見て面白かったのか吹き出して、そして嬉しそうに笑った。


「ヒロ。やーっと見つけた!」


 女は手を後ろに組んで、ほんの少し上目遣いで俺を見つめていた。あざとい仕草とその声だけで、俺は何もかも全てを思い出した。


 疲れた。帰りたい。早く寝たい。


 たった今まで頭の中を埋めつくしていたそれらの感情は、その女の笑顔を見た瞬間に全て地球の裏側まで吹き飛んでしまった。


 疲れていたからというのもあると思うが、それ程までに彼女の笑顔は輝きを放っているかのように見えた。彼女を認識した俺の心臓は躍り狂うかのように跳ね、変な物質が脳内から溢れ出し、冷静では居られなくなった。惚けて、数秒完全に見とれていた。


 草津 渚 (くさつ なぎさ)。高校を卒業して以来、三年振りの再会だった。散々一緒に遊んだ友人であり、他でもなく俺の初恋の相手だ。


 もうすぐ肩に届きそうな長さの髪は綺麗な茶色に染まっており、大きな瞳は好奇心とワクワクに満ちていた。


 彼女は同い年だが、幼さが残る童顔だった。そこにかつて黒かった髪が茶色に変わっていたり、化粧をしていたりという大人の魅力が入り混じっていて、この夜の街では一種の『危うさ』を感じさせた。


 服装は真っ黒のフードパーカーと真っ黒のミニスカートに、真っ黒のタイツと真っ黒のスニーカーと、まるで舞台裏のスタッフのようで癖が強かった。


 癖の強さがありながらも、美しい容姿であり自信と強気に満ちた雰囲気をもっている彼女は、街中にいるだけで圧倒的な存在感で目立ち、道ゆく人々の目線を容易に引いた。


 すぐ横に聳え立つ堂々たる桜の木と舞い散る桜が、渚の美しさと存在感を更に引き立たせていた。まるで月と街灯の明かりでライトアップされているかのようだった。


 そして胸が痛んだ。毎年、何度も見ても渚は、舞い散る桜とその木を背にして立つのが恐ろしく映える女だった。


 これが一体どうしてなのかについては、何故か俺にも説明する事が出来なかった。もっとも、彼女本人は無邪気な笑顔の下に、その自覚は芽生える兆しすらないのだろうなと俺は思った。


「久しぶりだねー。ヒロ。元気だった?」

「…………」


 俺は渚を見つめたまま、返事をする事は出来なかった。渚はそんな俺を優しい表情で見つめていたが、やがて少しだけ目を細めた。そして天を仰ぎ、桜を眺め始めた。俺もつられて、一緒に桜を眺めた。


「桜、綺麗だね?数えきれないほどの愛と死体が下に埋まってそうなくらい。だけど私は桜の残酷さにも悲しみにも、絶対負けないし譲ってもあげないの」

「…………」

「桜は容赦ないけど、嘘も絶対につかないから。この一年も自分の中の誇りと信念を曲げずに胸を張って生きてこれたんだって、桜だけが教えてくれるの!だから私は、この季節がいつも楽しみなんだー」


 そう言った渚は俺の方に向き直ると、明るく瞳を輝かせていた。俺はその瞳に釘付けになった。渚は後ろに手を組んだまますたすたと無遠慮な様子で近づいてきて、あっという間にすぐ目の前にやってきた。


 彼女は一メートルもないくらいの至近距離で俺の目を覗き込むと、ひひ、と屈託なく笑った。俺は激しく心臓を鳴らした。血流が二倍くらいに早くなったような気すらしていた。


「………お仕事お疲れ様。きっとヒロも、何に負けたとしても桜にだけは負けずに生きていたんでしょ?」


 そう言った渚は再び、天を仰いで桜を眺め始めた。俺も顔を上げて、渚と一緒に桜を見ていた。だけど渚の横顔の方が桜よりよほど綺麗に思えた。


 俺はずっと黙ったままだった。やがて桜を眺める渚の表情は、ほんの一瞬だけ酷く寂しげに揺らいだ。


「…………? ヒロ?どうしたの?」


 渚は揺らいだ表情を元に戻して俺の方に向き直りながら、風が吹いて頬にかかった髪を指先で柔らかく払った。そして首を傾げて、俺を興味深いものでも見るかのような目で見つめて問いかけてきた。


 その瞬間俺は、地面がめくれ上がる程勢いよく踵を返した。


 そして渚に背を向け、全身全霊、今生最後と言える程に、腕がちぎれそうなくらい勢いよく振って全力疾走をした。


「は!はぁぁぁぁぁぁぁ!? ちょ!ちょっと待ってよ! やっと見つけたのにぃ! ねーーー?ヒロぉぉー!」


 渚の声が聞こえた。心底納得できない事に対する抗議みたいな声だった。しかし俺は振り返らずに走った。どこまでもどこまでも、訳が分からないくらい走った。


 途中何度か躓いたし左足を吊りそうになったけれど、何とか態勢を立て直したり左足を引きずってでも止まらずに、息を切らして必死に走った。


 何故彼女がここに居るのかも、俺を見つける事が出来たのかも分からなかった。だけど、逃げなければならなかった。こうやって無様に、野生の獣から逃げるかのように走り去らなければならなかった。


 俺が彼女と一緒に居る資格なんてなかった。俺は彼女を裏切って傷つけて、だから走り去らなければならなかったのだ。彼女を忘れなければならなかった。


 だけど遠ざかれば遠ざかる程に魂が叫んだ。魂だけが、彼女の元へ戻れと叫んでいた。


 それが何故なのかは分かり切っていた。三年経った今でもずっと俺は、渚に恋をしたままだったのだ。



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