第4話 ローションじゃないですか
あれからしばらく身を守れそうな建物を探しているが、なかなか見つからない。どこのお店も施設も人でいっぱいだった。大雨の警報を受けて締め切られていたり、既に雨を凌ぐために入った客であふれかえっていた。いい感じに座れそうな場所は無いものだろうか。
雨が弱まったことを契機にか、通行止めを免れた車たちが大量に押し寄せ始めていた。今しかないと言わんばかりに、送迎するために来たであろう車が行き通う。全く進まない車両の流れに、クラクションの音が頻繁に鳴り響く。再び、車と人に溢れた都会としての顔を見せ始めていた。そんなことを感じながらフラフラと散策しているうちに、俺と鹿沼は繁華街の入り口に立っていた。
俺はネオンの輝きを見て、酷く苦々しい記憶を思い返した。本当に、胸騒ぎが止まらない場所だ。ここにはいい思い出が無い。夜のこの場所で、桃とシュンがどんな目に遭ったかを見て聞いたからだ。
鹿沼は繁華街の敷居を跨いで数歩入り進んでいた。警戒するということを知らない、まるで純粋無垢のお嬢様のように端正なおとぼけ顔である。ここがどんな場所なのかを知らないからだろう。
俺は後ろから彼女を呼び止めた。すると鹿沼は少し不思議そうな顔で、ポニーテールを靡かせてくるりと振り返った。そして明るい笑顔になって少し嬉しそうに、「どうかしましたか?あそこ、いくつか入れそうなお店がありますよ」と俺を見ながら指をさしてみせた。
俺は緊張に心臓の鼓動を早まらせながら彼女の手を取って、その指を下げさせた。きょとんとする鹿沼に対し、実はこの繁華街は治安がちょっと良くないと説明をした。夜は特にそうなのだという補足をすると、鹿沼は眉を垂れ下げて「ひぇ」と小動物みたいな悲鳴を上げながら、繁華街の敷居のこちら側に戻ってきた。
危ないところだった。こんなか弱い女性を危険な場所に追いやるわけにはいかない。
「ありがとうございますっ。この辺は来るのが久しぶりで……」
「お礼言われることでもないですよ。とりあえずここを離れてから話しましょうか」
「はい!」
とはいったものの、一体彼女をどこへ連れていけばいいのだろう。俺のそんな葛藤も知らず、鹿沼は清楚な笑みを浮かべながらひょこひょことついてきた。
俺はそんな彼女と一緒に都会を彷徨い歩いた。目的地も定まらない不安を胸に沈殿させながら大量の人を掻き分け、クラクションを鳴らす車に睨まれながら、水たまりを踏みそうになって大慌てする鹿沼の手を取ってエスコートした。
そんなふうにして歩いているうちに駅前に辿り着いた。しかし電車はいずれも動いていなかった。想定していた以上の災害だったらしい。根幹が揺らぐとまではいかないにしても、様々なインフラに受けた打撃は易しくない。これまで通りに都市が機能するまでには時間を要するようだった。
電車は動いていないにも関わらず、とんでもない人の量である。雨が弱まった以上、そろそろ警報も解除されて運転再開すると踏んでいるのだろう。
これまで以上に力づくで掻き分けていかないと、駅の中へ入り込んでゆくことすら簡単ではない。それほどまでに圧迫感のある人口密度だ。先日も渚と手を繋いでこの場所を歩いたことを思い出した。スタバを目指して、大勢の人を掻き分けながら。しかし今目の前に広がる光景はその時の比ではない。
思わず嫌になっていると、すぐ横にいた鹿沼が俯かせていた臆病な瞳を上げた。そしてちらりとこちらを伺うように見て、「どう、しましょう……?」と縋るような声で問いかけてきた。
特段打ち合わせた訳でも示し合わせた訳でもないが、俺は成り行きのまま鹿沼と行動していた。もうどこで彼女と別れを切り出すべきか分からなくなってしまった。一定時間彼女と抱き合うという奇妙な経緯からか、情が湧いてしまったのが原因のひとつかもしれない。
俺も鹿沼も電車に乗らないことには帰れない。このうじゃうじゃと湧いた人々が減ってくれるまで、その辺でどうにか過ごす手立てを考えなければならなかった。
「贅沢は言えませんが、引き続き座れるところ探しましょうか」
「はい」
「俺腹減ったんで、買い物出来そうな店を見つけたら入ります」
「分かりましたっ」
鹿沼は何も反論なくそう返事して、楚々とした微笑みを見せた。純情的過ぎて眩しいなと俺は思った。今日が初対面のはずの俺に対して何一つ疑いというものを持っていないかのようだ。
誰に対してもこういう感じなのかな……。簡単に頷くその様は、まるで入社して三日目の俺みたいだった。俺は思わず小さな子供から目を離せない母親みたいな感情に染まった。大丈夫なのか?怪しい男や詐欺師に騙された後じゃ遅いんだぞ。そう思ったが、生憎人の心配をしている場合ではない。
十五分くらい歩いて、俺の足が疲れてきた。鹿沼はずっと俺の横についてきていた。足が疲れてないか訊ねると、彼女は「大丈夫です。普段も仕事で歩き慣れているので」と言った。
相も変わらず清楚で上品な気品を一切崩さないが、俺は彼女の左脚がほんの少しだけもたつき始めていることに気づいていた。彼女のほんの少しだけ鈍くさいところを考慮して見ても、やはり疲労は拭いきれないようだった。早く座れるところを見つけないと。
努力の甲斐あり、奇跡的に締められていないコンビニエンスストアを見つけた。鹿沼に好きな食べ物を訊ねると、「お魚なら何でも好きです」と言って微笑んだ。魚?と俺は思った。迷った末に鮭のおにぎりを買ってきて手渡すと、彼女は目を輝かせて喜んでくれた。
コンビニから少し離れて、昆布のおにぎりを開封してかぶりつくと塩分と旨味が口いっぱいに広がった。鹿沼は俺のすぐ隣で、渡した鮭のおにぎりを大切に両手に持ったまま立っていた。そして目の前の忙しなく行き交う人通りと一向に進まない車両の塊を自信なさげな瞳で眺めていた。
「鹿沼さんはあのビルで働いているんですか?」
「いえ。わたしは実は、所用でこちらに来ているんです。あのビルはついでのようなものでして」
鹿沼は俺を見てそう言った。それはまるで普段はこの都市ではなく別の場所で生活しており、直近でたまたまこの場所に居合わせたみたいなニュアンスだった。
「そうなんだ。よりによってこのタイミングでこんな雨なんて、災難でしたね」
そう言うと、鹿沼はきょとんとした顔をした。俺を見たまま、頭上にハテナマークでも浮かんでそうな顔だ。まるで俺が失言したか、明らかに合わない相槌をしたみたいな反応だった。
ふと、撫でるような風が二人の間に吹いた。鹿沼は前髪を柔らかく整えると、端正な顔で勾玉みたいな形の月を見上げた。そして、「そうですね」とそれだけ、ポニーテールを風で靡かせながら静かに言った。
……………………………………………………
おにぎりを食べ終えてスマートホンをチェックすると、電車が動き出したという情報を得た。あの人だかりを考えれば深夜になるかもしれないが、ようやく家に帰ることができそうだ。早速一本目の電車が十五分後に出るが、それ以後の便は未定らしい。
更に渚からもいくつか通知が届いていた。一時間に一度のペースでメッセージを寄越しており、俺の身を案じていることが伝わってきた。すぐに返信を返してやらないとと思うが、なかなかそんな余裕もない。
帰宅ラッシュによって、元々人が多かった場所の人口密度が更に濃くなっていく。俺のすぐ隣にいる鹿沼は何も言わず、そんな人だかりを見つめていた。口に手を当て、眉を垂れ下げ、不安を隠し切れない瞳でおどおどとしていた。まるで、試験前日に一夜漬けで勉強し終えてどうにかなると思っていたら試験範囲を盛大に勘違いしていたことに試験開始三分前に気づいてしまったみたいな目だった。
「どうしたんです?」
「………!いえ」
問いかけると、彼女は目を丸くして俺に目線を向けてから、すぐに取り繕うようにパッと笑顔を作ってみせた。
「行きましょう。ラッシュはかなり酷いもんだと思いますが、無理やり乗ってしまえばこっちのもんです。今日中に帰り着けるかとは」
「……乗らない方が、いいと思います」
その言葉は、自信なさげな声と瞳で紡がれたものだった。そう言った彼女はじっと、顔色とその奥の血管の色まで識別するかのように俺の顔を上目遣いで覗き込んでいた。
この状況で電車に乗らなかったら一体どうするつもりなんだ?別にその辺の宿泊施設に泊まるのも有りかもしれないけれど、使わなくても免れられるお金を掛けるのも気が引けてしまう。
しかし可愛いなこの女。俺は鹿沼の顔を見ていてそう思った。上目遣いで見つめてくるその様は、何だか性別を反転させただけの自分自身を見つめているみたいだった。彼女と性別を交換して違和感がないと断定できるほど、自分の容姿に自信があるという話ではない。彼女を見ていると、気弱で、人の顔色を窺ってばかりだったあの頃の自分を思い出すのだ。
「どうしてそう思うんですか?」
「ご、ごめんなさい。何となく?……です」
「何となく」
「恐らく相当な混雑になりますし、そもそもそういう場所では事故とか、どさくさに紛れた犯罪が起こりやすいんです。ただでさえ雨で足場がかなり悪いのもありますし。だから……その。理由はそれだけです」
「………」
俺の人を見る目などたかが知れているかもしれないが、少なくとも直感的には鹿沼がでたらめや、俺を困らせる為の嘘を言っているようには感じられない。
そもそも彼女には、この場で俺に対して嘘をついたり困らせたりするメリットが何一つ存在しなかった。彼女だって生活があるし、仕事があるし、帰る家が待っている。
「どこか寄っていきますか?」
「はい」
これから電車に乗るという計画を一旦白紙に戻した俺の提案を聞くと、鹿沼は心底安心したように頬を緩めて一言そう返答した。そして彼女は深海のように光り輝く瞳を細めて、再び俺のすぐ近くにとてとてと歩み寄ってきてみせた。
渚に甲斐性がないと言われたことを思い出した。こういったときに自分の意思や気持ちを通せない。鹿沼の笑顔を見て安心しているあたり、甲斐性なしは今も全く成長していないということだ。
「すいません。舵取りをさせてしまって」
「こちらこそごめんなさい。口出しをしてしまいました。時枝さんはご都合大丈夫ですか?」
鹿沼はさりげなく、この後も俺についてくるという意思を表明してきた。
「俺は全然大丈夫なんですが……。果たして、これが最善なのやらどうなのやら」
「どちらを選んだとしても、わたし、時枝さんについていくつもりでした」
「そんなふうに言われても何も出てはきませんよ」
そんな会話を交わしてから二十分くらい経っただろうか。先日食べたエビフライの尻尾が歯茎に食い込んで痛かったという話をして盛大に反応に困らせていたら、とんでもない雨が辺り一帯を降り注いだ。滝に呑み込まれるかのような猛烈な雨だ。
「鹿沼さんごめん!走って!」
「ひゃ……!」
悲鳴を上げる鹿沼の手を引いて、俺は走った。殴りつけてくるような大雨に、彼女はきゅっと目を瞑り、降り注ぐ雨を腕で少しでも凌ぐので精一杯のようだ。一分でも外にいる時間が長引いたら、スーツを乾かすのに一晩では足りなくなってしまう。というかもはやそんな次元の問題じゃないかもしれない。
「会社だ……!もう会社以外無い」
俺をあまり舐められても困る。日付が変わるような深夜に、何度この出入口を行き来したと思っているのか。俺はいつも働いている会社に滑り込んで暗号ロックを手早く解除した。そして彼女の手を引いて自動ドアを潜った。
……………………………………………………
俺はこのビルの最終戸締りを何度もしてきた。繁忙期は宿泊したことも数知れず。故に宿直部屋が何階のどこにあり、どの程度の使い勝手であるかも把握しているのだ。飲み物と簡易な食べ物は自販機で確保でき、生活に困ることは基本ない。
問題があるとすれば、鹿沼のような清楚お嬢様オーラを放つ女性が立ち入るにはベッドが小さいこと。汚いとまではいかないが、整理整頓されていないこと。そして俺も鹿沼も、スーツと身体がびしゃびしゃになったことくらいだ。
案の定、宿直部屋には誰もいなかった。こんな大雨だから今日は会社で過ごそう、という発想をする者自体が俺以外にいないらしい。しかしそれは至極当たり前のことだった。業務時間が終わってもフロアに残っていたい人物はごく一部に限られるだろう。
いずれにしても、宿泊するということはそれなりにモノは必要だ。俺は大急ぎで奇跡的に営業しているディスカウントショップへ足を運んだ。そして今晩を凌げそうなものを買い足してきて、びしょ濡れの鹿沼をシャワーに押し込もうとした。しかし彼女は抵抗して、シャワーを浴びようとしない。
「そ、その……!」
「どうしたんです?風邪ひきますよ。本当に遠慮しないでゆっくり入ってきてください。先ほども伝えたとおり、石鹸はこれとこれとこれ、タオルはこれです。着替えはこれ。俺は一旦ストーブで温まれればどうにかなりますから」
「え、えっとですね。まだ明日のことを……」
「明日のことなんて後から考えればいいんですよ。まずは身体を暖めないと」
「でも……っ」
「それとも何か買ってきて欲しいものとかあります?代わりに買ってきますよ」
「そ、それはその。今は何とかなってるというか」
「じゃあ良いじゃないですか」
どうにかしてシャワー室まで押し込んだが、鹿沼は抵抗し続けていた。じれったい。一体どうして抵抗するのだろう。今この状況で濡れた服を脱ぎ、シャワーを浴びる以上にすることがあるのだろうか。
しかし鹿沼は困惑に眉を垂れ下げ、今にも涙が溢れてしまいそうな美しい瞳でじっと俺を見つめていた。
完全に押しつけになってしまっていた。彼女の気持ちを考えてあげられていない。身体が冷えてしまう前に暖めてあげるべきだと、そればかり考えてしまっていた。彼女が何を考えているかは分からないが、これ以上押しつけがましく迫るのは良くないだろう。
「………失礼しました。じゃあ俺は一旦戻るので、この後は鹿沼さんの好きなように」
「ぎゃ!」
俺はその場を去ろうとしたが、どういったことか鹿沼は悲鳴を上げて顔からびったんとすっ転んだ。その拍子にかガコンという音と共にレバーが引かれ、たちまち暖かいシャワーが勢いよく噴出し、立ち尽くす俺と、俺の足元で倒れている鹿沼の全身を濡らしていく。こんな事態は全く想定していなかった。
情けない悲鳴を上げる以外にできることは無かった。財布もスマートホンもポケットの中で水浸しになるのを感じていた。分かっているのはこのままではまずいということだけだった。
俺はシャワー室を飛び出そうとした。しかし一体どうしたことか、足が片方動いてくれなかった。両足が動く前提の認識で飛び出そうとした俺は、勢いよく室内ですっ転んだ。
横を見ると、倒れ込んだままシャワーを全身に受けて濡らす鹿沼が大慌ての顔で俺を見ていた。不安そうに眉を垂れ下げ、あわあわと慌てふためきながら。他でもなく彼女が、俺の足を掴んでいた。
「なんで………!?」
「ごめん、なさい………!!わたし、反射的に」
「ちょ、すいません!一旦出ます!」
「は、はい!」
しかし、二人で手を取り合って立ち上がることはできなかった。更につるんと滑らせて、俺も鹿沼も天地がひっくり返る。「ぎゃーーー!」という、清楚も気品も欠片も感じられない鹿沼の悲鳴がシャワールームに響き渡った。ズドーン!と音を立ててそれぞれの肉体部位から床に着地する俺と鹿沼は、何が何だかも理解できていなかった。
ここまできてようやく、足裏に酷く潤滑性の高い感触を覚えている事に気が付いた。床をよく見ると、俺と鹿沼が転んだ拍子に詰め替え用ボディソープの袋が落ちて、液体石鹼が床全体を覆い尽くしていた。
これが自分ひとりの旅先ならもう少しラフに買い物をしただろう。しかし今回はあくまで今日が初対面の女性も一緒にいるわけだから、買い物はしっかりしなければならない。そう思って鹿沼と一緒に石鹸のコーナーを見て回り、「これが良いと思います」と彼女が選んでくれて購入したボディソープだった。まさかそれがこんな裏目に出るなんて思いもしなかったから。
どうアプローチしてもこの床と仲良くできるビジョンがない。たっぷりと、この室内を溺れさせるほどに多く潤滑液体をまとった床は、手をついても、足をついても、肘をついても、膝をついてもつるんと滑ってすっ転ばされる。「ぎゃ!ひゃあ……っ。ひぇ!?ぎゃーーー!」という悲鳴がずっと聞こえている。どうやら隣でも立ち上がろうと必死に戦っているようだ。しかし俺で全く立ち上がれる気配がないのだから、天然な鹿沼では到底無理だろう。
頭のてっぺんから足のつま先まで全身をフルに使って、ドタバタと音を立てながら必死に床と格闘していた。そのうちに俺と鹿沼の身体は重なりあって、抱き合いながらずるずるごろごろと転がった。
「………」
「………」
仰向けに倒れる俺の身体に馬乗りになった鹿沼は、しんどそうに息を荒げていた。俺はたまたま手のひらに掴んでいたボディソープの袋を掴んで、息をあげている鹿沼の顔の前に突きつけた。
「あの。これ………ローションじゃないですか」
「ごめん……なさい」
鹿沼はシャワーとローションに全身をぐしゃぐしゃに濡らして、息を荒げながら俺を見下ろしていた。心做しか彼女の頬は赤らみ、長年に渡って手に入れたかったものを手に入れたみたいに恍惚としていた。
彼女のシャツは下着の色が透けていて、形が浮き彫りになった大きな胸が俺の鎖骨の上に乗っていた。シャツは下着の色が完全に透けている。
謝罪してきているのに全然申し訳なさそうじゃなかった。だけど、酷く艶っぽい光景に呑み込まれていた。そんな意識の中で、ポケットのスマートホンが壊れる音を聞いた気がした。
……………………………………………………
往復できるのは宿直部屋とお手洗い、付近にある自販機くらいのものだ。それ以外の場所をこんな夜に下手にうろつけば、警備システムが作動して御用になってしまう。俺は鹿沼と一緒にそんなに広くない宿直部屋で静かに過ごしていた。
俺と二人きりの彼女はストレスを溜めるどころか、心なしか嬉しそうな顔をしているように見えた。一体どうしてだろうと俺は思った。考えてみれば、彼女とのかかわりは不思議なことでいっぱいだ。俺はびしょ濡れになった財布とお札を扇いで乾かしながら、ベッドのうえで鞄の中身を漁っている彼女に訊ねた。
「改めてさっきはすいません」
「いえ、こちらこそ……。沢山ご迷惑をお掛けしてしまいました。本当にごめんなさい。スマートホンとかお財布、大丈夫ですか?」
「多分大丈夫じゃないかなと思います。ところで……さっき、シャワー浴びれない理由とかあったんですか?」
「下着の替えが無かったので、浴びる前に調達したいと思ったんです」
俺は何も言葉を紡げなくなった。完璧に買い物をしてきたと思っていた。俺を誰だと思っているのか。バスケ部のマネージャーと生徒会長を完璧にやり抜いた手腕は、自分で自分をそこそこ褒めてやれる唯一の点だった。少なくとも今晩を越えるには何一つ不自由は無いと。しかし全く頭が回っていなかった点が、ここで浮き彫りになったのだった。
ちなみに前回の反省を活かして、自分の分の着替えは抜かりなく周到に購入していた。俺は一体何をしているんだ。
「申し訳ない……さっき外出されていたのは、そういうことだったんですね」
「全然、気にしないでください。むしろ、わたしが」
鹿沼はそこまで言って、口を噤んだ。そして脇にあったまくらを胸にぎゅっと抱きかかえて、顔色を慎重に伺うような瞳で俺のことを見つめた。まるで俺のほうが、自分なんかと一緒にいるのが嫌だと思っているのではないかと。鹿沼はそんなふうに思っているように見えた。
「俺は大丈夫ですよ。明日にはきっと帰れるでしょうし、元気出してください」
「ひぇ。ありがとう……ございます」
「別日に、改めて俺にお詫びしてもらいたいんじゃないんですか?」
「! ……そ、そうですよ。お忘れではないようですね」
鹿沼はポニーテールを解いた、長い黒髪を指先でいじりながら俺に舌を出してみせた。結局その晩は、まるで友人同士のお泊り会のように飲み物を飲みながらくだらない会話をして、自然に眠った。
しかしあろうことか、嵐は一週間ほど続いた。
まだ少し湿っているスーツをストレスを溜めながら着用し、定時に業務フロアに足を運んだ。しかしフロアには誰一人として出社していなかった。誰かが出社してくる気配もない。充電していたスマートホンを見てみると、鳴上から連絡が届いていた。大雨警報が終結しないため、会社は一週間ほど休みになるということだった。
「渚!雨相当だけど、大丈夫か?」
『ヒローっ!やっと連絡繋がった。私は一歩も家から出てないよ。そっち大丈夫!?』
「大丈夫だよ」
『………!もう……心配かけて!私がどれだけ……。ちゃんと連絡返してよ!ヒロのバカ!』
「ごめん………」
渚に電話をかけると、ワンコールで応答した。渚は俺の無事を聞いて安心したのか若干涙声になり、鼻をすすりながら俺を罵倒した。俺が怪我をして彼女を泣かせてしまった(?)件もあったから、気持ちがデリケートな状態になった矢先の出来事に混乱したのかもしれない。
カオスな状況だったから連絡の返しどころがなかった。素直に謝るほかはない。俺も渚の声を聞くことができて、酷く安心感を得た。
『料理教室、しばらくお休みになったよー』
「こっちもだよ。だけど一歩も動けないから、帰るのは警報が解除された後になるかも」
『ねー。私昨日全然眠れなかったんだよ?いくらお家に引きこもり放題でも、そんなんじゃ全然嬉しくないんだから。ちゃんと毎日少しでいいから電話して。それが出来ないならせめて一通だけでもライヌ送っておいて。私の気持ちもちゃんと考えてよね』
「分かった。ごめん」
『次同じことしたらスタンプ千個送りつけるから』
「はいはい」
『何はいはいって。〇すよ?』
「はい。すいません」
渚が不満げに頬を膨らませているのが、見なくても伝わってくるようだ。憎らしげで、普段より少しだけ元気がない渚っぽくない声色。そんなふうに言われなくたって、俺は渚を忘れたりしないのに。何かそれを、きちんと伝えてやれる方法はないものだろうか。しかし少なくとも今は、彼女の言ったとおり毎日きちんと連絡を返すくらいしか出来ることは無いだろう。
常に風と雨と雷が吹き荒れる都内。その一週間を、鹿沼と一緒に会社の宿直部屋で過ごすという謎の生活をしていた。鹿沼の会社も休みなのかを訊ねてみると、「わたしの会社もお休みみたいでした」と言って笑った。何故かその笑顔にはどこか、含みがあるような気がした。
思ってもみなかった長期休暇をもらえたものだと考え、羽を伸ばして過ごすことにした。幸いにも近隣の店はちらほらと営業しているため、道中服がびしょ濡れになることさえ許容すれば用品の買い足しに困ることは何もなかった。
俺はイヤホンで甘目まどかのアニソンを聴いて過ごしていた。宿直部屋とはいえ、会社の中にいるとは思えないほどのくつろぎようだ。しばらくして雨に濡れた鹿沼が外から帰ってきた。彼女が手に持っている本屋の袋には、何冊かの本が入っていた。
「本読むの好きなんですか?」
「はい。生き甲斐です」
「音楽聴くのは?」
「……音楽は、あまり好きじゃないんです。聴いているうちに色々な感情が胸から溢れかえる感じが、身体の内側を食い散らかされるみたいで落ち着かなくて」
俺は適当な音楽を部屋に流そうと思っていたが、それを聞いてやめることにした。
一番戦慄したのは、突然悲鳴を上げた鹿沼が見せてきたスマートホンのニュースだった。ちょうど俺たちが見送る決断をした列車は、発車して五分後に激しい雨風によって横転したというのだ。線路のメンテナンスなど、他の要素が複合的に合わさったことが原因と考えられているらしいが、何にしてもゾッとする話だ。現在も大嵐の中で救助活動が行われている。人間の作り上げた文明の利器は、大自然の前には赤子同然だった。
夜が更けていく。ベッドは鹿沼に譲っていた。俺はいつも通り、出入口付近に敷いたタオルケットにくるまって眠ろうとしたら、彼女は俺に声を掛けた。
「お願いです。……こっちに来てくださいませんか」
「え?だって、そのベッド小さいし」
「いいんです。来てくださらないなら、わたしがそちらに」
「分かりました。行きます。行きますよ」
彼女は震えながら俺の身体に抱きついてきた。俺の胸に頬をあてて静かに肩を上下させて呼吸する彼女は、何だか甘えん坊の可愛らしい女の子に見えた。柔らかい彼女の肢体が、胸が押し付けられている。
「どうしましょう……このビルがあの電車みたいにひっくり返ったら……生き埋めになっちゃいますっ!」
「ひっくり返りませんよ。流石に」
「そんなの分かりません……っ!あ!今さりげなくベッドから降りようとしましたよね?駄目です」
「はいはい」
何度も思っていることだが、鹿沼は誰に対してもこんな感じなのだろうか。危ないからやめたほうがいいと思うけどな。好いてもらえること自体はありがたいんだけれど……。
彼女と抱き合って眠った翌朝外を見ると、大嵐が過ぎ去って警報が解除されていた。透き通った青空と眩しい太陽が久方ぶりの出勤を果たし、天高く登ろうとふてぶてしく輝いていた。




