第3話 大雨の警報
スマートホンに映った時刻が十二時であることを認識した瞬間に全身の血の気が引いたわけだが、その瞬間から小さな違和感を覚えていた。この音は何だろう。何か、引いた血の気に優しく染み渡るみたいな音は一体。
そう思って窓の外を見ると、雨が降っていた。しとしとという音を立てて、ずっと雨が続いていた。こんな時に限ってどうしてと俺は思ったが、俺が寝坊した理由とこの雨は何の関係もないので雨からすればとんだとばっちりである。しかし雨さんよごめんだなんて考えている暇は一秒もない。
会社に謝罪の電話を入れた。今すぐに伺いますと伝えたが、俺はあまりにテンパり過ぎて誰にそれを伝えたかもう分からない。急いで着替えて、顔を洗って髪を整え、アパートを出た俺は傘をさして走り出る。
会社の最寄り駅に到着して電車を降りたが、雨は強まりつつあった。それでも人をかきわけ、水たまりを可能な限り避け、息を切らしながら走った。
昨夜は終電間際まで会社に残ったこともあり、監査の準備の程はそこそこだった。しかし準備を万全にしていたところで、会社に行かなかったら何一つ意味を成さない。込み上げる吐き気と、全身が弾け飛びそうな緊張と、早く寝ておけば良かったという悔恨を抱えて走り続ける。
そんなことを考えて街を歩き、あと十分ほど歩けば会社に着くと思った時だった。突如として、理不尽といえる程の雨と風が俺を直撃した。
歩くことができない。理不尽そのものが俺を陥れようとしている。先日会議に遅れた時の大雨も相当なものだったが、今回はその比にならないほどだった。凶暴にのたくる風は雨の勢いを更に強め、横殴りの大粒の雨粒が俺のスーツと頬を痛めつける。エアガンか何かで無数の弾丸を全身に浴びせられているかのようだ。一緒の方向に歩いていた人たちも動けなくなり、周囲の建物やビルに避難し始めた。
スマートホンのアラートが鳴った。大雨の警報が出たらしい。理不尽な雨風の勢いは増すばかりだ。結局それに屈した俺は会社に直行することを諦め、近くにあったビルに避難した。それは奇しくも、先日会議に遅れた時に避難した時と全く同じビルだった。
裏側がめくれ上がって金具がひしゃげた買ったばかりの傘を、可能な限り元の形に折り畳んでビルの自動ドアを潜る。耳の奥に雨が入って、一時的に聴覚が不完全になってしまった。コンビニでタオルを買わないと濡れた髪も上着も靴も鞄も拭けない。監査。遅刻。濡れている。寝坊。クビ。思考がめちゃくちゃになり、沸騰する感情を噛みしめさせられながら踵を返した。
「あっ」
「ひゃ!」
雨の警報の中、まさか行き来する人間などろくにいないだろう。そんな慢心があって、俺は前方をよく見ていなかった。結果、ビルを出ようとしたであろう女性にそこそこの勢いでぶつかったらしく、女性の悲鳴が暗いビルのエントランスに溶けた。
急な衝撃に視界の上下左右も分からなくなって、俺はそのまま倒れ込んだ。倒れ込んだのはビルの床のはずだが、痛みはまるで無い。まさか、俺は今の衝撃で死んでしまったのだろうか。昨日転んで膝を強打しても、死ななかったというのに。
暗い目の前に、大きくて、慈愛に満ちた柔らかいものが二つあること以外は何も分からない。饅頭型の大きなアイマスクでもしてるみたいだなと俺は思った。違う、そうじゃない。アイマスクをして寝ている場合じゃない。早くこの煩わしいアイマスクを外して、今ぶつかった女性に謝らないと。そう思った俺はアイマスクを掴んだ。
「ひぇ!」
「?」
「………んぅっ」
掴んでみると、すぐ傍で甘い声が聞こえたような気がした。まるで俺が先ほどの彼女を抱きしめているみたいじゃないか。そう思ったが、顔を上げると俺はその彼女の胸に顔を埋め、身体に覆いかぶさっていたことに気づいた。びしょ濡れだった俺に覆い被るようにされ、俺の全身が彼女の身体も服もシャツも全部濡れらしていた。
まさかと思って自分の手を見た。俺は彼女の胸を鷲掴みにしていた。流石に大きすぎないか……?豊満な胸、くびれた腰、大きなお尻なのがスーツの上からでも分かるほどであり、その様は目の前にあるのに眉唾に思うほどに豊かだ。掴んでるのをそのままゆさゆさと揺らしてみると、再び甘い声が聞こえた。本物だ……。コンビニに置いてあった雑誌の表紙を飾っていたアイドルすら、ここまで我儘な身体はしていなかった気がするが……。
「………すごく、大胆なんですね」
「えっ!?いや!違いますよ!?すいません!」
胸を鷲掴みにされた彼女は頬を真っ赤にしたまま、目を逸らした。そんなこと考えてる場合じゃなかった!ていうか完全にセクハラじゃん。何も違くない。そう思って俺は慌てて両手を離して立ち上がり、周囲を見渡す。周囲には女性が持っていた鞄の中身の書類やら何やらが放り出され、自動ドア前は悲惨なまでに煩雑としていた。
「すいません。すいません!」
「い、いえ……!?こちらこそ、ごめんなさいっ」
俺は謝りながら、彼女の書類を拾うのを手伝うことしかできなかった。雨と濡れたスーツと濡れた鞄と濡れた髪と濡れた床と濡れた書類と湿気と雨の匂いを憎みながら半ば濡れていく書類を拾い続けた。
彼女も俺に同調したように、慌てて辺りに落ちたものを拾い始める。どうして彼女が謝ってくるのだろうかと俺は思った。不注意だったのは俺なのに。そんなことを考えたが、ふとよく分からないものが書類と一緒に落ちていることに気がついた。
こんなものはさっきは落ちていなかったから、彼女が今落としたものなのだろう。
俺はそれを手に取ってみた。手のひらに収まって握れるサイズの、黒い、長方形の箱だった。こんなものはこれまでに見たことが無い。だけど、色々な場所で見てきたような気もした。見てきたような気もするのに、触っていいのかなこれと思う程度には、見ていて不信感と不快感を微かに腹の底を燻らせる何かがあった。
無理やり身近なものに例えるとしたら、少し小さくて太いリモコンとでも言い換えられるだろうか。それが既視感の正体だろう。手触りは滑らかで質感がいい。直感的に何らかの、高級な電子機器にあたるものということは理解できたが、ボタンらしきものは見当たらない。結局何なのか分からないそれを手に持ったまま立ち上がった。
「あの……!すいませんでした。大丈夫ですか!?」
そう言って急いで駆け寄ってきた彼女に気づいた俺は慌ててしまい、黒い箱のようなものは背後に隠し、書類だけを手渡した。そして改めて彼女と向かい合う。書類を受け取った彼女はそれを眺め、ほっとしたように息を吐き出す。
「あ、ありがとうございますっ。無くしたら、大変でした」
「いえ、本当にすいません。俺の不注意で」
「あの。……お怪我とか、してないですか?」
本社の監査当日に寝坊するという失態に加え、突然の大雨に、俺の心は打ち砕かれそうだとすら思っていた。だけど彼女を見た俺は、そんな気持ちを一瞬にして塵にしてしまうかのような衝撃を受けた。
申し訳なさそうな躊躇い顔で俺の目をじっと見つめてそう問いかけてきた彼女は、酷く美しい女性だった。
綺麗で真っ黒な髪をポニーテールで結い、リクルートスーツを着ている。堂々とした立ち姿は凛として立派なものだが、少し垂れ目で、整った眉も罪悪感を噛み締めるように垂れ下がっている。向かい合った印象は繊細で大人しく、少し臆病な印象にすら感じられる。しかしその瞳は、深海に差す一筋の日光のようにひときわ眩く輝いている。
年齢は俺とさして変わらないだろう。保育士志望と言われた方が違和感ないくらいに酷く優しい顔立ちに、穏やかな瞳。そして、誰が見ても清楚と表現するであろう風貌だった。後ろ姿を一見すると、街を見渡せばどこにでも無数に存在する、平凡で何の変哲もないOLのようでもあった。胸が大きいことを除けば……。隙だらけで、隙が無い。凛とした女性のはずなのに庇護欲を駆られるような、不思議な佇まいだった。
「俺は全然大丈夫ですよ」
「そうですか?良かったです……!」
「じゃあ俺はこれで」
「………あ、あの!」
「?」
「ぎゃ!」
「おおお!?」
美しい女性は俺を呼び止めて、去ろうとした俺に何かを言おうとした。しかし次の瞬間、彼女はびたーんと音を立てて顔から勢いよくすっ転んでしまった。
「大丈夫ですか!?」
「ご、ごめんなさい……」
彼女の傍に駆け寄って介抱すると、今にも泣きそうな顔で俺のことを見つめた。別に謝られることはないけど……。哀れな悲壮感が漂って、清楚なお嬢様の風格は一瞬にして台無しになってしまっていたのだった。
肩を貸して一緒に立ち上がると、何度も謝り、お礼を言われた。そして彼女は、気を取り直したようにしてこちらを真っ直ぐに見て言った。
「その。…………雨、すごく強いですね」
さっきぶつかった時彼女もそれなりに急いでいたようだったから、てっきりこれでこの会話は終了するものと思っていた。しかし彼女は俺を呼び止めて、その数秒で色々思案するかのように左右を目くばせしながら、最終的に何かを乞う小動物みたいな顔で俺をじっと見つめてそう訊ねてきた。
彼女の弱気な瞳に、俺は何故か魅入られてしまう。俺が何も答えられずにいると、彼女は耐えきれなくなったかのように、恥ずかしげにふいっと俺から目を逸らしてしまった。
「あ、すいません……確かに強いですよね。雨」
「嫌になっちゃいますよね……」
「はい」
「雨なんて、降らなければいいのに」
そう言った彼女は、驚くまいことかずぶ濡れの俺のすぐ隣に並ぶように立って外を見つめ始めた。憂いた瞳で外を見つめる彼女の口から紡がれた言葉は、ふとぽつりと湧いた感情を目の前に優しく置くようなものである気がした。
「雨、嫌いなんですか?」
と、訊いてみた。すると彼女は数秒、何と答えるか迷うように視線を泳がせてから再び前を見据えて言った。
「………こうやって屋内で眺めてるのは、好きなんですけど」
「素敵なことじゃないですか」
「へ?そんな」
深い意味などありはしないが、思ったことをそのまま返した。俺も雨に対して全く同じ気持ちを持っているからだ。
すると彼女は己の存在の全てを肯定されたかのように頬を赤らめ、垂れ下がった弱気な瞳のまま俯き、もじもじと両手の指を絡ませた。どうしてこんなに嬉しそうなのだろう。これまでに同じことを百度言い、百度否定されてきたとでもいうのだろうか。
「暗くて、程よくじめっとした空気も好きです」
「そうなんですか?変わってますね」
彼女は雨雲ですっかり暗くなった空を眺めてそう言った。俺はなるべく早急に会話を切り上げてびしょ濡れになった身体を拭きたかったので、なるべくそっけない態度で答えた。
「えへへ。暗くてじめじめした世界って……すごく素敵じゃないですか?すごく狭くて、何も無ければなお素敵なんですけど」
「はあ」
彼女はうっとりと微かに赤らんだ両頬に手を添えてそう言った。どうやら返答としては逆効果だったらしい。すっかり自分の世界に入り浸っているようだ。俺は一体何をしたら解放されるのだろうか。
それはそれとして、彼女が暗い場所のほうが好きな人間には見えなかった。儚く清楚な様は、図書館でたった一人お嬢様のように上品に、本でも読んで黄昏れている様子しか想像できない。
「そんな世界でいいんですか?夕暮れ、窓際で本でも読んでる姿のほうが似合ってる気がしますけど」
「嫌です。わたしは、狭くて暗い場所のほうが好きなんです」
「そんな場所で、どういうふうに過ごすんですか?」
「大好きな人を引きずりこんで、ずっとずっと抱き合って過ごすんですよ」
お互いにビルの外を眺めていたはずだったが、ふと気づいたら彼女はこちらをじっと見つめていた。
この時だけは、彼女の声色からも、瞳からも、気弱な雰囲気は完全に消え去っていた。それは楚々とした瞳だった。先程転んだ時に見せた哀れみのある空気感など、どこにも無くなっていることに気づいて俺は思わず息を呑んだ。
自信に満ちているという感じでも無いが、ただただ、人は空気を吸わないと窒息して死ぬみたいな、至極当たり前の事実を告げるみたいな目だった。
「アクティブなんですね」
彼女の人柄を大いに見誤っていた気がして、俺は彼女の目を見てそう言った。
「今だって、そうしたくてたまらないんです」
「そ、そうでしたか……」
なるほどと俺は思った。この人にも彼氏やら、旦那さんやらがいるのだろう。仮に、もし仮にそういった相手が今いないにしても、きっとこの子が結ばれるのは絵に描いたみたいなイケメンかハイスペック人間に違いない。
思わず溜息をつきたい気分だ。瞑目して、再びビルの外に視線を戻した。それに合わせるように、隣の彼女も外の大雨へ視線を戻していた。降りやむ気配などみじんも感じさせない、荒れ狂う空。渚は俺という人間との交際で満足してくれているのだろうかと、そう思ってしまう。
「そういえば」
「はい」
「ずっと、ずっと訊きたいと思ってたんですけど……」
「はい……」
ずっとずっとって何だ?と俺は思った。怪訝に思いながらも、彼女に目線を戻した。彼女は楚々とした目のまま外の大雨を見つめながら、ぽつりと小さな声で言った。
「好きな人とか、いるんですか?」
次の瞬間、ビルのエントランスが轟音に呑まれて光が散った。透明なガラスに大きく穴が開いたことに気づいたのは、砕け散る光が降り注ぐのを見た後だった。雷と、風と、雨と、ガラスの破片が荒れ吹きすさぶ中で、俺は自分の服も髪もほとんど乾きかけていたのだということに気づいた。
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吹きすさぶ風、空いた大穴から入り込んで床に叩きつけられる大雨の音がずっと響いていた。しかしそれを塗り替えるほどに怖いのは不穏で低く唸るような雷の音で、それも未だに続いている。
「ごめ、んなさい」
「………いえ、大丈夫ですよ」
「また、わたしなんかのために」
身体中のあちこちをガラスの破片やらなにやらで擦り剥いてしまったが、俺は名も知らぬ彼女を庇うことができたようだ。しかし結局二人とも、大雨に曝されて濡れてしまう。
またって何だ?と俺は一瞬思ったが、細かいことを気にしている余裕はない。心底心配そうに俺を見上げる彼女の頭を抱きかかえて守りながら、今も俺たちを襲い来る風と雨を少しでも凌ぐためにその場から移動した。
建物が破損したことによって非常用のセキュリティでも動いたのか、警報音がビル内に響き渡った。ビル奥の物陰に隠れて、彼女を椅子に腰降ろさせる。
「ごめんなさい……。わたしが呼び止めたりしなかったら、こんなふうに」
「大丈夫ですってば」
この手の警備員は早急に現場に到着するイメージだが、雨が雨なので来るのにてこずっているのか数分待っても来る気配は無い。仕方がないので俺は彼女と一緒にビル奥の狭いスペースで座っていた。
十五分くらい二人でそこにいた。雨は強くなるばかりで、止む気配は微塵も感じさせないままだ。時折、この世界が終わるみたいな雷の音が鳴り響く。二メートルくらい離れたところに座って静かに俯いている彼女は、不安そうな表情のまま黙りこくっていた。不安を軽減してあげたくて、雑談をしようと決意した。
「あの。時枝っていいます。お名前、訊いてもいいですか?」
そう質問すると、彼女は雷でガラスが飛び散ったときなんかよりも余程驚いたように輝く瞳を見開いてみせた。
信じられないものでも見たみたいな、そういう目だった。そして酷く憂いた顔でしばらく俯いて、握っていた手を更に力を強めて握りしめる。失敗したなと俺は思ったが、すぐにそれは杞憂だったと思い知らされる。
彼女は再び端正な顔を上げて、柔らかく微笑んでみせた。
「わたし、鹿沼です」
名前教えてくれた……。
安心していると、警備員らしきおじさんが「危険だからビルから出ないように」と俺たちに伝えにきた。言われなくてもこんな嵐で外に出る訳ないだろと俺は思ったが、とりあえず無言で頷きをひとつ見せてやるとおじさんはさっさとどこかへ行ってしまった。
ネットを見ると、記録的な嵐の話題で持ちきりだった。
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雑談をしていると、何故か落ち着いてきた。会社に行かなくても許されるような、そんな安心感を得ることができるのだ。目の前の女性、鹿沼はそんな雰囲気を放っていた。
至極どうでもいい、当たり障りのない内容を雑談の話題として提供していた。時折、鹿沼は困り眉でじっと俺を見つめた。気を悪くしていないか、注意深く顔色を伺うような心配そうな瞳だった。そんなに俺って怖い雰囲気かなと思った。悪い人に見えるかな、俺って。
しかしその間も、彼女の瞳は深海の奥から見える光みたいに輝いていた。きっと弱気で不安げなのも含めて彼女の人柄なのだろうと、とりあえずそう考えて自分を納得させることにした。
「昨日俺、エビフライ食べたんですよ」
「そうなんですかっ?美味しそうですね」
「はい……今日の為に力をつけようと思って好きなものを食べたんです。実は今日、大事な日だったんですよ」
鹿沼は何も言わないが、その先の言葉に興味があるのか座っている身体をこちらへ向けて真っ直ぐに俺を見つめてきた。ワクワクした顔をしている。俺が追い詰められている話がそんなに面白いか?そう思ったが、俺の追い詰められようなど彼女が知るはずもないのでどうしようもない。
「だけど、寝坊しちゃったんですよね。緊張しまくって寝れなくて、それで」
「そんなに緊張しなくていいと思いますよ」
「え?どうして?」
「だって……こんなにも時枝さんは、真っ直ぐで誠実ですから。わたしのことを、助けてくれましたし」
「そんなことないですよ。俺は考え込むくせに上手く言葉に出来なくて勘違いされるし、不器用で人に上手く頼れない」
「大丈夫です。自分の望みを素直に叫んだり、正直に自分の弱みを打ち明けたりできる人って少ないですから。少なくともわたしはそれを、素敵だと思います」
「すいません……くだらない話をしてしまいました」
「いいんです。誇張した面白い話も嫌いじゃないですけど、等身大のお話のほうが好きなので」
そう言って穏やかに笑ってくれた彼女は、何だか暖かかった。
まぁ確かに会ったばかりの人に自分の話をする人間はあまりいないだろうと俺は思った。不可避の雑談の足しに一瞬でもなってくれるなら別にいいけれど。俺が己の弱みを喋りに喋ってこの子の俺の中の株が最下層まで暴落したとしても、ここを出たらもうこの子に会うこともないだろうし……。名前を交換したとて、もう会わなければそんな知識も塵同然だ。
「あの……連絡先、交換しませんか?」
彼女の中で塵になるはずだった俺の弱みは、どうやら常駐化して残るらしい。
そう言った鹿沼は仕草的に少し迷っていたようだが、結果的に勇気を振り絞ったみたいな毅然とした目で俺のことをじっと見つめている。流石に俺は慌ててしまい、姿勢を三度くらい正した。
「そ、そんな!?駄目ですよ!俺の連絡先をどこかの国の怪しい機関に渡そうだなんて!」
「そんなことしませんよっ!?」
鹿沼は驚いた顔をした。俺の言葉に純粋にびっくりしたらしい。どうやら機関から送り込まれた怪しい刺客ではないようだ。
「助けてもらいましたし、こんなふうにしてしまったお礼もしたいんです」
「まだ出れるか分かんないですけどね……」
「お詫びもしてほしいですし」
「お詫び?」
「わたしの胸を触ったことと、書類と服がびしょ濡れになってしまったお詫び、です」
鹿沼は小さく舌を出してそう言った。
俺は連絡先を交換させられる羽目になった。記憶からすっぽ抜けていることに賭けていたが、彼女はしっかりと覚えていたらしい。別にいいんだけどさ。仕方がないのでスマートホンを近づけ合い、端末を振ることによって交換完了した。お詫びをしろと脅されている以上、また会わないわけにもいかないらしい。
一体どうしたものか考えていると、あろうことか次の瞬間、俺たちがいる場所の照明が消えた。自販機の明かりまで完全に真っ暗になってしまい、ほとんど視界が効かない事態である。鹿沼は怖がるかもしれない。
「うわー……停電しちゃいましたね……」
「………」
「少し、向こう行きません?あっちなら薄暗いけど真っ暗ってわけじゃないし、外の様子も分かりますし……」
「………」
そう問いかけてみたが、何の返答もない。彼女の顔は見えない。だけどどうしてかは分からないけれど、俺の声が聞こえていないとか、何も言えないという感じではないように感じた。この状況に対して何かを冷静に考えているみたいな、そういう沈黙であるような。
数秒の沈黙後、真っ直ぐな足音が聞こえた。それは足早に俺に近づいてきて、俺の身体に力強く抱きついてきた。
「おおおぉぉ!?」
「怖いんです……!すごく。何も見えないところは、怖くって……」
「わ……分かりました。じゃあ、掴まっててください。このまま一緒に向こうに」
「いいえ!」
「いいえ!?」
「う、動くのも怖いです!とにかく、怖いんです!」
「そうでしたか……それじゃあ」
俺はポケットに仕舞ったばかりのスマートホンを取り出そうとした。
「ライトはだめです!スマホ点けるのも!」
「何で!?」
「えっと、その……その一点の光から顔とか浮かび上がりそうで、怖いんです!」
「俺まで怖くなるんでやめてくれません!??」
暗くて狭い場所が好きとは一体何だったのか。俺は仕方がないので、鹿沼に身体に抱きつかれたまま椅子に上手く腰を下ろした。すると彼女は深く、更に深く俺の身体に抱きついて離さない。
密着し、大きな胸がこれでもかというほど押し付けられている。
「ずっと、こうしててください……!怖い……怖くて……」
「はあ」
「背中とか擦ってくれると安心できるかも、です」
「そうなんですか」
どうしようもないので、俺は注文が多い鹿沼の背中を擦った。真っ暗闇の中で鹿沼の、身体の感触と甘い香りがした。渚の、柑橘の背筋を正して前を見て進もうと思える誠実な匂いとは違った。甘ったるくて、後ろ向きで退廃的で、清楚な女の子が漂わせていい匂いじゃないと個人的に感じた。
……………………………………………………
今、何時なのだろうか。よく分からないけれど、多分夜だ。もうどこを見渡しても完全に真っ暗で、非常口の緑の明かり以外見えない。先ほど非常口から大勢の人が出て行った。恐らく警報が解除されたか、緩和されたのだろう。しかし、雨の音はずっと続いている。
鹿沼はずっと俺の胸の中に抱かれたままだ。時折、彼女は「怖い」とだけ俺に言った。その度に背中を擦っていたが、ずっとこうしていても埒が明かないだろう。
「鹿沼さん」
「………はひゃ?」
うとうとしていたのか、少し眠たそうな声だった。この事態に呑気なものだと一瞬思ったが、俺の緊張感の無さも大概といえるだろう。
「雨、弱まったみたいですよ」
「………はい」
「そろそろ行きましょう」
「そう、ですね。行きましょうか」
鹿沼は小さく、どこか物憂げにそう答えた。まるで、この場から離れるという選択に若干の不満が残るかのような言い方だった。
「ごめんなさい。わたし、我儘ばかり言ってしまって」
「仕方ないですよ。あれだけ暗かったんですから」
「ホラー映画にハマり過ぎたのが良くなかったかもしれません」
「どうしてそんなものに……」
会話をしながら、俺と鹿沼はビルの外に出た。ほんの僅かな雨こそ降ってはいるが気にならない程度で、空にはすっかり月が昇り明るい夜だった。しかし、これが日本の首都とは思えない光景だ。
「ひぇ!」
「大丈夫ですか」
「ごめんなさい………」
「気にしないで」
よく謝る女の子だなと俺は思った。視界が若干悪い夜闇、時々躓きそうになる鹿沼の手を自然に取って支えた。申し訳なさそうな顔をしながらも微かに頬を染める鹿沼に、俺は不覚にもドキリとしてしまう。
時間的に終電もまだ先のはずだが、雨の影響か半数以上のビルが稼働を停止して暗くなっている。人通りもほとんどない。恐らく雨が弱まっても、警報は解除されていないのだろう。そんな街の中を、どこへ行くともなく二人で歩いていた。
「経緯は、怖い上司と沢山話す羽目になって。わたし……震えてしまって」
「ふむふむ」
俺は葛木のことを思い出して、深く二度頷いた。分かるなぁと俺は思った。
「これじゃ駄目だって思ったんです。わたし、毒を制すのは毒だけだという考え方をしているので、とびきり怖いって話題になったホラーを観てきたんです」
「すごい考え方だ」
「そしたらすごく怖かったんですけど、お化けさんの想いに同情して、泣いてしまって……」
「あ、そっち!?」
「結局、求めていたのは愛だったんです」
「うん………」
「そしてその後も上司は怖いままでした」
「それは少し切ない」
鹿沼は活き活きとした顔で話をしていて、俺は彼女のそんな様子をじっと見ていた。すると、やがてはしたない様を見せてしまったと言わんばかりに鹿沼は顔を真っ赤にして押し黙り、俯いてしまった。聞いてるこちらとしては面白いけど、と俺は思った。




