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私は頑張るあなたの味方!  作者: #N/A
第三章 『深淵の満月』
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第2話 『探さないでください』

 立ち込める熱気に微かな笑い声。心を解きほぐされるような感覚に、思わず汗をかいていた全身の力も抜けていく。


 俺は鳴上と一緒に温泉施設へ来ていた。とはいっても、仕事帰りに鳴上に誘われ、半ば強制的に拉致されるようにして連れてこられたのだ。


 じんわりと労働で疲労を滲ませた肉体が、この憩いの場を一層楽しむことができそうだとワクワクを募らせる。平日にも関わらず人がそこそこ多いのを見る限り、きっとみんな同じだ。心と体に憩いを求めているに違いない。


 そんなことを考えながら、ロッカーに色々と詰め込んでペットボトルの水を購入し、準備を整えた。前を向くと、鳴上がこちらを見て陽気に笑っていた。とっくに準備を終えていた彼は筋骨隆々の逞しく大きな肉体を曝し、腰にタオルを巻いている。


「時枝殿。今日は身体の水分が全て蒸発するまで、湯の中で語り合おうではないか!」

「語らねえよ!?死んでんじゃんそれ」


 人体を甘く見てもらっては困る。少量の水分を失えば人間はあっけなく死ぬんだぞ。俺はそう思ったが、死という要素すら、この人間離れした男には調味料程度のスパイスにしかならないのかもしれないなとも思った。


 俺がそんなことを考えていると、鳴上は厳かな瞳を静かに瞑目した。そして決め台詞のつもりなのか、俺の耳元に口を寄せて普段より一層低い声で囁く。


「拙者らは愛さえあれば、決して干からびぬのでござるよ」

「なんか落ち着かないし怖いから、距離を詰めてこないでもらっていい?」

「恐れることはない。何故なら拙者らは、愛を与える側でござる。愛を与えて、生きる。そう、例え砂漠の真ん中でも───」


 砂漠の真ん中で一体何に愛を与える気なんだと思いながら、俺はドヤ顔で瞑目したまま決めポーズを取る鳴上を放置して洗い場に足を運んだ。鳴上は目を見開いて慌てたように俺についてくる。その辺ですっ転んだらいいのにと思った。昨日の俺みたいに。


 暖色系の、綺麗で広い場所だ。洗い場の脇にいくつかの浴槽がある。まさか職場の付近にこんなスポットがあるとは僥倖である。俺は空いたスペースで腰を下ろして、蛇口を捻ってシャワーを出した。そして備え付けられているボディソープとシャンプーを惜しみなく使って、苦しみも憂いも全て吹き飛ばすつもりで身体と髪を洗った。汚れを落とし終えてから奥にある出入口の扉を開き、屋外に構えられた天然温泉にゆっくりと腰を落として浸かった。


 俺に比べれば、何事においても鳴上のほうがよほどハイペースな男だった。だけどこの時ばかりは、そんな彼も瞑目して深く息を吐き出している。思わず頬がとろけているようだった。俺もそれを見習って全身の力を抜き、後ろの岩に身を預けた。身体中の力が抜けていく。重要な血肉まで一緒に抜けていくのではないかと怖くなるほど、疲れが押し出されるようにして湯に溶けていくのを感じていた。


 俺はふと、気になったことを鳴上に訊ねることにした。


「そういえば鳴上ってさ、休日は何して過ごしてるんだ?」

「今更過ぎるぞ、時枝殿。休日に何をしているかなど、貴殿は毎日のように見ているではないか」

「甘目まどか一択!?休日も!?」

「人生は一度しか与えられぬのだぞ。そしてそんな人生を甘目まどかに捧げる。漫画を読み、アニメを鑑賞し、ラノベを読み、イベントに参加し、グッズを買い漁り、最新情報を常に公式サイトで追い続けて最先端を走り抜ける。デュッフ♡ 息をつく暇などありはしないでござるぞォ~♡」

「そっか。結構過酷じゃない?」

「そう思うことももちろんあるでござる。しかし、そうやって甘目まどかと触れ合い、語り合い、分かり合う為に命を使うのも悪くないでござるよ」

「悟り開いてんな」


 温泉にしばらく浸かってから水分を補給し、俺はそのままサウナに入ることにした。


 身体中の老廃物が汗と共に一斉に流れ出してゆく。大量の汗が全身という全身から惜しみなく放出されてゆく。身体の芯から温まり、この温かさだけで今年の冬を越せそうなほど壮大な錯覚を起こした。


 サウナ室はかなり人が多く、人口密度の高さは言うまでもない。仮にこの場所がサウナじゃなかったとしても、室内であるというだけで籠った男臭い熱気をありありと鼻腔に捻じ込まれてしまいそうなほどだ。それくらい、このそんなに広くない空間の中には客が密集していた。


「甘目まどかの最新グッズの情報を聞いたか?時枝殿」

「………」

「等身大抱き枕でござるぞ、抱き枕。しかも、魔法少女衣装とパジャマ衣装と、水着衣装の三通りもあるのだ」

「………」

「拙者は一体、どれを選んだらいい────」

「………」

「一体、どれを選んだらいいというんだーーーーーッ!」

「うるせぇぇぞ!??会話厳禁って書いてあるのが見えねえのか?」


 そしてそんな中で鳴上が突然(一人で)激情に震え、雄たけびにも似た野太い叫び声を上げた。


 鳴上は恐らく趣味の話の継続で甘目まどかのグッズの話を出したのだろう。しかしこの男は、自分が出したその話題が自分にとってどれだけアツい話題なのかが自己分析できていないように感じた。だって話が進んでいくごとに目がどんどん怖くなっていくんだもん。話はこいつが勝手に進めていただけだけど。


 結局鳴上が叫んだせいで、瞬く間に室内のほぼ全ての客から目線を浴びる羽目になってしまった。色々な感情の眼差しを感じたけれど、半分くらいは「勘弁してくんねえかな……」みたいな切実な眼差しだった。俺はその場で切腹して室内の全員に詫びたい衝動に駆られた。だけど俺が切腹するのはおかしいから、この男に切腹させよう。そうしよう。


「ちなみにもちろん三種すべて、三つ購入するでござる。流石にそろそろ懐がピンチでござる」

「人の話を聞いてくれ」


 多分、今後の人生で二度とあるか分からないほどの視線を浴びている。


 周囲の白い目線にも、隣でこちらを見つめ熱く語ってくる鳴上の眼差しにも耐えられそうにもない。押し付けがましい希望に満ち満ちていて、それでいて暴走機関車が可愛く見えるくらいに暴れ散らかすような猛烈な本能を感じさせる瞳だ。俺とこの男のメンタルの在り方は全く別物であるとはっきり思い知らされた。


 俺はさっさと立ち上がり、サウナ室を出た。当然のように鳴上もついてくる。しかもよく考えてみれば、散々迷った感じで叫んでたのに結論出てんのかよと俺は思った。三種類三つ購入してどうするつもりなんだよ。俺を含めあの場に居た客たちは皆、心の中でそう突っ込んでいたに違いない。


 屋外に出ると、一変してひんやりと気持ちいい風が全身を撫でた。簡素なプラスチックのデッキチェアが二つ空いてるのを見つけて確保した。身体を横たえれば、視界に広がるのは満天の星空だ。


 今だったら少し雨が降ってきても、その雨を気持ちよく身体に受けられそうだと俺は思った。ああ、全身の血管が喜んでいる。血管さんが歓喜しているのがはっきりと伝わってくる。小一時間もせずにこの場所を出なければいけないという事実に、心底苛立ちを覚えるほど気持ちがいい。こうして整っていると、この瞬間のためなら来週も頑張れそうだと思える。


「疲れたようだな、時枝殿」

「………あんなに、気を張り詰めさせて頑張ったからな」


 そう答えて、ふと横を見た。すると鳴上はデッキチェアでその巨躯を横倒しにしてこちらへ前身を向けており、膝についた腕を枕にしてセクシーに腰をくねらせた鳴上が俺を見ていた。目が合うとその厳かな表情を一変させ、弾丸のようなウインクをしてきた。それはまるで、近所で巨大隕石や核ミサイルでも着弾したのかと思わされる程の轟音を感じさせてくるようなウインクだった。そんなウインクを見ていると、どうしてそんなに元気なのだろうと思わされざるを得なかった。


「物事はいずれ終わりが訪れるということでござるな。甘きも、酸いも同じでござる」

「ああ。ていうか何でお前はそんなにパワフルなんだ?パワフル過ぎるだろ。中間地点とか無いの?」


 願わくばずっとこうして、穏やかに落ち着いた時間を享受していたいものだが………。しかしそれを考えると寂しさと虚しさと、色々な感情がごちゃ混ぜになって俺を襲ってくるのでこの場では何も考えないことにしよう。


「何だかんだで一番安心したのは、俺のチームの皆が円満な形で今も残ってくれてることだよ」

「ふむ」

「自分だけ無事ってなっても、やっぱりどこか悲しくなるだろうし」

「時枝殿らしいでござるな。拙者は貴殿と知り合えただけでも幸運だと考えている。にも関わらずまさかこうして背中を流し合い、サウナの中で大声で共に愛を叫ぶ『ソウルメイト』にまでなれるとは……」

「俺は叫んでないけど?」

「拙者はどれほどまでに恵まれているというのか」

「俺は叫んでないってば」


 話が通じない鳴上を放置して俺は立ち上がった。鳴上は俺についてきた。水分をしっかりと補給して、何度かサウナに入って整うことを繰り返してから温泉を出た。その後はキンキンに冷えた牛乳を購入し、腰に手を当てながら飲んだ。


「牛乳って美味いな。あんまり飲まないから」

「うむ、拙者もでござる。牛の乳がこれほどの感動を呼ぶのだから、拙者らもひと頑張りで感動を作れるはずでござるな」

「たまにいいこと言うな」

「つまり、明日の夜の甘目まどかショーも気合が入るというものでござる」

「力の使い道そっちかい」

「………そうだッ!来週の夜からは、甘目まどかショーに時枝殿も出演できる栄誉を与えよう」

「出演しないよ?何で俺が望んでるみたいになってんだ」


 なんて天才的な閃きをしてしまったのだろうみたいな顔でこちらを見つめてそう言った鳴上を華麗に一蹴した。会計を済ませて、二人で温泉施設を出た。絶対にまた来よう。こいつを連れてくるかどうかはまた別の話だ……ていうか、望まなくても連れてこられそうだ。運命とやらがけしかけるお節介じみた悪戯は、込み入ったシチュエーションコメディが好きに違いないと俺は思った。


 星空の下には相変わらずひんやりとした風が吹いていた。風がサウナで火照りきった肌を冷たく、優しく撫でる。明日も仕事だなんて現実は、その一瞬だけは頭の中から風が吹き飛ばしてくれた。俺を優しく撫でてくれた風は、俺がお礼を言うまでもなく過ぎ去っていく。何だか、しこりのような哀愁が胸の中にぽつんと残ったような気がした。



 ……………………………………………………



 いよいよ、例の監査が始まる前日となった。


 俺は急いで監査の準備を進めていたのだが、どうにもおかしいと思うことがある。それはこれだけの大イベントを控えているにも関わらず、どうしてこんなにフロアが静かなのだろうか、ということだ。普段であれば監査の対応が控えている、となった瞬間、元々騒然としているフロア内が更に爆発的に慌ただしくなり、全員が総出で荒れ狂ったように準備をするのが通例のはずだ。


 しかし今回は普段の監査とは全く訳が違う。本社の社員による監査だ。これまでであれば有り得ない対応であることを踏まえれば、祭りのような状況になると踏んでいた。にもかかわらず、普段よりも静かであるとすらいえるこの状況は一体どういうことなのだろうか。


 しかも、普段そんなにコミュニケーションを取らない同僚たちが俺とすれ違いざまにやたら丁寧にあいさつをしてきた。戸惑いながら挨拶を返すが、そんなに余裕がある状況だろうか。考えても分からない。分からないが、とりあえず今自分に出来ることをしておこうと俺は思った。


 準備の量は膨大だ。普通にやってても終わらない。人手が欲しいと思い、俺はフロアを見渡した。すると、鉢を置いて育てているインゲンマメに水やりをしている後輩のユーマ(古谷)がいた。何で仕事中にインゲンマメに水をやっているんだと俺は思った。相変わらず飄々とした独特の存在感を放っているのでどこにいても彼であると分かりやすいが、その背中にはどこか切なさがある気がした。


 ユーマの背中に近寄ってみるが、何の反応も無い。自分の中でしびれが切れていくのを感じたので、声を掛けることにした。


「なぁ、ユーマ。そろそろこっちを手伝って欲しいんだけ、ど……」


 俺はそう言いかけて、思わず止まってしまった。ユーマが水をやっていたインゲンマメの葉が枯れ、ヨレついてしまっていたのだ。ユーマの青い瞳は相変わらずマイペースだが、その奥には深い悲しみが宿っていた。


「………ヒロさん」

「なに」


 哀しみの底から絞り出すような声で俺を読んだユーマは、ゆっくりと立ち上がって振り返った。端正な眉を顰め、苦々しく唇を引き絞るその様を俺は黙って見つめていた。


「心折れて挫けて……それでもなお、思いやりというのは世界を救えますか」

「思いやり好きだな」


 先日俺が説教したのが余程効いたらしく、ユーマの中で『思いやり』は人生の教訓となったらしい。お願いだから鉢植えのインゲンマメだけじゃなくて職場の俺たちにも思いやりを向けてくれないかなと俺は思った。その慈悲深いところは全然否定しないし良いことなんだけどさ。状況を考えるということを教育の過程でこの男に誰も教えなかったのか?


 ユーマは鉢を持ち上げて、慈しみと哀しみが混じった瞳で枯れた葉を優しく撫でた。そして目を瞑り、重たくひとつ息を吐いてからゆっくりと目を開く。その間もずっと、彼の目に映っているのはインゲンマメの葉だけだった。


「人生は出会いと別れの繰り返し……。何度繰り返そうとも、別れというのは辛いものです」

「まぁ、そうだよね。だけど、そんなに沢山の植物とかを育ててきたの?」

「いえ、これが初めてです」

「初めてなのかよ」


 枯れた葉を見つめていたユーマだったが、やがて何かを思い至ったかのように目を見開いた。そして僅かな希望を見出し、それに弱弱しくも手を伸ばすような瞳で俺を見た。


「自分の代わりに強く生きてと、この子が僕に言ってきている気がする」

「そう感じるならそうかもしれないな」


 そう返してやると、ユーマは再びしゃがみこんで鉢を窓際に置き、枯れたインゲンマメの葉を見つめ出した。俺はそんなユーマを放置し、フロアを出て食堂に入った。そして自販機で冷たい缶コーヒーを購入し、ゆっくりと飲んだ。何だかもう俺まで面倒臭くなってきた。来月あたりから長期の休暇をもらい、思い切った旅をしたい気分だ。砂以外何も無い広大な土地を、黙々と一人歩くような旅を。


 一息ついてから、再びフロアに戻った。当然、殺伐感が普段以上に増した光景は何一つ変わっていなかった。書類をまとめ、社内システムAIの整備をし、これまで処理してきた内容で不備が無いかを静かに一件一件確認していく。


 次の一件、修正要。その次も、修正要。修正要。ざっくりと先の内容に目を通すが、全部修正が必要だ。つまり、これだけの数を平然と誤った処理をしている人間が俺のチーム内にいるということに他ならない。俺は書類を処理しようという意思を持つ人間がチーム内にいることに感激の涙を流した。そしてこれを処理してくれたのは一体誰なのかな。俺は処理者の名前をチェックした。


「ヒロさん。どうでしょうか。それなりの受注件数になったものでしょう。葛西さんの占い……あれはもしや、『予言』だったということでしょうか」

「一平さん?提出してもらった二百枚近くの承認書、全部違うので直してもらっていいですか」


 ちょうど張本人が後ろを通りかかり俺に声を掛けてきた。一平(石田)はてかてかと輝く笑顔の彼は俺と目が合うと、眉間にいぶし銀めいたダンディな皴をわざとらしく寄せてみせた。それを見て、いいからさっさと直してくれと俺は思った。何の根拠もない笑顔。何の根拠もない眉間の皴。それが形作る彼という存在は、業腹だが強い。


 しかしこうして見ると、わざとなのではないかと思うほど不備が多いなと俺は思った。かといって記述された内容からは熱意を感じるので、芸術めいたものすら感じてしまう。


「もしかしてその手にお持ちのものは」

「はい、新規の承認書です。ヒロさん。どうぞよろしくお願い致します」


 嫌な予感が大いにして、俺はそれを受け取って中身を軽くチェックした。枚数としては百枚近くあるが、先頭の五枚の時点で全部不備だ。この時点で俺は今日、二十三時まで帰れないことが確定した。俺は海老とか食べたいなとふと思った。全部忘れた振りをして定時で会社を出て、大きくて身が沢山入った美味しい海老が食べたい。


「監査の準備を先にしてほしいので、一平さんはこの後のスケジュールを変更して、これらを修正してもらえませんか」

「これはこれは。もしや、一大事なのですか?そのような態度、ヒロさんらしくもありませんよ」


 一平は笑顔のまま全てを悟り切ったかのような口調で、優しく、貫録のある口調でそう言い切って腕を組んでみせた。ここまで貫録を感じさせる人物もそういない。にこにこ笑顔で俺の仕事を量産することさえなければきっと俺はこの人を尊敬していたに違いないと思った。そしてふと、一平はどんな人生を歩んできた人なんだろうと気になった。今度聞いてみようかな。


「下手をするとクビになりますよ。本当に」

「またご冗談を。ヒロさんは冗談が得意だ。ハハハハ」


 本当のことを伝えただけの話だが、一平はてかてか笑顔のまま笑ってみせた。俺は一平に対して怒りに満ちた説教をかましてから再び自分のパソコンに向き合い、黙々とチェックを続けていた。しかし、ずっとパソコンに向き合っていたら疲れてしまった。こんなペースで続けていたらもつ体力ももたない。


 突然切羽詰まった、悲鳴にも似た声が聞こえて俺は席を立った。声の方向へ向かうと、切羽詰まって書類の修正をしている花(伊藤)と樹(川村)がいた。花は今にも金切り声を上げて叫び、フロア内を駆け回るのではないかと思うほどに頬を歪め、滂沱と汗を流し、強盗に入られた店番のように怯え切り、切羽詰まった顔をして忙しくキーボードを叩いていた。花の周辺は、タイムリミットが差し迫った爆破装置設置場所のように緊迫しているのをありありと感じさせる。


 普段暇さえあればすぐにわざわざ俺のところにやってきて、面と向かって嫌味を言いに来る花。しかしそんな彼女は、本社から監査官が来ると聞いた瞬間にこの調子である。樹も同じような感じだ。ピッピと楽しく電話をする時間などありはしなかった。もっとも、樹は花よりかは丁寧にこなしてくれるので修正は少ないようだ。その分遅いけれど。


「修正、終わりそうですか?」

「話しかけないでちょうだい!会話なんてしてたら今日中に終わらないわ!定時に終わるかもわからないわよ!もう!」

「すいません」


 俺よりも真面目に仕事をしているのではないかと思うほど緊迫した返答が返ってきたので俺が謝ると、花はガタリと立ち上がって俺と面と向き合った。端正な顔立ちを心底苛立ちに歪めて、壁際に追い詰められた得物が悪あがきをするかのような焦燥に満ちた目で俺を睨みつける。


「あなた……本当に状況分かってるの?到底、今の状況を正しく理解している人間の顔には見えないわ。相変わらず呑気なものね?おめでたいわね?羨ましく思っちゃうわ」

「分かってはいるんですけど、あんまり慌てても仕方ないと思うタイプの人間でして……」

「本社からわざわざ監査官を寄越すなんて今まで聞いたことないわよ。どうして急にこんな心臓に悪い仕打ちに遭わされなくちゃいけないのかしら。あそこにいる人たちは、全くもって私たちとは違うのよ」

「はい」


 緊張していないわけじゃない。なんなら恐らく、俺は人よりも緊張しているだろう。胃が軋むような感覚がずっと続いているし、汗が止まらないし、手足が震えている。それが表に出にくい人間というだけの話だ。気を張っていないと膝が笑い、声も掠れるが、そういったところも自己制御してしまうのである。なんならもっと、分かりやすいオーバーリアクションできる人間に生まれたかったと思う。


 花は蟻の巣の中を覗き込むかのように目を細めて俺をじっと睨みつけていたが、やがて振り返ってデスクに向き直り、猛スピードで修正を再開した。俺に構っている暇はないと判断したらしい。それにしても元々彼女はそういった書類の作成部署にいたわけで、そのスピードも精度も俺とは比にならないほど高いのが後ろから見て取れた。一平さんの書類の修正も後で手伝ってもらおう。壮絶なくらい文句言われそうだけど。


 昼食を食べようと思い食堂に入った。とはいっても時刻は十六時になろうとしている。見渡してみると、ワクワクした表情で親子丼に大量のマヨネーズを掛けている桃(葛西)がいた。桃は楽しげで滑稽な鼻歌を歌い、円を描くようにしてマヨネーズを大量に絞り出している。それを正面から見ていた俺は親子丼を作ったスタッフの人の気持ちを思い、少し苦々しい気持ちになった。


 桃は俺に気づくと可愛らしい顔立ちを一層深めるような笑みを作って、「ヒロ君こっちこっち」と狂ったメーターみたいな勢いでぶんぶん手を振ってきた。俺はマヨネーズがこんもりと山になった、かつて親子丼だった何かから半ば目を離せないまま桃の隣に座った。すると桃はサバサバした顔つきに戻り、俺に向かって得意げに笑ってみせた。


「そんなにマヨネーズ好きでしたっけ」

「好き好きい。ん。マヨネーズしか勝たん」

「そうでしたか」

「ウチが死んだらさあ、マヨネーズ棺桶に入れて欲しい。棺桶にマヨネーズ入れてもらえないとかマジ有り得ないからあ」

「すごいこだわりようだ」

「誕プレも毎年マヨネーズじゃなかったら死刑っしょ」

「そこまで!?」


 食べながらそう主張する桃。その間の彼女の表情を俺は見ていたが至って真顔であり、ふざけている様子などみじんも感じられない。埋もれたいほどマヨネーズが好きな人間というのは、世の中に一定数存在していると聞いていた。しかしまさか、こんな身近にいたとは思いもしなかった。ていうか誕プレくらいもうちょっとそれっぽいものにしとけよと俺は思った。


 結局、そんな桃を見ていたらお腹が空いてしまった。厨房へ足を運び、親子丼と豚汁と白菜の漬物が乗ったおぼんを受け取って再び着席して食事を摂った。ちなみにマヨネーズは掛けていない。桃がお節介を焼くお母さんみたいな顔で「マヨどうぞお」と言ってマヨネーズを差し出してきたが、お腹の調子がちょっとと言って断った。胃が軋んでいること自体は事実なのが何とも皮肉なところだった。


 桃はあっという間にマヨネーズに埋もれた親子丼を食べ終えた。躍動感を感じさせるイキイキとした笑顔で敬礼ポーズをした彼女は俺に「じゃねえ」と言ってウインクを残し、綺麗なロングヘアを靡かせながら走り去っていった。食後になんというバイタリティの発揮のしようだろうか。


 そしてああ見えて恐らく、一番監査の準備を真面目にしてくれているのは桃だ。


『こんな、時間の無駄な話をするために私たちを集めたんですか?』


 全員揃って追い詰められていたあのとき、浮ついた空気になった会議で桃がそう発した。あれは紛れもなく鶴の一声だった。あのときから俺は彼女を尊敬しているし、二面性のようなものを怖いとも思っている。その二つの気持ちが、複雑に絡まって濁ったものが胸に沈殿していた。


 もしや彼女のバイタリティはマヨネーズから来ているのだろうか、と俺は数秒考えて思った。俺も真似してみようと考えて親子丼に少しマヨネーズを掛けてみたが、食べてすぐに後悔した。少なくとも俺には合わない。


 食事を摂って再びパソコンに向かうが、結局半月以上過去の内容をまたいでチェックする必要が出てきたため俺は資料室に向かった。資料室の古ぼけた重たい扉をガラガラと開くと、そこには絶望するかのように口を抑えて蹲るあすか(奥山)と、慌てふためいて身振り手振り大仰に何かをあすかに弁明するシュン(北沢)がいた。


「シュンさん……どうしてあすかを虐めてるんですか」

「俺が虐めてる前提!?勘弁してくださいよ」

「そうにしか見えないんですよ」

「まさかの外見判断!」


 シュンはさっきの花とは違ったベクトルで切羽詰まった様子で勢いよく俺にツッコんだ。蹲るあすかに目線を移すとウェーブがかったセミロングの髪が床に垂れてしまうほど身体を縮こまらせて震えており、顔は青ざめ、膝が笑っていた。まぁまずこのまま放ってはおけない状況だと俺は思った。


「大丈夫?何かあったの」

「ヒロ、さん……オエ”」

「うん。肩貸すから、少し休んでこようか」


 俺はあすかに肩を貸して、別階にある救護室に彼女を送り届けた。彼女は俺に肩を貸りながら何度か喋ろうとして嗚咽していた。恐らくこの状況を謝りたかったのだろうが、それは結局実現しなかった。俺はその度に大丈夫とだけ返した。資料室に戻るとシュンが俺を待っていた。シュンは見るからにバツが悪そうな顔で刈り上げたもみあげを掻き、眼鏡の位置を直した。


「実は、本社から監査官が来るって話がパッとしないって相談されて。桃に訊いても、うやむやにしか教えてくれないからっていうんですよ。それで仕方ないから俺から説明したらああなってしまって」

「あー。そうだったんですね」

「あいつ最初から、本社には強烈な苦手意識があったみたいなんですよ。俺としたことが余計なことしちまいましたね………」


 本社と支社の関係性、今回の監査が異例であることなど。俺からは本当に軽くしか説明していなかったが、シュンは結構詳しく説明してくれたらしく、それを理解したあすかはあまりの緊張と不安に押しつぶされてしまったらしい。


 何とも不憫な役回りだ。思わず同情してしまう。あすかの気持ちも当然分からなくはないしさっきの光景はシュンがあすかを虐めていたふうにしか見えなかったが、そんな状況に後輩の女の子を陥れてしまったシュンの気持ちにも寄り添わなくてはならないと俺は思った。それが何だかいつだかのことで、身に覚えのある気持ちだったから。


「もとはと言えば俺が詳しく説明しなくちゃいけなかったので。むしろこちらが申し訳ないです」

「いえいえ。そろそろ俺は戻って準備を再開します」

「そういえば、腰の怪我とか大丈夫なんでしたっけ」

「先週治ったって言ったじゃないですか!何回言わせるんですか!」

「あぁ。はは」


 何だか心配になってしまい、何度も訊いてしまう。シュンは先輩のはずなのだが、そんな放っておけないような雰囲気があった。笑っている俺のことを彼は怜悧な瞳を細めて見ていたが、疲れ切ったかのように肩で息を吐きながら資料室を出て行った。その背中が消えたのを見て、俺もそろそろしっかりやらないと、と思った。



 ……………………………………………………



 ちょっと想像してなかったな。この事態は流石に想定していなかったというか、想像しようもない。星の巡り合わせが悪すぎた。


 俺は先日の雨の日、会議の議事録を受け取っていなかったことをふと思い出した。管理室に足を運んだが、葛木は出張で不在だった。そのデスクに俺の分と思わしき議事録が置いてあったのでそれを受け取り、管理室を後にした。


 デスクについて缶コーヒーを飲みながら優雅に議事録を眺めていたのだが、思わず手に持っていた缶を落としそうになった。参加していたのは俺の同僚たち。葛木と鳴上は不在だったようだが……。



 うちの支社の不振は、不安定な状況にある時枝率いるチームに原因があるという内容で可決されていたらしい。



 当の俺はその会議に参加できなかったので、誰一人として反論することなく可決したのだろう。その光景が目に浮かぶようだった。つまり、あろうことか、今回の監査で本社の社員がチェックしに来るのは九割五分くらい『俺の業務ぶり』であるということだ。残りの四分が俺のチームメンバー。他の皆はおまけみたいなものだ。


 今朝出社した時、同僚たちがやたら丁寧に挨拶してきたのってそういうこと?


 葛木が、呆然としている俺を見てケラケラ笑う声が聞こえるような気がした。あの男はこれを知っておきながら、わざと言わなかったということなのだろう。ほとんどピンポイントみたいな仕打ちに腹が立つが、さっさと教えてくれなかった葛木にも腹が立った。葛木は何もかも全て徹底的に把握しておきたい男なので、『知らなかった』は断じて有り得ない。どこまでも性格の悪い男である。


 まさかこんなことがあるなんて。ユーマや一平はともかくとして、桃やシュン、花は懸命に準備してくれていたというのに。



 ……………………………………………………



 俺は何もかもどうでも良くなって準備を諦め、定時で悠々と会社を出た。一人、ふらりと夜の街並みに違和感なく溶け込んでいる老舗の定食屋で海老フライとキャベツのサラダと味噌汁とご飯を注文し、大きな海老フライに食いついた。サクサクとした衣に、活きの良いプリプリの身が歯ごたえ抜群である。


 これが最後の晩餐の可能性が大いに有り得た。


 監査がいつまで続くか知らないけれど、終わったら『探さないでください』と書き置きして旅に出よう。そんなことを考えていたが、結局心配が勝った。食事を終えたあとすぐに職場に戻り、終電の時間まで準備を続けてしまった。終電に乗って帰った後は風呂に入って歯を磨いて布団に入ったが、どうしても落ち着かなくて眠れず、靴を磨き、BGMに甘目まどかのロック風アニメソングを流しながら念入りに風呂とキッチンとトイレを掃除して、換気扇のファンの埃を拭きとった。その後布団に入ると睡魔が瞬く間に襲い、泥のように眠った。




 翌朝目が覚めたと思い、時間を見たら昼の十二時だった。



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