第1話 イチゴがたっぷりのフラペチーノ
薄暗い空間の中で聞こえているのは、目を閉じて耳を澄ませなければ聞こえない程小さく鳴り響くピアノの音だった。外したイヤホンから流れる音楽みたいな音量で、ピアノの演奏が耳に届いている。
先日ネット通販で購入した三千円くらいの黒い腕時計で時刻を確認すると、今ちょうど十七時になったところだ。なのでこの音楽は、きっとどこかのテナントで流される定刻か何かを知らせる合図なのだろうと俺は思った。
俺は駅前のビルのエントランスに設置されているソファの横に立っていた。コンビニで購入した傘を脇に置き、びしょ濡れのスーツと鞄をタオルで拭きながら。
いつも通りに取引先に足を運び、職場に戻ろうと街を歩いていた。その矢先、バケツをひっくり返したみたいなどしゃぶりの雨が降った。髪や頬が濡れるのを感じながら、鞄に入れるのも面倒くさくて家に置いてきた折りたたみ傘のことを思い出した。そして天気予報なんて当てになりはしないなと溜息を吐いた。
溜息もそこそこに、俺は速やかに近くのコンビニに入って大きめの傘を購入し、傘をさして再びどしゃぶりの雨の街を歩いた。職場に戻った後はすぐに会議に参加しなくてはならなかったので、立ち止まっている余裕は無かったからだ。しかし雨は持ち手が誰もいない最高水圧のシャワーノズルが暴れまわるみたいにして俺の全身を横から殴った。
傘をさして外に出てから、全身ずぶ濡れになるまで五分とかかっただろうか。中の書類が濡れても困ると思い、俺は途中のビルに一時的に避難することにした。しかし結局今の五分で中に入っている大切な書類も半分くらい濡れてしまった。
俺は靴とズボンの中にまで入りこんだ水を出入口横の排水溝に流し、ビルの中で身体と鞄を拭いていた。傘などという小細工は、自然の力の前に何の役にも立たないのだと俺は思った。そしてそんなことを考えながら身体を拭き終えると、ピアノの音楽がふと聞こえたのだ。腕時計を見たら十七時。ちょうど会議が始まる時間だった。また葛木に怒られてしまう。
葛木にメールすると三十秒くらいで返信が返ってきた。『次の会議は出ろ』とだけ書いてあった。たった一文だけだったが、その一文から途方もない怒気を感じたので、俺は外に出て屋根がある出入口の下で冷たい風を浴びながら、雨に打ち付けられる建物やコンクリートの道路を眺めた。コンクリートの粗目を絶え間なく流れ続ける水を眺めているうちに何もしたくなくなったので、しばらくそこで目を瞑っていた。
落ち着いたら落ち着いたで寒くて仕方なくなって、俺は雨が弱まったのを見計らって外に出た。小走りで職場に戻る間、濡れたスーツや靴下の感覚が気持ち悪すぎて終始叫びたいような衝動に駆られていた。しかし警察のお縄になりたくないので叫びはしなかった。
……………………………………………………
会社前まで辿り着いた頃には定刻間際だった。出席できなかった会議の議事録を受け取らなければならない。俺は気は進まないながらも管理室へ足を運んだ。何で定時をもう過ぎたのにこんなところに来なくてはいけないんだと俺は思った。苦手なんだよここ。室温も湿度も他の部屋と変わらないはずなのに、ここだけいつもひんやりしてるし。
俺は諦めて、管理室の扉をノックして入室した。室内は至ってシンプルだ。広さは十六畳くらいで、白い壁に白い床、明かりがひとつだけ付いていて常に少し薄暗い、綺麗でも汚くもない空間。少し進むと三台ほど置かれたデスクがあり、一番奥の窓の前に統括席がある。
やはりここは相変わらずの雰囲気で、無条件で腹の奥に込み上げる真っ赤な緊迫感の中、会議に参加できなかった俺に対して葛木による大激怒がお出迎え──しなかった。
統括席に座った葛木は、今にも崩れ落ちて眠ってしまいそうなほど退屈そうに目を細めて足を組み、デスク横に設置されたソファに深々と腰掛け、テレビを見ながらポテトチップスを食べていた。そして入室した俺に気づいてこちらへ顔を向けると、ニヤリと笑ってみせる。
「何サボってるんですか」
「仕事なんて、やることちゃんとやってりゃ適当でいいんだよ」
テレビの野球中継に視線を戻した葛木は、重ねて口に放り込んだポテトチップスを咀嚼しながら答えた。俺は呆れて目を瞑り、黙る以外にできることはない。そんな態度を取っていると葛木は再び顔を上げ、俺の顔を見た。そして元々ニヤニヤと笑っていた頬を更に吊り上げる。
「時枝……。お前疲れすぎだろ。顔に疲れたってデカく書いてあるぞ」
「疲れましたよ。雨にも降られて本当に大変でした。……まさか、今から追加の仕事っていうんじゃないですよね?」
「違ぇよ。それが用件のことも確かにあるが今日は違ぇ」
「何ですか」
そう訊ねたが、もったいぶった葛木は頬を吊り上げたまま頬杖をついて無言で俺を見つめていた。帰りたかったので俺はそのまま管理室から出ようとしたが、葛木が慌てたように止めた。
「言うから待てって。……来週から、本社から監査官が来るんだ。よろしくな」
「監査官……え!?来週からですか?いきなり?」
「あぁ。頼んだぞ」
俺は言われたことを受け入れられなかった。流石に急すぎると俺は思った。
「しかも、本社から?本社から来るって言いました?」
「そうだ」
葛木はそうだけど何?みたいなきょとんとした顔で俺の瞳を覗いた。その顔をされると、あたかも俺がおかしいのかと思わされるから困る。もうちょっとこちらの心情を考えて説明してもらうのは難しいのだろうか。
監査とは要は、君たちきちんと働いているんでしょうね?というのをチェックしに来る、あれである。抜き打ちテストを課されるようなイメージと捉えれば良いだろうか。
葛木はその場で放心している俺のことなど意に介さず、テレビを消して荷物をまとめた。そしてニカっとした爽やかな笑顔で「じゃあな」と言うと、さっさと管理室を出て帰ってしまった。俺はたった一人になった。突然、この地球に自分ひとりだけが生き残ってしまったかのようなずしんとした静けさが俺を襲うのを感じていた。
経験が無いわけではない。ここで問題なのは、来るのが本社の社員ということだ。はっきり言って、そんなことは前代未聞である。
本社とうちらのような支社では、断絶されていると言っても過言でないほどの力量差が存在する。毎月、毎年のように通達される各支社毎の業績から判断しても明らかだ。
言ってしまえば、平社員一人一人が各支社の一位の数字を出せるという本物の精鋭集団である。しかも監査官ということは、俺や鳴上と同格の役職が来ることになるだろう。
つまり急遽、俺達が大ピンチになったということだけは間違いない。学校の抜き打ちテストで不合格なら補習が増えるのと同じように、「適当に働いてるな貴様ら」と彼らに判断されてしまえば、執刀医から要らぬメスを入れられる事態になる。それだけは避けねば……。
俺は数分の間、孤独な管理室で息をのみ、冷や汗を垂らしながら立ち尽くしていたのだった。ちなみに議事録を受け取るのを忘れていたことに気が付いたのは、その監査が始まる前日の夕方のことである。
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会社を出て、二十時の夜の駅前を歩いている。アスファルトが雨で濡れた匂いがずっとしていた。ずっと心臓が落ち着きの無い鼓動を繰り返している気がする。突然あんな事実を突きつけられればそうだろうと俺は考え直すことにした。
「ヒロ、見て。スタバで新作出たんだって」
「そうなの」
待ち合わせして合流し、先を歩いていた渚がふとこちらを振り返った。
渚は相も変わらず、世界の目を引くような女だ。柔らかなボブの茶髪、相対した者を真っ直ぐに射抜く大きな瞳、端正な顔立ち、楽しそうな笑顔。真っ黒のフードパーカーに真っ黒のミニスカート、真っ黒のタイツに真っ黒のスニーカー。
恰好の癖の強さは相変わらずのものだが、俺は意識的に注意していなければ、何分でも何時間でも彼女のことを見つめてしまう。見つめることができてしまう。見つめていたい。ずっとずっと、彼女のことを見ていたい。嘘だ。俺の視線は、自然に彼女に吸い込まれていってしまう。
それほどに息を苦しくさせ、胸を弾ませる何かを彼女は持っている。そして周囲もそれに気づくのか、通りすがりの人間はひっきりなしに渚を見てゆく。魅入られて見つめてしまう者。思わず、といったふうに見てしまう者。怪しさすら覚えて目を逸らす者まで様々だ。
「行こうよー」
「うん」
渚が見せてきたスマートホンの画面には、美味しそうなフラペチーノの写真が映し出されていた。
「珍しいな。渚がスタバだなんて」
「は?何?陰キャはスタバ行くなって?〇すよ?」
「言ってないよ!?」
あっけらかんとした顔で発された問い。ただ真っ直ぐに俺のことだけを見つめて発された問いだった。もちろんそれを、俺は咄嗟に否定した。その否定に対して、渚は表情を微動だにしない。ただお姫様のようにどこまでも端正な顔立ちで、あっけらかんとした真っ直ぐな瞳で俺を射抜いてくるだけだった。
そんな彼女を見ていて時折、不意にその頭を撫でたくなる。しかし流石にいきなりそんなことをすると引かれてしまうだろうと思うので、それはできないのだ。
「そろそろ甘酸っぱいもの飲まないと戦闘不能になっちゃうからさー」
「まぁ分かるよ」
渚は定期券を改札でかざすくらい当たり前のことをする顔で、俺に手を差し出した。俺がその手を取って握ると、渚は前を向いて歩き出す。
前を歩く渚に繋いだ手を引かれるがまま、俺はスタバを目指して歩いていた。駅前を出て、人でごった返した夜の都会の街。一時は溢れんばかりの雨の洗礼を受けた街も、今となっては知らん顔でどこへとなく先を往く人々を受け入れている。
渚と交際を始めてからそれなりに時間は経ったように思う。しかし一緒に街を歩くとなれば今でも、必ず渚は俺に手を差し伸べてくる。というか半ば強引に手を取られてしまう。
「ちなみに私スタバ行ったことないよ?」
「無いの!?今明らかに私常連だからみたいな雰囲気出してたよね!?」
「細かいことは気にしない方がいいでしょ?私ね、イケてるスタバガールになるのが夢だから」
「何スタバガールって」
「一人でお店に入って、静かに、クールにコーヒーを飲みながら、パソコンを開いて意識高く、なにかするの。なにか」
「何するかは決まってないのね」
「何するか考えながらコーヒー飲むんだよ」
「それもまた面白そうだね」
そんな会話を繰り広げていると、気づいた時にはスタバに到着していた。俺は渚と前後を入れ替わって店内に入った。スタバは平日の夜にも関わらずそこそこ人が居て、静かな賑わいを見せていた。テーブル席は全てほとんど埋まっている。
レジ前に並んで待機していると、あっという間に自分たちの後ろにもお客さんが訪れて並び出した。前を見ても後ろを見ても、どこを見ても人、人、人。周囲を見渡した渚が微かに眉を垂れ下げたのを見て、フラペチーノを購入した後はすぐに渚を連れて店外に出た。俺も渚も人混みが苦手だからだ。
俺も渚も、手に持っているのはイチゴがたっぷりのフラペチーノだ。ちなみにこれは当初狙っていた新作ではない商品だが、渚が掲示されているメニューを見て「これがいい!」と目を輝かせた一品である。
スタバの駐車場の脇には公益法人によって綺麗に装飾された大木があり、舗装された地面から先にはもう使われていない噴水があった。その周囲にはちらほらと人がいた。
俺は大木の傍でひとまず息をつくことにした。隣にいる渚がいただきまーす、と軽い口調で言ってフラペチーノを一口吸った。俺もそれに合わせてフラペチーノを堪能する。渚は感動を露わにするように唸って瞑目し、手で頬を抑えた。
「何これ!すっごく美味しいね」
「甘ぁ……。めちゃくちゃ美味いけどこれ、歯に染みるな」
「思い出させないでくれない?私も今必死に堪えてたんだけど?」
「あ、そっちも!?ごめんね!?」
美味しいことには本当に美味しいのだが、あまりの甘さと冷たさに知覚過敏を起こしてしまった。それを正直に告白すると、渚は俺のことを目を細めてじっと見ていた。お目当ての商品だけが品切れている商品棚を見るみたいな目だった。つまり、同じ苦境に立たされていた真っ最中だったということだ。頬を抑えていたのは、歯が痛かったかららしい。
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フラペチーノを飲みながら、街灯に静かに照らされた大木を見上げたり噴水の傍の街灯を眺めたりしていた。そしてふと、隣でストローを吸う渚と目が合った。
目が合ったことを機に、お互いにフラペチーノを飲みながらじっと見つめ合う。渚は、表情も変えることなくじっとこちらを見つめてくる。真っ直ぐな瞳は、まるでこちらの内面の深いところを探ってこようとするかのようだった。
目を逸らすと、存在を主張するかのようにストローに口をつけた渚が視界に割り込んできた。そんな渚の鼻を人差し指で軽く突くと、彼女はぷいっと向こうへ顔を逸らしてしまった。
そんなふうにして二人で大木の前で横に並び、黙々とフラペチーノを飲んでいた。結構な量のイチゴが入っている印象を受けた。ぶつぶつとした食感のイチゴを、恐らく二週間分くらいは堪能したに違いない。渚も同じタイミングで飲み干したらしく、彼女は再び俺に手を伸ばした。その手を取ろうとすると、渚は手を避けて首を横に振った。
「捨ててきてあげるー」
「あ、本当に?ありがとう」
俺は感謝を伝えて空になった容器を渡した。すると、それを受け取った渚は事件を解決して後の現場を部下に任せる警部みたいな渋い笑顔を光らせた。そして一言「五百円ね」と得意げに言って、付近のゴミ箱へ歩いて行った。昨今はデジタル化やAI化が瞬く間に進む忙しなくて複雑な時代だけれど、そんな中で思いついた新手の詐欺にしては清々し過ぎるなと俺は思った。
スマートホンで漫画を読み進めていたが、三分くらい経っても渚が戻ってこなかった。お手洗いにでも寄っているのだろうか。ひとまず気にせずに漫画を読んでいたが、何かの気配を感じたので前を向いた。
何かが聞こえたわけじゃない。太陽が東から昇って西へ沈んでいくのと同じくらいに違和感なく、ただ目の前に何かがいるような気がしただけだった。だけど、誰もいない。
にゃん。
愛らしい声が聞こえて、下を見ると手のひらサイズの小さい子猫が眠たそうに俺を見上げていた。何で君は私の目の前にいるのにゃ?目障りだにゃ。と言わんばかりの退屈そうな瞳で俺をじっと見上げている。こっちに来たのはお前だろと俺は思ったが、ふとその猫に見覚えがあることに気づいた。いつだかの金曜日に自宅付近の住宅街の塀で見つけた猫だ。
どうしてこんなところにいるのだろう。不思議に思いながら、俺はしゃがみこんで黒い子猫に手を伸ばした。しかし子猫は俺の手を躱すと、「にゃん」と小さくひと鳴きしてあっという間に逃げ去ってしまった。逃げたのは、渚が容器を捨てるために歩いて行った方角である。
そういえば、渚は一体どうしたのだろう。腕時計を見ても、渚が容器を捨てに行ってから既に五分くらいは経っている。ゴミ箱はそんなに遠くにあった訳ではなかったはずだと思って、俺は渚が歩いていった先に向かった。
渚は所謂、ヤリラフィと呼称するのが分かりやすそうな二、三人のお兄さんに囲まれていた。
「俺たちと一緒に遊ぼうよ」
「一人でしょ?少しだけご飯とか」
「嫌だって言ってるじゃん。しつこいんですけど」
こちらに背中を向けているのでどんな顔をしているか分からないが、渚は心底嫌そうな声色でお兄さんたちの腕を払っていた。よく見ると彼らは皆お酒が入っているのか、鼻をつくアルコールの匂いを放つと同時にほんのりと心地よさそうに頬を染めていた。渚もさぞ困ったことだろうと思い、俺は怪しげな蟹さん歩きとひょうきんな笑顔で道化を演じながら間に割って入った。
そして「この辺で事件があったらしいですよ!危ないのですぐにこの場から離れてください。え!?……まさかニュースチェックしてないんですか!?」と迫真の顔を作って言い放つと、彼らは露骨に狼狽えてスマートホンをチェックし出した。その瞬間を見逃さず、俺は迷わずに渚の手を取ってその場を離れた。そのままお兄さん達を撒くことには成功したが、俺は隆起したコンクリートにつま先を引っかけて盛大に転び、膝を強打した。
俺は膝蓋骨が割れたのではないかと思うほどの激痛に涙を堪えながらも、それを渚には見せずに立ち上がった。そして渚の手を再び取って歩いた。渚は黙ってついてきてくれているが、あまりの俺の無様さにジト目を浴びせてきていることだろう。あるいは笑いを堪えているかもしれない。
激痛と恥を堪えて歩く中でふと、猫に生まれ変わりたいという欲求が強烈に胸を馳せた。猫ならこんなふうにして転ばなくて済むのに。遥か遠く、どこか知らない場所から小さな音楽が鳴り響いていているのをたった一人で感じてるみたいな、そんな人生でいい。
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ズボンを捲られ、少し血が滲んだ膝に絆創膏を渚に貼ってもらったのは転んだ五分後くらいの話だ。
渚は呆れても、笑ってもいなかった。ただ痛ましい目で、俺の膝を触れるか触れないかくらいに優しく撫でて捲った裾を戻した。
「歩けるの?」
「ああ」
「………」
俺を見てそう問いを発した渚は、変わらずあっけらかんとした顔をしていた。それに対して、俺も痛みを感じさせない装いで答える。
それ以上は何も会話をしなかった。街を歩く俺と渚に、先ほどと比べてこれといって変化はない。さっきと同じように、濡れた夜の街を手を繋いで歩いている。
変化を強いて挙げるとすれば、俺の手を握る渚の手の力がぎゅっと強くなったことと、身体と身体の距離が心なしか縮まったことだろうか。仮に俺がまた前方向に転べば、ドミノ倒しで渚が下敷きになってしまう。だけど、彼女自身でその距離を選んでいるように見えた。俺は申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
「ナンパなんてあまりされなかったけどなー」
「酔っぱらってたのもあるんじゃない」
「そうかな」
「うん」
俺が答えると、渚は前を向いたまま何も言わなかった。俺の手を握る力の強さも変わらないままだ。
あまりナンパされないという渚の言葉に、妙に納得している自分がいた。渚の容姿は目を引かれるほど美しいだけでなく、絢爛を纏うような雰囲気がある。不用意に声を掛けること自体にリスクを感じさせるような、そんな棘も感じさせるほどということなのだろう。それを気にせずに渚に話しかけるのは、狂人か先ほどのような酔っぱらいくらいのものじゃないかなと俺は思った。
「今日はこのまま真っ直ぐ帰るの?」
「あぁ。……ゲームやってく?」
「やってくー!」
「分かった」
少しの間だけ、渚はこちらに振り向いた。その表情はいつものあっけらかんとした顔でも、悪巧みをしているような顔でもない。頬を赤く染めて、とろけるように惚けた嬉しそうな笑顔だった。
「なんで今日はヒロから誘ってくれたの?随分と分かってきたね?」
「やりたそうな顔してたから。悪いけど俺は二十二時には寝るぞ」
「はーい」
渚は前を見たまま、子供みたいに嬉しそうな声色で返事した。こう言っておけば渚は勝手に帰るなり、泊まっていくなりするだろう。まあこの様子だと九割九分、泊まっていくだろうなと俺は思った。
しかしいずれにしても、俺は渚に宣言したとおり二十二時には眠らなければならない。明日は少し早めに会社に行って、例の監査というイベントをどうくぐり抜けるか対策を練らないと。
「私ね?真っ直ぐ帰るって言われたら無理にでもついていくつもりだったの」
「何で」
「その怪我、ちゃんと見てあげなくちゃいけないもの。私のせいでそうなっちゃったんだから」
「別にいいのに。そのうち治るよ」
俺はそう言ったが、渚は前を見たまま何も返事しなかった。何も言われなかったかのように前を向いて歩き続ける渚の背中を、俺はじっと見つめていた。二人で夜の街の人混みを、糸で縫っていくかのようにして掻い潜っていったのだった。
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今日は土曜日で会社が休みだが、生憎の雨だ。流石に先日のような露骨な殺意を宿した横殴りの大雨ではない。しとしとと傘を叩く、乙女が流す涙のような雨だった。最近雨が多い気がするのは少し気後れするが、この日はアスファルトの濡れた匂いを楽しむことができる余裕があった。
俺は確かに雨が好きだ。しかし、自分が外を歩くときには止んでいて欲しいと願ってしまう。一見わがままかもしれないが、恐らく大体の人間が同じように考えているだろうから許されるとしたい。そんな気持ちで、不貞腐れた空の下を傘をさして歩いていた。俺が目指すのは、渚のマンションだ。
梅雨のやや暑い気温とまとわりつくような湿気を肌に感じて、ああなんか、今日も地球さんが元気に動いているんだなと俺は思った。少しは休暇を得たらどうなのだろうか。偉大なる地球さんが懸命に働き続ける姿勢なんて見せるから、我々のような人間も懸命に働かなければならない、などと考えてしまうのではないか?
渚のマンションに辿り着き、部屋に入ると中は暗かった。まだ午前中とはいえ外の暗さを考えれば恐らく大半の人間が窓とカーテンを閉め、明かりを点けたほうが良いと判断すると思われる。しかし渚の部屋は明かりはついておらず、全体的に暗い。カーテンが開いており、窓から薄暗い空と雨粒が覗いていた。窓や建物に叩きつけられる雨粒の音が、自分の心の奥から奏でられる演奏みたいに響いた。それがかえって静かさを際立たせていた。
綺麗に整えられた居間に入ると、白いTシャツに身を包んだ渚が、滑らかな両足を抱きかかえてぼーっと窓を眺めていた。
「ごめん。遅くなって」
「ヒロ、おかえりー」
「ただいま」
物音でこちらに気づいていたのか、渚はこちらを見ることはしなかった。でも声色は普段と同じ調子なのを感じて、少しだけ安心する。俺は荷物を置いて手を洗い、ハンガーを借りて濡れた上着を干した。そしてソファに向かい、渚の隣に座った。
すると渚は足を抱きかかえた姿勢を変えないまま、俺のほうへ視線を移した。いつもの元気な様子とは打って変わり、静かな瞳だった。
「今週もお仕事お疲れ様」
「ありがとう」
「私が行っても良かったのに。ごめんね?来てもらっちゃって」
「いいんだよ、別に。いつも色々世話になってるんだから」
「洗濯とか、ゴミ出しとかちゃんとしてるの?」
「どうにかね」
「心配になっちゃう。でも、ヒロのお家トイレだけはいつ来ても絶対に超綺麗だから私いつも驚くんだよね」
「トイレを磨くこと以外では決して得ることのできない、研鑽というものがあるんだよ」
「ウケるんですけど」
渚は俺を真っ直ぐに見て笑った。何ということはない、普段通りの笑顔だ。だけど何だか、彼女の瞳の深いところから、一滴滴り落ちる雫のような哀しみが宿っているのを感じた。
先日いつも通りに会社から帰ってきて玄関の扉を開けたら、合鍵で入っていた渚が玄関を掃除して拭いてくれていて、ピカピカになっていたということがあったことを思い出した。その時俺は、あまりにも綺麗になり過ぎていて腰を抜かすほど驚き、違う部屋に入ってしまったと勘違いをしたのだ。
疑心暗鬼になって何度も何度も入室した部屋の扉の位置を確認していると、それを俺の部屋の奥から見ていた渚がゲラゲラと笑っていたのだった。
「渚はどう?体調とか、色々」
「うん。そろそろね、またちゃんとしたお仕事探そうかなって思ってるよ」
「頑張って。だけど無理するなよ」
「ありがと。興味が持てないと五秒で集中力切れちゃう人間でもできるお仕事あると思う?」
「前みたいに料理したらいいじゃん。渚の料理は人に出すべきだよ」
「やだー」
「何で」
「違うこともやってみたいんだもの。退屈するのは嫌」
渚はそう言って小さく息を吐き、再び窓のほうへ目線を移した。何だかそれは、我儘を言って執事を困らせるお姫様のようだった。俺もつられて窓の外を見ると、まるで五百メートルくらい先で大きな打楽器が演奏されているかのような音が奏でられていた。大量の雨粒が、絶え間なく窓を叩き続けている。
俺は再び渚へ目線を移し、気になっていたことを訊ねた。
「今日、あんまり元気ないの?」
「え?ううん?元気だよ」
窓を見たまま、あっけらかんとした声色で答える渚。しかし考えてみれば、月に何度かはこんなふうにして渚が静かな日があった気がした。
「渚。今日は俺に色々と任せて」
「へ?」
「活力に満ち溢れてるんだよ。今やらなきゃいつやる。俺がやらなきゃ誰がやる。あれだよ、ボーナスタイムみたいな」
「よく分からないけどすごいね?」
「身体、ちゃんと温めないとだめだ。毛布あっちだよな?持ってくる」
「ひ、ヒロ?何か勘違いしてる?全然今日はそういうのじゃないよ?」
「動かなくていいから」
「だって。さっきも言ったけどヒロだって足、怪我してて」
「動くな!動くんじゃない。渚。動いちゃだめだ。動いちゃ──だめだ。何にしても今日は、俺に任せておいて」
「もう。分かったってばー」
渚はじとりと湿っぽい目で、急に立ち上がった俺を見上げた。完全に呆れを含んだジト目だ。ただでさえ湿っぽい季節にじめついた気候の世の中だというのに、渚のジト目が加わったことによって世界はもう湿度に困らないだろうと俺は思った。
俺が別室から取ってきた毛布を受け取った渚は、Tシャツ一枚だった身体を毛布にくるめてソファにゆっくりと横たわった。
「ありがとー。ヒロ」
「どういたしまして」
渚が素直に、嬉しそうに笑っていた。そしてくるまった毛布に頬を寄せ、目を瞑って気持ち良さそうに頬を摺り寄せる。それを見て、俺は心底安堵してしまう。
大好きな雨の音を感じながら、俺はベランダの大きな窓に身体を少しだけ預けた。そして、ほんの少しだけ距離が離れた渚を見て訊ねた。
「何か思ってることがあるなら言っていいんだぞ」
「………」
「ナンパされたの、そんなに嫌だったのか。ごめん。俺がもっと早く」
「違う。そんなんじゃない」
「じゃあ……」
渚はソファに横たわって白い天井を見上げていたが、やがて身体を包んでいる毛布の感触を味わうかのように瞑目した。そしてやがて細く開かれた目は、深い悲しみを余すことなく前面に押し出していた。
「………私、ヒロに怪我させちゃったもの。いつも一生懸命頑張ってるヒロの為に出来ることをするって決めてるのに。今日だってヒロはまだ足良くなってないのに、雨の中来てもらっちゃった。だから、私は楽しくする資格なんてないの」
「足は多分明日には治ると思うよ。リハビリみたいなもんだよ。大丈夫」
「………」
「まぁだから、埋め合わせしたいって思ってくれるなら次の休み、晴れた時にでも」
俺がそう言いかけた途端、渚はくるまっていた毛布をとっぱらった。思わず俺は驚いてしまうが、無言でこちらへ歩いてきた渚はしゃがみこんで俺のズボンの裾に手を伸ばして、ゆっくりとまくった。先日転んだためについた傷に、絆創膏が貼りつけられている。
「ヒロに尽くしたいの。ヒロの為に毎日、色んなことをしてあげたいの。沢山美味しいものを作って食べさせてあげて、丁寧に家事をしてあげて、沢山尽くして、尽くして、ヒロの為に私の命を使いたいの。そう思ってたのに……!私、怪我させちゃったんだよ?それなのに、私のこと怒らないの?責めないの?」
そう言った渚は悔恨に打たれた瞳を閉じて、折りたたんでいた俺の膝を足ごと抱きしめた。子供が親から受け取った大事なプレゼントを抱きしめるみたいに、俺の膝から下の足を全身で受け止めて、胸で抱きしめる。膝の傷の絆創膏に頬を擦った渚の目から、涙が零れ落ちた。
「ごめんね。ヒロ。ごめんね」
渚は次第に身体を震わせて、俺の足を抱きかかえたまま泣き出してしまった。俺は静かに、ありがとうとだけ言って渚の頭を撫でた。しばらくして泣き止んだ渚の全身が脱力したのを見て、俺は渚の身体を抱きしめた。ずっとずっと、震える彼女の頭を撫でていた。
……………………………………………………
数時間ずっと渚を抱きしめていただろうか。頃合いを見て、渚を再びソファに横たわらせて毛布を掛けてあげた。俺は渚が横たわるベッドに寄りかかって、窓の外を眺めていた。ぽつり、ぽつりと会話を重ねる。
「ヒロは雨が好きだって、高校卒業する前くらいに教えてくれたでしょ?」
「ああ」
「私は、雨ってあんまり好きじゃなかった。だけど今日はなんだか、好きっていうヒロの気持ちが分かりそうな気がしたの。何でかは分かんないけど」
「………」
「でも気持ちがちゃんと理解できる前に、何だか眠くなっちゃった」
「その、何だか眠くなるのがいいんだ」
そう返すと、渚は毛布から手を出して俺に差し出してきた。いつものとびきりの笑顔ではなく、穏やかで静かな、それでいて確かに嬉しそうな笑みを浮かべている。俺はその手を、優しく握り返した。
「ひひ」
「何だよ、笑って」
手をきゅっと優しく握られた渚は、嬉しそうに頬を染めて笑っている。
「やっぱり雨の良さは分かんない」
「そりゃ残念」
「だけど、眠くなるのは本当だね」
「そうだろ」
暗いが、暖かく湿った空。いよいよ時刻は午後に差し掛かろうとしている。俺と渚は手を握り合って、二人一緒に微睡み、やがて意識が闇の深い場所へ落ちていった。窓を叩き続ける雨粒の音は、観客の居ない広いステージで奏でられる演奏のようにずっとずっと静かに鳴り響いていた。




