第5話 膝枕
眠りから目を覚まして首を上げると、白いカーテンが優しく揺れていた。何だか甘い香りがする。程よく頭が回っていない身体に染み渡る、ほのかなバターの香りだ。
ヒロは目をこすって身体をソファから起こし、辺りを見渡した。どうして眠っていたんだっけ。よく思い出せないけれど、今日は急がなくてもいい日だったはずだ。
「ヒロー?おはよー」
「………渚。おはよ」
「お寝坊さん」
「そんなに寝てた?」
そうだ。俺は渚の家に来てたんだ。
渚はヒロの隣にゆっくりと座って、オレンジジュースを飲んでいた。微かにコーヒーの香りもする。恐らくヒロの為にわざわざ淹れてくれたのだろうと思う。
「そんな風にボロボロになって、毎日帰ってきて。私心配なんだけど?」
「ボロボロ?俺が?まぁ、そんなことも時にはあるけれど」
「ねー。誤魔化さないで」
半ば寝ぼけながら返答するヒロに、渚はオレンジジュースが入ったカップを目の前のテーブルに置くと、やや刺すような口調でそう言ってヒロの身体にぎゅっと抱きついた。
ヒロの顔を覗き込む渚は今にも泣いてしまいそうに瞳を潤ませていた。眉を吊り上げて、不満そうに頬を膨らませながら。
「うぉ。俺は渚の方が心配だよ」
「そうなの?」
「俺の心配ばかりしてる気がするから」
「誰のせいだと思ってんの?」
だけど、そんな顔すら反則級に可愛いのである。不満げな渚の柔らかい茶髪を優しく撫でると、彼女はその感触を味わうようにして静かに目を瞑り、抱きしめているヒロの身体に身を委ねた。
「ごめん。まだまだ半人前なんだ」
「半人前だろうが一人前だろうが二人前だろうが、私のヒロはたった一人しかいないの」
「分かってる。また書類を全部浴槽に沈められたらたまったもんじゃないし」
「私ふざけて喋ってる訳じゃないけど?」
「すいません」
茶化そうとしても、本気の渚には通用しそうもない。ずっとヒロの身体にぎゅっと抱き着いてその胸に顔をうずめている渚の背中を、優しく撫でてやることしか出来なかった。
「ヒロの顔を見てれば分かるもの。ヒロが今、凄く疲れてるって」
「それはすごいな。うん。すごい」
ヒロはあんまり深く考えずに頷いていた。
「私、毎日ヒロのことを観察してたんだから。今は確かに高校生だった頃よりも大人っぽくなったと思うよ?でも、それでも私の目は誤魔化せないの」
「ありがとう。俺は渚から受け取ってばっかりだな……。ちゃんと返せるように頑張るよ」
渚は頬に茶髪がかかった端正な顔を上げて、ヒロの目を真っ直ぐに見た。心底怪訝で、それでいて殺意すら感じるような目をしていた。
「私が、いつヒロにもっと頑張ってなんて言ったの?いつ、見返りが欲しいなんて言ったの?」
ヒロは思わず息を呑んでしまう。渚は本気で怒っているようだ。一体どこで選択を誤り、これ程までに渚を怒らせてしまったというのだろう。ヒロは必死に頭を働かせる。
そんな様子のヒロを見て、渚ははぁ、と呆れたように息を吐き出した。そして再びヒロの胸に顔を埋めて、苦しげに言葉を紡いだ。
「ずっと、傍にいてくれるって約束したよね?付き合う時約束したの、それだけだよ?ヒロが隣にいてくれればいいの。ずっと、私を離さないでいてくれればいいの……」
「………あぁ。絶対離さない」
「……本当?」
「本当だよ」
「もっと言って。私が満足するまで言って」
「一生離さない。渚のこと。前も言ったけど、俺もずっと渚のことが好きだったんだ。絶対、絶対離すもんか」
「私のこと好き?」
「好きだ。渚、好きだ。好きだ」
「本当ー?ひひ」
渚はヒロの胸の中で、涙混じりの笑い声を上げた。どちらが甘やかしているのやらと思いながら、ヒロは震えている渚の身体をしっかりと抱きしめ返す。
「私を離さないなんて言うなら、他人さえよければ自分は大丈夫なんて考えはなしだよ?これ以上、ヒロが傷つくなんて嫌。嫌。絶対、嫌。自分が傷つけられるよりもずっと、嫌」
「ごめんな……。分かったよ。俺はよく周りが見えなくなるから、忘れかけてたらまた教えてくれ」
「いいよー?じゃあ、フライパンで思い切り殴ってでも戻してあげるね?」
「暴力以外でお願いしていい?」
ヒロと渚はバターを塗ったトーストとリンゴを食べた。サク、サクと音が静かに今に響いている。正面に姿勢よく座る渚はトーストを咀嚼している間も若干眉根を寄せ、一瞬たりともヒロから目を離さずにじっと見つめていた。
反応に困ってしまうヒロは、コーヒーを飲みながら渚から目を逸らす。あんなやり取りをした後にも関わらず、渚の中の不安のようなものは払しょくし切れていないらしかった。
何が渚の心を安心させてあげられるだろうか。ヒロは必死にそれを考えるが、難しいことだった。きっと言葉じゃない。態度と、行動で証明しなければならない。しかし、どんな姿を渚に見せれば良いだろうか。
「ヒロっていっつもそうだよね?いつも一人でそうやって考えて、完結させようとして」
「癖がついたのかもしれないな。そんな風に」
「ヒロがそういうやり方して傷つけられて、それを見て本人よりも傷ついてる人が目の前にいることを分かってないじゃん」
「それは………それは、駄目だな。駄目だ」
「でしょー?やっと分かったの?」
渚は呆れたようにそう言って、残り半分になったトーストを齧った。もちろんその間もヒロから目を逸らすことはない。
「だけど……どうしたらいいか分からない。渚を離さないだけでいいならそうしたいんだけど───敢えて具体的な例は挙げないけど、色々と準備ができないじゃん。俺たちが一緒に生きていくのは二、三年とか四、五年とかじゃないし、青い空や美しい花畑だけ見ていればいい訳じゃなく、時には荒地や雨風吹き荒れる危険な場所を目を逸らさずに見なくちゃいけない時だってくるだろ」
「そんなの分かってるけど?え?何?私のこと小学生か何かだと思ってる?〇されたいの?」
「全面的にごめん」
「ヒロが笑ってるところ、しばらく見てないんだもの」
「そうだったっけ?」
そう訊き返して、ヒロは大口を開けて笑ってみせた。しかしどうにもわざとらしく映ったらしく、ヒロを真っ直ぐにじっと見つめる渚の眉根の皴が深まるだけで終わる結果となった。ヒロは思わず大口を開いたまま固まってしまう。
十数秒の気まずい沈黙が落ちてから、渚は瞑目してゆっくりと息を吐き出た。
「まー、いいけど。無理に笑わなくても」
「お気に召さなかったみたいで申し訳ない」
「私の気に召すとか召さないとかじゃないんだけど?」
「確かに」
「はー。どうしてヒロのことなんて好きになっちゃったんだろうね?私」
「俺は渚を好きになれて良かったよ」
ヒロの言葉に、呆れ顔だった渚は身体をびくりとさせて大きく目を見開き、頬を真っ赤に染めた。
「へ……へー!?」
「うん。心底そう思うよ」
「そうなんだ?へー。よ、良かったね!?」
「渚?大丈夫か?コップ傾いてジュース零れまくってるぞ」
「きゃあ!?う、うるさいっ!このアンポンタン!」
「アンポンタン!?」
渚が零したジュースを拭くのを手伝って朝食を終えると、この日は結局どこに出掛けることもなく二人並んでベッドに横になった。まだ疲れが抜けきっていないのか、ヒロはすぐに眠たくなって重い瞼を閉じる。
「渚、膝枕お願い……」
「うん」
ヒロはハッとした。一体何を言っているんだ俺は。ただでさえ普段世話になりまくっており、今朝だって渚の家で朝食を振る舞ってもらったというのに。これ以上面倒を見てもらうのはいくら何でもはしたないにも程がある。
そんなことを考えたが、目を開いた時には既にヒロの頭下へ渚の柔らかい膝が差し込まれ、枕にして仰向けになっていた。
「………」
「ありがと。ゆっくり休んでね。ヒロ」
その後、少し恥ずかしいというのでヒロは渚の顔が見えないように体勢を横にずらした。
膝枕してヒロの髪と頬を優しく撫でる渚は、今まで見たことないくらい心から嬉しそうに頬を赤らめて微笑んでいた。どうして。お礼を言うのは自分のはずなのに。
渚の優しい手の感触を感じて、ヒロの身体はその想いに温かく包まれてゆく。
……………………………………………………
数日前、渚の家に泊まった時の出来事が再び夢の中で起こった。何故か全身の疲れが吹き飛んだ気がする。ヒロは着替えを済ませ、真っ直ぐに普段の業務フロアへ足を運んでいた。
都市の電車横転は想像を絶する被害で、三桁にもおよぶ怪我人や死者を出した。大勢の人が交通手段を失い、困り果てる事態へと発展しているようだ。
一週間ぶりに出勤したが、人はほとんどいない。デスクの上の書類を見て監査が始まるという事実を思い出した。それどころじゃなかったせいで、緊張感などまるで無くなってしまったが………
『本当にありがとうございました。ご迷惑をお掛けして、ごめんなさい』
『こちらこそ。状況的にお互い様だよ』
『必ず今晩ご連絡するので、無事に帰れたか教えてくださいね』
『まぁ、別にいいけど』
渚と過ごした日の夢から覚めた朝、着替え終えた鹿沼はそう言った。出会った時と変わらずにほんの少しだけ自信なさげに眉を垂れ下げていて───恐ろしく清楚な笑顔だった。
昨晩横転した電車のニュースを見て怖がって抱きついてきた可愛らしい彼女も、二人でローション塗れになって抱き合いごろごろとシャワールームを転がって悲鳴を上げた彼女も、本当は起こっていない幻の記憶だったのではないかと思わされるほどに。
『それ……どうか、失くさずに持っていてくださいね』
『それ?』
『誰かに渡したり、貸したりするのは絶対に禁止です』
鹿沼はヒロの耳元に近寄ってきて、うっすらと笑みを浮かべながらそう言った。そして戸惑っているヒロにぺこりと頭を下げ、ポニーテールの美しい黒髪を靡かせながら去って行った。
『それ』が何なのか、ヒロはその時思い当たらなかった。しかしその背中が見えなくなった後で、彼女が落とした黒い機械のことだと気づいた。すぐに走って追いかけたが、鹿沼を見つけることはできなかった。
あの清楚な女性は自分の落とし物に気づいていながら、最後まで渡すように催促してくることは無かったということになる。
貸すのは禁止と言われたところで意味が無い。だって、この奇妙な雰囲気の機械の使い道が少なくともヒロには全く分からないから。結局この機械の正体は分からないまま、ヒロのスーツのポケットに入ったままだ。
未だに鹿沼の恍惚とした瞳や、寝ている間も手指に思いっきり押し付けられた柔らかい胸の感触が頭から離れない。しゃんとせねばと思って両頬を叩き気合を入れるが、いまいちスイッチが入り切らない感じだ。
「何やら一皮剥けたような顔をしているでござるな、時枝殿。皮は剥ければ剥ける程"良い"。その成長、その高みを目指す姿勢───それでこそ、我が""""""盟友""""""と言わざるを得ぬ」
「誰だお前は」
「なぬ!?冗談キツいでござろう!??」
「分かってる、冗談だよ。色々あったんだよ俺にも」
鳴上は数少ない出勤しているうちの一人のようだ。露骨にショックを受けた彼をなだめ、食堂の自販機でコーヒーを買って再びこのフロアに戻ってきた。
缶コーヒーをぐびぐびと飲み干した鳴上はヒロの隣の空いている席にどっかりと座り、空になった缶を片手でぐしゃりと潰した。そしてヒロを一瞥し、爽やかに笑ってみせる。
「先日も伝えた通りだが、ついに甘目まどかのプラチナシールをゲットしたでござるよ。全宇宙の創造であり始祖たるキューティクル・ユニバースの波動をその一身に受けし、アルティメット衣装でござる」
「聞かされた覚えは全くないけど、ひとまずおめでとう」
「結局、ずっと追い求めていた『金色のパンティ』を手に入れることは出来なかったでござるよ。だがしかし、今となってはどうでもいいッ!w 何故ならこのプラチナの方がレア度が高いでござるからな!w ハッハハハハハハハハハ!!」
金ピカシールの時点で天文学的な出現確率のレア度じゃなかったっけ?とヒロは思った。周囲を眩く照らしそうなほどに輝くシールを自慢げにヒロに見せつけて豪快に笑った鳴上は、こんな状況にもかかわらず休日みたいな呑気な顔だ。
「ていうか……鳴上。どうしてお前がこっちに来てるんだよ?これからあの本社の監査官が来るんだぞ。巻き添えになる気か?」
「だからこそでござるよ。真の自由を得んとすば己にこそ試練を与えん。こんな絶好の試練の経験値を時枝殿が独り占めなど、拙者は決して見過ごせぬでござるよ」
「物好きにも程があるな。今回の相手に対してそんなこと考えられるのは多分お前だけだよ」
「拙者に恐れるものなどない。目先の雲も、試練の先に謳歌する大空も我が手中にあり。貴殿が教えてくれたはずでござる。無駄な努力などありはしないと───。何が差し迫ろうと、己という敵に比べれば恐れるに足らぬでござる」
「すごい。この間も訊いた気がするけど何でそんなにパワフルなんだ?」
「何故か?簡単なことだ。拙者は……柔道を嗜んだ"漢"だからでござる。人より少しばかり強い理由も、人を守る理由も、同様でござる」
正直鳴上が言っていることはよく分からなかった。全然答えになってなくない?とヒロは思った。しかし、先日起こったチーム解散騒動の時よりか心強い気がした。その時の鳴上はどちらかといえば敵サイドの人間だったので、今回味方になってくれることは純粋に嬉しい。
その時だった。広々としたフロアに、一人の顔も名前も知らない人が入ってきた。そしておもむろにこちらへ近づいてきている。ヒロは目を見開いてその人に釘付けになっていた。そんなヒロに、鳴上はさりげなく耳打ちをした。
「あちらが本社から来てくださった方の一人でござる」
「え?あ、マジか!?」
「あの大嵐の初日に、拙者らは少しばかり話をしていたでござるよ」
ヒロが大雨で足を阻まれている間に、鳴上は少しコミュニケーションを取ったのだという。しかしそれどころではなく、あまりにも唐突のことに頭が回らない。心の準備がこれっぽっちも出来ていない。
本社の人間ということは、必然的に我々とは別格の有識者ということになる。今更になって、全身を激しい電撃で打ち抜かれたような衝撃と緊張が全身を迸った。
汗が滂沱と流れ、全身に、特に手のひらに汗が滲みだす。自分のようなぺーぺーが彼らの時間を取ってもいいのだろうかという気持ちと、何かの間違いで監査が取り消しになって欲しいという気持ちがダイレクトにぶつかり合って混じり合う。
何故かふと、渚と鳴上で一緒に遊んだことを思い出した。映画を観たり、レストランでパフェを食べた長閑な日々を。これは走馬灯だろうか。
いや違う。渚はほんの少しでもヒロと話をしたがっていた。ここで緊張に心臓を潰されている場合ではないと、ヒロは自分自身を強く改めた。また、渚に文句を言ってもらう為に。渚に笑顔を見せてもらうために、帰らなければならない。
しかし彼らの方から来てくれるなんて。そう一瞬思ったが、ヒロはすぐに思い違いをしていることに自分で気づいた。優秀だからこそ、自ら挨拶にやってくるのだ。
「柳さん。おはようございます。時枝さんの為にご足労いただき、感激の極みにございます」
「…………」
その人は鳴上の恭しすぎる挨拶にさして関心がないのか意に介さず、ただヒロの目の前で静かな歩みを止めた。ヒロは身体の震えを感じながら、大きく目を見開いてその人を見つめた。
せっかちで怖そうな感じの人が三人一斉にやってきて、丸め込まれるものだとばかり思っていた。
「まだこのビルは建設から十年も経っていないはずなのに。何だか悲しくて、辛くて、泣きたいと風が言っているわ。どうしてなのかしら?」
しかしそんなイメージは一瞬で消滅した。首を傾げてヒロにそう問うのは、小学生と間違えてしまいそうなほど小柄な女の子だった。
……………………………………………………
それはお人形のようにキュートな女の子だった。真っ白いスーツを着た彼女の身長は百四十センチ程度か、それにすら届かないように見える。
ヒロを見つめる瞳は透き通っていた。表情は乏しく、何を考えているのか、どんな感情を抱いているのかもぱっと見だけでは分かりようがない。こちらがこの子を理解しようとしているのか、この子がこちらを見つめているのかすら曖昧にする雰囲気があった。
やや長めの髪をうなじで二つに結ったおさげは、肩にかかって胸の前に降りてきている。その様が更にその子を幼げに印象付けていた。一見して何一つ分からない。分かるのは、成人男性の手のひらよりも大きな渦巻柄のペロペロキャンディを持っていることだけだ。ヒロから決して目を離さないまま、小さな舌でキャンディをぺろぺろと舐めている。
小学生にしか見えない。
ヒロは小さな彼女を見下ろしてそう思った。正直、小学校の校庭で遊んでいたとしても何一つ違和感を抱きようがない風貌だ。校庭よりかは屋内で折り紙や読書をしていそうだけど、それは今争点ではない。ヒロは口をぽかんと開いたまま、彼女の問いに対して何も反応できなかった。
そんなヒロを見て案じたのか、鳴上が「時枝殿!」と声を潜めて言った。ヒロは思わずハッとさせられたが、そんな様子にも構わず女の子は小さな口を開いた。
「初めまして。やなぎ みかこです。よろしくね」
「す、すいません。わざわざ来て頂いて。よろしくお願いします!俺は時え」
「私ね、日曜日、サリーとマリーと一緒に、お買い物したの。サリーのお誕生日だったから、ケーキと蝋燭とお茶とジュエルを買ってね、静かな森の中でぱーてぃを開いたわ」
「あっ!えっと……。サリ、ジュ?えっと?」
「あなたをお気に入りだと言っていたわ。お連れの子もご一緒に、私のお家に遊びに来ていいわよ?うふふ」
「は、はは……」
会話が出来ねぇ……。
ものすごくゆっくりと幼げに喋る彼女の声は、癒しの楽器が奏でられるかのように心地よく耳に残る。つまり言動も喋り方も大いに癖が強いということだ。
サリーとマリーとは誰なのか?ジュエルとは一体何なのか?そんな疑問すら脳を素通りしそうである。
柳は挨拶を終えると、そしてデカすぎるペロペロキャンディから初めて口を離し、小さな手で眠たげに目を擦って大きな欠伸をしてみせた。
ヒロが彼女の様子を戸惑いながら見つめていると、柳は再び透き通った眼差しをヒロへ向けて言った。
「私はそろそろお昼寝の時間よ」
「お昼寝!?まだ朝じゃ」
「自分の体内時計を強く信じていれば、卑劣で淫靡な宵闇に惑わされることはないわ。あなたにとっての宵闇が、夜や暗い場所にしか潜んでいないなんて思わないことね」
「すごい」
彼女の言うことはよく分からなかった。心配をしたつもりは無かったけれど、突っ込むのも何だか野暮な気がしてしまうのがこの女の子の恐ろしいところだ。
「すんすん……宵闇に惑わされた臭いがするわ。ちょうど一週間くらい前かしら」
「えっ」
「なぬ」
柳はヒロのすぐ傍に歩み寄って瞑目し、神妙にすんすんと鼻を立てた。煩悩に塗れた出来事がちょうど一週間前に起こったことを思い出して、ヒロは思わず体温を急上昇させて顔を赤らめる。
それを横で見ていた鳴上は眉根を寄せて腕を組み、その話今すぐに拙者に聞かせよと言わんばかりに興味ありげに瞳を輝かせていた。絶対に話さねえぞとヒロは思った。
上手く言葉にできないけれど、この女の子を敵に回してはいけないような気がした。敵を作らないことだけは得意だから多分大丈夫だろうとヒロは考えた。
……………………………………………………
ヒロがそんなことを考えていると、再びフロアの扉が開いた。見ると、満面の笑みの葛木が珍しくこちらへ顔を出していた。葛木はこちらを見るなり満面の笑みを更ににこやかに深め、乱暴な足音をズカズカと立てながらこちらへ近づいてきた。
「…………」
掴みどころが全く無かった柳が、表情を変えることなく葛木にスッと頭を下げた。葛木は輪に加わってからも柳が頭を下げるのを見ても、何も言わずにいやらしくニヤニヤ笑っている。
そんな光景を見てヒロは思わず息を呑んでしまう。普段の適当なこの男を見ていると忘れてしまうが、葛木は本社の人間からこれほどかしこまって頭を下げられる立場なのだ。
「……ンんんんッ!おはようゥ~。昨日パチンコ七万勝った男が通りますよっとォ~」
葛木は柳を含めた俺たちに向かって片手を上げ、人差し指と中指を小刻みに動かしながら唇をとがらせた。なんだその挨拶は。癖が強すぎるだろ。パチンコで大勝ちしたらしいお調子者全開の彼は、相当な上機嫌だ。
柳はそんな癖の強い挨拶を表情ひとつぴくりとも動かさず、ペロペロキャンディを舐めながらじっくりと、興味深そうに観察しているように見えた。
「監査の内容は柳を含めた本社の三人に全部任せてある。面倒くせぇからな」
「雑だ」
「本社から寄越したのがあと二人いる。三人とも目的は監査だが、こっちを手伝ってくれるようにスケジュールを細工しておいた。全員本社の一線でバリバリに活躍してるから頼りになるぞ」
嬉々としてそう説明する葛木は権限を行使してやりたい放題だった。そんな男はさておき、ヒロは再び柳を見つめた。彼女もまた主たるターゲットである、ヒロのことを見つめているように見えた。
相変わらず無表情でペロペロキャンディを小さな舌で舐めているが、監査という恐ろしいハンドルをこの子が握っている。一見は小さな可愛らしい子だが、当然緊張せざるを得ない。
「柳。早速悪ぃけど、今は監査どころじゃねぇんだ。管理室で俺の仕事の補佐をしてもらう。先に行っててくれ」
「私ね。今朝、ひつじさんみたいな大きな雲を見つけたの。でもね、そのひつじさんは涙を流していたわ。彼は寂しい、この果てのない自由から逃げ出したいと、そう言っていた」
柳はヒロ達に話しかけたのと全く変わらない様子で話し始めた。それを見たヒロは思わず目を剥いてしまう。
大抵の人間が葛木を見るだけで震えあがる。この男にはそんなオーラがあるのだ。ひょうきんとはいえ場にいるだけで空気を引き締める雰囲気のある葛木に、そんなメルヘンな感じで話しかけて生きて帰れるのか?そんな、純粋な疑問があった。
「そっかそっか。ラム肉って美味いよな。ちゃんと捕まえて食ったか?」
「自由は本当は、寂しくて悲しいことなのよ。彼の様子はそんな風に見えたわ。地上から指をくわえて見ているしか出来ないなんて、私は悔しい思いよ」
「何でオスって分かったんだ?何で寂しそうに見えたんだ?アプリの返信でも待ってたか?」
「今朝まではおうちのすぐ上にいたけど、今は遠い街の空にいるわ。今も独りぼっちで」
二人の会話はギリ噛み合っていなかった。しかし語る柳の瞳は真面目そのものであり、横で見ているヒロはどんなリアクションをすればいいのか全く分からない。鳴上も苦笑い以外しようがないようだ。
葛木は不敵に笑って、柳を真っ直ぐに見据え堂々と言った。
「タイミングってもんがあんだよ。大丈夫だ。必ずそいつは仲間と合流して報われる。そういうもんだよ」
その言葉を聞いた柳は、何を考えているか分からない瞳でじっと葛木を見つめ返した。そして何も言わずにくるりと振り返って、管理室へ向かって歩いていった。




