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私は頑張るあなたの味方!  作者: #N/A
第二章 『若葉色の絆』
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第31話 幸せに生きたいと願うか

 伊藤のいつも通りの嫌がらせにも等しい言葉に耐え、本格的にいつでもこの場所を去ることができる準備をしていた。


 混んでる食堂で野菜炒めと卵スープとご飯を食べたヒロは、いよいよ異動先になるであろう南端支社について下調べをし、向こうと打ち合わせをするためにデスクについた。


 人員のやり取りなので、向こうも何かしらの動きというものがあるはずだ。こちらにも俺たちの代わりとして、どこからか知らないが埋め合わせの人員が来る。そうやって組織が回るというだけの話だった。


 気持ちを切り替えなくてはならない。ここで終わったみたいな面をしていたら部下達に示しがつかない。最後の意地だ。ここで俺がすることができる最後の仕事はもう、毅然とした面構えで堂々としていることだけだった。ここで俯いて眉を垂れ下げ、項垂れ、みっともない姿を晒でもすればそれこそお終いだ。この支社での生活以上に大切な何かが終わってしまう。


 マイク付きイヤホンを装着し、向こうの担当者と会話をしながらそんなことを考えた。一体この先で、何が待ち受けているのだろう。考えてみればそれはそれで胸がワクワクするような気がしなくもない。



 ……………………………………………………



 ヒロは装着していたマイク付きイヤホンをデスクに叩きつけて立ち上がった。


 歩く。歩く。歩く。歩く。全部吹き飛ばすかのような勢いで歩く。許せない。魂が拒絶している。


 南端の支社は退廃とした雰囲気すら醸し出す有り様だった。内容もやり取りも杜撰な打ち合わせ。裏で微かに聞こえたやり取りは明らかに仕事に関係のない世間話だったし、ライターで煙草に火をつける音が聞こえた。どう考えても健全な状態とはいえない。


 葛木が抜き打ちでその場をチェック、なんてしたら一体どんなことになるのだろうかと考えた。あの男の統率力が本物なのは今のうちの支社の在り方が証明している。裏で聞こえただけだから、まだ確証はないが……。


 確かめなければならない。そして粛清しなければならない。是正しなければならない。あれほどまでに舐められていると感じたのは初めてだ。仕事だからどうのこうのなんて問題を遥かに凌駕している。俺が変えなければならない。生き恥を晒していることにも気づかない人間達に気づかせる機会を与えなければならない。


 そう思った時だった。かなり離れているが、ものすごく活き活きした表情の奥山がフロアを出て行く姿が見えた。


 ヒロは思わず目を見開いて彼女の横顔を見つめていた。可憐でなおかつ精力的に、あれほど瞳を輝かせる奥山を見たことがなかった。そういえば社内用スマートホンに彼女からの連絡が入っていたことを思い出した。


 内容を確認すると、奥山は先日までの倍以上の数字を報告してきている。そして下に添えてあったヒロへのメッセージを見て、思わず全身が固まってしまった。



 ……………………………………………………



 奥山を追いかける。勢いよく、活き活きと力を漲らせ、瞳を輝かせて会社を出て行こうとする彼女の背中を追いかけて、追いかけて、声を張り上げて彼女を呼び止めようとした。ヒロが声を張り上げて名を呼べば、彼女は当たり前のように振り向いてくれるだろう。


 狭いフロア内だったが故か、奥山は人とぶつかってしまう。それは伊藤だった。伊藤と肩同士をぶつけてしまっていた。ヒロは彼女を呼び止めようとして、思わず踏みとどまり声を押し殺して、その光景を眺める。


「ほんっと………新入社員ってのは鈍くさくて周りが見えなくて嫌ね」

「………」

「あなた達が鈍くさいのは構わないのよ。だけどね、ぶつかられたこちらには実害があるわ。さあ、謝罪の一言でも」

「ぶつかってきたのは………そちらのはずでしょう」


 ヒロは思わず目を見開いてしまう。何を見ているのだ。俺は一体何を見ているのだ?止めねば。正直どっちからぶつかったか、どちらの不注意かを今の一瞬で見分けることはできなかったけれど、どちらにしても止めなければ。どうせ伊藤が要らないちょっかいをかけるに決まっているから、止めなくちゃいけない。そう思った。


 だが、単なる後輩とお局の会話じゃない気がする。それ以上の何かが、そこに在る気がした。


「何を言ってるのか分からないわ。あなたはぶつかったのを人のせいにするのかしら。あなたは──」

「─────全部全部、ブーメランじゃない!時間が無いの!くだらないことを言って邪魔をしないで!」


 奥山は全くもって慣れない声色でそう叫んで、勢いよく伊藤を突き飛ばした。盛大に目を剥いてよろめいた伊藤を一瞥どころかそれ以上の意識すらくれてやることもなく、奥山は勢いよく歩いてフロアを去ってゆく。


 ヒロは呆然と、息をすることすら忘却してその様子を見つめていた。


 冷静になったヒロはデスクに戻り、色々と整理整頓を始めた。彼女の在り方をしかと焼き付けた。ここでやっぱり俺が感情に溺れているわけにはいかないのだと思い知らされた。


 取り扱う書類等は膨大な枚数となるため、整理にはちょうど金曜日の夕方くらいまでは掛かるだろう。彼女の魂にかけて、俺は自分に誇りを失いたくない。次の場所に行っても、どんなところでどんな人間に出会おうとも、今胸に燃えているこの気持ちを失いたくない。


 疲れて缶コーヒーを購入し、再び社内用スマートホンを開いた。そして彼女から送られてきたメッセージを、まじまじと読み返す。


『盗み聞きばかりして申し訳ございません。私も、諦められません。絶対に諦めたくないんです。最後まで頑張ります。皆で一緒にいられるように』


 今日の仕事が終わったら奥山にコーヒーでも買ってあげよう。一瞬でも彼女と一緒に働けて良かった。あの時の伊藤との会話が聞かれていたとしても、彼女をあそこまで変えるきっかけに本当になったのだろうか?


 正直そうは思えないんだよなあ。スマートホンを閉じて、荷物や書類の整理を再開しながらヒロは思ったのだった。



 ───────────────

 ────────

 ……………



 不安で、何もかもが不安で、吐きそうだ。


 入社式ホール。椅子に座っている奥山は押し潰されそうなプレッシャーで、おかしくなりそうだった。


 周囲の誰もがテキパキとしていて、整然としていて、自分だけ何もかも全てが遅れているような焦燥に駆られ、姿勢を正していた。


 社会人になった途端に毎日死んだような顔をするようになり、やがて鬱になって部屋に寝た切りとなった姉の姿を見ていた。しっかり者で、いつも自分の手を引き、次なる道へ導いてくれていたあの姉がだ。


 もともと物事を楽観視しない奥山は、そんな姉の姿を見せられて不信を抱くことしか出来なかった。不信以外が抱けなかった。


 目くばせをしてみると、自分の左隣では、自分と同年代と思われる男の子が爆睡していた。呆れを隠せない奥山はさっさと前を向き直る。こんな大事な時に寝るって、どんな神経をしているのだろう。


 やがて社内でとてつもなく偉い人だという、セントラルマネージャーが壇に上がり演説を始めた。スラリとしたスタイルにスクエア型眼鏡を掛けた、高潔で、酷く冷酷な瞳をした彼女は怒鳴るように、昂ぶりのままに、それでいて酷く高潔に気高く、胸の内にある激情的なものを隠さずに叫んでいた。


『君たちは何故働く?幸せに生きたいと願うか?それならば覚悟を決めろ。男も、女も同じだ。幸せに生きなくて良いというのなら覚悟は要らないし、早々に退職頂いて構わない。何故なら幸せに生きるとは、たった一人で孤独に生きる覚悟を決め、己の決めた道を己の足と信念をもって真っ直ぐに、ブレることなく歩むことだからだ。己の価値を、己で決めてみせよ』


 彼女が壇を降りた後、全支社の業務フロアを統括しているという男性が壇に上がった。自分が所属する予定の支社に常駐しているらしい。彼は若いが、これでもかというほど目つきが悪く、落ち着いた黒髪をがしがしと掻く雑な態度も偉い人間のそれとは到底思えなかったが、吐き出される言葉には人を刺し殺すような圧があった。


『この世の誰もお前らを救わねぇ。いいか?抱いた願いや欲しいモノの、全てを取りこぼさずに生きろ。みっともなくても関係ねぇ。死にもの狂いで血反吐ぶちまけて全身の骨が砕ける程度の頑張りじゃ足りねぇし、悪鬼羅刹に魂を売り渡す程度の覚悟じゃ運命どころか塵の位置ひとつ変えられねぇ。それが生きるってことだ。お前らはこれから自らの意思で生きるのであり、生かされる立場は終わったんだ。全てを欲しがらねぇ奴は、本当に大事なたったひとつすら守れねぇ』


 奥山にはどちらの言葉も理解することは出来なかった。きっと一生分かり合うことは出来ない。それどころか、他でもなくこういった人間たちが姉を追い詰めたのではないかとすら思った。


 入社式が終わり、ホール退出を言い渡された。新人は全員一斉に立ち上がり、一斉にホールを出なければならない。


 巨大な蛇のような新人の列の一員だった奥山は、頭がぼーっとする感覚のまま姉のことを考え、先ほどの二人の言葉をぐるぐると頭の中を反芻させながら、目の前の人の背中の後ろについていた。


 そしてあろうことか小さな段差で転び、鞄と手続き書類をその場で全てぶちまけた。


 道を塞いでしまった奥山を、他の新人たちは邪魔くさそうに避けていく。彼女は頭が真っ白になりながら書類を拾っていた。


「すいません……!」


 大半の人間は手伝ってやりたかっただろうが、そんな雰囲気は微塵もない。厳粛極まるホール内は、まるで思想を制限された国家のようだ。


 重要書類が他の新人たちの足に絡みつき、回収は不可能と思われた。絶望したその時に、


「───どうぞ」


 颯爽と現れたのは、奥山の左隣りで爆睡していた青年だった。ちょうど彼と奥山が列の分岐点になっており、彼は遠くの列で、別の出入口から出て行くはずであった。なのに彼はわざわざ奥山の目の前に現れて書類をさっさと拾い上げると、奥山に手渡した。


 奥山は驚きに満ちた目で、くしゃくしゃになった紙を受け取りながら、目の前に現れた彼のことを見つめた。こんな状況で手助けをする人間など、彼しかいなかった。


 顔立ちは整っているが、少々雰囲気が独特だった。きちんとおでこを出した爽やかな髪形に、端正な顔立ち。それなのに明るい印象も、頼りになりそうな雰囲気も感じられない。その虚無の瞳の奥には自分だけの世界が隠れており、眉は垂れ下がっていたからだろうか。


「───ありがとう、ございます」


 彼女は受け取った書類を胸にあてて真っ直ぐに彼を見つめ、微かに唇を震わせた。






『ありがとう。大事なことに気づけたよ』






 ……………

 ────────

 ───────────────



 南端の支社の恐ろしいところは、自分たちが腐り切っていることに気づかないことだろう。確かに自分にも至らない部分があるかもしれない。だけど恥だけは曝してこなかったはずだ。自分に対しての恥だけは絶対に。


 奥山の輝く姿を見て、ヒロの胸は動かされた。そして想定以上に早く整理整頓が終わり、もう今日にでも葛木に挨拶をしてここを出れる。今日というのは少し気が早いが、もう仕方がないことだった。いくら今奥山のポテンシャルがバーサーカーに化けたとて、この状況を脱却するのは物理的に不可能なのだから。


 懐かしい。このデスクで何度頭を抱えたことだろうか。記憶というのは美化されるものらしい。感慨深いような、もう二度と戻ってきたくないような、不思議な気持ちに浸っていた。いよいよ、木曜日の終わりを告げる定時の十八時となる。


 あの子のおかげで冷静さと落ち着きと、自分の誇りを取り戻せた。南端支社へ出発する準備を進めつつ、せめて最後にまた奥山と一緒にコーヒーを飲む時間を作りたい。そう思っていた時だった。


 一人の管理職が、こちらへ走ってくる。


 先日の会議でもう少し頑張ってもらえないとね(笑)的なことを言ってきた男性だ。別にこの男とは仲良くなかったはずだったが、俺に別れを告げにきたのか?


「と、時枝さん!おめでとうございます!まさか本当に最下位を脱却されるなんて………」

「はあ。………え?今なんて?」

「やっぱり先月の契約もまぐれではなかったということなんですね。あれだけ偏ったチームメンバーを時枝さんに押し付ける判断をした統括には驚いたけど、あなたの実力を知ればまあ納得ですよ」

「待って。待って待って待って。何ですって?すいません。言ってる意味が」


 その時、二人の間に割って入るようにして傲慢で高飛車な笑い声が響く。ヒロと男性は振り向いた。


「あらぁ?時枝さんじゃない。何でそんなに悟り切ったみたいな顔してるのぉ?整理整頓が終わったのがそんなに嬉しいのかしら?」


 またお前か………と思えば案の定、嗜虐的に笑う女がヒロだけを見下すように見ていた。横の男性管理職など眼中にありもしない。そしてこれまでと少し違うのは、


「伊藤さん。からかわれなくてももう俺は消えますよ。そのうち皆さんの行き先も連絡がありますから。それよりも………どうして石田さんも一緒に?」

「ええ。時枝さんが毎日粘り強く鍛えてくださった成果が出たというものですよ。どうして消えるつもりなのですか?来月からもずっと、あなたはここにいるんですよ。時枝さん」


 頭が混乱している。一体どういったことなんだ?もう何も分からない。最下位を脱却しただの、来月からもずっとここにいるだの、皆して一体何を言っているんだ?


「さっき小娘にどつかれたのが本気で頭にきたのと、その小娘が何だか熱くて希望に真っ直ぐな目をしていたのが何だか懐かしくて更に腹が立ったから、腹いせにやってきてやったのよ」

「は?」

「ほら。受け取りなさい」


 伊藤に渡されたのは契約書だった。間違いなく先ほどヒロが惨敗したはずの、高橋との契約書である。そしてそこには間違いなく印鑑が押されていた。


「もっと喜んでください。どうしたんですかぽかんとして」

「…………なんか、法に触れる脅しとかしていないでしょうね?」

「この私がそんなことするわけないじゃない!ねえ?石田さん」

「仰るとおりですとも」


 あまりにも信じられない。というか、意味が分からない。一体どういうことなんだ?これは一体、どういう。



 ───────────────

 ────────

 ……………



 応接室のソファに座る高橋という男。


 ヒロとの商談を断り抜いたが、彼のどこか押し切れない柔らかい部分に腹を立てていた。それではだめだ。契約をするにしても、しっかり自信がある人間でなければ信用できない。


 そして今、扉を蹴り破るようにして入室してきた二人に高橋は目を剥いて驚愕していた。美しい女は傲慢に足を組んでみせ、見下すようにして高橋を見て笑っている。その横にいる男はてかてかと笑顔で、ヒロが手放した資料とスクリプトを手に持っていた。


「あらぁ?もしかして契約しなかった、だなんていうんじゃないでしょうね?うだつが上がらない、商売上がったり、無能経営者とはあなたのことかしら?」

「…………!?」

「よく見るとこの場所も随分と安っぽいわね?あなたという人間の懐も事業に臨む覚悟も、全然大したことが無いという事実を大いに感じてしまうわね?その汚らしい長髪と見てるだけで心に梅雨が訪れそうな陰気臭い目は一体何?生きててすれ違う人様に失礼とか思わないのかしら?こ・の・フ・ケ・ツ♡」

「…………!!」

「人間関係というのは、出会ったばかりではどうにも分からないことというのがあります。そこで僕と今夜一杯如何でしょうか。アオオッチ!!………そう叫ぶまで夜は終わりませんよ」

「……………!?!?」

「さあ。我々と信頼を築きましょう。契約していただけるまで僕はあなたの会社に入り浸り、あなたの横に居続けますよ。朝から晩まで、ずっと一緒だ。尻と尻で語り合えば、そこにあるのは夢。昼は働き、夜は眠るとお思いでしょう。しかしそれは違う。昼は働き、夜はあなたと僕の二人切りで愛を深め合う為にあるんです。愛を。一生、消したくても消させない温もりというものを、一緒に探求しに、デスクの下とは言わずにベッドで───」


 伊藤と石田の話は絶え間なく続いた。やがて高橋は激怒を通り越して発狂したような顔で両頬に手を添えながら立ち上がり、のけ反るようにして咆哮を上げた。


「──────っだぁぁーー!!契約すればいいんだろ!?よく分からないけれど契約したらいいんだろーー!?ああ!!ふざけるな!僕はできる男なんだ………!無能でもなければ、ホモでもない………!」

「無能じゃない?本当かしら?それって、それって、本当なのかしら?この有り様を変えられるのかしら?あなたみたいにちっぽけで何の取柄もなくて不潔な男に、人が丁寧に差し出した善意を断るような雑魚い自己肯定感の人間に、変えられるっていうのかしら?」

「変える………!!変えてやるッ!!バカにするな………!僕を馬鹿にするなッ!!目にモノ見せてやる………!」

「そこまで言うのなら、どうしてもって言うのならこれにサインさせてあげてもいいわよ。惨めね?無様ね?みっともない豚みたいに鳴き声を上げてサインして押印しなさい?この、ぶ・た・さん♡」

「ーーーーーー!ああーーーーーーッ!言うな!僕をこれ以上、侮辱するな………ッ!」

「いい鳴き声ね?クスクス♡」

「どれ程いい鳴き声を上げようとも、僕はずっと一緒ですよ、高橋さん」

「だから………!僕はホモじゃないって言ってるだろ………!!!オオオオアアーーーーーーーー!!」



 ……………

 ────────

 ───────────────



 食堂の休憩スペース、そのテーブル席に座っていた。薄いクリアファイルで頭をぶっ叩かれた伊藤は、不貞腐れたように頬を膨らませて隣に座るヒロを見つめる。


 ヒロが真ん中で、左隣に伊藤。右隣に石田がいた。ヒロは缶コーヒーを一口飲んで、伊藤をじとっとした目で見つめる。


「あのさ。取引先は俺じゃないんだけど?それは分かるよね?」

「そんなこと分かってるわよ!最初はそりゃ、普通にやり取りしようとしたわよ。だけどね。あいつの顔見てたらなんだか、スイッチが入ってしまったわ」

「スイッチが入ってしまったんだね………」

「男のくせしてよくあんなクヨクヨウジウジしたオーラ出せるわね。あれが代表!?笑わせないで」

「色んな人がいるからさ………。確かにちょっと雰囲気独特だけど」

「それとも、もしかして話を聞いて嫉妬したのかしら?私に罵ってもらえる男が自分以外にもいるだなんて………!って思っちゃったのかしら?それならちょっとは考え直してあげてもいいわ♡」

「もう一度、今度は本当に容赦なく頭をぶっ叩かれたくなければ口を慎んでください」

「やん♡ 怖い♡」


 楽しそうに、高飛車に笑う伊藤。何だか彼女は心なしか、事務に居た頃よりも楽しそうに見えた。それは良いことだと思うのだが。思うが。そんな商談議事録聞いたことねえよ。こんな訳の分からない契約の仕方をしただなんて他の人間達に漏れたら大変どころじゃない。様々なコンプライアンスを踏み躙り、様々な規定も暗黙の了解もぶっ飛ばしていることがバレることになる。上司としてここはしっかりと隠ぺいする必要があるな。


「時枝さん。既に経緯は伊藤さんからお話した通りですが、僕は高橋さんから夜のお誘いを断られた身になります。なのでこの後代わりに、時枝さん………僕と、如何でしょうか」

「行きませんよ!?第一、失礼なんですよ!振られたからすぐ切り替えてやっぱりそっちみたいな誘い方は。ていうか仮にそうじゃなくても行きませんよ!?」

「どうしてそのようなことを仰るのですか。僕らはね。夜の夢に沈まないことには始まらないんですよ。一人で沈むのも良し。分かり合える者と肌を触れ合わせてするもよしなんです」

「行かねえって言ってんだろ!!」



 ……………………………………………………



 何本目になるか分からないエナジードリンクを飲み干して、目の下に濃いクマを作って仕事を進める葛木。管理室は相変わらず冷たい空気と無機質な音のみが鳴り響いている。


 電話が鳴り、葛木は眠たい顔のまま受話器を取った。宇佐からの連絡だった。


『統括。時枝さんが異動になるかと想定しておりましたので、既に南端支社の情報を渡しておきました。残りの時枝さんの仕事はお任せを』

「…………」

『さて、今後本社の席もひとつ空くはずです。時枝さんたちが空席になった分は他部署や他支社から埋め合わせ、本社の空いた席は我々の支社から出るはずですよね。なのでぜひ、その席を私に』

「何勝手なことしてんの?お前」

『は』


 全く想定していない返答だ、と言わんばかりに宇佐の声は震えていた。葛木は鳴上によって提出された調査結果表を、興味なさげな瞳でその辺に投げると、


「上長の許可無しに体制を変更するのは規定違反だ」


 そう言って、新たに手に持った宇佐の雇用契約書が無残に破り捨てられたのだった。



 ……………………………………………………



 木曜日が終わった。状況は絶望的かもしれないけれど、それでも諦められなかった。


 時枝さんの声を、話をずっと聞いていた。それに触発されて。いつもそうだった。時枝さんの声が自分の胸を目覚めさせたのだ。


 今日は日別の数字で過去最高を叩き出すことができた。それをヒロに報告するために、奥山は長い長い廊下を走っていた。


 時枝さんの喜ぶ顔が見たい。時枝さんが驚く顔が見たい。本当はもうだめって、心のどこかで分かっているのだとしても、諦めていない自分が、ほんの少しだけ変わって前を向けた自分がここにいると教えてあげたい。その一心で。


 走って、走って、食堂に居るかもしれないと思って、食堂の扉を開けた。すると、そこには。


「────」


 伊藤と、石田と楽しそうに会話をするヒロがこちらに背を向けて座っていた。しばらくその様子を見ていた奥山は、胸が温かくなる気持ちを覚えて思わず全身の力が抜けて息を吐き出す。


 彼女は微笑んで、その三人の光景を見つめていたのだった。そして我慢できなくなって、三人の話に入っていくのは数分くらい経った後の話である。



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