第30話 あの日咲いてくれたチューリップ
「何を分かった気に。何を知った気に、何を勝った気に………!」
「あ、ピッピ?ごめんね電話出来なくて。てか明日さー」
伊藤は歯ぎしりしながらヒロと川村を睨みつける。川村はそんな伊藤を見ても何も感じないのか、あろうことかヒロの腕に縋りついたままスマートホンを弄り、ピッピに電話を掛け始めた。
「勝った気?知った気?分かった気?伊藤さん……俺を勘違いして喋るのは、もう終わりにしてください」
「何ですって!?」
「俺は勝負なんてしていないし、お互いの領域を侵害して何かを知ろうとしたり、分かろうとしたりもしてません。ただ、伊藤さんの力になってあげたいだけなんですよ」
「そういうのが、私は不要だと!」
ヒロは川村にしがみつかれた腕を解いて、半分以上シュレッダーにかけられた資料のファイルを手に持ち、ゆっくりと伊藤に歩み寄っていく。伊藤は目を細めて、何も言わずにヒロを見つめるだけだ。
「じゃあ、この独特なシュレッダーのかけ方はどう説明をつけるんですか」
「………!」
「綺麗なもの、事務目線のあなたから見て本当に有用な情報が記載されているものは全て取ってある。俺の記憶上汚かったもの、俺の字が殴り書き過ぎて読めなかったもの、文書発行の日時が古過ぎるものが優先的に消えているんですよ」
彼女の目の前で止まったヒロは伊藤を見下ろして淡々と話し続ける。
「古谷と一緒に話をしたときに気になったので、色々調べさせてもらいました。あなたは確かに色々と、活躍してきている人間です。だけど、今のその在り方はそんな過去の栄光すら泥に沈めるような在り方だ」
「人のことを勝手に調べて!何が分かろうとしていないですって!?」
「俺は伊藤さんのことを、邪魔だなんて思いません。例え一時でも、この場所に来てくれたから。邪魔なんて思う人間がいたら俺が許しませんよ」
伊藤のヒロを見る目は焦燥感を抱えたものから、次第に危険物を見るものに変わってきた。
「お願いです。力を貸して欲しいんです。ここが正念場、俺は皆と一緒に居たい。チームの皆と一致団結してやり遂げたい」
「………」
「違いますね。………力を貸せ、俺に。俺たちのこのチームに」
「………」
「何を恐れているのか分かりませんが、俺は必ずやり遂げる。俺はこんな局面でくたばるほど、やわに育ったつもりはありません」
ヒロを見つめる瞳を、伊藤は大きく見開く。ヒロの表情を、意図を、気持ちを探るように。ヒロの何もかも全てを、把握しようとするかのように。
「何よ………何よ!何よ何よ何よ何よ何よ何よっ!ふざけないで!今更………今更私の価値に気づいたところで!」
「そんな小さな話はしていないって分かっているでしょ。黙って従ってください」
「………!」
「もし従わないんだったら、あの動画は統括に提出します」
「………」
「ついでに川村さんは明日から業務時間中ピッピと電話出来ません」
「えーっ!?嘘でしょ?何で私にも飛び火するの?お願い伊藤ちゃん!」
川村の表情はこれまでにないほど焦り出し、両手を合わせて伊藤に懇願し始めた。ほんと頼むよって感じの、今にも青ざめそうな決死の顔だ。お前そんな追い詰められたみたいな顔できんのかよとヒロは思った。普段の仕事もそれくらいきびきびやれだなんていうつもりはないものの、それくらいの切迫感をたまには見せてくれると助かる。
伊藤は眉をひそめ、迷った顔をし、やがてくるりと背を向けて去ろうとした。当然ヒロは逃げることを許さない。
「逃げるんですか」
「………」
「俺は必ずこの場所に、皆と一緒に残ります。願いはそれだけで。それ以上の大それたことは考えていません。一つの目標を掲げて、それに向けて皆で突き進むことでしか見えないものがある」
「………」
「そして、奇跡があることを証明してみせる。そのために………この場所を、伊藤さんの次の居場所にしてあげたい」
伊藤は背を向けたまま、拳を握りしめた。まるで何かを歯がゆく思っているような、何か言いたいことが言えないようなそんな仕草であるように見えるが、彼女のこれまでの人柄を考えればここで簡単に何か話してくれる気になる可能性は低かった。
「もういいじゃん。意地なんて張らなくて。私も明日から伊藤ちゃんにはついていかないから、ちゃんと考えてよ」
「………」
「私たちに嘘をつくことも、身勝手に置いていくこともきっとしないよ。時枝さんは」
川村はそう言うとスマートホンを取り出して、動画を再び眺める。そして古谷と奥山の表情と目を再び見つめて、小さな声で言った。
「この子たちの目は、何かを掴もうとする目。失いたくないって足掻く目だった。………その気持ちを、やっぱり私もずっと持っていたい。だから、宇佐さんの下を出れて良かったと思ってる」
「────気持ちが!!!」
伊藤は激昂して振り返り、ヒロと、突然の激昂にびくりと身体を震わせた川村を断罪するように指さして叫ぶ。
「気持ちが何ですって?そんなものは要らないのよ。気持ちがどれだけあったって腹は膨れないしお金は入らないし人の役にも立たないじゃない。私たちに必要なのはやるべきことをやることだけ。それでいいじゃない。それで皆に喜んでもらえるじゃない。私はそれでいいって決めた。もう………決めたのよ!!」
「もちろんそれも在り方の一つだと思います。個々人それぞれのポリシーに口を出すほど、俺も野暮でありたくはありません。俺は伊藤さんの在り方を否定するつもりは無い。だけど、今は別だ。一致団結すべき時だ。俺たちの未来がかかっている。この場所が残るか、残らないかがかかっている。場所が無くなってしまえば、俺たちは自分の胸の中のちっぽけなポリシーも矜持もこだわりも何もかも、実現できなくなってしまう。だから」
伊藤のすぐ目の前に立って見下ろすヒロは、真剣な瞳で手を差し伸べた。
「力を貸せ。………言っておくけど、俺はお前に今後何を言われ続けようとも、どんな言葉を浴びせられ続けようとも、俺の在り方が変わることはない。くたばらない。負けない。折れない。絶対に。俺はずっと、変わらない。お前に俺の在り方は、変えられない」
彼女の思いは結局分からないけれど、これだけは分かる。何かあるはずなんだ。その結論を導き出すに至った、何かがその人間の奥深くにあって、それとどう向き合うかが人生なのである。自分の殻から出てこないと意地を張るのも在り方のひとつだ。それを決して否定しない。己の意地を肯定することは、己のことをきちんと信じている人間にしか出来ない。その点は素直にリスペクトしてやる。俺は自己肯定感が低いから、分けて欲しいくらいに思うけれど。
今この時は力を借りれなくちゃ困るんだよ。何が何でも状況を変えなくちゃいけないんだ。
「何度も言いますが従っていただけないなら、この動画を………」
「…………五月蠅い!!勝手にしたらいいじゃない!」
結局伊藤はヒロの言葉に対してそう乱暴に叫び、立ち去ってしまった。
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……………
人よりも愛されて生きてきたのだという自覚があります。
故に私は、愛されてきた分人を愛します。愛は誰かを救うことができるのだと、無限の可能性そのものなのであると信じて疑いませんでした。
なので、愛について知ろうとしました。
それが自他の境界線すら曖昧にしてしまう強烈な沼の底であると知ったのは、滑稽ながら随分と後の話であったと思います。
小学校を包む空はどんよりと真っ黒の空と雲。したしたと降り続く雨の中で、伊藤は一人クラスで育てているチューリップの蕾に、水を汲んできたじょうろで水をやっていた。
「花ちゃん。今日もお水あげてるの」
「うん」
「でもね。今日は雨だから、花ちゃんがいつもみたいにお水をあげなくてもこの雨水が栄養になってくれるんだよ」
伊藤の様子を見に来た先生が、雨水に加えてじょうろで水を追加したことにより洪水状態となった花壇を見つめながら諭すように言った。
先生の言葉に伊藤は返答せずにしばらく黙っていたが、やがて黄色い帽子を被った顔を上げて先生のほうをみた。満面の笑みである。
「だって雨さんが栄養をあげて、私も栄養をあげたら、もっともっと大きく早く、沢山成長してくれるじゃない」
「違うよ。お水をやり過ぎると枯れちゃうんだ」
「いいえ、違わないわ。このお花は私のたっぷりの愛に答えてくれる。必ず、お天道様の下できれいな笑顔を見せてくれるのよ」
後日、そのチューリップは美しく、大きな花を咲かせてみせた。
途方もなく大きな愛というのは、見えないものです。どんな形かも全く想像がつかないものです。愛とは大きなものです。大きな愛は人間に想像ができないほど大きなものです。人間が宇宙を見上げ、広い、凄い、想像もつかないというのと同じように。あまりにも大きすぎるものは背景と化して、人間は視認できません。だから、大きな愛を受け取る人間はそれに気づけないんです。
好きな人がいた。
高校生になった伊藤は、同級生の野球部の男子とひょんなことで話すようになって、恋に落ちてしまう。
恋愛禁止と怒鳴るように謳う野球部顧問の目をかいくぐって、お互いに時間を作って話をした。
その子は素直で、好奇心旺盛で、責任感と向上心が強い子で、そして誰よりも頑張ることができて───自己肯定感が低くて、自分を責めがちで、優しい顔つきで、ちょっと優柔不断で、穏やかな男の子だった。
今日も部活動終わりに、伊藤はその男の子と一緒に帰っていた。蝉が鳴き出している。男の子は夏の最後の大会が近づいていて、ここが踏ん張りどきなのだといった。
「絶対に優勝できるわ。だってあれだけ頑張ったんだから。私も見てたし」
「ありがとう、花。俺なんかができるのか不安だけど」
「何よ俺なんかって。自信もちなさい!」
「ありがと?えへへ」
彼の努力を見ていた。彼の叫びを、グラウンドから離れた校舎の中で聞いていた。だから応援する。好きになってしまった以上は応援しなければならない。
応援しなければならないとかっていうよいも、応援させて欲しかった。自分の声が糧となることが嬉しかった。必ず自分の行いに意味がある、あのとき大きく咲いてくれたチューリップと同じように。
募ってゆく。行いが、応援が、愛が募ってゆく。毎日のように彼の心身のケアをして、ありとあらゆる気を利かせた。そんなふうに踏ん張っている間も授業は止まってくれるわけじゃないから、取ったノートを見せて勉強を教えてあげた。
その度に男の子は勇気づけられ、鼓舞されたというように感謝を口にしてグラウンドに戻ってゆく。それが嬉しかった。あなたは必ず花を咲かせるのだから、弱気に足踏みしている暇なんてない。
絶対に優勝したいという気持ちが高まったその男の子の影響か、練習も顧問の厳しさも更に過酷の一途を辿った。毎日ボロボロになっても、目を輝かせて勝利に向かって突き進む皆が、彼を見ていることが、まるで自分を見ているかのように誇らしかったのだ。
そして、彼は右肩と左脚を痛めてしまった。それを堪えて毎日の練習をしていた。他のメンバーや顧問も目を剥いてその男の子を案じたが、伊藤は決して彼が諦めるなんて、努力をやめるなんて許さなかった。ずっとずっと、傍で支え続けた。おんぶに抱っこの状況に彼はすごく申し訳なさそうだったが、そういう態度を取ってくるたびに言った。
「一番の頑張り時!一番の正念場!その主人公が、ピッチャーがあなたなのに、何でそんなに縮こまっているの?」
いよいよ夏の大会が始まり、野球部は順調に予選を突破し、本選へ進んだ。
記録的な猛暑だった。日差しの下で数秒直立するのすら躊躇われるほどで、帽子も被っていなければ一本一本の髪の毛がちりちりと焼けるかのような感覚すら味わえる。
試合が進めば進むほど、彼の負傷は深くなり、身体の訴える激痛は重たいものとなってゆく。その姿に伊藤は涙を流した。ボロボロに、それでいてまだ目は輝いていた。頑張り続ける姿に、伊藤は胸を打たれた。
「まだやれるわ。やれる。絶対に優勝できる」
「ああ。頑張るよ。花が応援してくれるから頑張れるんだ」
「絶対に折れちゃいけないわ」
「分かってるよ。花の前では折れられない」
やがて本選、ベスト4の大舞台前日となった。勝利すれば決勝戦に進むことができ、優勝すれば念願の甲子園を勝ち取ることができる。
伊藤の目の前に現れた彼の瞳は虚ろだった。昨日まであれだけ元気だった、瞳が輝いていた。なのに。
「無理だ。ごめん。花。応援してくれたのに。明日のベスト4は、まだ未熟だが後輩に任せようと思う。本当に身体中が激痛で仕方が無くて、相談して、皆から止められたんだ。これ以上は。だから」
ずっとずっとピッチャーとして、キャプテンとしてチームを支え続け、悪化してゆく自身の怪我と戦い続け、彼の瞳は暗く澱み、今にも倒れ込んでしまいそうだった。
後輩がグラウンドに立てば彼らには大きな経験値になるかもしれないが、一試合犠牲にすると言い換えて何ら遜色ない結果になってしまうことを意味していた。それだけ男の子と後輩の間には差があるのだ。それほどまでに、男の子の代わりは他の誰にも務まらないものだったのだ。
そしてその話を聞いた伊藤は鬼の形相で、そんな彼の頬を平手打ちした。
「負けていいと思っているの!自分に負けたら終わりだわ、自分自身に負けるから何にも勝てないんだわ。そんな目しないで。そんな目見たくない。そんなのあなたじゃない!!」
「………!」
「立つのよ。立ちなさい。私が一緒についているわ。怖いものなんてないはずよ。痛みなんて大会が終わればいくらだってケアできるわ。頑張りましょう。やるしかない。ギブアップなんて、言えないところまで来ているのよ。カッコイイあなたを見せて。強くて逞しいあなたを見せて!」
頬を引っ叩かれて壁に叩きつけられた男の子は苦渋に顔を顰めて頬をおさえながらも、目が覚めたように伊藤を真っ直ぐ見つめた。
「そ、その通りだ……。ありがとう。俺がどうかしていたんだ!大会はどう転んだってあと二日で終わりなのに、一生に一度しか来ない瞬間を迎えようとしているのに、チャンスが今目の前にあるというのに、こんなところでくたばっていられるか!」
伊藤はそう言った彼を抱きしめた。涙に濡れながら強く強く抱きしめ続ける。本当に嬉しかった。彼が立ち直ってくれたのが嬉しかった。言わんとしたいことが伝わってくれていたのが嬉しかった。
いこう。どこまでもいこう。必ず私たちはいける。大丈夫。怖がることはない。痛みを恐れることもない。この瞬間が最後。時間は戻らない、後悔してももう遅い、それを理解していたからこそこの瞬間に崩れ落ちてはいられない。それを彼に伝えられて嬉しかった。彼に、飛び立って欲しかった。栄光を掴んで欲しかった。その一助になれたのが、嬉しくてうれしくてどうにかなりそうだったのだ。
水をあげすぎると、チューリップは枯れてしまうのだといつの日か先生から聞かされた気がする。一体何故それを聞き入れずにいたのだったか、もうずいぶん前のことなので思い出すこともできない。
頭にギプスを巻いた男の子がベッドで横たわる傍で、伊藤は泣き叫んでいた。暑さに加え、負傷が進行し体力的に限界で進んだ試合後半。二点の差をつけられたうえで複数の出塁を許している精神的にも過酷な状況。そこで発生したピッチャーライナーに対応できず、額に激突して倒れたのだった。
後日人から聞いた話だが、もう男の子は野球ができないらしい。また片目はもう開かないとか。
あの数日で私は一体、どれだけのものを彼から奪ってしまったのだろうか。これでは彼を枯らしたのと同じだ。枯らしたのと同じということは、彼を殺したのと同じことだ。
目の前で眠る彼は満身創痍なのに、自分に目がついていることがおこがましい。問題なく立って歩けることがおこがましい。何様のつもりか?今すぐに自分の目玉をくり抜いたほうがいい。だってそうだろう。目の前の優柔不断な男の子が無理をしたのは他でもなく自分のせいなのに、その自分がのうのうと。
当たり前だが、鋏を手に取って目に刺そうとしたら傍にいたクラスメイトや男の子の家族に止められた。どうして止めるのか。結局、それ以降鋏を自分の目に刺す覚悟が湧いて出てくることはなかった。この時一思いに、衝動のままにやり切っていれば償えたというのに、その覚悟もなくなってしまった。
なんて醜いのだろう。なんて不要なのだろう。愛とはなんと、汚らわしい感情だろうか。
「…………価値なんて無いわね。要らないわね。人間に最も不要な感情ね。目が覚めたような気分だわ。弱いものは弱いままでいたらいい。醜いものは醜いままでいればいい。そのままでいいじゃない。そのままで受け入れてあげるわよ。頑張らなくていい。馬鹿で間抜けで無能でもいいじゃない。種のままでいい。蕾のままでいい。そのままでいてくれたなら、変わらずに、枯れずにただ居てくれたなら、………」
あの日咲いてくれたチューリップは幻想だ。まやかしだ。そんなものは無い。そんなものはたまたまだ。そんなものは有り得ない。
咲き誇るチューリップなど、在りはしない。
『俺はずっと、変わらない。お前に俺の在り方は、変えられない』
……………
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料理教室のバイトに遅刻してしまった。約一日ずっと眠っていればそりゃそうだとは思うが、こういったことがある度に人生の厳しさを痛感してしまう。
マンションに戻った渚はシャワーを浴び、トマトサラダと鶏肉のソテーとコンソメスープとご飯を食べて、寝室に入ってパソコンを起動した。
「………やっほー。サナギだよ。寝坊してバイトに遅刻しちゃった。どうして私が寝てる時間にバイトの時間がやってくるの?おかしいよね?」
もう、時間が経つのは早いもので木曜日になってしまっていた。同窓会まで本当に時間がない。ヒロの前で恥をかくわけにはいかない一心で、最終的に思いついた手段がこれだった。
渚は視聴者に問いかけるが、やはり安定していないのか視聴者はゼロになったり二、三人になったりを繰り返している。
視聴者が来なければ流石に渚も暇であると言わざるを得ない。昨今の配信者はゲーム実況したりもするらしいので、本ストの実況配信でもチャレンジしようかとスマホに手を伸ばした時だった。
突然一人の視聴者からコメントが入った。一体何事か。よく分からないが、この状況でコメントしてくるということは前回も見てくれていた人である可能性が高いのではないかと渚は考えた。何にしても驚きを隠せずに、早速内容を確認する。
『先日も来た者です。余命があと一週間と言われました』
やっぱり先日も来てくれた人だった、と渚は思ったがそれ以上に強制的に思考を停止させてくる内容に驚愕だ。余命一週間ということは、本当に重篤な状況ではないだろうか。
「い。一週間!?えっと………」
考えたこともない。自分の命があと一週間だと言われたらどうするかなど。
ヒロが明日居なくなったら。そう考えたことは何度もあった。あの一生忘れられないであろう学校が燃えた日のこと。本当にヒロがいなくなってしまった卒業式の次の日。
この人は何をして生きてきた人なのか。何が大事で、何に目を向けて生きていた人だったのか。分からない。分からないが、それを質問していいのかよく分からなかった。
沈黙が続き、渚は息を吸い込んでから静かに言った。
「………好きな人と、お話してみてー」
結局その人は渚の言葉を聞いてから数秒後、離脱してしまった。もはや余命一週間という言葉が真実かどうかもわからない。だけど本当だとしたらどうだろうか。ほんの少しでも、その人の救いになる言葉をかけてあげられただろうか。
渚は配信を切って、ベッドにごろりと寝っ転がった。つまるところ、考えている暇なんて無いのだと思い知らされた。言葉や行動を求めてもらえるタイミングも人も選べない。どんな時でも自分の本当の気持ちが言えればいいのだと、そう思った。
準備は整ったように思う。ヒロに必ず、胸を張って再会するんだから。そう強く思って、渚は瞼を閉じた。
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二度目の高橋との大型商談が失敗してフロアに戻った後も、ヒロは諦めてはいなかった。何か出来ることがあるはずだ、何か、何か自分たちの運命を変えることができる何かが。そう信じて。
狂信者だ。狂信者がここにいる。何ももう打つ手なんてないはずだった。それなのに見えないものを、空想に躍起になって手を伸ばし、縋ろうとするそれを今日気の沙汰と呼ばずして何というのか。ヒロはもう、そういった状態にあった。
やがて足掻くように動かし続けていた手も止まってしまった。もう葛西も北沢もいない、古谷もいない、奥山はまだ戦力として足りないし、石田はさっぱり上達しそうにもないし、伊藤と川村も同様だ。そして自分が打てる一発逆転のカードも失敗してしまった。
『どれだけ取り繕われてもね。どれだけ希望的観測を述べられてもね。……結局あなた達は自分の利益が欲しいだけでしょう。自分たちが懐を肥やすためでしょう。そういった魂胆が透けて見えるような言葉選び。うんざりしますね』
『いえ………決してそんなつもりは』
『お引き取りください』
ヒロは止まった手をパソコンから離して、天井を見た。思えばここまで頑張った。相当頑張った。俺が出来ることを全部やった。良かった。ここまで経験を積むことができて良かったと、そう思う。
きっと次に活きる。自分の、糧になってくれる。
「あら………?時枝さん。なあにその顔。まさか、大型商談に失敗したんじゃないでしょうね?私に偉そうなことを説教じみた口調で言ってきたくせに?」
「………」
「本っ当、役に立たないわね?♡」
横を見ると、楽しげに嗜虐的な瞳をゆがませる伊藤が立ってヒロを見下ろしていた。何でこんなに楽しそうなんだこいつとヒロは思った。もうこの際どうでもいい気もしてきた。
俺が役に立たないのがそこまで嬉しいのだとしたら、こいつの感性の方が余程狂っている。頭がおかしいのだ。だけどそんなことはもうどうでもいい。帰らせてくれ。帰る前にいつものカツ丼屋で、ソースカツ丼の大盛を食べれたらそれでいいから。
「でも、最後の時くらい適当でもいいんじゃないかしら?」
「まだ終わってないんだから適当って訳にはいかないですよ。伊藤さんもさっさと仕事に戻ってください」
「終わってない?もう終わったようなもんじゃない。何言ってるのかしら」
「終わってないったら終わってないんだ………!最後まで絶対に諦めないって決めたんだ。お前が勝手に終わらすな」
「……やぁだ。こわぁい♡」
伊藤は口に手を当て、クスクスと笑いながら自分のデスクに戻っていった。こいつだけいつの間にか帰っててももうもはや何も思わない気がする。
最後の手段だったけど、自分で外を回ってみよう。実現性は無いが、中型の案件を今日中に三件程度回れれば希望が見えるかもしれない。そんなのは普通に不可能だ。中型商談の準備に最低でも一か月は必要なんだから。
とうとう本格的に終わってきた。ああ、最初から無理だなんて分かっていたことだったじゃないか。何故こんなに落ち込むことがあるのだろう。別にいいじゃないか。チームは解体になるし、何よりも渚と同窓会に行けない。だけれど、ちゃんとごめんって謝れば許してもらえるって……。
そこまで考えて、渚の笑顔や、皆と一緒に笑い合ったことを思い出した。ヒロの目に一滴の涙が浮かぶ。ごめん、皆。ごめん。
その時、社内用スマートホンが震えた。画面を見ると、宇佐からの連絡が入っていた。『南端支社異動のスケジュール調整等に関する連絡を送るよ。見ておいてくれ』と文面はあり、中にはファイルが添付されている。
ヒロはデスクの荷物の整理を始めた。思えば色々なことがあった。疲れたと何度思ってもこの場所に足を運んだ。苦しいときも頑張ったんだ。
渚と会えない日々に逆戻りか。これも結局、自分の日々の頑張りが至らなかったことによって生まれた結果に他ならない。受け入れるしかなかった。残念だなあ。悔しいなあ。俺がどれだけ残りたいんだ!とか叫んだところで、社内の決定だから従う以外にどうしようもない。準備を進めなければならない。この後も人生は容赦なく続いていく。




