第29話 強き者
もう半ば、諦めかけていた。諦めるのは悪い癖だ。あの雨の日に何もかも全てに失望して家を走り出たときから、都合の悪いことからは逃げてしまえばよいという考え方が染みついているのかもしれない。
葛西は信じられない、という目で振り返る。大男も不審なものを見る目でその視線を追った。そこには今にも崩れ落ちて血反吐を吐いて息絶えそうな北沢が、九割方失われた視力の目で大男を睨みつけていた。
「………!立っちゃダメ。ていうか、逃げて!」
「あぁ?何だおめ。何なんだ。拾った命ってことを忘れてねえか?あん?」
大男は葛西の手を引いたまま、北沢の目の前に立ちはだかった。しかし北沢はもう両目の視力が働かないのか、大男の声を聞いて瞑目した。そしてあろうことかそのまま北沢は息を吸い込んで、叫んだ。
「───桃を、放しやがれ!!クソ野郎が!」
「なんだとーーーーッ!」
「シュン君ーーーーーー!」
血まみれの鉄拳が振り下ろされる。その一撃は全てを粉砕し、全てを無に帰す鉄拳だった。
「やめて……………!」
葛西は目を剥き、涙を流しながら叫んだ。喉が擦り切れる程に。
しかし、一体どういったことなのか分からないが、次の瞬間に大男の巨躯は上空二十メートルくらいの場所へ押し上げられ、吹き飛ばされていた。あの男がまさか私から手を離すだなんてと、葛西は目を剥いて驚く。
葛西は意味不明な状況に困惑し、北沢は腕で頭を守ったままである。大男が上空へ吹き飛ばされた地点を見ると、そこには投げ飛ばし終えた姿勢の鳴上がいた。鳴上は微かにスーツをくたびれさせているものの、怪我は一切なかった。
「な、鳴上さん」
「ああ、すいません。少々手間取りまして」
何故か謝罪をされた葛西は訳が分からなくなり、逆に鳴上を見つめる瞳が怪訝なものになってしまう。しかもこの男は先ほど、とんでもないほどの威力の衝撃を生身に受けたはずだった。何故平然としているのか?人間が食らえばまず四肢が砕けてどこかへ弾け飛び、頭も顔面も脳みそも頭蓋も一瞬にして原型を留めずに砕け散るような一撃をこの男は腰に受けて、頭からビルに突っ込んだはずだ。どうして平然と会話をし、私に謝罪をしてきているのだろうか?
やがて上空から舞い降りて、地に両足で着地し衝撃波を放った大男は鳴上を指さした。そして目を充血させ、悪魔が天使を断罪するかのように叫ぶ。
「お前は許さねえぞ。さっきのが可愛く見えるようなのを叩きこんでやる。うずくまって何もできない弱腰が」
「いえ。念のため勘違いされないよう申し伝えますが、私は、考えていたのですよ」
「あぁん?」
「物事に対し、どうするのかというのは一考する必要があります。あなたが私の業務の邪魔であると断じたところで、それがこの世界を戦いと破壊の巻き添えにして良い理由にはなりませんし、あなたが私を攻撃したところで、私があなたを攻撃して良い理由にもなりません」
「………何言ってんだ?おめえ」
「強きものは耐えることができるのですよ。強さとは我慢だ。耐えることができることだ。付けられた傷は強者の証、傷は強き者以外は得ない。弱き者ほど他者に傷をつくるのです。私の知人に、まさに強き者の鑑と言える者がいます。努力とは何なのかを、他でもなく彼が教えてくれた」
大男は何も言い返すことができずに、思わず目を細めた。葛西は何のことかも分からないまま、目から光を失った北沢に肩を貸しつつ鳴上の背中を見つめて話に耳を澄ませていた。
鳴上は理知的な瞳を決して大男から逸らさない。
「失せろーーーーーー!」
そしてとうとう疎ましさと我慢の限界が訪れたのか、大男は強烈な衝撃波を放ちながらの拳を放つ。
あまりの至近距離で放たれた一撃だった。先ほどの拳のラッシュとは訳が違う。あまりにも距離が近すぎる。衝撃波の時点で、近くにあるものは鋼鉄だろうが穴が開くようなパワーを秘めた拳だ。
「逃げて!何してるの、鳴上さん………!死なないで!死んじゃ駄目ええ!!」
ふらついてほとんど力が入っていない北沢に肩を貸して支えながら、葛西が決死の表情で叫ぶ。
次の瞬間、鳴上の肉体は粉々になり、血をぶちまけ、その返り血を葛西と北沢が浴びた───と、思われた瞬間だった。
その次の瞬間には、鳴上も大男もそこには居なかった。ふわりと、小鳥が飛び立ったかのような風だけが立ち尽くす葛西と北沢の頬を撫でていたが、大男たちが立っていた場所には瞬きをした次の瞬間にはもう、何も残ってはいなかった。
……………………………………………………
救急車を呼んだ。恐らく二、三分もすればここに来てくれるだろう。もう何か考えることもしたくない。疲労が溜まっているだなんて、そんな生易しいものではなかった。葛西も北沢も、完全に体力の限界を迎えようとしている。
そんな視界も霞み、嗅覚も感覚も徐々に失われつつある状態の中で、葛西の意識を覚醒させるのに一役買っていたのは目の前の光景だった。
目の前には天空に尻を突き出した体勢で、白目を剥いてうつ伏せに倒れ込んだ大男。そしてその尻のうえに、まるで君臨するかのように座る鳴上の姿だった。尻に敷かれる大男に、外傷と呼べるものは何一つとして無い。命を落としたわけでもない。だが、目を覚ます気配は全く感じられない。何と例えたら良いだろうか。何か、内的なものに強烈に働きかけられたような。そんな様子が感じられた。
こちらを見下すような鳴上を見上げて、葛西は毅然と視線を返す。この状況になってから三分くらいが経過したが、未だに何が起こったのかは理解することが出来なかった。
「何が起こったかよく分からないですが、助けてくださりありがとうございました」
「大したことではありませんよ。彼には耐えることができなかったというだけのことです。時枝さんにはあんなに楽しんでいただけた『旅』だというのに………もったいないことだ」
どこか悟りを開いたかのように静かに話す鳴上を見上げ、葛西は口端をひくつかせた。何を言っているのか全然分からない。何度彼が言ったことを脳内で反芻しても分からない。もしかして鳴上さんってあんまり真面目に会話しないほうが良い電波系の人なのかな。
別な世界、そう、異世界に連れていかれそうだ。そんな感じがした。常人に理解できない領域に踏み込んだ者のオーラというものを、すぐそこに感じて葛西は目をじとりとさせてしまう。葛西が鳴上を見る目はどんどん怪しいものになってゆくことに拍車がかかり止められそうもない。
そもそも大男のあれだけの打撃をものともしていないどころか、相手や傍で見ているこちらの心配をしてきていたのはどういうことだったのか。
「貴女のそれも、もはや私にとって見慣れた目であり、浴びせられ慣れた目だ。何とも感じませんし、気にすることはありませんよ。どのような運命が待ち受けようと己が道を進むべきであるということも、我が友から教わったことです」
「私たちを助けに来たっていうよりも、罰しに来たと理解していますが」
「………その通りです」
「申し訳ございません。売上は全て取られて、この男の仲間に」
「こちらのことでしょうか?」
全身に電流が走るような感覚を抑えることが出来なかった。何故なら決して戻ることはないと思われていた、ここ二日間での売上を入れて大切に保管していたまさにその袋が、あろうことか目の前の鳴上の手に握られていたのだから。
「逃げ去ろうとしている怪しい者が居たので、然るべきものをきちんとご返却いただいたまでです。私は誤ったことはしていない」
「…………」
「残念ですが、謹慎中の北沢さんが助力している以上はこちらを正規の売上としては計上いただけません。代替案としてですが、北沢さん抜きで明日からであれば………」
「ふざけ、ないでください」
話を遮られてもなお、鳴上の怜悧な瞳は揺るがない。葛西は血を滲ませるほど唇を噛んで、鳴上を睨みつける。
「やっぱり私は……いえ、私たちは、あなたとは分かり合えそうにもありません。組織が全てですか?私たちが何のために今月ここまで頑張っているか、あなたの立場上聞いていない訳じゃないんですよね?」
「ええ。もちろんです」
「───なら、どうして!??」
喉から出血するかと思うような叫びを、真正面の大男にぶつける。葛西は目に涙を浮かべて睨みつけるしかなかった。無力だ。無力。打ちひしがれている。こんなにも無力でしかなかった。子供と同じだ。泣きわめく以外に出来ることがない子供と変わらない。分かってる。それでも目に涙を浮かべて睨みつける以外に、何も残されてはいなかった。
「今月だけなんです……。今月がどうにかなれば、来月以降は……。だから、お願いです」
「………」
そこまで言ってから顔を上げて、鳴上の目を見た葛西はハッとした。そして、この叫びにも訴えにも何ら意味を成さないと理解した。
この男はそういった目をしている。理知で透き通った瞳には、何も宿っていない。つまり我々が二日間かけて上げた努力の結晶である売上は、我々のチームで出した数字として計上できない。つまり、骨折り損のくたびれ儲けもいいところだった。
やがて救急車のサイレンが聞こえてくる。葛西は北沢が転倒することのないよう慎重に踵を返して、そして、最後に鳴上を再び睨む。
「───構いません。では私たちも、そちらを理解なんてしない。あなたたち管理職は、敵です。薄々分かってはいたけど、分かり合えるなんて有り得ないことだったんですね」
「………」
「これではっきり理解出来ました。そっちが助けを求めても、絶対に私たちは助けません。今私たちが助けてもらえなかったように。私たちが信じる管理職は、たった一人だけです。どうぞ、これからもそういう感じでやっていってください」
葛西はそう吐き捨てて、北沢とともに救急車のサイレンの方向へ歩き出す。既に空は暗くなりつつあり、ちょうど電灯の明かりが繁華街を照らした。
「………!葛西さん!北沢さん!」
駆けつけたヒロが、葛西と北沢に声を掛けるのが見える。やがて救急隊員と担架が、二人を運んでゆく。
鳴上はその三人の光景を、静かに、腕を組んだまま見つめていたのだった。先ほどまでは彼女に決して見せなかった哀愁の色を、瞳に色濃く映し出しながら。電灯の明かりに照らされて長い影を作る鳴上の背中は、酷く弱弱しくて頼りなかった。
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暴虐を働くも鳴上の手によって気絶させられ、尻を天に突き出しながらうつ伏せに伸びる大男。葛西と北沢が踵を返し、鳴上の前から立ち去ってから既に一時間が経過しただろうか。
その大男の頬を、一人の男の靴先が勢いよく抉り、強烈な音を響かせて弾いた。
凄まじい力で蹴りつけられた大男の歯は何本か、砕け散って飛んでいった。血を噴き出した頬を蹴り、踏みつけて、それを実行した男は何の感情も無い鋭い瞳で大男を射抜いている。しかし何をされても、大男は気絶したまま白目で動かない。
「なぁなぁなぁ………!何ウチの活動の邪魔してんだよ。デケェ以外何のアイデンティティもねぇ単細胞の分際が何の了見だ?裏社会出身だか何だか知らねぇが日陰のクズが俺たちに楯突くんじゃねぇよ………!」
葛木は声を荒げるわけでは無いが、冷え切った声色は周囲の温度すら下げそうな気があった。そして何度も何度も頬を蹴りつける。大男の歯は一体何本飛んでいき、何度血を噴き出したことだろうか。
ちょうどそこに、周囲の様子を観察して戻ってきた鳴上が戻った。そして葛木の粗暴を理知的な瞳で見つめる。
「統括。直々にいらしていたのですね。そろそろ警報が解除され、警察や人が雪崩のように押し寄せます。この男も、彼らに任せたほうがよろしいかと」
「っどくせぇな」
さっさと大男の頭から足をどけた葛木のゆく先を、鳴上が丁寧に先導する。
「問題なく退避できるルートはあちらになります。足元にお気を付けを」
「んなことよりよ。この間の件の調べはついてるんだろうな?」
「もちろんです。戻り次第、すぐにご説明させていただきます」
「やっぱり今日はいいわ。めんどくせぇ」
「かしこまりました」
「めんどくせぇよもう。あーめんどくせぇ。めんどくせぇことばっかだな本当に。何でこんなにめんどくせぇことばかりなんだ?」
「………何かお力添え出来ることはございますか?あるいはお疲れであれば、食事などされていかれますか?それであれば、すぐにご手配を」
「いいわ。めんどくせぇ」
「かしこまりました」
気を利かす鳴上のことも意に介さず、葛木はタブレットを操作して、ヒロのチームの状況と数字の推移を見ていた。膨大な数字が帳消しになり、雲行きが一気に疑わしきに傾いたその数字を。
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希望が見えたと思った火曜日から、水曜日の一日だけでどうしてこうも変わってしまったのだろうか。
既に水曜日の夜、十九時になろうとしていた。ヒロは既に一人きりになったフロア内のデスクで、頭を抱えながら状況を整理している。もう今日か明日には最下位を脱出していないとヒロ達の解体と、ヒロ本人は遠方支社に飛ばされることが決定してしまう。
まず一言でいえば、状況は困難の極みに直面していた。理由は様々ある。まずベテランである葛西は怪我で療養、北沢は入院することになった。この二人は最下位脱出のためにかなりの数字を荒稼ぎしてくれたが、北沢が謹慎中であることを承知のうえで業務に従事したことが鳴上にバレたことにより、売上はヒロのチームとしての計上が出来なくなった。つまり、荒稼ぎした数字は全てパーになったということである。
ベテランが動けなくなった今、新人の二人の奇跡に賭ける以外は無かった状況。しかし古谷と奥山があろうことかヒロのデスクの前で熱烈なキッスを繰り広げ、古谷は騒ぎを起こした張本人として北沢同様に謹慎が決まってしまった。期待のかかる数字を叩き出す古谷も、今回は戦力に数えられなくなってしまった。
奥山は帰る前に、泣きながらそのときの状況を説明してくれた。結局のところ元凶は想像していたとおり、新しく加入してきたあの性悪の女である。
ヒロは資料がファイリングされた、元々分厚かったリングファイルを手に取って眺める。既に三分の二が失われ、残った部分もくしゃくしゃになって使い物になるかならないか、といったところだ。葛西と奥山にも協力してもらって作り上げた三日間の集大成が、この有り様である。勝負できるのはもう、明日と明後日しかない。
どうしようもなく追い詰められている。なるようにしかならないだなんて、それは勝利が確定した人間のために用意された言葉でしかなかったのだ。なのに一体俺は何をしていたんだ。怠惰に、妥協に、まだ不確定要素がある段階で使っちゃいけない言葉だった。
否、その言葉が原因だったかどうかも分からない。なるようにしかならないという言葉でコンディションを発揮してくれた葛西もいる。葛西がいなかったらそもそもこの作戦自体が決行されなかったのだ。なので結局分からない。何が悪かったかとか、何が足りなかったかといったことは今考えるに相応しい内容じゃない。今俺が考えるべきは如何に早急にこの状況を打開して、最下位を抜け出すかということだった。それだけを考えろ。それだけを、それだけを、たったそれだけを、考えろ。考えろ。考えろ。考えろ。
何としても大型商談を明日、木曜日に成功させるしかない。だけどその為に用意したものが半分以上細切れにされるなど誰が想像するだろうか。
「………いよいよ、残すところはあと二日ね」
「………」
「最下位を脱出できなければ時枝さんも私たちもお終い。お終いよ」
クスクスと、人を小馬鹿にしているとしか思えない喋り方を披露する女の声。顔を上げて振り返ると、ヒロ以外皆既に帰ったと思われたフロアを一人、こちらへ歩いてくる伊藤が嫣然と微笑んでこちらを見つめていた。
……………………………………………………
「………どうして、俺が作った大事な資料の大半を駄目にしたんですか」
「元々駄目な資料だったからよ。駄目な資料をシュレッダーにかけるのなんて、当たり前じゃない。クスクス」
全く会話にもなりそうにない有り様だ。やっとここまでやれたと思ったのに。ようやく何もかも解決すると思ったのに。どうしてこうなる。
伊藤はヒロの目の前にどかりと座ると傲慢な様子で足を組んで、挑発的な瞳で見下ろすようにヒロを見つめた。
「ようやく諦める気になったようね。仕方ないわ。仕方ないわね?だってあなたには出来ないんだから」
「ずっと疑問に思っていたんですけど、何でそんなに俺に諦めて欲しいんですか?自分を悪役令嬢か何かと勘違いとかされてます?今そういうの要らないんですよ。本当に」
「悪役令嬢?何を言っているの?私は常に正しいわ。悪役だなんて失礼ね」
「俺が血の滲むような苦労を重ねて作った資料をシュレッダーして一瞬にして細切れにするほうが失礼だろ!??どう考えても!?」
「私は常にこの場所を守ってきた。私は、私のやり方をもってよ。一時の感情にそう振り回されているようじゃ本格的に、最下位を返上して残るなんて不可能ね」
「何目線でものを話してるんですか?お願いです………本当にお願いしますから、明日からは外を回っていただけませんか」
ヒロは頭を下げて両手を合わせ、真面目な態度で懇願してみせる。しかし伊藤はそんなヒロを端正な顔で見下ろして嘲笑した。そしてもう誰もいなくなったフロアを、何ともない瞳で見渡した。
「してあげないわぁ。してあげない。私は何の力にもなってあげないわよ」
「はぁ。どうせ好きなんですよね?俺のことが。好きだから困らせたい、男子小学生みたいな精神性の持ち主なんですよね?もう分かってますから。だけど残念ながら伊藤さんとのラブコメは始められませんよ?俺には大好きな彼女がいますし、伊藤さんは伊藤さんで大変だろうけど相手を見つけてもらって………」
「はっ……!?誰が時枝さんのことを好きになるですってぇ!?きっもちわるっ!オェッ!」
「あ、好きじゃないの!?そうなんだ!?逆に意外だわ!じゃあ尚更さ!何でお前は悪意ある態度ばっか取ってくるんだよ!?てめーは何のフラグを回収するために出てきたんだよ!??」
「お、お前っ!?それに、てめーですって…………!?失礼ね!」
「何億回でも言うけど失礼はそっちだからな!?俺に失礼だとか吹っ掛けるなら、たまには何か面白いことの一つでも言ってみろや!え!?言ってみろこの性悪め!」
「私の性根は二十四時間三百六十五日、善一筋で真っ直ぐ高く立派よ!!」
「嘘をつくな!?!?」
会話が成立しねぇ。頼むからまともな会話くらいはさせてくれないだろうか。何なんだ本当に。思考を放棄してソクラテスになり、質問をガンガンぶつけてくる若き古谷ともまた違った、何ともこの人間と自分は違うという、断絶された何かを感じざるを得ない。人間は自分一人の身体でこの世界の全ての人間と対等に繋がり合うことはできない性質になっているのだ。
「………結局、どうしたいんですか。伊藤さんは」
「別に何もないわよ。私は毎日を堅実に生きてゆくだけ!キャハハ」
「そうですか。では俺からは伊藤さんに訊きたいことがあります」
「何よ」
ヒロは半分以上中身が無くなったファイルを脇に置いて、「来て」とだけ言った。
残虐で高慢な笑みだった伊藤は目を剥いた。きちんと全ての資料が無事に挟んである分厚いファイルを腕に抱えた川村が、離れたデスクからこちらに歩み寄ってそれをヒロに手渡した。
伊藤は信じられないものを見る目で硬直していた。何故ならヒロが受け取ったのは間違いなく自らの手でシュレッダーにかけたはずの資料で、それが一切の損傷も欠けも無い状態で出てきたのだから。そして川村は伊藤に向き直ると、舌を出して笑った。
「めんご。きゃはは」
「川ちゃん?何してるの?……まさか私を裏切ったのかしら?」
「だって、時枝さんがピッピと電話させてくれないって言うんだもん。仕方なくない?」
「………」
伊藤は信じられない、という表情こそしていたが、それ以上に頬をゆがませることはなく普段の表情に戻ってしまった。この女はアンガーマネジメントが恐ろしく得意なのだ。意図して激昂し、意図して冷静になることができる。ヒロはこの女のその性質も、小賢しさももうはっきりと分かっていた。
「騙すようなことをしてすいません、伊藤さん」
「………何ですって?」
「このチームで起こることは俺の不徳です。なのでもう一度訊きます。………何かあったなら教えてもらえませんか?解決出来る事かどうか、可能な限り協議したいので」
伊藤は舌打ちをし、怒りに染まった顔でヒロを睨みつけた。
「何で………何で優しくされなくちゃいけないのかしら?気持ちが悪い。気色悪い。あなたは勘違いをしているわよ。どうしてこれほどまでに態度に出してもあなたは気づけないのかしら?」
「俺は、俺のチームに来てくれた皆が好きだ。出て行きたいっていうなら話は別だけど、誰にも欠けて欲しくないんだ」
ヒロは真剣にそう返す。それを聞いた伊藤は怒ることすら忘れて怯んだ顔をした。強烈なキックが来ると思って下半身をガードしたら顔面にそんな痛くないジャブを受けて何かやり切れない気持ちになったみたいな顔だった。
「そんな顔をされてますが、本当は伊藤さんがそんなに怒ってるわけじゃないことも、怒りたいわけじゃないことも分かってます」
「………」
いつにもなく真剣なやり取りをするヒロと伊藤のことも構わず、川村はヒロの腕にすがりついてルンルンとご機嫌に笑みを浮かべている。先日までとは凄まじい豹変ぶりだ。川村も相当に美しい女なので、渚という絶世の美少女に縋りつかれる経験を経ていなければ緊張して到底正気ではいられないだろう。
「あなた達は、いつから。いつの間に」
「火曜の夕方に俺から声を掛けたんですよ」
「ピッピといつでも電話していいって言ってもらえた。前のところより待遇いいからさ、ついね。伊藤ちゃんも、何か時枝さんにお願いしてみたらいいんだよ」
川村が懐から取り出したのは、いつもピッピと電話するのに使っているスマートホンだった。そして川村は慣れた手つきで画面を操作して、ヒロと伊藤に映し出された映像を見せる。
あろうことかそこには、伊藤がヒロの資料をシュレッダーにかける様子が動画撮影されていたのだ。それが何を意味するのか、さしもの伊藤も理解しないわけではないだろう。
「………」
「きゃは!何その顔?伊藤ちゃん面白い。きゃっははは」
呆然とする伊藤を見て、笑いを堪えきれないというように川村はケタケタと笑っていた。ヒロは自分の腕にすがりつきながら笑う川村と呆然と立ち尽くす伊藤を、静かな目で見つめていた。




