第27話 その男が、笑顔そのものとなった
ブースと、その裏にあった商品が全て轟音を立てて吹き飛ばされていく。
あまりにも無秩序で、唐突で、荒唐無稽な光景に目を剥いた葛西は、目の前に現れた暴虐者を見上げていた。周囲に居た大勢の一般人たちがプラスチック製のブースや大袋に詰められた商品の下敷きになり、悲鳴と阿鼻叫喚が響き渡る地獄と化した。
「……………!北沢さん!」
北沢はブースの屋根の下敷きになり、頭から血を流して倒れていた。伸ばした腕と手の先にできた血だまりに、画面がひび割れて動かなくなったタブレットが落ちている。
まさかこんなことになるものなのか。葛西は息を呑んで、ヒロに指示を仰ぎたくてもそれが出来ない状況を恨む以外に出来ることは無かった。間の悪さが原因なのか、何が原因なのかは分からないけれど、自分たちの売り物とその手段が吹き飛ばされたことと、自分たちが施設の大きな壁際に追い詰められていることだけは確かだった。もうこれらのブースと商品は、売り物にならない。つまり役に立たなくなった。そのうえに、
「よく分からねえが、俺の視界に入るところで随分楽しそうなことしてるじゃァねえかよ」
「………」
「てめえら。名前はなんてんだ?言ってみろ」
震えながらも立ち上がろうとする北沢と、見上げたまま動くこともできない葛西を見下ろす路地裏の大男は舌なめずりをしながら拳の骨をバキポキと鳴らし、獲物を狩る獣のような残虐な目で笑っていたのだ。
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……………
人間には出来ることと出来ないことがある。
これは悲観的な話ではなく、何かを迷っていたり判断しなければならないというときに、この言葉が自分自身を納得させる材料たり得るなら使っても良いという、所謂考え方の一つである。
出来ない物事と向き合うことは、自分自身と向き合うと同義だ。よって時に、困難や苦痛を伴うことになる。それを克服するために奮起する道を選ぶも、受け入れて上手く付き合っていく道を選ぶも、その人それぞれの選択次第でしかない。
しかしながら結局どちらの道を選んだとしても、人間は必ず悔恨と痛みに打ちのめされることになる。もはやこれは、生まれたが故の宿命ともいえるだろう。
ただし、その悔恨と痛みは必ずや、その人だけに与えられし祝福となり得る。
石田の送った学生生活はそんなに目立つものでもなかったと、本人もそのように記憶していた。しかしながら人間を笑わせることの出来るユーモアと、底抜けの熱血と愛嬌だけは本物として受け入れられていたことも間違いはない。
教師や両親に言われるがまま、素直に勉学に勤しんだ。
人以上に頑張った自負があった。皆が漫画を読んだり雑談をしているときに、こっそりと英単語や数学の公式を暗記しようとした。長期休暇は沢山の友人の誘いを断って、課題や予習に打ち込んだ。
しかし、大した成績どころか真ん中より少し下くらいの結果しか出すことはできなかった。結局受験にも失敗し、学校を卒業したあとは実家の豆腐屋で修行をすることになった。
朝の四時。仕込みの朝は早い。石田は誰よりも早く起床して店の明かりを点け、作業を始めた。換気をして新しい空気を取り入れ、新しい一日と繁盛を受け入れる準備をする。
二十分遅れて店に入ってきたのは父だった。仕込みを既に開始している石田を見て、目を丸くする。
「一平、もう起きたのかよ?もう少し寝てたっていいんだぜ?」
「馬鹿言うんじゃねぇ!新しいガッコも受かんなかったし、俺にはこれしかねェんだ。親父。悪いけど、今日も教えて欲しいことが山ほどあるぜ」
「一日二日の短期バイトならまだわかっけどよぉ……これ、ずっとやってくんだぞ。体調崩すなよ」
「分かってら」
息子の気合の入りように、父は苦笑いしながら応じた。毎日のように誰よりも早く起きた。身体を張ってどうにかなるところは身体を張った。馬鹿みたいなことを言って父と母を毎日笑わせた。努力をした。努力をして努力をして努力をして、両親にとって自慢の息子でありたかった。
自分はそれ以外何も持ち合わせてなどいないのだ。
「こいつ、形が甘ぇな」
「ぐっ………」
「んな顔しなさんな。焦らず身体で覚えろ」
父が形の崩れた豆腐を廃棄するのを見て、石田は唇を噛みながら俯いた。丹精を込めて作り上げたものを一瞬にして否定されることよりも、リソースを掛けている両親への申し訳なさばかりが募っていった。
修行を初めて一年が経過したが、その修行の成果が滲み出てくるのは鈍亀が可愛く早く見えるほどに遅かった。あまりにも先は長かった。あまりにも。
二年経っても、三年経っても、その努力が花開くことは無かった。だけどいつかは花開くと信じ続けていた。自分の才能が。自分の力が芽吹き、そして報われるのだと信じた。信じて、信じて、信じ続けて。
「親父っ!」
「………」
「親父ーーーーーーー!」
修行が始まって既に七年が経った。一向に作った豆腐の形が良くならない石田だったが、もはやそんなことを言っている場合ではなくなった。父が、病に倒れた。
復帰の目途は立たなかった。数か月の時間を経ても、父は一向に目を覚まさない。母も身体が強いほうではなかった。自分も未だ修行中の身。誰も店を続けられる者がいない。
父の場所であったこの豆腐屋は、閉める以外には無かった。
「すまねぇ………親父」
石田は永遠に締め切られた豆腐屋のシャッターの前で泣き崩れた。何度父に厳しく叱責されようとも泣くことはなかったが、この時はじめて家の前で泣いた。祖父の代から続く豆腐屋の歴史は、ここで幕を閉じることになった。
豆腐とはこんなにも作るのが難しいものだったとは、想像だにもしなかった。決して侮ってなどいなかったが、ここまでの苦労は想定していなかった。
次の仕事はなかなか見つけられなかった。新卒の学生やキャリアを積んでいる中途採用ばかりを採用する企業。しかしここで諦めるわけにはいかなかった。自分が働かずして、身体の弱い母をどうやって支えていくというのか。
断固として諦めてたまるか。様々なことを教えてくれた父のためにも、精神的に支えてくれた母のためにも、こんなところでは立ち止まれない。何度断られても、何度面接でお祈りされても、決して諦めない。
毎日のように電話を掛け、街を回り、職を探してその結果、見たことも聞いたこともないような求人にありついた。遠い地ではあるが、母の生活と父の療養を約束してもらえることに加えて自身にもきちんと給与が出るらしい。涙をこらえながら電話口で何度も謝辞を言って電話を切り、当日を待った。
なるほど分からない。
一体自分は何故こんなところにいるんだろうか。これは一体どういうことなのだろうか。石田が放り込まれたのは一瞬でも気を抜いた瞬間に命を失う、荒れ狂う波に呑み込まれそうな一隻の船のうえだった。
深夜で真っ暗だが、恐らく日本の海ですらないだろう。船にいる人員が日本人でないことと、刻まれた国旗が日の丸でないのを見れば一目瞭然だった。
「ーーーーー!」
両手で抱えても超重量のマグロたちが網にかかり、何十匹、何百匹も船に降り注ぐ。食用として問題ないと判断したものを全て締め、専用のタンクに入れるのを繰り返す。
響き渡るのは悲鳴だった。既に同じ境遇の日本人が何名か海に落ちている。大量のマグロの重量に耐え切れずに押し出されて、激しい波風に押し出されて、体力が限界を迎えて、様々な原因で脱落者が出る中でも、石田だけは元気だった。希望的だった。前だけを向いていた。
必ず帰って父と母にまた会うんだ。会えたらその時は、平和な国に生んでくれたことを感謝しなければいけない。まだまだ話したいことだってある。だから生きて帰らなければいけない。身を振るい、全身全霊で波と向き合う石田の背中から漂うオーラはもはや戦士のそれだった。
この漁船で働き始めて一か月経ってから知った事実だが、この船から、十年は降りることができないらしい。
何かの間違いだろう。石田は船のうえで船長の口から初めて聞かされた真実に愕然とし、やがて怒りが込み上げた。だってそんなことは一度だって聞かされていない。
「………冗談、でしょう?船長」
「事実だ。見紛うことなくな」
「嘘だ。嘘だ……」
「嘘なんかじゃねぇさ」
「嘘に決まってる!!!」
珍しく平穏な空と波のもとで、くたびれた船員たちはほとんど皆休憩モードでいびきをかいて寝ている。今起床しているのは船長と激昂する石田だけだ。
船長は堀の深い眉間に皴を寄せながら、にこにことした笑顔のまま激情に訴える目の前の石田を見つめていた。何で拭き取ろうとしてもこびりついて絶対に拭き取れないものを連想させられるような、そんな笑顔だった。
「逃げてやる。次に立ち寄る国で逃げて日本に帰ってやるからな」
「やめておけ、それが発覚すればお前の両親も………」
「両親?今守られてたって関係ない。また別な職を探して俺が守る」
石田は拳を握りしめ、笑顔の船長に向かって叫ぶ。船長は潮水を被ってしなしなになった自分の茶色い髪を右手でくしゃりと撫でると、くたびれた瞳で天を仰いだ。恐らく初めて石田に見せた、笑顔以外の表情。
そして船長は数秒躊躇ってから、再び石田に目を向けて言った。
「違うね。守られてるんじゃない。担保に入れられてるんだ。お前という身を確実に拘束するために」
石田は船の目の前でやや急ぎ目にサインさせられたあの契約書が、何やら日本語ではない言語だったことを思い出した。そして目の前が真っ暗になって、その場でがくりと膝をついた。
ただでさえ、ただでさえ俺の人生には何もなかった。勉学を頑張った、皆を笑わせて友好的な関係を築けるよう努めた、両親に恩返しできるように頑張った、何よりも豆腐の作り方を真剣に学んで実践し続けた。毎日のように父よりも朝早く起きて、父よりも遅く仕込み場を出た。毎日のように手がボロボロになっても、手が動かなくなっても頑張り続けたのだ。それが当然だと思っていたからだ。なのにどうして、こんな。
「こんなのは、騙し討ちだ………!お前は俺を、騙したんだ!」
「騙してなどいない。お前はあれに目を通したうえでサインしたはずさ」
「ふざ、けるな………!認められない。そんな言い訳が認められると思うのか………!」
当然のことを当然にして、初めて報われる日がくるのだと信じていたからだ。なのにこの扱いは一体なんなのか?何のために?一体自分は、何のために。
涙を流しながら船長を睨みつける石田。船長は刻み込まれたかのようないぶし銀の笑顔のままやれやれと頭を掻いて、言葉を選ぶような仕草をしてから言った。
「ちなみに言っとくが、俺は十五年の契約だ。結んでからちょうど、五年になる」
「………じ、じゅう、ご?」
「この船を出る時は、お前と一緒だ」
目を剥いて驚愕する石田。船長はそんな石田にも構わずに吸っていた煙草の火を消して、懐に隠していたビール缶を開けて一気に飲み干す。
そして、ビール缶を持つ手とは反対の手を、膝をついたままの石田に差し伸べていた。
「人間なんて一人で出来ることはたかが知れてるだろ?声を掛け合って、支え合うのさ。お前にも協力してもらう。それが出来そうな男に見えたからお前をこの船に乗せたんだ。誰でも乗せるわけじゃねぇ」
「………」
「一緒に、笑い合って頑張ろう。乗り切って、絶対に帰ってやろう」
船長の男は笑っていた。睨みつけようが、唾棄しようが、何をしようが彼の屈強過ぎる笑顔は決して揺るがない。石田はそれを、本能的に理解していたのだった。
石田が忌まわしい契約書にサインをしてから九年と約十か月が経過した。
「石田船長!やっぱりあなたは頼りになります。恐れながら、百戦錬磨とはあなたのための言葉であると私は考えます!」
「ありがとうございます。ですが私もこの波から消えれば、ただ一人の男に戻るだけですとも。切なきことですな」
「え………?まさか」
「そのまさかです。私は十年の契約ですから、あと二か月でここを降りさせていただきますよ」
石田の後ろで背筋を正していたメンバー達が、息を呑む。彼らと船のうえは、晴れやかな青空が満ちている。長閑な天候など、数か月に一度と言える極限の環境だった。
「石田船長が壮絶な嵐の中でものともせずにグラビア本を読む姿をもう見れない………だと………ッ!?」
「つまり今、倉庫の三分の二を占めている、船長が持ち込んだグラビア雑誌の山が全て無くなるというのか!それは良いことのような、寂しいような………」
「くぅッ!なんと耐えがたきことだ!」
「こんな天気の日はもう半年先まで来ないでしょうから、実質ゆっくり別れの辞を告げられるのは今日くらいでしょうな」
船員たちがあまりの名残惜しさに涙を流す間も、石田は笑顔だった。てかてかと、輝き続ける笑顔。
決してそれは引きはがされることのない笑顔。仲間達と支え合い、笑い合い、この場所を共に生き延びるための在り方を示してきた、そんな笑顔。嵐の中でも決して消えることのない笑顔。笑顔の男がそこにいるのではない。その男が、笑顔そのものとなったのだ。
石田は懐から、ビールの空き缶を取り出していた。道半ばで石田を置いて去って行った前船長の形見であるそれをしばらく無言で眺め、再び仕舞い込む。
あなたがあの時、私が契約書にサインするのを見送らせたら。そしてこの船に私を乗せなかったなら。今頃私に、どんな人生があったのだろうと時折考えます。
しかしながら、それを考えることに意味はないでしょう。私はかけがえの無い、他の誰かに決して盗むことの出来ない財産を得て帰ることができるのですから。
ただあなたに、感謝を。深い、感謝を。
そして石田は振り返り、後ろで言葉を待つ仲間たちに告げた。
「…………笑いなさい。毎日を、心から笑って生きてゆくのです。辛くなったら私を思い出して笑いなさい。滑稽で何の取柄もない、この私を。何故なら笑顔でなければ、頑張ったご褒美も受け取れませんよ」
己の未来を信じなければ、両親に報いようなどと思わなければこんなにも困難な人生を歩まなかったのだろうか。もっと怠惰に沈んでいれば、もっと自堕落に過ごしていれば、もっと楽な人生があったのだろうか。しかし結局、それを考えるものも野暮だ。
この世界を生き抜いたこと自体が尊いのである。在り方が重要なのだ。振り返ればいつでもそこに、他でもなき自分だけの財産が顔を出す。
『リラックスしてください。俺たちは、なるようにしかなりませんから』
……………
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水曜日、中盤戦が終わろうとしている今この時であるが、時刻は既に夕方に差し掛かっている。自分たちの運命が掛かった一週間。その水曜日が終わろうとしているにも関わらず、ヒロ達の空気感は呑気なものだった。
「石田さん。この書類なんですがフォーマットと真逆の書き方になっているので、急ぎ直していただきたいのですが」
「これはこれは時枝さん。そんな書類一枚で人生を変えられるというのならいくらでもやりますとも。しかし如何ですか?美女の一人にでもありつけますか?」
「そういう問題じゃないですって百五十回くらい言ってますよね!?」
「では葛西さんの水着姿を見ることに繋がるのでしょうか?」
「繋がらないに決まってるでしょ………」
石田当人としてはきちんと処理をしているっぽいのだが、それらは全て規則を逸脱したやり方になっていた。そしてその度に不備として指摘すると、石田は必ず葛西の水着姿の話をしてくる。どういうことなんだよ!?
大丈夫なのか。こんなんで本当に大丈夫なのか?とヒロは思った。最後の金曜日に奇跡を起こしてもらわないとマジで困るんだぞ?他のメンバー達が次々に成果を上げたり一皮むけた意思を見せてくれたりしているなか、石田だけ代わり映えする様子がない。あ、伊藤と川村も全然やる気ないんだった。
しかしながら、ヒロ本人すら気づいていないが、もう戦いは終わったみたいなムードになっているのも確かだった。石田がこのまま受注ゼロ件で今週を終えたとて、葛西と北沢による繁華街の荒稼ぎでブーストが掛かっている。ヒロによる大型商談が成功しようとしなかろうと、もはやさして問題はない。繁華街の客足は途絶えるどころか、みるみる増えていっていることもデータで確認済みだ。
それに。
ヒロは自分のデスク上を見た。そこにはこれまでの約二日ほぼ寝ずに完成させた、高橋との商談を成立させるための分厚いデータ資料が置いてある。奥山と葛西が一緒になって探してくれた資料が基になってできたものであり、独自にまとめた内容までふんだんに含まれている。これさえあれば次に奴と向き合う時に困ることはない。
つまりもう、準備は万全ということなのである。石田がてかてかした笑顔で書類を修正するのを眺めながら、ヒロは早く今週が終わんねえかなと考えた。楽しみにしてることが結構色々あるんだよ。皆と一緒に寿司を食いたいし、何よりも渚と。
その時、ヒロの社内用スマートホンが鳴った。呑気な声で応答すると、電話してきていたのは緊迫した声の葛西だった。
『…………時枝さん。申し訳ありません』
「はい。………どうしたんです?」
彼女は息を切らしていた。想像を絶するほどに一刻を争う事態の雰囲気に、ヒロは息を呑まざるを得なかった。
『売上、全部取られそうですう。しかも、北沢さんが意識不明で』
「え?全部取られた?意識、不明?…………??え?な、何が」
『一旦謝罪までに。後ほどまた報告させていただきますねえ』
そして電話は切られてしまった。ヒロの頭はたちまち真っ白になる。電話の向こうは何かざわついていた。叫び声のようなものがたくさん聞こえた気がするけど、一体何が起こったんだ?
「い、行かないと………」
二人に何か危険が及んでいる?あの繁華街のことだ。得体の知れない何かがあってもおかしくはないことだった。危険だ。あの二人の命に代えても達成しなければならないノルマだの売上だのはこの世に無い。
何故万が一を失念していたのだろう。こういった時のための自分であったはずだった、それなのに。厳しく自分を戒めたヒロはそれ以上考えるのは後に回すべきであるという結論に至る。そして焦燥感に駆られるがままに、全力で走って会社を飛び出した。
「待っててください、二人とも………!まずは状況を把握しないと………」
その五分後、書類の修正を終えた石田が顔を上げててかてかとした笑顔を主張したが、既にそこにヒロはおらず首を傾げたのだった。
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時計を確認すると定時まではあと一時間を切っている。奥山は未だに不安を抑えきれない表情で受注件数をAIに報告し、デスクについた。ヒロは居ない。どこかに出てしまったようだ。隣に座っているのは文字通りに寝ぼけたツラで虚ろに天井を仰ぎ、いびきをかく古谷だけだった。
「………悠馬は、今の状況をどう思ってるの?」
「んごがっ。ペンギンが………にちょうはっせん………んごがっ」
皆がそれぞれ、自分のゆくべき道を見つける。そんな風に見えた。この一週間は追い詰められてばかりだったけれど、それに見合った何かを手に入れたとばかりに瞳を輝かせている。自分の世話をしてくれた葛西さんもそうだし、北沢さん、そしてこのいびきをかいて寝ている男もだ。あの頬に傷を作った日以降、何か雰囲気が変わった気がする。
私だってみんなの役に立ちたいのだと、そう思う。一か月で現場に駆り出された未熟者にしては悪い数字でこそ無いかもしれないが、なかなかまとまった数字には結びつかない。
書類を作っておこう。そう思って立ち上がったとき、視界に違和感を覚えた。ヒロはこの時間に姿がないということは、外に出ているはず。なのに、そのヒロのデスクに誰かがいる。人影がある。
そろりと数メートルばかり離れたところから覗き込むと、そこには伊藤と川村の姿があった。ヒロが徹夜で作り上げたという努力の結晶、その分厚い資料を持ち上げて何か、聞こえない声でやり取りして二人の女が笑っている。
「いひゃ!」
奥山は足元に置いてあった小さなコンテナに気づくことができず、その場で大きな音を立てて転んでしまった。当然、気づかれた伊藤と川村は驚いた顔をして振り返る。
見ていたのがヒロでないのを確認すると、伊藤は取るに足らないという顔で嘲笑し、膝をついた奥山を見下ろした。
「あら?よりによってあなたなの?」
「………」
「悪いけれど、あちらに行ってくださるかしら?私たちはここで重要な用事があるのよ」
クスクスと笑う伊藤。しかし彼女が何か間違ったことを言っているのは、はっきり言って顔と笑い声が証明しているように見えた。顔と声で人を判断するなど未熟千万だが、まだ経験の浅い奥山からすればそれくらいしか判断材料が無い。
「………な、何しようと、していたんですか?」
「あなたには関係ないことよ。ねえ?」
伊藤が何ともない笑顔で、横にいる川村と笑い合う。明らかにそれ以上の追及をさせたくないという空気感がある。しかし決して、怪しい二人を逃したくはない。
「それを持って、どうするつもりなんですか」
「しつこいわね」
資料を手に持った伊藤は笑顔から一変、こちらを睨みつける。それを受けた奥山は再び恐怖し、縮み上がってしまう。温室育ちもいいところだったのかもしれない。
「こうするのよ。いいわ、退屈だし。あなたが見ていくって言ったんだから、とくと見てなさい?」
再び口に手を当てて嘲笑した伊藤は、川村が運んできたシュレッダーの機械を見てほくそ笑んだ。
奥山がまさか、と思った瞬間には遅かった。ヒロが徹夜で作り上げた資料が一枚一枚、起動したシュレッダーによって餌食になり、細切れになっていく光景が目の前に広がっていた。
一枚。また一枚。分厚い資料だが、部分的にであっても欠けて良いような内容じゃない。あれの内容ひとつに、組織が得るであろう利益の大きさが全て懸かっている。乗っている。それなのに彼女たちは何をしているのだろう。
そして私自身は、何をしているんだろう。
「時枝さんのお仕事を減らそうと思って。私にも出来ることがあるはずって思ったのよぉ。ね?分かってくれるわよね?」
「………そ、そうなんですね?」
「ええ。そうよ。キャハハ」
「はは、ははは」
笑うことしかできない。自分が尊敬している時枝が作り上げた血と涙の結晶が、シュレッダーに吸い込まれていく光景にとてつもない違和感を感じておきながら、止めねばならないと分かっていながら、私は突っ立ってその光景をありありと一秒一秒じっくりと認識をしながら、ヘラヘラと笑っていた。
彼女らの無言に放つ圧に、何も言うこともできず。質問することすらできない。それが本当にやるべきことなんですかと、先輩である葛西なら即座に訊くだろう。なのに自分はそれが出来ない。
笑い続けていた。もう資料は半分くらい消えただろうか。ずっと目の前で楽しそうに笑う伊藤と一緒になって、自分も笑い続けていた。へらへら、へらへらと。




