第26話 ギャルってさあ、誰よりも純情持ってる証じゃん
火曜日も終わり、時刻は十九時。命運がかかった一週間は残すこと三日となったタイミングにて、ヒロに吉報が入った。一時的なものでしかないが売上を大きく足しにして、最下位脱却が現実的なものになってきているということである。
これはいよいよ、本当にいけるかもしれない。正直に言って無理だと思っていた。覚悟だの腹を括っただの、そんなものは詰まるところ子供騙しでしかないのだが、その子供騙し意外に縋れるものは無かったということである。しかしヒロ達の想いは現実になろうとしていた。ヒロの意思を受け継いだ者たちによって描かれた空想の逆転劇が、本物になろうとしている。
「時枝さん。私たちもそろそろ上がります」
「ああ。ありがとう」
「また明日ねえ、時枝さん」
「砕けてますね!?」
恭しく頭を下げる奥山と、呑気に手を振ってくる葛西は二人揃ってヒロに挨拶をし、フロアを去っていった。結局今日も俺一人でこの場所に取り残されている。先日の出来事を機に葛西の距離感がバグったような気がしているが、気がしているだけだと思いたい。
古谷と奥山はそれぞれ回って、あまりにも早い独り立ちを果たしたとは思えないくらいに件数を稼ぐことができているらしい。それだけでも嬉しすぎる誤算であるのに、葛西と、謹慎になってしまったがこっそり葛西のサポートに回っている北沢は繁華街で想像以上の数字を荒稼ぎしてきてくれていた。
北沢がやっていることがバレれば、相当面倒くさいことになるのは間違いないだろう。ただ、結局のところ全員の今後というものが懸かっているのだ。北沢もヒロも己の身体を懸ける思いでなければ、この先の壁をぶち破ることはできない。なので明日も、北沢には悪いが葛西を手伝ってもらう予定だ。
それだけのリスクを負いながら取り組んでいるという事実がブーストになっているのかは分からないが、数字の伸び率は、こんな俺たちだって本気でやれば少しはやれるだなんて勢いの伸び率ではなかった。この部署のパワーバランスをぶち壊すような伸び率である。つまり、このペースを金曜午前中まで維持さえすれば巻き返せる。最下位を抜け出せる。
「………約束どおりにお前と、ずっと一緒にいれるよ。渚」
二週間くらい前だっただろうか。都内のなんか有名だという、名前は忘れたけれどデカい神社とその近隣を渚と一緒にデートして、その帰りに食べ歩きでファミレスに入ったら鳴上が何故かいたのは。そして一緒にパフェを食べながら、隣合って撮影したツーショットを眺める。
渚はヒロと一緒で幸せそうな、とびきりの笑顔。ヒロは何とも言えないがとりあえずパフェが美味い、という呑気な顔をしている写真だ。渚とのツーショットは日に日に増えていく。そして渚と一緒に過ごす日々が、俺の瞼の裏に焼き付けられた笑顔の渚が増えれば増えるほどに、増えてゆくごとに飽くなき愛は積み重なってゆくような、そんな気がした。
スマートホンを閉じて、ヒロも帰宅する準備を始めた。本当は今すぐにでも渚と会話がしたかった。渚は今どうしているだろうか。何をして過ごしているだろうか。俺に会えないことを少し寂しがりながらも、器用なあいつのことだから充実した日々を過ごしているに違いない。来月頭、胸を張って再会しよう。渚に、大事な、大好きなあいつに心から笑って再会するためにも、今は堪えるんだ。
待っていてくれ。渚。ヒロは鞄を片手にエレベーターに乗り込み、一人、近い天井を見上げて拳を力強く握ったのだった。
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ヒロに会いたい。
やだやだやだやだ。会いたい。今すぐにヒロに会いたい。どうしても会いたい、せめて話しだけでもしたい。だけど今週とてつもなく忙しいって言ってたから、今までみたいに連絡もあんまり気軽に送りたくない。
渚はベッドにダイブして、手足をバタつかせていた。深刻なヒロ不足による発作がおきているのである。そしてそれによって溜まってゆくストレスを、趣味のイラストと日記とバイトの料理にぶつけていた。
退屈なのに全然時間が進まない時計を見る時みたいな目で、自分の机に広げられたものを見た。渚のイラストは既に半分くらい完成している。つまり工程としては約七割方が完了しており、あと少しのはずなのだがそのあと少しが果てしない苦行に感じてしまって仕方がない。
嫌だ。嫌だ嫌だ。やっぱりあんな約束しなければ良かった。来週まで会わないなんて、そんな約束すべきじゃなかった。だってこんなに寂しい。辛い。苦しい。ヒロに会えない、声が聞けない。それがまさかこんなに精神的に苦痛だなんて誰が想像するだろうか。
どうしてそんな約束するのだろう。たかが一週間と思うだろうか。一年会えないなら分かるがたかが一週間で何故そこまで盛り上がれるのだと思うだろうか。そう思ったのなら、あまりにも甘すぎる。こちとらネガティブ陰キャ愛情激重依存女。これが、馬鹿にならないほどの不安に苛まれる。
苛まれている。今にも涙が大量に零れそうだ。吐きそうだ。心臓が潰れてしまいそうだ。仮に明日の朝起きたら突然腕が片方無くなっていても、きっと私は今この時ほど辛い思いをしないだろう。私が一緒に居てあげたほうが絶対にヒロの生活水準を上げてあげられる自信があるのに。むしろそういう時こそ、一緒に居てあげたほうがいいと思うのに。
渚は納得できないとでも言いたげな顔で、ふかふかの白い枕にぼふっと顔を埋めた。
三年前はまだ、戸惑いのほうが大きかったからどうにか乗り越えてこれた。あの頃はまだ、いつかまた再会できると、根拠は全くなかったが自信があったからこそ、その気持ちがヒロを呼び寄せてくれたのかもしれない。
だけど今は違う。一度再会したうえで再び話すことができなくなってしまうのは、意味合いが全く異なるように思う。
『だけど俺もあの時からずっと、渚のことが好きなんだ。隣に居てくれるのが渚じゃなくちゃ、俺は嫌なんだ!!』
渚は現実から逃げ出すかのように枕に埋めていた顔を、ヒロの言葉に持ち上げられたかのようにゆっくりと上げた。そしてむすりとした顔で机を再び睨むと、嫌々、渋々と言った様子でベッドから降りて机へ向かう。
いいよ。描いてやる。描き切ってやる。ヒロは再会したとき、遠方への異動か、何かを成し遂げたという報告をしてくるはずだ。そのはずだ。日曜日のヒロの張りつめた表情はそういった表情だった。そんなヒロと再会するのに、私だけ何も成し遂げてなかったら恥ずかしいもんね?分かったよ。やってやる。やり切ってやる。告白して良かったって毎日のように思わせてやる。その覚悟はできてんの?
そんなふうに考えて机に座った瞬間、渚のスマートホンが想像以上の音量で鳴り響き渚の心臓を激しく跳ねさせた。小物感しかない悲鳴を上げて飛び上がってから、画面を見るとヒロからの着信だった。
二重に心臓が跳ねる思いだった。まさかヒロから電話があるなんて。想像もしてなかった。だって会わないってわざわざ約束するくらいだから、連絡も控えたほうがいいのかなと思って我慢していたのに。
もしこれで私が嬉々として応答し、「こいつ電話待ってたな」とか「電話来てすげー喜んでるな」と思われることだけは避けなければならない。それだけは断固として避けなければ私のメンタルが崩壊してしまう。
渚は数回の咳払いをして、極力眠そうな声を作った。そして更に数秒空けてから応答ボタンを押した。
「………んー。ヒロ?」
『ごめん。渚、寝てたか?』
「うん……ちょっと」
『悪かった!また連絡するわ、じゃな!』
「えっ!?い、いやいやいや!だ、だだ、大丈夫!全然!?全然大丈夫だけど!?全然眠くなんかないんだけど!?」
『大丈夫なの!?』
「何切ろうとしてるわけ!?」
『すげー眠そうだったからだけど!?』
ヒロは若干納得してなさげだが、どうにか誤魔化し切ることに成功した。ほっと胸を撫で下ろす思いである。
「………それで?何で電話してきたの?お話くらいなら聞いてあげるけど」
渚は柄にもなく小さく、物憂げな声でそう訊ねた。どんな経緯があったかは分からないけれど、せっかくヒロから電話してもらえたのに話さずに終わることだけはあってはならない。しかしながら、私がヒロと会話をしたくてしたくて仕方が無いという気持ちは決して出してはならない。それがバレたら恥ずかしすぎて、私が死んでしまうからである。ヒロが珍しくあんなに真面目に己の胸の内側を吐露してくれたというのに、私だけ未だ胸の内側が浅ましいままだなんてバレちゃいけない。
『………渚と話したくなったんだよ。こんな時だからこそ、だ。改めて、毎日の俺の活力の源は渚の笑顔だったんだって、そう思った。いつもありがとう』
「………」
『来月頭、また俺に、笑顔を見せてくれるか?』
「………」
見せてあげてもいいけど、高いよ?と茶化してやりたくなったが、そういった空気でも無いことくらい私には分かっていた。だから、小さくうん、とだけ返事した。
『ごめん。俺のほうからあんな約束してたのに連絡して。渚は元気にしてたか?』
「………うん」
『………あのさ。この後少しだけ、会って話せないか?少しだけでも渚に会いたい。渚が好きなもの買っていくよ。顔が見たいし、話したいんだ』
ヒロが情けなさそうな顔をしているのが手に取って分かるかのようだった。何となく、高校時代、あの眼鏡の呪縛に掛かっていた頃のような顔をしているように見えなくもない。
辛い時なんでしょう?頑張り時なんでしょう?私がご飯を作りに行ってあげようか。家事なんて全部してあげるし、すっごく豪華なお弁当を毎朝作ってあげるし、何よりも毎朝毎晩私がお出迎えとお見送りをしてあげる。そしたら今少しどころか、帰ってくれば私といつでもお話し放題、会い放題。私が必要でしょう?私を望むんでしょう?私はそれでいいよ?切り込むところは、私の目には無数にあるように見えた。
「………だめ。約束したでしょ?今週は会わないって」
『………』
「ちゃんと約束守って。私、成長したヒロに会えるのを楽しみにしてるもの」
『………分かった。ありがとうな』
「………」
『電話とメッセージはしてくれるんだろ?』
「………うん、いいよ?」
そうやって私のこと、都合よく使うんだ。私がどんな気持ちかなんて微塵も知らないくせに、クールに、大人に妥協できちゃうだなんて、おバカさんだね?
『………早く会いたい。お前に。会いたくて会いたくて、もう我慢できないんだ』
「………」
『ごめん。俺、我儘ばっかり言って。要件はそれだけだから。何かあったら連絡入れてくれ』
「………うん」
『じゃあね』
「うん。またね」
渚はヒロとの電話を終えると、無言で机に向かってペンを持った。真剣に、寸分の妥協もない瞳に映るのは目の前と、この先にある未来を掴むためのエネルギーを放つ小さくも、力強い炎だった。何でも出来る気がするって、私は無敵だって、電話たった一本で思えた。だけどきっと、ヒロの声じゃなかったらこうはならなかった。ヒロの言葉以外じゃこうはならなかった。
「………我儘なんかじゃないよ。ヒロ」
私だって、今の言葉をすぐに撤回してでも会いに行きたいんだから。やがてペンを滑らす渚は、何度目かの集中モードに突入していた。
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……………
物事はきちんとしていなければならないというふうに思う。人はきちんと生きるべきであるというふうに思う。
しかし世の中をのさばる人間と呼ばれる者たちは、総じてそこまで色々と考えながら生きているわけではない。その時その時、それっぽい仮面やそれらしい理屈に頼って生きている。
世界が自分をおかしいと指差しているのか、自分が世界をおかしいと指差しているのかは分からない。あるいはその両方である気もした。
他人から盗んだそれっぽい仮面やそれらしい理屈を、これは生来自分のものだと主張して生きる。それがこの世界の為になるなら良いのかもしれない。だけど、この世界の為になるかならないかなんて、分かるわけもない。
いっそ考えるのも、もう馬鹿馬鹿しい。
捨てて消し去ってしまおう。
もともと、そういった気質が備わっていたのかもしれない。
ランドセルを背負い、帰ってきた葛西を出迎えたのは満面の笑顔の両親だったが、葛西はどこか、腹の底にある激情から上手く目を背けて一緒に笑っているところがあった。
「桃の為にお風呂沸かしておいたんだけど、ごめんねえ。私ったら、栓をしてなかったみたいでえ」
「お母さん、ありがとう。大丈夫。私、お勉強するから。忘れないように紙とかに書いておいてね」
「おおっ、桃!もう帰ってきたのか?お父さんと一緒に公園に行こう!子供は外で遊ぶのが一番だ!」
「お父さん。私、今からお勉強するからいつも通りお酒飲んでてね」
「べ、勉強!?」
「六時までお勉強。そのあとご飯食べて、七時にはお風呂」
「スケジュール管理!??」
父は目玉が飛び出すかのような勢いで愕然として葛西を見つめていた。まだまだ年端もいかない可愛いはずの我が娘が自分を見上げ、自らのスケジュールを話し始めたあたりから父は額を手で押さえ、まるで脳に血と酸素が足りていないかのようにふらつき始めた。
自分よりも全然しっかりしていない両親の在り方に、葛西は常にフラストレーションを抱えて幼少期を過ごした。
「ちょっとお父さあん?勉強は別に悪いことじゃないですよ。桃は私たちと違ってちゃあんとした子に生まれてくれたんですから」
「えっ!?う、うむ………。桃は我が家の宝だ!!」
そしてそんなふうに愕然とする父を、母が呆れてなだめる。もはや見慣れた光景だった。何百回目の光景なのかももはや分かりはしない。
愛されている自覚はあった。根本的に必要なものはあるはずなのに、なにか腑に落ちない感覚だけがずっとあった。まるでパズルのピースがひとつだけ欠けているかのように………。
時は流れて、葛西は中学生になった。
「今回のテストも桃さんが一位ですね」
「皆も桃さんを見習うように」
この中学校に、葛西よりも真面目で優秀な優等生が存在しただろうか。
『葛西 桃です。皆さん、この夏はいかがお過ごしでしょうか。三年生は今回の夏休みを如何に過ごすかが受験に大きく影響しますので、勉強時間と習慣づけを強く意識してください。二年生は………』
テストは毎度満点を取り、スポーツもできて文武両道、部活動は茶道部で真面目に活動して和を学び、誰よりも規範的な態度を取った。広く人と会話をして友好を深めることもできた。
「桃ちゃん。ここの単元教えてよ」
「私も教えて欲しい」
「も、もう。私よりも先生のほうが分かりやすく教えられるよ」
眼鏡の位置を直して、染まった頬を手で隠しながらクラスの女子生徒に勉強を教えていた。
私は皆が思うような、立派な人間なんかじゃない。ただ、人よりも出来ることが多いかのように見えるだけ。
恐れ多いと口にし、誰一人として葛西と親密な関係を築こうとしなかった。決して学内で孤立しているわけではない。ただ、親睦をどうしても深めるのが困難というだけなのだ。相手は恐れ多いと心の距離を一歩置き、葛西は自分の心を開く術を知らない。
晴れの日も雨の日も風の日も霧の日も曇りの日も雷の日も関係なく、帰り道はたった一人だった。関わりの薄い知己とも言うべきクラスメイト達は、区切りのいいところで去ってしまう。
友人同士で楽しそうに話す声。
恋人同士触れ合い、親密を深める姿。
自分の感情を遠慮なく吐き出す。それは意見のぶつけ合いとは根本的に異なるものだ。私はそれを知らない。あんな風にして、誰かと喋ったことなんてない。
羨ましい。羨ましい、羨ましい、羨ましい、羨ましい、羨ましい、羨ましい。君達は私を羨ましいなどと言って羨望の眼差しを送ってくるが、私なんかよりも余程、君達のほうが幸せそうじゃないか。
理想の世の中というものを、理想の人の在り方というものをいつも頭の中に描き続けてきた。だけど両親や、君達の素直で楽しそうな笑顔を見ているとどうでも良くなってくるよ。私も混ぜてくれないか?私のことも仲間に入れてはもらえないだろうか。そう言えばいいだけだった。そんなの理解していた。だけど言えなかった。だって私は。
羨ましい。皆の規範だ。素晴らしい。優秀だ。誰もの手本だ。何でも出来る。羨望の的だ。憧れの的だ。君こそが学生達が頭の中で思い描く夢そのものだ。
私にしか出来ないことなのかもしれない。
確かにそれは私以外には務まらないことなのかもしれない。
いつか私に勉強を教えて欲しいと言ってくれた女の子が。いつか私の文武両道を見て「あなたを目指す」と言ってくれた男の子が。そんな彼らが、新しくできた友達や恋人と笑い合い、次第に勉学を越えた本当に大切なものの片鱗を見つけ出す。
私に話しかけてくれたことなんて、宣言してくれたことなんて、もはや忘れてしまったかのように。
「ああ、あああああ…………!」
生まれて初めてではないだろうか。もう真っ暗の夜にも関わらず自宅を飛び出して、この酷い雨の中で傘をさすことすらせず、強い風が吹き荒れる中を制服のまま住宅街の一角を走り抜けるのは。疾走し、長い髪を振り乱して全身をずぶ濡れにしながら、どこなのかも分からない場所を目指して舗装された道を両足で力強く蹴った。
私は一体どうしてしまったのだろうと思ったが分からなかった。何かを恐れて走っていた。私に話しかけてくれた、慕ってくれた子たちが皆去ってゆくのを見て、何かの衝動が込み上げたままに走っていた。私の中の何かが小さな音を立てて砕け散ったことが原因で走っていた。だけどこれが何なのかは分からなかった。走っていれば世界の果てに到達できるのではないかという馬鹿げた幻想に縋って走り、走り、走り、そして転んだ。
飛べない。人は全力疾走して勢いをつけても飛ぶことはできない。膝を擦り剥いた葛西はそれを受け入れずに再び走った。一体私はどこへ行くのだろうか。規範として生きるとは、一人であることだ。
ずぶ濡れになった身体をタオルで拭き上げて、列車を乗り継ぐ。この時までずっと貯めてきたお金を使って列車に乗り、乗り継いで乗り継いで、安宿を転々とし、次第に聞いたことも見たこともない海の見える土地に辿り着いた。
ここはどこなのだろう?そう思ったが、どうやら港町のようだった。ここには一度訪れた記憶がある。覚えている。両親に連れられて、この場所を走り、食べ歩いた。
しかし一体どういったことなのだろうか。幼少の頃に両親と共に訪れたときよりも、はるかに美しくて躍動的な、『生きた場所』であるように見える。
それが不思議で仕方が無い。時間が経ったからなのかとも考えたが、景観自体はさして変わっていない。何か、別のことが原因だった。青い海に白い波がちらちらと光輝いて、穏やかに日差しが差し、小さな船が向こうに一隻浮いていて、真っ白のカモメが数羽飛んでいた。魚を焼く匂いがして、思わず私は唾を飲み込んだ。
あの日自宅から逃げ出してからもう、二週間が経っていた。両親からも学校からも連絡が山のように届いている。あまりにも突然の出来事に、きっと両親は腰を抜かすほど驚いただろう。だけど、まだ連絡を返したくない。帰りたくない。まだ知っている人間と再び言葉を交わしたくはない。
そしてもはや、そんなことはさしたる問題ではなかった。恐らく今自分は、帰るのに相当な期間がかかる地点にいる。正直に言ってどう帰ったらいいのかよく分からない。この先自分が一体どうなってしまうのか、想像すらつかない。多くの人間に心配を掛け、迷惑を掛けるだなんて、想像すらしなかったことだ。今、それをしてしまっているという事実に、葛西の心は確かに高揚し、ワクワクし、この先の景色をもっと見たいと明確に望んでいた。心の声が聞こえる。自分自身の心の声がはっきりと、高らかに、喜びの歌となって聞こえてくる。
葛西は走った。リュックサックを背負ったまま走る、走る、走る。あの時自宅を走り出た時とは全く違う顔をした葛西は、新たな自分自身との出会いに歓喜して走る。
港からしばらく走ると、突然土と森の匂いに囲まれていた。田舎の田んぼ道に暇そうに大股でしゃがんでいたのは、ギャルと呼ばれる生命体だった。向こうから恐る恐るといった歩調で歩いてくる葛西を見つけたその金髪ギャルは、驚いたように目を剥く。
彼女はここら辺の高校と思われる制服を着ていた。高校生なので、当然中学生の葛西よりも年上だ。だらしなくはだけたワイシャツにリボン、見ているこちらが息を呑むほど短いスカート。自分とは全く異なる相貌に遠慮なく見つめられた葛西は身を縮めるが、彼女は至極フレンドリーに声を掛けてきた。
「君見ない顔だけどさあ、ウチと同じニオイするわあ」
「えっ?」
「う~わ!くさっ!汚っ!ウチのクラスのオタク君よりスリリングな臭いすんだけどウケる!大丈夫そ?」
ギャルは鼻をつまみ、飛び上がって葛西から距離を置いた。葛西は若干傷つきながら、目の前の溌剌とした女の子を見上げる。雨に濡れ、何度か転んで泥や汚れにまみれ、変な臭いがする道を通ったりしたから発している臭いだろう。
「着替えもリュックも、髪もお肌もボロボロじゃ~ん。その制服って明らかこの辺じゃないっしょ?ウチそういうのほっとけないからさあ」
「………私、汚いし、名前もどこから来たかも教えてないのに」
そしてそんな汚れや泥にまみれていたから、少なくともこれまでに葛西に近寄る人間は居なかった。厄介事御免。この世界の多くの人間の共通認識。しかし、
「なんとかなるっしょ!あんたは。ウチの勘舐めすぎ。名前は後で聞くわあ」
「………」
「それに、分かんないほうがワクワクしておもろくね?分かっちゃったらつまんないしさあ」
目の前のギャルは呑気で楽観的に笑うと、甘ったるい匂いを纏って近づいてきた。そして葛西の頭に手を置き、優しく撫でた。
「自分に、優しくしてあげなねえ」
さっき港町の景色を見たときの感動を、私は一生忘れることはないだろう。自分の齢では危険と言わざるを得ない一人旅、危険と同居した高揚、興奮、未知、冒険。そしてこのギャルさんの目には、いつもそれを見ているかのような輝きとワクワクが映っていた。
家ではいつも、両親が私を大切にしてくれた。友人とは言えず浅い関係でも、学内でも孤立することは決してあり得なかった。
不思議だ。本当に一人だったのは家や学校で、一人で冒険していたこの時は一人じゃなかったということ?
自分自身という、かけがえの無い一生涯の相棒と一緒に冒険をしていたということだったのか。
その後約二週間、そのギャルさんの家にお世話になった。
葛西家の家の扉が重たい音を立てて開く。両親はすごい勢いで、我が娘を出迎えた。
「桃ぉぉ!!よく帰ってきてくれた!だけど次から一言掛けていきなさい!この一か月、お父さんがどれだけ心配して────………ッ!!??」
「も、桃………!あ、あんた………」
そこに居たのは、成績優秀、文武両道、学内の規範たる真面目な我が娘ではなかった。明るい金髪に派手なメイク、訳が分からないくらい短くなったスカート。そしてあまりにも大胆不敵な態度と笑みで両親の前にふんぞり返り、楽しげにキラキラと佇む姿。
葛西は、ギャルになって帰ってきていた。
「ギャルってさあ、誰よりも純情持ってる証じゃん?」
「「………」」
「ウチも高校行くから。よろな?」
「「(あれ?それって今まで息を吸うくらい当たり前の流れじゃなかったっけ………)」」
それでも、葛西は両親から変わらずに愛される。父も母も娘の変化に驚きながらも、特に母にはそういった身の変化に自身も覚えがあるのか、寄り添ってくれた。
規範であることも文武両道であることも、私の心を照らしてはくれなかった。こうしてこの恰好をしていれば、ギャルになれば、私の心にはあの輝く港町が蘇る。あの港町の輝きは私に、冒険にゆくのだ、お前は決して一人なんかじゃないと力を与えてくれる。耐えがたく堪えがたいものなど、見つめなくたって済む。
私を撫でてくれたあの手と温もりが、優しさが、私の心を奥深くまで照らしてくれたんだ。
『頼れるのは、葛西さんしかいない』
……………
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出店するために用意した簡易的なブースで、葛西と北沢は忙しく商品の説明と販売に徹する。小さくて庶民に程よく需要のある商品のため、とてつもないスピードで売れていく。手伝いを増やしたいくらいのスピードだった。
約百二十分の間、水分補給すらする間もなく動き、喋り続けていた二人。繁華街は恐ろしい程人が多く、人口密度が高いうえに客足もさっぱり途切れる気配の無い恐るべき場所だった。だがどれだけ体力を摩耗したとしても、ここで倒れる訳にも根を上げる訳にもいかない。全ては皆で寿司を食べに行く為、時枝さんと自分たちが今の場所に残る権利を勝ち取るため。
人が捌けた瞬間を見逃さずにすかさず水分補給をして視線を交し合う。
「北沢さん抜きだったら絶対私死んでましたけどお」
「お前を一人になんかしねえさ」
「あーはいはいかっこいい」
我ながら適当過ぎる返しだったと反省した葛西だったが、北沢は露骨に頬を赤らめ、拳を握って天を仰いだ。どれだけ分かりやすければ気が済むのだろうか。別に嫌いなわけではないが。
「葛西、そろそろ十五時だ。後片付けも並行しないと永久に帰れない」
「………ねえ」
「?」
「夜も続けちゃだめなんて決まりないっしょ?最下位脱出さえ終わればこっちのものなわけで。終電ギリギリまで狙ってこうよお」
北沢は汗を拭いながら、冗談だろ?という目で葛西を見つめていた。当然本気でしかない彼女は強気の目で睨み返すと北沢はスッと視線を戻し、この辺でモンスターエナジードリンクを購入できる店を探し始めた。
その後も売上は順調すぎるくらい順調に上がっていく。この調子で、なおかつ今日終電間際まで売上をすれば、最短で木曜日の夕方には最下位を脱出できる目途となった。だがそれはあくまで最短であり、それを焦って狙うこともない。確実なのは元々の計画である金曜日の午前。
「俺らが体調崩したらマジでやべぇなんてもんじゃないからな。時枝さんの顔面が蒼白になるなんてもんじゃない
「………」
「ちょい長めに勝負して行くにしても、慎重に判断しよう」
十九時に差し掛かって、繁華街は夜の光を放つと同時に昼以上の怪しさと人口密度に包まれ始めた。ほんの少しの時間だが北沢がタブレットをいじり、今日の売上も順調だったことを報告した時だった。何か大きなものが動いたような気配を感じて葛西は周囲を見渡す。
「………葛西?」
「………」
呑気な顔でタブレットから顔を上げ、訊ねる北沢。彼は葛西の様子がおかしいことにも、さして心配や焦りは感じていないようだ。
決して気のせいでは無いはずだった。なのに、身体の中で暴れ回る違和感。あまりの違和感。人だかりとその先に広がる薄闇の空、繁華街の匂いに包まれて、何かが起こるかもしれないと、そう確信していた。




