第25話 真面目に勉強してるの
火曜日になった。火曜日が訪れてしまった。十時、いよいよフロア内が本格的に殺伐としだす時間帯に、ヒロはやたら落ち着いていた。大丈夫。何故なら俺は腹を括ったから。何も怖いものはない。
それと対照的に、奥山は不安いっぱいの表情でヒロを見つめていた。親離れできないひな鳥のようである。その隣にいる古谷は相変わらず虚ろな瞳で、夢の中でペンギンの数をかぞえている。おそらく、もうそれが板についてしまったのだろう。
「今日で流れが大きく変わらないことには逆転できない。二人とも、頼んだよ」
「………」
「………ペンギンが、ひゃくにじゅうおくせんごひゃくはちじゅうきゅうまんさんぜんよんひゃくろくじゅうななひき。ペンギンが」
奥山はもはや、隣で熟睡をこく古谷をどつく余裕もないらしい。青ざめた顔のままガタガタと震え、口元を抑えてヒロから目を離さない。ただ、無理もない。当然のことだ。まだ何も知らないだなんて本人たちが一番よく理解していることだろう。心苦しさは当然ヒロも覚えていたので、彼らのために昨晩徹夜し、普段以上に詳しいスクリプトを作ってあげた。そしてそれを使って今朝即席で勉強させてはあげたけど、パラシュートを装着したから何の知識もなしにスカイダイビングできるかと言われればそうじゃない。そんな問題じゃない。だから彼女が震えているのは当たり前のことだった。
今のメンタル状況だと、図々しくも熟睡をこいている彼のほうが頼りになりそうなくらいだ。
「受注一件一件の価値が、今までと全く違う。貪欲にね」
「………できる気がしません。私、どうしたら」
「先輩の姿を見てきたでしょ」
俯きかけていた彼女ははっとしたように顔を上げた。短い時間ではあったが、葛西の背中をずっと見てきていたことを思い出して少し安心したようだ。奥山は迷いの晴れた表情でヒロを真っ直ぐ見つめた。
「難しいことは全然よく分かりませんが、やれるだけやってきます」
「うん」
「ほら!いくわよ!何してんのよ!いつまで涎垂らしてんのよ!汚いわね!」
奥山は古谷を蹴り飛ばしながら、一緒に外へ行ってしまった。どうにかやってもらうしかない。頼みの綱を、他でもなく君達にも握ってもらっているから。
正当な理由なら許容するが、悲しい理由でこのメンバーを解散したくない。解散することが避けられない運命なら、せめて経験を積ませたい。二人がこの先で壁にぶち当たったときに、それを難なく打ち壊せるだけの経験を。
俺はやるべきことをやろう。ヒロは二人の背中を見送ったあと、ポケットに入ってるスマホが鳴ったことに気づいて通知を見ると渚からの連絡だった。内容は今流行っているよく分からないセンスのキャラクターのスタンプが一つ送られてきているだけだった。
「………おはよう。渚」
そうだった。リラックスし過ぎて重要なことを忘れかけていた。諦められない。譲ってなどやらない。負けてなどやらない。決してこのメンバーを解散させないのだ。渚とずっと、一緒にいるためにも。
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……………
驕ってこそ人生か。躍る衝動のままに悪を成し、それをもって自らを証明する。そして恐れられ、畏怖を抱かれ、莫大な自信が血肉になる。それ以外を生きている実感だなんて認めたくはない。
考えるなどおこがましい。知識を得るなど取るに足らない。自分の力さえ信じていれば何でもできるんだ。不安など、迷いなど、自信を培うことができなかった者の戯言に過ぎない。
そう思っていた。ずっとずっと、そう思っていた。男とはかくあるべきだと強く自分に言い聞かせて歩み続けた。それらを全て一言で要約すれば、ただ皆に自分を受け入れて欲しかっただけなのだと、気づくこともできない愚かな男は歩み続けていた。
怖い。怖い。怖い。怖い。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。
本当の愛とは何なのか。その疑問が浮かべばまだ良かったのかもしれないが、その概念を理解出来ないのだから当然そのような疑問も湧いては出てこない。
「毎日の家事に買い物に何から何まで全部私任せ!こっちの負担も考えて!」
「俺は毎日のように稼いできてるんだぞ!だったらお前が稼いで来い!」
毎日のように繰り広げられる夫婦喧嘩の中で幼少期を育ってきた北沢。
時が流れて中学生になった北沢は空腹を満たすために走って、走って、恐怖して恐怖して恐怖して、その恐怖に蓋をした。
「また、万引きしてきたのか」
「仕方ねえだろ?バイト受かんねえし、親は飯作ってくんないし」
つるんでいた仲間が、戦利品を手に持つ北沢に声を掛ける。彼らも同じように戦利品を持っていて、互いに笑い合った。暖かい場所だ。自宅なんかよりも、余程。
ずっとここに居たい。ここに居れば怖い思いも窮屈な思いもしなくて済むんだ。父と母が苛烈に怒鳴り合い、暴力をするところを見なくて済む。暴力を振るわれなくて済む。暖かい。暖かい。暖かい。
物心がつけばつくほどに、自分と他人を傷つけることでしか自分の存在を実感できない自分自身に気が付いていく。
人の減った、放課後の教室。
その教室内で、誰も自分に逆らう者などいなかった。中学生だった北沢は目の前にいた自分よりも野暮な雰囲気の学ランの男の子に消しゴムを投げつけた。
その子は怪訝な顔で振り返るが、北沢の顔を見た途端に怯えたようにして立ち去ってしまった。
「暇だな。俺と遊んでくれる奴はいないのかよ」
「少なくともあいつは絶対お前と遊ばないだろ」
「何でだよ」
両隣には自分と同じく、柄の悪い瞳をした友人が座ってケラケラと笑っていた。
威張っていた。誰よりも悪さをし、誰よりも蛮勇に、誰よりも悪目立ちをして生きた。自分より弱き者をいじめ、強き者も力づくで倒したし、生徒どころか教師すら誰一人として俺に言葉を掛けてくる者はいない。
強い、俺が一番強い、俺に勝てるやつはいない、俺が力で証明したのだ。力、力、力。力こそが空っぽでちっぽけな自分の器を満たしてくれる。
別日。教室で流行りの漫画のことで語り合う男女グループ。感動的なファンタジー漫画で、最後の主人公とヒロインの別れのシーンで皆して泣いてしまったとか。
北沢は両隣に仲間を引き連れてそいつらの前に立った。すると彼らは北沢がこちらを見ていると気づいた瞬間、楽しそうだった表情を凍らせ、強張らせた。
小気味いい。気持ちがいい。それは自分が味わってきたことを味わわせる快楽だ。歪んだ快楽だ。ひずんだ快楽だ。壊す快楽だ。正しいものを破壊する快楽だ。
北沢は彼らが手に持っていた漫画を手に持ってペラペラと眺め、分かった気になって机に投げた。
「思い出に浸るなんて、弱い奴がすることだな」
そう言って、ケタケタと笑ってやったのだった。
爽快だ。この世界だけが俺を癒してくれる。今日も仲間達と一緒に笑い合う。嗤い合う。
だけど退屈だ。退屈で仕方がない。何か無いか?こんなどうしようもない気持ちを満たしてくれる何かは起こらないのか。
『───さようなら』
『………』
仲間と共に笑い合っているうちに、脳裏にちらついた光景。それを舌打ちして目の前にある椅子を蹴り飛ばすことで吹き飛ばした。両隣の友人が突然の出来事に、目を剥いて北沢を見た。
両親は結局歯車が嚙み合う見込みが立たずに、離婚したのだ。
あんな記憶は要らない。邪魔なだけだ。
要らない。要らない。要らない。要らない。消えろ。消えろ。消えろ。
そう思っても、どうしてそんな事になったのかを考えて憤らざるを得なかった。こいつらとつるんでいても、裏路地で仲間とつるんでいても、彼らと笑い合う度に脳裏に浮かぶ光景は父と母が、楽しそうに笑い合う光景だけだった。
母は仕事から帰ると毎日のように酒を大量に飲み、北沢に構うことなく寝た。話をしたいと思っても叶わない。一緒に住んでいるはずなのに、まるで一緒に住んでいないみたいだった。
しかし、たまに母は北沢に声を掛けた。
「………シュン」
声を掛けられて振り返ると、彼女はビールの空き缶を片手に持ちながらこちらを見ていた。
思い出そうとしても思い出せない昔の想い人を見るように細められた、痛ましい瞳で自分の息子を見ていた。
北沢はその瞳を見るたびに激しく胸を痛めた。辛くなった。泣きたくなった。気づかれないようにだが、本当は泣いていた。あのいつも凛としていて、元気で、自信があった母は一体どこへ行ってしまったのか。
「………何だよ」
「真面目に勉強してるの?」
母は北沢に話しかける時、決まってそう訊いた。今も昔も、離婚する前も後も、いつ、どんな季節でも北沢に対する母の質問はそれだった。笑顔だったあの頃もそうだったし、毎日の仕事から帰ってきた後もそうだったし、休みの日もそうだったし、父に殴られて頬を青くした日も何事も無かったようにそう訊いてきたし、今もまたそうだというだけの話だった。そしてその度に北沢は決まって、
「……………ああ」
小さく、それだけを口にした。
「そう」
北沢の返事に安心したのか、興味がないのか、深い意味があったのか無かったのか、何も分からせない声で一言そう言うと、母はまた寝てしまった。泥の中に沈むような眠りに落ちていた。
嘘だ。欺瞞だ。俺という人間は欺瞞に満ち満ちている。今すぐに消えたほうがいい。なのにどうして、一体どうして。俺は消えることができない。
母とのその短いやり取りのたびに、胸の中を掻き回された。そして目の前のことを破壊して、隠れて悪いことをすることでしか、安心することすら出来なかったのだ。
無理だ。無理だ。無理だ。無理だ。無理だ。無理だ。無理だ。無理だ。無理だ。無理だ。無理だ。無理だ。何だよこれ。何だよこれ。どういうことだよ、これ。
暗い夜闇の下で、北沢は血相を変えて街灯が照らす街を駆け抜けていた。ある日いつものように街で悪さをしていた北沢と仲間たちは、上級生たちに追いかけられる羽目になったのだ。調子に乗って彼らの縄張りである屋上を、仲間達と共に好き勝手に荒らしたのがバレた。
あんな奴聞いてない。
停学になっていたが最近復学したという、身体の大きな上級生。殴ろうとも蹴ろうともびくともしない巨躯に、重大な身の危険を感じて踵を返した。
五人いた仲間のうち、既に三人は捕まってしまっていた。捕まった彼らはもうとっくに、巨躯の元に連れていかれただろう。
捕まったら生きて帰れるのか?分からない。全く分からない。否、分かっていた。まあ生きては帰れないだろう。だけど散々万引きをしてきたから、周囲の人たちや警察にも助けを求められない。
恐らく二キロメートルくらいは全力で走ってきた。暗い、街灯の光も届かない住宅街のゴミ捨て場横に腰を下ろして、息を何度も吸って、吐いてを繰り返す。
「あ!あそこに居たッスよ!」
「北沢ぁーーー!」
北沢は目を剥いて立ち上がった。こんな所まで逃げてきたのに、一体どうして。懸命に逃げまわったが、最終的には捕まってしまった。
「逃げるなって。寂しいだろうが」
「……………」
「さぁさぁ、御対面の時だぜ」
頭いくつ分高いのだろうか?目の前に立ったデカい上級生。凄まじい威圧感に、それを思考することすら出来ないほどに、全身を恐怖に支配されていた。
終わる。怖い。嫌だ。助けて。誰か、助けて。
「随分調子こいてくれたじゃねえか。ああーーーーーーッ!?」
「どぐぼっ」
頬を容赦なく殴られ、鼻から鮮血を噴き出してよろめいた。鋼鉄を勢いよく顔面に叩きつけられたみたいだった。目の前にはデカい上級生、周囲はその仲間数人に囲まれている。逃げ場はない。どうしようもない。何もできない。俺は。
「ハハハハ!見ろ!北沢の奴、あれだけ調子こいてた癖に震えて泣いてやがるぜ!」
「ハハハハ」
痛みも涙も、堪えられるはずもない。激痛だ。激痛の中の激痛が身を焦がす。今すぐにでも失禁しそうだ。
罰だ。今、罰を受けている。
仲間たちの足元には、既に鉄拳による制裁を受けた仲間三人が虫の息になり、横たええられたまま踏みつけられていた。それなのに、
「………………笑うな」
ケラケラと笑う声に、こんな時ですら脳裏にちらついたのは、父と母の笑顔だった。そんな母は、もう今はボロボロになっている。痛ましい傷だって顔に残している。
幸せそうに笑っていた。あの二人は幸せになるはずだったんだ。俺だってそうなって欲しくて買い物だって何だって手伝いしただろ。なのにどうして、どうして、どうして、どうして。
「なんか言わなかったか?こいつ。しかも生意気なツラしてるぜ」
「やっちまえ!」
デカい上級生の重厚な鉄拳を躱した北沢は、その顔面を的確に狙って拳を叩きこんだ。的確に穿った拳が上級生の鼻を凹ませる。
「うごぉ!」
お前らみたいな奴らが。
デカ男の一瞬だけ怯んだ隙を逃さず、北沢は再び拳を叩きこんで前歯を折った。上級生の顔と自分の拳に飛び散って彩る血が、温かくぬめっていてもそれを感じる暇さえ与えられない感触を意識のどこか遠くで感じさせていた。
お前らみたいな奴らが。
「ざける、なあーーーーーーッ!」
突進だ。潰されれば呼吸もできなくなる程のデカ男の捨て身の突進。鼻と口から血を垂れ流しながら、鬼の形相で迫りくる。
お前らみたいな奴らは。
彼の巨躯を限界まで引き寄せたことによって、周囲に居た仲間たちは皆散り散りになった。それを見逃さなかった北沢は突進を躱し、倒れ込んだところをすかさず逃げ出した。
「お前らみたいな奴らとは戦ってやらない。俺は違う……。お前らとは、違う!!!」
北沢は逃げた。どこまでもどこまでも。街灯を通り抜けてその先の街灯も通り過ぎて、それでも走るのをやめなかった。
『真面目に勉強してるの』
ずっと胸の内に響き続けるのは、母の言葉だった。
しかし結局その夜のうちにまたしても捕まった北沢は、顔を三発ほど殴られて解放された。
次の日学校から帰った北沢は、顔に無数の切り傷と、腫れた頬に痛ましいまでにガーゼが付けられていた。
彼は仕事が休みで寝ていた母を起こした。疲れて寝ているのを起こされた母は、北沢を眠たそうな目で見つめていた。この時の母はゴミ捨て場でも見るような目をしていた。
そして北沢は、これまでの万引きや積み重ねた悪行、罪を自白した。あいつからも殴られ、母からも殴られると思った。しかし母はあろうことか堪えきれなくなったかのように、クスクスと笑いだした。
「母さん」
「ん?そういえばずっと放っておいてたなって、思っただけだよ」
「………」
真面目に勉強しているのか。母が北沢にそれ以外のことを言ってくるのは一体何年ぶりだっただろうか。そして母がどこか解放されたような瞳で、両腕を広げているのを北沢は驚愕して見つめていた。
「何だよ」
「おいで。」
「はあ?もう何歳だと思ってる。まさか忘れたのか」
「シュンが何歳になろうが、母さんは母さんなんだよ」
北沢は母の胸に抱かれて、気づいたら泣いていた。泣きに泣いた。抱きしめて欲しかったのは母さんじゃないのかよ。なのにどうして。何で俺なんかを、何で、何で。俺は母さんに嘘をつき続けて、欺瞞の塊として生きて悪さをして、それを打ち明けたというのに一体、何で。
「俺は悪い人間なんだ……。真面目になんてやっていなかった。真面目なんかじゃなかったんだ。俺は……」
「シュンが悪い子だってんなら、私が悪い母さんってことだ」
「俺は地獄に堕ちたほうがいい人間なんだ……」
「シュンが地獄に行くんなら、母さんも一緒に地獄に行くさ。だって私はあんたの母さんなんだから」
母に頭を撫でられながら、ずっと泣いていたような気がする。母も泣いていた。どうして泣いているのだろうと思った。泣いてるのはこっちだというのに、一体何故。これまでの何もかも全てを悔いるように、クソみたいに泣きまくった気がする。いつまで母に抱かれていたかなど、もう記憶にもない。
時は流れ、卒業証書を手に持った北沢はたった一人で桜の木の下を歩いていた。やっと高校生活が終わると空を見上げていると、数人の友人が背中から声を掛けた。
「相変わらず自信満々な背中だねぇ。優秀な人間は違うわ」
「そんなことない。まあ人より少し勉強は頑張ったと思うけどな」
「鼻が高いわ」
成績優秀に加え、多くの友人に囲まれて卒業した北沢にあるのは自信だった。
昔とは違う。確固たる根拠を得ての自信。根拠のない自信を持っていても痛い目を見るだけだし、繰り返すことのない罪を繰り返すこともない。
「自信満々に振る舞えば、多少誇張しても周りの奴らは信じてくれるっていうのはあるけどな」
「詐欺とかやるなよ」
「誰がそんなダサいことするか!」
経験談を語ると、友人に痛いところを突かれた。優秀ともてはやされる今の自分の立場なら、そう言われてしまうのも当然である。
「俺は誰よりも勉強して頭が良くなって賢くなって、誰よりも仕事をして。………この世界に、貢献するんだよ」
泣いて謝ったところで、これまでに犯した罪は消えることは無い。
桜の下を歩き去る北沢にあるのは使命感だった。誰よりも活躍してやる。活躍して活躍して、活躍して。自分や誰かを傷つけてきた分以上の貢献と人助けをする。
北沢の中にいつも在るのは、あの日胸に抱いて一緒に泣いてくれた、母という存在だった。
『もうあなたは、導く立場であるという自覚をもってください』
……………
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あと四日間しかない。あと四日間で流れを完全に変え切らなければ、皆で笑顔でお寿司を食べられない。どちらにしてもお寿司は食べたい。だけど、それなら皆笑顔で食べるべきだと切に思う。悲しみに暮れながら食べるなんてことは避けなければならない。そんなことはあってはならないと。
「やっぱりイクラが一番好きだよ、俺は。葛西は?」
「………ハマチ?」
「いい線いくね」
「うふふ。ふふ」
隣で知的な仕草でタブレットを操作する北沢だが、既に寿司のことしか考えていないらしい。なんと呑気な男なのだろうか。ふざけたように笑うのも大変なものである。内心で私が若干イラついているのを感じ取ったのか、北沢はやっちまったみたいな顔でタブレットの画面に目線を戻した。感じ取らせてしまったことに自分の未熟さを感じながら、長い廊下を突き進んでエレベーターを昇り降りして、色々な場所を回って準備を進める。
「古谷はそれなりに出来上がってきたぞ。時枝さんの助けが八割くらいだけどな……。奥山は結局どうなんだ?」
「どうも何も、見た通り?まだ心配かなあ」
「ふむ」
あまり話さなかったはずの北沢の口数が、確実に増えている。頬に傷を作った昨日、何かきっかけがあったのだろう。明らかに、これまでと何か違う晴れた顔をしていた。何が彼をそうさせているかは分からないが、とにかく見てられない傷だったのは確かだった。上乗せするようにその頬をぶっ叩いてしまったのはどうか許して欲しい。
時枝さんが懸命に動いていることを知っている。もはやこのチームは解散したほうがいいのではないかと思っていた。だからこそあの時、心を激しく揺らされたのだ。
ずっと彼の優しい面影が、揺れている。あれだけ熱意を聞かされても何も言わずにいた自分を、目の前で包み込むように見つめてくれていた彼の面影が揺れている。やっぱり彼が、時枝さんが笑顔でいてくれるほうが好きなんだ。好きでいたいから。時枝さんと、皆と、この場所と、私自身を好きでいたいから。
「………時枝さんの分の費用は、私たちで少し多く出そっかあ」
「いいこと言うじゃないか。流石だな。それで葛西、寿司を食った次の日なんだが………」
「?」
「久しぶりに二人で、出かけないか?ドライブとか」
「チッ」
「………弁えてなかったな。スマン」
片手で頬を覆いながらも、器用にタブレットを操作するのをやめない北沢。私と会話しながらも、開発部と連携を取り続けている。社内を歩き回りながらタブレット操作しながら開発部と私と会話をするという離れ業をやってのける男だが、口説いてくるなら口説いてくるでもう少し真剣にやってくれないと困る。
「誰がそんな誘い方で頷くんだかねえ」
「流石にこの場所では生産性が第一だ。どんな手段であれど、どれだけ時間がない状況であれど、逃したくないものには時間を作りたい。その為の手段は選べない」
「何言ってるか分かんない。らんらららんらんらん。らんらーん」
北沢はややジト目で葛西を数秒見て、またタブレットに目線を戻した。
本当はちゃんと理解しているのに、誤魔化してしまう悪い癖は日常茶飯事。
その時だった。にわかに信じがたいことだが、目の前に壁が現れた。厳密には壁と言いたくなるほどの存在感を放った、大男が目の前で腕を組み、北沢と葛西を見下ろしているのだ。
廊下の突き当たり、フロア前の扉。そこで待ち構えるように立っていたのは鳴上だった。泣く子すら黙らせるであろうその立ち姿は荘厳、まるで後光が差しているかのようだ。荘厳という言葉は彼の為にあった。筋骨隆々、身長は百七十八センチメートルという超体格。その力強さに加え、瞳には理知、怜悧、この世のあらゆる賢明を宿している。それが今、二人の目の前に立ちふさがっていた。
違和感を覚えた北沢がタブレットから目を離してそれを直視すると、嘘でしょ?という顔で目を剥いてビクついていた。
葛西は表情を変えない。いつものとぼけていて、何も知らないような顔に徹した。だって何も悪いことはしていないはず。この男が私たちに何か言える筋合いは何もないはずだ。だけど確かに嫌な意味で心拍数が上がり、身体が微かに震えるのを感じざるを得なかった。メンタルには自信がある自分でこれだから、他の人がこの男と向き合った時に感じる威圧感は相当なものなのだろう。
「久しぶりですねえ?鳴上さん。今日も随分気合が入っているようで」
「お久しぶりです、葛西さん。あれだけ陽気で適当だったあなたが、どこか引き締まっている表情であるのを見れて嬉しく思います。…………否。その引き締まったお姿こそが、貴女の本質が顔を出した姿なのかもしれませんね」
「へへ、ちょっと正念場なもので。………何かご用件でも??」
口を噤んでいる北沢に代わってやり取りをし、舌を出す葛西。どこからどう見てもまあ社交辞令は滑らずに済んだだろうと思うが、それにしてもこの大男の鋭い観察眼も到底馬鹿にできない領域にあると思わされた。社交辞令を終えたあとも、そのどこかひんやりと二人を見下ろす眼差しは解除されないままである。
「ええ。今回は彼に用が」
「………?」
鳴上が腕を組んだまま目で示したのは北沢だった。当然心当たりなどあるわけがないと思考を切り捨てようとしたとき、とある仮説が浮かんで背筋が凍る。多分彼も同じ仮説が浮かんだのか、落ち着き払っていたはずの横顔に汗を滲ませていた。
「昨日、最後にこのフロアを出たのは北沢さんだったようなのですが……扉のロックが掛けられていませんでした」
「…………」
「本件はセキュリティに関わる極めてリスクの高いインシデントと判定しています。そのため当事者である北沢さんは、本日より三日間自宅謹慎処分とします」
葛西は北沢と顔を見合わせる。二人して完全に予想したとおりのことを言われて、愕然とするのを免れることができない。この状況で一体どうして。あと四日しか残っていないのに。そしてこの日勢いをつけられるかつけられないかが全てだというのに一体どうして。
ここで一人、ましてやベテランが抜けることは当然、もはや残り四日間での逆転劇は限りなく不可能になるということを意味していた。それを理解していたから、葛西も北沢も即座に返答することができずにいた。
そして私の責任だ、と葛西は自分に対する激怒に燃えた。あの時感情に任せて北沢の頬を引っ叩いて吹き飛ばしていなければそもそもこんなことにならずに済んだはずだったのに。目の前の現実を分析できるように生んでくれた親には感謝しているが、感情のままに取り乱し、周囲を威圧する癖も未だ抜けないままだった。
「すいませんが、鳴上さんも私たちのチームの状況はご存じですよね?この四日間が正念場で。その命には従えませんし、少なくとも来週以降の処罰にしていただけないと」
「いえ、それはできません。この場の誰もに平等に下される罰の存在が忘れ去られた時、フロア内の秩序が崩壊するからです。私としても、時枝さんのチームの追い上げに目を見張っていない訳ではありません。しかしながらそういったことは、今回の争点ではありません」
「…………!」
「私はフロア内における懲罰審議の執行権限を持ちます。気迫と熱意に満たされたお二人を止めるのは私としても全く本意ではありません。しかしながら従っていただけない場合、私は統括を代行してこの場で北沢さんに解雇を命じることができます」
怒りと焦燥で感情がめちゃくちゃになって、搔き乱されて、頭が回らない。とにかくこの男が邪魔なことは分かった。分かったが、どうしたらいい。
何をしたら、この熱気の籠った廊下で誰よりも涼しげな顔で腕を組みこちらを見下ろす理知的な大男を退けることができるのか。先を急がねば。一分が、一秒が命取りになるこの状況、足を止めている暇なんてないのに。皆と一緒に寿司を笑って食べられるかはこの日に全部かかっているというのに。北沢と共に繁華街を走り抜けなければならないのに。
「それは鳴上さん次第で、懲罰の規則や執行について猶予の余地を……」
「葛西」
反論しようとした葛西を、この状況をどうにか変えないことには先が見えないとそう思って反論しようとしたのを北沢が肩を叩いて止めた。
「お前も分かってるはずだ。こいつは『出てきた時点で勝負が決する』タイプのカードなんだよ。やり合ってもどうにもならん」
「はっ?北沢さん。状況分かって」
「時枝さんには迷惑掛けられないだろう」
「…………」
「俺に考えがある。だから大丈夫だ。進めててくれ」
小声でやり取りをする二人を、鳴上は目の色を一切変えずに見つめていた。そして北沢は受けた命に従い、頭を下げ、荷物をまとめて会社を出たのだった。
その背中を追いかけ、葛西は声をぶつける。
「北沢さん!?何考えてるのか分かんないよお」
「いいから!先に行っててくれ!」
鞄を持った北沢が走り去ってしまえば、ベテラン組は葛西一人となった。だが歯ぎしりをして周りに当たることもできない。そんな暇はないから。葛西は準備を整えて車に乗り、目の前だけを、皆と友に在れる未来だけを見据え、繁華街へ向けて走り出した。
……………………………………………………
「一体いつになったら諦めるんでしょうね?うふふ。頑張ったってさほど意味のないことをそうやって身を削って頑張って、それで?何が変わるのかしら!」
「………」
「北沢さんも、ルール違反でもう金曜日まで戻らないんでしょう?あなた達チームの頑張ろうという意思なんて、所詮その程度ってことじゃない!惨めね?苦しいわね?みっともないわね?悔しいとか自分が腹立たしいとかちょっとは思わないの?意思なし、意気地なし♡ 頭も悪ければ、甲斐性もなし♡ ゴ・ミ♡ キャハハハハ!」
世界中の国々の嗜虐を寄せ集めたみたいな笑い声を上げながらも、美貌を振りまく伊藤。そしてその横には永久にスマホばかり眺めている川村がいた。伊藤も川村も思わず見惚れるほど美しい女だが、当然のように資料を真面目に読む素振りはない。傲慢に足を高々と組み、脚をヒロに見せつけている。
ヒロは手に持って見ていた資料から目を離し、我慢の限界に近づく己を律しながら座る女二人に目線を移した。
「頑張ったってさほど意味がない?」
「ええ、そうじゃない。恵まれた才能でも持っていない限り、懸命に努力をするだなんて馬鹿馬鹿しいにも程があるわ。時枝さんみたいなウジ虫レベルの男にもそれくらい分かるでしょ?クスクス」
「………」
「楽な方にいっちゃいなさいよ。そうして一体何が悪いワケ?無駄に頑張ってちょっと評価が上下して終わるよりも、最下位のまま終わったほうがストレートで気持ちいいわよ?ねえ?」
「まあ、努力が自己満足の範疇に過ぎないってのは認めますよ。それは、そうだと思います」
「?」
やけに自分の言葉をすんなり飲み込むヒロを、伊藤は嗜虐的な笑みから怪訝な顔つきに変えて見上げる。ヒロは覚悟の決まった瞳、ただそれだけしか分からせない瞳で伊藤を真っ直ぐに射抜いた。
「だけど、努力なんて自己満足の範疇と思うのと、努力する他人を嗤うのは全く意味が違う」
「………」
「そう思いませんか」
「随分ご熱心ねえ?クスクス」
「はあ。どうも」
伊藤はヒロの真剣さも笑い飛ばし、やり取りに飽きたとでも言うように資料に目を通し始めた。川村もそれに倣って資料を読み始める。
今日帰る時にこいつらが不慮の事故で死んでくれれば、今抱いているこの感情を抱かずに済むではないかと一瞬考えた。そして自分の横面を殴りたい衝動に駆られた。駄目だ。耐えるんだ。自分が置かれてる立場とやらなければならないことをしっかりと考えないと………。
伊藤も川村も、流石に妨害してくる訳じゃない。こいつらを有用に使えるその瞬間を待つ以外にはできることはないんだ。
既に火曜日も夕方に差し掛かっている。今日もあっという間に終わってしまったが、一応計画したとおりに一日が進んでいるのを感じている。そしてふと、ポケットで震えた社内用スマホを耳に傾けると、葛西からの連絡だった。
『時枝さああん』
「ああ、葛西さん。お疲れ様です。如何でしたか?北沢さんがここで脱落したのはかなり痛かったですが………」
『ちょっち詳細は後ほどお話するんですが、ごにょごにょ………』
「…………………………え!??」
ヒロはあまりの驚きに、大きく目を見開いた。葛西が上げた繁華街での売上が、想定を遥かに上回るものだったのだ。
更に古谷と奥山が回ってきてあげた売上を足すと、このペースでいけば金曜日の昼過ぎには最下位は少し余裕をもって脱出できる算段になる。
「…………いける。いける!!」
詳しい話を後ほど聞かせてもらうよう葛西と約束して電話を終えると、横から視線を感じた。見ると、伊藤が心底つまらなそうな顔で頬杖をついてヒロを見つめていた。
「何?まさか逆転の目途が立っただなんて言わないでしょうね?無理よ?無理無理。あなたに出来っこないわ。やめておきましょうよ。能無し、やる気なし、やり抜く意思もなしの弱オスに、存在する意味もなしの時枝さんなんかに出来ると思ってるワケ?」
「ほんと口が回りますね………絶対外の売りで活躍できると思うんですが、明日あたり出ていただくのは難しいんでしょうか」
「出来ないわぁ。私出来なぁい」
「あ!ピッピ?私、私」
こいつらにいつまでも好き勝手言わせてたまるか。そんなことは許さない。俺たちは昨日誓ったから。最下位を抜け出し、全員で寿司を食いにいくのだと。厳密にはそんな約束はしていなかったかもしれないけれど、暗黙の了解で皆分かっているはずだ。
「………このペースを維持して、絶対に勝ち残る。悪いが、葛木さんには一泡吹いてもらうぞ」
嫌々、と首を横にふる伊藤と彼氏と楽しそうに電話する川村を見つめながら、ヒロは確実に勝機を見出して拳を固めたのだった。
解散を賭けたこの騒動、あと7話以内に終わらせたい。終わらせる予定です。




