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私は頑張るあなたの味方!  作者: #N/A
第二章 『若葉色の絆』
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第24話 んごぶべっっっ

 まもなく、今月最後の月曜日が終わろうとしている。その事実を誰もが感じ取っている、そんな夕方だった。


 終業時間になり、周囲のメンバーが次々と帰宅していく中でヒロたちだけが残っていた。伊藤と川村は定時でさっさと帰宅してしまったので置いておいて、北沢と眠りから覚めた古谷は四日間の重要性や今後の動きとかを擦り合わせている。石田は未だにてかてかした笑顔でスクリプトを読み込んでいた。


 奥山にはデスクの整理をしてもらいつつ、ヒロは葛西を呼び出していた。


 葛西が戻ってきたとき、明らかに元気がない顔をしていたのをヒロは見逃さなかった。しかしヒロや北沢、古谷の顔や手にできた擦り傷とそこに付けられた絆創膏を見て、葛西は声も出さないまま驚きに目を見開いていたところも見ていた。ちなみにヒロも葛木との会話の後に北沢から絆創膏を差し出され、ありがたく受け取って頬に貼り付けていた。


 だけど彼女は、そんな絆創膏を見ても何があったのかは訊いてこなかった。何となく理解しているのかもしれない。察してくれたのかもしれない。一致団結して頑張らなければならない。全員でやり遂げなければならない。その為に避けて通れない何かが起きて、それが起きた後に自分たちが戻ってきたということを本能的に理解してくれたのだと、ヒロはそう考えた。


 それはそうとして、葛西はムードメーカーなのでこれ以上沈んだ顔をされてしまうと俺たち全員の士気にも関わってしまう。ヒロの正面に座った葛西はおどけていながら、一切の隙を感じさせない仕草で笑ってみせた。美しい容貌なのでヒロは思わず息を呑んでしまうが、重要な話をするのだからとすぐに持ち直す。


「何かあったんですか?」

「実は、ちょっと頭が痛いかもしれないですねえ。うふふん、うふふん、うふふーん」

「げ……そうだったんですね。すいませんそんな時に」


 しかしタイミングが悪い。月曜日の業績としては普段よりかはマシといった数字であり、到底最下位を抜け出せるような推移には達していないのが現実だった。それを打開するためには、葛西に協力してもらわないといけない。その彼女が体調不良となると、絶望的な状況もいいところだ。


「だけど、力になりますよお?残り四日しかないですもんね」

「はい……この四日しかありません。知恵を貸して欲しいんです。こういった時頼れるのは、葛西さんしかいない。だからさっきも声を掛けたんです」

「………」


 葛西は一瞬驚いたような顔をしてヒロを真っ直ぐに見つめたが、すぐに悲しそうに眉根を寄せて俯いた。


「知恵、ですか……。私見てのとおり考えるの向いてないですしい、お役には立てませんよ。下手の考え休むに似たりです」

「そんなこと無いですよ」


 早坂の息子にヒロと鳴上が二人揃って怒鳴られたあの大混乱の日、ヒロが取引先から戻るまでチームを取りまとめてくれていたのは北沢でなければ当然石田でもなく、実は葛西だった。葛西が居なければみんな各々で訳が分からないまま動き、統率が取れずに何もかもの納期を過ぎて終了していたことだっただろう。だから今目の前でらしくもなく控えめに笑う彼女が、智謀に優れていることははっきり分かっている。


「葛西さん。今足りないものは何だと思いますか?俺ももちろん、例の大型商談が成功できるよう動いています。だけど万が一がある」

「………」

「絶対に、何が何でもこの状況を脱出しなくちゃいけない。その為にも、ここが踏ん張りどころなんです」


 葛西は迷いに揺れる瞳でヒロを見つめるが、すぐに申し訳なさそうな顔のまま目を逸らしてしまう。ヒロはそんな葛西の様子に焦りを感じるが、急かすことはできなかった。人生経験は自分よりも、葛西のほうが間違いなく豊富なのだ。その葛西が迷い、何もできないと縮こまっている様子に、ヒロも口を噤むしかない。古谷の時のように、大きな声や強い態度で迫るのは愚策中の愚策といえるだろう。


「ほら。先日のフロア全体の大混乱のときだって、取りまとめてくれたのは葛西さんだったし」

「それは………動けそうなのが私しかいなくてえ」

「その時の気持ちが大事なんですよ。あの騒動はちょっとやそっと内部を理解していて決断力があるくらいじゃ、何もできなかったはずなんです」

「………」


 追い詰められたように俯いてしまう葛西。だけど今は、彼女のペースに合わせるしかなかった。葛西の協力なしにこの状況を打開できるわけなんてないのだから。しかしどうしても、彼女は口を開こうとしなかった。


「………また話しをしましょう。今日中には絶対何か案を出さないと、明日に間に合わないですから」

「………」


 葛西は全くらしくもなく何も言わずに、ヒロを見つめてこくりと頷いてみせて席を立った。何だかもうそれは、協力的ではないとすら取れる態度であるようにヒロには見えた。それは決して受け入れてはならない。あってはならないことだった。しかしそれを理解出来ていたところで、結局何が彼女の迷いを打ち晴らすのかは分からないままだった。



 ……………………………………………………



「時枝さん。ゼロ件ですよ、ゼロ件!ハッハッハッハッハ!ゼロ、ゼロ!」

「………」


 石田には夕方に小口の案件をいくつか回ってもらったのだが、結果には結びつかなかったらしい。結果にむすびつくのは一体いつになるのだろうか。


 今日の石田の笑顔もてかてかと輝いて、フロア内の照明の光が反射して周囲を照らしていた。殴っていいか?そろそろこの男を殴って逮捕されても仕方が無い気がする。毎日どれだけこの男一人にリソースを掛けていると思っているんだ?落ち着け俺。落ち着くんだ、必ずやこの男はやってくれる。しかしそう思えば思う程に、期待を掛ける程に、裏切られた時の意気消沈は重たくなってしまう。


「石田さん。先日説明したと思うんですが、俺たちは成果が急務なんですよ」

「厳しい状況ですね……。申し訳ありません。キーパーソンにならなければならないこの時に。もしや、あの言葉はまだまだ先の自分に対するメッセージだったやもしれません。僕はまだ所詮、花開くのを待ち続ける蕾だったという訳ですね。悔しい限りです」


 石田は目に涙を溜め、わざとらしく拳を握って震わせてみせて目を瞑った。頼むからもう少しだけ死にもの狂いになってくれとヒロは思った。お前が花開くタイミングとか関係無いしどうでもいいんだよ。今が、この今に全てが懸かっているということを理解していないのか?そう思ったが、質が悪いのは恐らく、石田は今のチームの状況をきちんと理解したうえでそれを言っているということだった。何だか自分まで気が抜けてどうでも良くなってきてしまう。頑張る気満々だった気概すらどこかに吹き飛ばしてしまう石田おそるべし。


 奥山を怯えさせてしまうという失態以降自分の表情管理には常に気を張っているつもりだが、この男の前ではつい素の表情が出てしまう。石田にはそういった力があるのかもしれない。ヒロは聞こえないように小さく息を吐き出して、石田の隣のデスクに腰を下ろした。


「石田さんはそういえば、前職では結構コミュニケーションが活発だったとか?」

「ええ、そうですとも。僕と彼らは長年共に付き添い合った、家族も同然だったというわけですよ」

「それがモチベーションに?」

「そうですね。互いに励まし合い、支え合い、手を取り合って、ゆくべき道を突き進む関係でした」


 今と以前では価値観や考え方が異なるところがあるが、石田のそれはそれで、ひとつの在り方であるといえるだろう。


「石田さん目線で、このチームに足りていないものは何だと思いますか。僕らはどうしたら、どう在ったら、残りの四日間で現状を打破できると思いますか」

「いいえ。時枝さん。僕らは常に最善を走っていますよ」

「………」

「あなたは肩に力が入り過ぎているんですよ。信頼関係が重要と、至らぬ私に説いてくださったのは他でもなく時枝さんだったはずでしょう。それなのにらしくもないのではないですか?」

「坂道を上るのにはパワーが必要でしょう」

「違います。もう、坂道は登り切ったという話ですよ。登り切ったなら、あとは下るだけです」


 石田はそう言って立ち上がると、てかてかと眩く輝く笑顔でヒロの頬の絆創膏を指で撫でた。それを痛ましいものを見て慈しむ瞳でしばらく見つめた後、ヒロの肩を叩いて力強く頷いてみせた。


「自分と、共にゆく仲間たちを信じなさい」



 ……………………………………………………



 この不安をかなぐり捨てて、どこかへ去ってしまいたい。そう常に思っている自分がいた。そして覚悟を決めてそんな気持ちを吹き飛ばした。何をするべきなのかはもう決まっていたのだ。括るべき腹をもう括り終えたのだから、俺が何をすべき何かはとっくに決まっていた。


 なのに信じ切ることができていなかったのは他でもなく俺だったのだ。本当はできないのではないかと思っていたのは俺自身だった。必ずやできると信じ切れていなかった。必ずやできると信じ切った人間というのは、「絶対にできる」とかではなく「やる」と考えるものだ。普段、誰かにしろと言われて呼吸をするわけじゃない。誰かにしろと言われるから歩くわけじゃない。日常生活のなかで、呼吸や歩行を「絶対にやってやる」とは思わない。まるでそんな当たり前に向かうかのように、目の前の事象に挑めばいい。


 ヒロはもう帰ってしまった伊藤と川村以外の全員を呼び出して円になった。時刻は既に十九時を回っており、残業時間もいいところまできている。


「リラックスしてください。俺たちは、なるようにしかなりませんから」


 北沢と古谷は張り詰めていたが、ヒロの言葉を聞いて顔を見合わせ、表情を和らげてくれた。そして案の定、想定はしていたが石田はてかてかとした輝く笑顔のままである。一体何なんだ。マジで。


 奥山は張り詰めた空気が苦手なようで、ヒロの言葉を聞くと緊張に満ちた表情を解き、安心したように息を吐き出して胸を撫でおろしていた。


 つまり、ヒロの言葉によってハッとしたように顔を上げて、焦燥と迷いに満ちた瞳を揺らしたのは葛西だけだったのである。


 葛西はすぐに目を伏せてしまったが、一瞬ヒロに向けた瞳が訴えかけるものであったことを確実に感じ取っていた。このままではいけない。そんな呑気なことを言っている場合じゃない。そう強く思っていなければできない瞳だったことを、ヒロはきちんと感じ取っていた。


 そのうえで、ヒロは肩の力を抜いてメンバー達に語りかける。


「このミーティングが終わり次第、今日は解散にします。長くても十五分にしましょう。俺もう、お腹空いてきたんで……」

「────」

「今日の伸び率でもこれまでと比較すれば充分に皆さん頑張ってくれてるほうなんですが、これではまだ届きません。この状況を打破する必要があります。残されているのはあと四日。何かいい方法はありませんかね?出してくれた案から、採用させていただきます」


 そう言ってヒロは全員の返答を待った。すると頬に痛ましく絆創膏を付けているとは思わせないくらい呑気な顔の北沢が挙手し、落ち着き払った知的な瞳で発言をする。


「それなら今から、寿司でも食いにいきませんか。皆で。回る、庶民が食うやつですよ」

「お、面白そうですね」

「考えてみれば、燕がいなくなった時もチームや全体の雰囲気があまり良くなかったと思います。雰囲気が悪い時って、決まって皆腹が減ってるじゃないですか」

「なんか、北沢さんが寿司を食いたいだけに聞こえてきましたね」

「食いたくて何が悪いんです!?」


 男連中は雰囲気に順応するのも切り替えるのも早かった。北沢が本当にただ寿司を食いたいだけの男に見えてきて困る。でももう、それでいい気がしてきた。俺たちは今や一蓮托生。この機会に全員で晩餐を共にしてみるのも悪くはないだろう。


「なぁ、古谷。お前もそう思うだろ?それとも他に食いたいものとかあるか?」

「………ペンギンが、ごひき。ぐー………ペンギンが、ろっぴき」

「寝てる!?早!」

「スイッチが切れましたねこれは多分」


 古谷は説教する前と何も変わらない虚ろな瞳で口端から涎を垂らし、ぐーすかといびきをかきながら夢の中でペンギンの数を数えていた。それは切り替えが早いとかの次元じゃないだろとヒロは思ったが、これまでのことを冷静に考えてみればこいつなら充分あり得ることでしかなかった。


「何寝てるわけ……?起きなさいよ!このダメ男!」

「ぺんぎんが、ななひき。………んご。ぺんぎんが」


 正面にいた奥山が、眉を吊り上げて古谷を罵倒する。当然睡眠中の彼に声は届かないのだが。そして罵倒したところをヒロや他メンバーたちに見られていることに気づき、頬を赤らめて縮こまりながら恥ずかしそうな目でヒロへ視線を移した。


「すいません、大きい声出しちゃって……。私はお寿司食べた後デザート食べちゃいますが、どうか見ないでいてください」

「寿司は賛成なんだね」

「賛成、します」


 奥山は視線を浴び、頬を真っ赤にして縮こまっていた。ヒロが穏やかな笑顔で親指をぐっと立ててみせると、彼女は顔を赤くしたまま安心したようにこくこく、と二回頷いてくれた。


 ちなみに葛西と奥山が二人で戻ってきたとき、古谷の頬の絆創膏を見た奥山が衝撃に瞳を揺らし、心配の眼差しで数秒古谷から目を離さなかった光景も実はちゃんと見ていました。ごちそうさまです、本当に。なんて長閑な光景なんだろう。もう、ずっとこれでいい。


「時枝さん。時枝さん」

「はい。石田さん」


 石田は挙手をし、ヒロに指名されなければ決して意見を言わない。何とも律儀といえばいいのかよく分からない男である。


「ここは間を取って、今からナイトプールなどいかがでしょうか」

「何をどう間を取ったのかよく分からないですが、意図を訊いてもいいですか?水泳ってそこそこ疲れるし、行っても俺は泳ぎませんよ。疲れて明日絶対起きれなくなりますから」

「違いますよ!美女の水着を見る以外に何をするというのですか!」

「欲求丸出し!??あの、今は女性もいるんで抑えてもらっていいですか!?」

「夜の美女の水着見放題、嗅ぎ放題」

「嗅ぎ放題!?!?」

「夜の美女の水着以上に僕らの渇きを癒すものが他に何があるというのですか?」

「見放題は分かるんですが嗅ぎ放題はどこから出てきたんですか!??」

「なるほど、それも一理ある気がする……」

「一理ありませんよ!??」

「石田さんもたまには生産的な意見を出すことができるみたいですね……」

「生産的ですか!?今のが!?」


 石田の固有結界が発動し、徐々に北沢がそれに毒されていった。生産的ではないだろどう考えても。目の保養にはなるかもしれないけどさぁ。男連中全員でナイトプールの端に体育座りして水着の女性眺めてたら怪しまれるだろ。


 奥山は石田と北沢を見て、よく分からないまま雰囲気に流されるかのようにして「あはは」と笑っていた。これはいけない。彼女は社会人になったとはいえ、まだまだ幼い側面を残している。そんな彼女の純情を男の汚らわしい戯言で汚すことは許されない。乙女の純情を踏み躙ることは日本国憲法によって禁じられており、破れば即死刑に処されることになる。


「えっと、あすかちゃん?この人たちの言葉は気にしなくていいからね?」

「だ、大丈夫です。多分?」

「奥山さんくらい可愛いお嬢さんが脱いでくれるのなら、僕は明日から今までの百倍働くことをお約束します」

「え、えっ」

「石田さんはもう喋んないでもらっていいですか!??」

「そうですよ、石田さん!有り得ませんよ。せめてデザート食べるところを眺めて堪能するくらいにしないと。ねえ?奥山さん」

「えぇっ!?」

「それもアウトですし一周回って生々しいですからね北沢さん!??あすかちゃん!今日はもう帰っていいよ!大丈夫!あとは俺が何とかしておくから!ここは俺が食い止める!」

「へ?で、でも」

「大丈夫だから!ほんとに!」


 反応に困っておろおろと戸惑いながらも、申し訳なさそうな顔で食い下がる奥山。古谷同様、まだ何も知らないが故の瞳である。ヒロは使命感に駆られるがままに、そんな彼女を帰そうとした。


 その時、突如として力強く資料がデスクに叩きつけられる音が響き渡った。


 ヒロ達以外はもう既に残っていないフロア内が、それが反響したきりしんとして誰も何も喋らなくなってしまった。


 それをした人間の正体は、これまで一言もしゃべることの無かった葛西だった。両手で持ち上げた、分厚い資料をデスクに叩きつけていたのだ。突然の出来事に、隣で笑っていた奥山が驚愕していた。あまりにも驚き過ぎて、青ざめる暇すらなく表情を動かせない。


 その場にいる誰もが驚愕に、表情も何もかも固まって動けなくなっていた。それを拒否するほどの支配的な欲求の塊のような何かが、場に居る全員を掴んで固定してしまったかのようだった。葛西はやがて俯いていた顔をゆっくりと上げて、何の感情も乗ってない瞳でヒロを見つめて言った。


「こんな、時間の無駄な話をするために私たちを集めたんですか?」


 ヒロは冷や汗を垂れ流して固まったまま、何も言い返すことが出来なかった。葛西の言ってることはごもっともであるからである。そんなに長話にするつもりが無かったので十五分で終わらせると宣言していたはずだったのだが、既に集合してから三十分が経過していた。


 そして葛西はらしくもなく足音を高く立てて、北沢に詰め寄った。


「お寿司食べるんだったら、この状況を打開してからにすべきだと思いますけど」

「………!」


 彼からすれば想像だにしなかったことだろう。葛西の整った美しい顔がすぐ目の前にある状況に、思わず北沢は頬を赤らめて息を呑んでいた。怒りを滲ませた表情じゃなければ、彼はさぞ喜んだことだろう。否、もう既に彼は喜んでいるのかもしれない。だって北沢を至近距離から突き刺す混じり気の無い真剣な葛西の瞳は、ヒロを見つめる時なんかよりも余程強い感情の籠った瞳なのだから。寿司自体は否定しないのも葛西らしい部分かなと思った。


 しかし、誰もが時を忘却することとなった。何故なら次の瞬間には葛西が手に持っていた分厚い資料が、北沢の頬に音高く、凄まじい勢いで叩きつけられていたのだから。そして高威力のそれをまともに食らった北沢は吹き飛ばされて、壁に叩きつけられた。


「んごぶべっっっ」

「全部、お寿司の話なんか出した北沢さんの責任ですから」


 大の字で倒れてぴくぴくと痙攣し、やがて動かなくなった北沢を葛西は冷え切った目で見下ろしていた。


 奥山は頼りにしっぱなしだった先輩の突然の豹変に、涙目になりながら古谷の腕に縋りついて恐怖で震えていた。古谷は奥山に縋りつかれても未だに涎を垂らし、虚ろな瞳で高い天井を見上げていびきをかいているままである。石田はてかてかした笑顔で、何も言わずに豹変した葛西を見つめていた。


 やがて振り返り、ヒロは葛西と目があった。葛西の目には、歪んだものもひずんだものも決して許さない断罪の炎が宿っていた。


「あすかちゃんと古谷君は、もう一人で外を回らせるべきです。少なくとも今週四日間は、そうすべきです」

「………え?」

「明日から四日間、一人で回って。出来るよね。あすかちゃん」

「………」

「できるよね」


 奥山に目線を移して、問いかけられた葛西の問いかけ。一度目の問いかけにはまだ温かみがあった。しかし二度目の、俯きながら発された問いかけは声色が完全に冷え切っていた。それを聞いた奥山は恐怖に震えあがり、葛西に目をくぎ付けにされたまま、突き動かされるかのように何度も何度も頷いてみせていた。


 新人の場合、どれだけ早くても半年、長ければ約二年は先輩と一緒に外を回って経験を積むのだが、このやり取りをもって古谷と奥山は入社から約一か月をもっての独り立ちが確定した。ちなみにヒロはといえば入社して部署配属されたその翌日にはたった一人で外を回らされていたが、今この場ではその話はしない。


 奥山を冷たい目で見ていた葛西は、その頷きを見届けるとそのままヒロへ視線を戻した。


「私と北沢さんは、明日から繁華街で前回の商品のエンドユーザー向けにアレンジされたものを販売に回ります。午前中開発部に掛け合って準備をし、午後には直ぐ動き始めます。これまでのように法人を一件一件狙うよりも一時的な売上見込みは跳ねあがります。目的は残り四日間で最下位を抜け出すことなんですから、やるべきことはこれ以外無いです。いいですね?」

「………は、はい」

「何かご意見がありましたか?不足でも?」

「いえ、ありません」


 ヒロは息を呑みながら葛西を見つめていた。葛西という女は激しい怒りを纏っているにも関わらず、どうしようもなく可憐で、見惚れるほどに美しいのだ。ヒロの透明な眼差しを受けて、葛西はやっとほんの少し落ち着いたのか目を細めて、息を吐き出した。そして彼女は今度は石田に目を向けた。


「石田さんには最後の一日に全てを賭けてもらいます。明日から三日間、みっちりスクリプトを読み込んでください。そして最後の一日に、私が作成するリストの小口を全て回ってください。よろしいですか?」

「ええ。もちろんですとも。葛西さん」


 てかてかと笑顔を放つ石田を見る葛西の瞳には、まだ緩みと容赦がある気がした。ほんの少しだけだが、石田を見つめる葛西は目の前の彼につられるように笑っていた。社内の業績はどうであれ、人生の先輩には確かに敬意を払っていた。そしてすぐに葛西はヒロへ目線を戻し、表情も引き締まったものに戻った。


「伊藤さんと川村さんも、石田さんと同対応とします。時枝さんはお手数ですが、彼女らの監視をしっかりとお願いします。そして真面目にやっていないと判断された時点で即、他支社異動以上の重たい処分の打診を統括へしてください」

「分かりました」

「私たちにはもうこれ以上、彼女らに意識を奪われる時間の持ち合わせがありません」

「はい」


 めちゃくちゃになってしまったミーティングはこうして、真剣になった葛西によって舵取りされて終了したのだった。



 ……………………………………………………



 解散後ヒロは息を切らして走り、一人で歩いて帰宅している葛西に急いで走り寄っていた。


 振り返った葛西は、酷く沈んだ顔をしていた。しかしすぐ後ろで両膝に手をついて肩で息をするヒロを見て、葛西は驚きを隠せずに声を上げた。


「………!時枝さん?」

「葛西さん。先ほどは、ありがとうございました。予測不能な要素が多いから確実じゃないですが、あのまま寿司を食いに行っていたよりも遥かに勝率を上げられるプランだと、本気で思います」

「………」

「上から目線であるつもりはないんですが……俺の、見込んだ通りです。葛西さんは、俺のチームの誇りですよ」


 ヒロは走ったことで流れた汗も意に介さず、真剣な眼差しで真っ直ぐに葛西を見つめて言った。そんなヒロを見た葛西は身を焦がすような込み上げる感情に、思わずヒロから目を背けていた。


「………?葛西さん?」

「………」

「す、すいません……。本当に俺があまりにも至らないから、本気で怒ってらっしゃいます?」


 恐る恐る肩を縮める思いでそう訊ねたヒロだったが、次の瞬間にはそんな恐れも杞憂となった。おかしさにプッと噴き出した葛西は、笑声と涙声がごちゃごちゃになったみたいな声で笑って、咄嗟に取り出したハンカチで顔のどこかを拭った。目元を拭ったように見えた。そして何度も鼻をすすり、肩を震わせた。


 そんな彼女の背中を見て首を傾げたヒロだったが、振り返った葛西はいつも通りにおどけていた。


「あざまる。マジ超感謝なんだけどお」


 ヒロが全く聞き慣れない口調でそう言ったのは、サバサバとしていて突拍子もない人柄の葛西そのものだった。



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