第23話 僕は役立たずですか
料理教室のバイトも給料と勤務時間を上げてもらい、もはや渚はニートではなくなってきていた。そしてその合間に意外と暇にしているというひよりに電話をし、きたる同窓会の準備が着々と進んでいた。
「どんな服を着ていったらいいの?」
『何でもいいと思うよ。今回は時枝君の付き添いみたいなポジションになるんだと思うから、あんまり派手じゃないほうがいいかもね』
「うん。探してみる」
『いつもの真っ黒のは絶対だめ』
「えー?どうして?」
『目立つでしょ。それに変な浮き方しちゃう』
黒以外の服に身を包むなんていつぶりのことだろうか。昔ヒロに好きな色を訊ねたら、白だと言っていた。白を基調にした服にしてみようか。
日々が充実しているのを感じる。このまま頑張れば、ヒロに胸を張って出会えるような気がする。ワクワクする。込み上げる何かがある。サビで壮大なメロディーを奏でる曲が脳内を駆け巡っているような錯覚に陥っている。その先にある、ヒロとの再会を夢見て。
たまにはこういうスリルが無いと全然面白くないかもしれないと思うし、いずれは越えなければいけない道だとも思っていた。こちとらお子様の精神を卒業出来ない哀れな女。せめて言葉遣いや社交の場での振る舞いくらいはきちんとして、恥をかくことのない人間にならなくちゃいけないと思う。
同窓会が楽しみになっている自分が居る。全然乗り気じゃなかったのに、楽しみにしている自分が居る。早くその時になって欲しいとすら思いながら、ひよりと繋いだ通話をそのままにクローゼットの洋服を漁っていた。
『………すっごいご機嫌じゃん。私は渚が羨ましいよ』
「本当?どうしてご機嫌かという点について全然訊いてくれていいけど?」
『どうせ訊かなくたって分かりますー。渚のことだもん』
ひよりにはお見通しのようだった。渚がゲラゲラと笑ってみせると、ひよりも噴き出して一緒に笑ったのだった。
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雑談力を手っ取り早く上げるために必要なのは、雑談をすることだと気づいた。我ながらなんて天才なのだろうと渚は自分の思慮深さに感心しながら、スマートホンを操作して無料ランダム通話アプリをダウンロードした。
「どうしてみんなAIとお喋りするの?私とお喋りしようよ」
この先の未来に、人間同士の雑談という概念が果たして残っているのか。スーパーやコンビニエンスストアにはAIロボットが常駐するのが当然になり、製造業も飲食業も、国家すらAIやAIロボットが運営するようになるのかもしれない。今自分たちが生きるのは、重大な歴史の分岐点である可能性があるらしい。
「ねえ。未来なんてまだ分からないじゃん。私たちが生きているのは今でしょ?今自分が望むことをしなくてどうするわけ?」
待てども待てども、いつまで待っても通話相手とマッチングしない。話し相手に恵まれている人間はそもそもこうしたアプリを使わないし、或いはアプリを使用する人間というのは何かに飢えている。そう、まるで自分のように。
渚はマッチング画面を切断した。自分みたいな人間に遭遇したって練習にならない。会話に慣れている人とじゃないと、練習にならない……。
どうしようか。本当に、料理教室とひよりくらいしか雑談練習できる相手がいない。話せるのは共通の話題があるからだ。話題が共通しない相手と、どう話したらいいのだろう。同窓会に行けば、ヒロとひより以外にはそういった相手以外いないのだ。
何をもって練習したらいいのだろう。イベントスタッフのバイトとかやってみようかな。雰囲気苦手だけど、会話は多そう。でも、体力使うよね。私体力ないんだよな。コールセンターのスタッフに応募してみようかなとも思ったけれど、私絶対お客さんと喧嘩するよね……。
そんなことを考えていたら既に二時間が経過していたのを見て、胸がずしんと重く落ち込んでいくのを感じた。落ち込んでいると、これまでの頑張りが全部無駄になるような気がする。ヒロが、遠くにいってしまうような感覚がフラッシュバックして、泣きたくなって、自分が嫌いになって、憎たらしくなって、嫌になって、嫌になる。
何だか面倒臭くなってきた渚は、スマートホンをポイとベッドに投げてリビングのキッチンに立ち、鮭をボイルしてほうれん草のおひたしに胡麻を掛け、あさりの味噌汁とご飯を添えて食べた。
食べてから考えよう。食べてから考えればそれでいい。食べなければこの続きすらない。食べさえすれば、いつでも続きを再開できるんだから。渚はボイルされた鮭を美味しく咀嚼しながら、そう考えたのだった。
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しかし食事を終えても時間が経てども、渚の悩みの種を消し去ってはくれなかった。寝室のベッドで横になり、ぼーっと天井を眺め続ける。
そしてヒロのことを考えた。ずっとヒロの傍に居れたらいいのに。あと五日間も会えないという事実に、もはや発狂寸前だ。今すぐそれを取り消して、ヒロに連絡を送ってまた家に押しかけよう。そうしよう。だってそんなの口約束。破ったって大したことないだろう。
そんなことを考えてスマートホンを開き、ヒロのトークルームを開いて送信ボタンに指を伸ばした。そして押す寸前に引っ込めて、首を横にぶんぶんと振って思いとどまる。ヒロの意思を踏み躙るなんて。絶対できない。ヒロは頑張ると言っていた。私も成長した姿を見せてねと約束してもらった。なのに自分だけ浅ましく振る舞うなんて絶対できない。してはならない。
それに、ヒロはこの一週間に遠方への異動もかかっていると言っていた気がする。ここでヒロの邪魔をしてずっと会えなくなるのは絶対に避けなければいけない。
そんな風にして画面を眺めているうちに、あの豊満な肉体を曝す女バーチャルキャラクターのFtuberのことを思い出して憎たらしい感情が胸の内を渦巻いた。私のことを差し置いて、ヒロの目線を奪おうだなんて。許せない。許さない。この世界に要らない。この世界にいちゃいけない。
でも、確かに面白かったし可愛かった。それは認めざるを得ない。認めたくはないが認めざるを得なかった。だけど、胸の内に渦巻いて必死に自己の存在を主張する、負けん気も認めないわけにはいかない。見逃してやるわけにはいかない。子供みたいなことはもう言ってられない。なら一体どうやって。
渚はそこまで考えて、趣味で描いていたイラストのノートを開いた。自分の中の理想のキャラクターは出来ている。
「………私も、やる」
こう見えても、渚は指先が神がかって器用なのでイラストも上手だった。文章は得意ではないが、イラストなら私だって描ける。私だって。私だってやってやる。このまま終わるなんて思ったら大間違い。びっくりさせてやる。ヒロを、びっくり仰天してその場に倒れてしまうくらいびっくりさせてやるんだ。胸の内がメラメラと燃えている。そして後悔させてやる。そんな色気と誘惑に満ちたキャラクターに一瞬でも浮気してしまったことを後悔させてやる。
いつの間にか渚は数分前まで悩んでいたことも忘却し、作業に没頭し始めたのだった。
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……………
教えてください。
僕は役立たずですか。それとも、誰かの役に立てていますか。
僕はそんなに頭が良いほうではありません。やる気に満ち溢れているわけでもありません。夢に溢れているわけでもなければ、才能があるわけでもありません。何かを継続する力も、夢中になれる力も、これが好きだと胸を張って言えるものもありません。
だからどうか、教えて欲しいんです。
全て理想どおりの人生が良いだなんて、そんな傲慢な物言いをするつもりは毛頭ありません。自分らしく生きたいだなんて矜持すら持ち合わせているわけではありません。だけどせめて人並でありたいと願っていました。何も無いのではなく、何も無いを与えられたのです。これはこれで構わない。何も無いのと、自分の幸せや不幸せは関係がないことです。だから僕は、知りたいと願いました。何が自分を人並にするのか。どんな知識や考え方こそが自分を人並たり得るのか、それだけを追い求めていた。
それだけをずっと、僕は。
学ランを着た二人の男子生徒が、夕焼けに照らされて長い影を作っていた。
まだ中学生だった古谷は学生鞄を背負い、友人である男子生徒と一緒に下校していた。夕焼けがインクをこぼしてしまったみたいに、やたら濃いオレンジ色が滲んだ空だった。
友人はよく喋る人間だが、古谷同様、クラス内でもそこまで目立つ男子ではなかった。古谷と彼はつい数日前にあった実習関係の授業の時に一緒だったことで少し話すようになり、まだ短い付き合いではあるが確かに友情を深めていた。
「明日のテスト、絶対難しいよな」
「………どうだろう。分からない」
「どうよ?今日の自習時間の復習で足りたと思うか?」
「分からない」
「ほんと相変わらず、お前は何訊いても分かんないしか言わねえな………」
「………ごめん」
古谷の隣で、夕日に照らされた友人が呆れたように肩をすくめた。
「謝ることはないさ。だって俺も分かんねえしな」
「どうして皆分かるみたいな顔で振る舞えるんだろう。あるいは本当に分かっているのかもしれない。そう思うと自信が無くなる」
「あー!やめろやめろ。面倒臭えこと考えんなって。ガム買って帰ろう。秘密でやってるバイトの給料入ったからさ、お前にも買ってやるよ」
「………いいの?」
「いいに決まってるだろ?行こう」
この友人が何故、これほどまでに自分によくしてくれるのか分からなかった。ちっぽけで、何も持っていなくて、何も知らないこんな人間に何故、与えてくれるのかを考えていた。不可解だった。得体が知れないと思った。なのに、温かさだけは確かにそこにあった。
翌日、テストが終わってからその友人が古谷のもとへ歩み寄った。友人はテストが難しかったのか、額に手を当ててふらついていた。
「やべぇ難しさだったな。お前、どうだったんだよ」
「………分からない」
座っていた古谷がその友人を見上げてそう返答すると、友人は「おう」と言って向かいの机から椅子を出して、古谷と向き合うように座って疲れから逃れるようにして目を瞑った。その声色は質問するときと変化することは無かった。いつも通りだな、と言われたような気がした。
「部活終わったら、何か食って帰らないか?時間ある?」
「あると思う」
古谷と友人は次のテストの対策を終えて街に繰り出した。街に繰り出したとてやることは特にないが、意味もなく二人で歩いた。そして古谷は街の匂いや人々を見るたびに、自分もいつかこの中の一員になることができるのだろうかと考えた。しかしどうしてもそのビジョンは浮かばなかった。
「古谷?顔色悪いぞ」
「………」
「また『分からない』じゃないだろうな。お前の顔青白いぜ。無理すんな、今日は帰ろう」
友人に顔を覗き込まれてそう言われ、初めて自分の手が震えていたことに気づいた。
「何かあるなら、いつでも相談してくれて全然いいぜ。俺たちの仲だろ」
「………ありがとう」
「実は勉強し過ぎたんだろ?俺に隠れてやってくれるな」
友人に肩を組まれながら、夕方の空の下を歩いた。古谷は一秒も勉強をしていなかった。テストの点数が学年でも下位のほうだったのは言うまでもなく、墓場までもっていきたい話だ。
この世界を直視し続けていると、どうしても見えてしまうんです。ちっぽけな自分と、取るに足らない自分と、くだらない自分とがひしめき合って、自我を奪い合って、そして意味が無い夜を過ごし続ける自分というものが。僕はもう、それが嫌なんです。嫌で嫌で、仕方がないんです。
ある日、学校から帰った古谷はFoutubeのアプリをダウンロードした。友人たちが夢中になっているそれがどんなものなのか、ふと興味が湧いたからだ。目に留まったおすすめのペンギンの動画を見た。
確かに、感動が自分の胸を伝うのを感じて目を見開いていた。深い青と景色に溶け込むような白のフォルムに、癒される容貌、そしてそれらが群れを成して歩く愛らしい光景が自分の全身を癒すのを感じていた。
次第にスマートホンだけを見て歩くようになった。他の何にも興味が無くなっていった。現実を見ているよりも、夢に浸っているほうが余程楽しい。何より夢に浸っているその瞬間だけは、自分だって他の人たちのように楽しそうに生きてゆけるような、その為の翼を背中に授けられたような、そんな気になれた。
真っ直ぐで、素直で、何の曇りも存在しない瞳に映るのは夢だった。こんな自分でも、温かさと共に生きてゆけるのだ。希望が、胸の中を駆け巡ってゆく。
ある日の朝。古谷がスマートホンの画面に釘付けになりながら登校していると、後ろから友人がいつも通りに古谷に声を掛けた。
「おはよう。お前、今日もペンギンか」
「………ペンギンは、可愛い」
「お前がそんなにペンギンが好きだとは思わなかったよ」
友人が呑気に天を見上げてそう零したのを見て、古谷は首を傾げた。
「君はどうしてそんなに僕に声を掛けてくれるの?」
「……え?」
「ずっと訊きたかった」
古谷は澄み切った表情と青い瞳でそう訊ねた。それを見た友人は微かに眉を寄せて怪訝な顔をした。
「ど、どういう意味だ?動画見てる最中に声かけたのがそんなに迷惑だったか?」
「そんなことは言ってないけど、不思議なんだよ。どうして僕に声を掛けるのか。どうして良くしてくれるんだろうって」
「………」
首を傾げる古谷を、友人は呆然として見つめていた。
夢が気づかせてくれた。僕は何も知らないのだから、知るしかないのだと。知る以外に、教えてもらう以外に、出来ることは無いのだと。ペンギンたちは僕の心を救い、奮起し、エールを送ってきた。立ち上がれ。僕たちのように生きてみせよ。そう言ったのだ。
何も持ち合わせていなかった。それは理解していた。だからこそ僕は、何が足りていなくて、何が必要で、何が分からないのかが分かることができた。故に質問をするしかなかった。質問。質問。質問。僕にできる愛情表現は、質問することだけだった。何が分からないかを分かれば、相手の求めているものを提供できる気がするんだ。
また別の日。授業が終わると、友人がスマートホンを見ていた古谷に声を掛けた。
「古谷。今日は飯でも行かないか?バイト代が入ったんだ」
「どうしてご飯にいくの?」
「どうして?」
「………」
「………」
「………」
「腹、減ってないのか?それともいつも通り家で食いたいのか?」
「いや、そういうんじゃなくてさ、その」
「………」
「………」
知りたい。彼は僕の友人であるから、尚のこと知らなければならなかった。友人とは一体何なのだろう。それは一体どんなものなのだろうか。何をしたら彼に返すことができる。どうしたら僕は彼と同じになることができる。一体何をしたら、僕は満たされる。
今日は部活動が休みの日だった。友人が別なクラスメイト達と帰ってゆくのを、古谷は後ろから見ていた。いつも声を掛けてくれていた彼は、古谷に一瞥すらくれずに去ってゆく。
一体どうして。彼はどうして去ってゆく。向き合いたかった。キチンと向き合いたいと願ったばかりだというのに、どうして去っていってしまうのか。僕は誠心誠意関わった。なのにどうして。
また別の日に、古谷は一人で歩いていた彼の背中に声を掛けた。
「今日は一緒に帰らないの」
「………」
振り返ってこちらを見つめる友人は、どこか迷った目をしていた。そこには決して投げ捨てて笑い飛ばすことの出来ない罪悪感と、溜めこんだどうにもならないものが溜まってしまったように澱んでいるように見えた。
しばらく何も言わなかった友人は、意を決したように言った。
「悪い。俺はお前とは、合わないと思うんだ」
悔しげに噛み締めた末の言葉に、古谷は目を見開いて訊ねた。
「どうしてそう思ったの?」
「俺の言葉に、そう訊き返してくるのが理由だよ」
友人だった彼は古谷に背を向けて、歩き去って行った。以降、卒業するに至るまでも、卒業した後も、話すことは無かった。短い期間だったかもしれない。それでも、古谷の心には確かに傷を残した。決して癒えることの無い傷を。
愚かだから僕は友人を失った。愚かだから信頼を失った。愚かだから温かさを手放した。愚かだから、何も知らないから失った。失った。失った。失った。
人に心を開くことに意味はない。心を開くに値しない。寝ていればいい。起きている間はペンギンの動画を見て癒されていればいい。それだけあればいい。それだけがあればいいんだ。誰も僕のことを必要としない。誰も僕のことなんて見てはくれない。どうせ誰も僕のことを必要となんてしない。
必要とされるというのはなんて贅沢なことだろう。お金では決して買うことの出来ないそれを羨み、妬み、そして唾棄した。もう取り合ってなどやらない。君たちが僕を必要としないように、僕も君たちを必要だなんて思ってはやらない。そんなふうに思うのはもう馬鹿馬鹿しい。くだらない。意味がない。何の意味もない。何の意味も感じられない。
もう、古谷の瞳はただ空虚で、何も映り込んではいなかった。
空想の中で、自分の愛するペンギンだけを求めた。ペンギンがたくさん。自分が大好きな動物に囲まれて生きる。それでいい。それだけでいい。何も要らない。何も必要としない。自分の人生などを直視するよりも余程有意義で、余程大切だ。邪魔はさせない。誰であってもこの時間を奪わせない。
冬の暗い夜道をたった一人で歩いた。大きな雪の塊を踏み潰そうが、誰かの落とし物を踏み潰そうが、もはや関心などない。どうでもいい。心底何でもいい。何であっても自分には関係が無い話だ。
風が吹く。冷たい風が、暗い暗い道でたった一人の男の子に寄り添うように。しかし耳が真っ赤になるほどの冷風が襲っても、口の端から垂れた涎が凍ったとしても、もう古谷は関心をもつことが出来なかった。
『………悠馬って、冷たいよね。本当に』
『………思いやりを持ちなさい』
……………
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古谷は息を吐き出した。必死になって息を吸って、吐き出してを繰り返していた。そんな古谷を庇い、ヒロは鬼の形相で迫りくる北沢を制止していた。
流石に全力を出した成人男性を止めるのは、余程肉体的にアドバンテージが無ければ容易にできることではない。ヒロは手と頬にいくらか擦り傷を作りながら、全力の北沢を止め抜いていた。痛い。今すぐ蹲りたいくらい痛い。こんな小さな傷で、今すぐに帰りたい。ゆとり教育世代を舐められては困る。そんな痛みは僅かなものだと理屈でいくら否定したとて、肉体や心が上げる痛みという叫びは正直なものだった。肉体だろうが心だろうが、少しでも傷を負えばすぐにその場から逃走してみせる。そんな風に叫んでいるのだ。
しかしそんな痛みを堪え、決して表情には出さないヒロ。そんなヒロに制止された北沢は肩で息を吐き出し、自分の擦り剥いた両手を睨みつけた。
「俺が間違っていることは理解しています。しかし……あいつも間違っていると言わざるを得ないでしょう!」
「北沢さん………。もうあなたは、導く立場であるという自覚をもってください」
「………!」
「それにもう、古谷には説教した後なので大丈夫です。あいつは今度こそ、北沢さんの話を聞き入れる」
「………」
ヒロの言葉に、北沢が疑わしいものを見る目で古谷へ目線を移した。そして、微かに目を見開いた。彼はもう既に眠っていなかった。決意を固めた目だ。現実を受け入れたと、そう告げている目で北沢を真っ直ぐに見ている。
古谷は北沢に、頭を真っ直ぐ下げた。
「失礼しました」
頭を下げられた北沢の驚愕の顔を見て、やっぱり古谷が目覚めていることに気づいていなかったのだとヒロは思った。起きるのが遅いってのは俺もそう思うしなぁ。北沢の思い込みに対して、決して思慮不足だと責め立てることは出来ない。
バツが悪そうに目を逸らした北沢はまだ何か言いたげだったが、色々な言葉を堪え、飲み込んだ後のように息を吐き出した。そして頬から少し血を流している古谷を真っ直ぐに見て、言った。
「行くぞ。これからの四日間は地獄だからな」
「はい」
「頬に傷ついてるぞ。それは俺が悪かったな。まずは絆創膏で………」
そう言いかけた北沢は、咄嗟にヒロへ目線を移して一礼した。そして古谷を連れてデスクへ歩いていった。その光景を見て、ヒロは自分の覚悟が足りていないように感じた。
古谷も北沢も現状を打開するために、これほど真剣になってくれているのだ。なのに自分はいつまで呑気な思考をしているのだろうか。追い詰められている自覚が足りていない。何もかもが足りていない。このままでは渚と会えなくなってしまうばかりか、彼らの覚悟と尊厳まで踏み躙る。そんなふうに考えて、両手で頬を力強く叩いた。
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ヒロは管理室に足を踏み入れた。呼び出されたわけではない。どうせ失敗すればこの場所ではあと一週間の命。宣戦布告だ。ふざけた男に宣戦布告をしにこの場所を訪れた。
葛木は心底だるそうな目で、目の前に立ったヒロを見上げた。
ヒロの顔に刻まれているのは血の滲んだ擦り傷と覚悟だった。擦り傷は先ほど北沢を止めた時にできたものである。何が何でもこの状況を変えてみせる。その為ならば何でもしてやる。必ずや勝ってみせる。それを感じさせた。のほほんとした普段の穏やかで優しいヒロの面影を微かに残しながら、瞳を激情に揺らしていた。
と、明らかに以前と変化を遂げているが、それでもそれを見上げる葛木の心底だるそうな表情も目も微動だにしない。
しかし、葛木はヒロに説教するときですら目を逸らしてちらちらと確認していたノートパソコンを、今回は手でどかして完全に視界から除外した。そしてドンと音を立てて頬杖をつきながら擦り傷ができたヒロの顔を見上げ、面倒くさそうに口を開いた。
「ほんのちょっとだけやる気になったみてぇじゃねぇかよ。あぁ?」
「………」
「今の伸び率じゃ届かねぇが……それを大人しく受け入れるだなんて考えてもいねぇ面だ」
淡々と静かで、手術中の執刀医みたいな口調だった。そんな葛木の言葉にも見えない圧にも屈することなく、ヒロは息を吸い込んで言い放つ。
「必ずやり遂げてみせます。俺たちはここに残って見せる。葛木さんの思惑どおりにはさせません」
ヒロは擦り剥いて未だにじんじん痛む拳を固く握りしめていた。たかがそれだけの言葉を放つのに、一般成人男性の平均的な朝食一食分のカロリーを消費した気がする。魂がごっそりと抜け落ちるような思いだった。そしてアドレナリンが抜け落ちたらすぐに膝が折れるんだろうなとヒロは思った。
決死の覚悟で言い放ったはずのそんな言葉だったが、それを聞いた葛木は鋭かった表情と目を、ぽかんとした顔に変えた。何のことを言っているのか理解出来ないという気持ちすら伝わってきた。
宣戦布告をしておいて、つい焦ってしまうヒロ。何か見当違いなことを言ってしまっただろうか。しかしこの状況を仕組んだのは葛木のはずだし………。
しかしそんなヒロの焦りも意に介さず、やがて葛木は頬を吊り上げて笑って、鋭い瞳でヒロを射抜いた。
「この世界にはよぉ、つまらねぇものがわんさかある。つまらねぇものの下にはもっとつまらねぇものがあり、その下には更につまらねぇものがある。見ててうんざりすんだわ。ゴミ溜めを積み下げるにも限度があるだろうがよ。そして下の下にも下があるこの世界で、最もつまらねぇものが何だか、お前はわかるか?」
「………」
「諦めることだ」
「………」
「俺に向かってそこまでほざいたんだ。みっともなくともやり抜いてみせろ」
引けない戦いの火蓋が、今度こそ切って落とされたのだという実感を全身が得ていた。先の見えない戦い。後に何が待つか分からない戦い。追い求める運命は荒々しく暴れまわる。それをひしと捕まえて離さない覚悟が、ヒロの中で今整った。全身の血が熱く燃え上がり、一秒一秒を全霊で生きる覚悟が、確かにそこにあった。




