第20話 微睡んだ瞳
見方によっては、死体がひとつあるようにも見えたのかもしれない。それほどまでにヒロは、死んだように深く眠っていた。この世界の、自分自身を縛る何もかも全てから逃れんとしようとするかのように。
ヒロが帰り着いたのは結局日付が回った深夜の一時。その場に捨てるかのようにスーツを脱いでそのまま布団に潜りこみ、現在は朝の五時である。
普段と何も変わらない朝日が街を、カーテンが締められていないヒロの部屋の中を照らしていた。ヒロの横顔は朝日に照らされても、ずっと死んだように眠り続けていた。逃れたい。俺を連れていくな。やっと手に入れたこの安寧の時間を、俺から奪うな。そんな風に物語っている横顔にも見える。
楽しげに雀が囀る音が聞こえる。風が嘶いて、まるで虹のように輝く朝日にほんのり滲んだ青空を若葉色が囲み、街を彩った。
この時間が永遠でないことを、ヒロは悔やみ続けた。悔やんで、悔やんで、悔やんでいることにも気づかないまま意識を下へ、下へ深く、深く、深くどこまでも、誰にも、何にも邪魔されることのないその先へ、他でもなく朝日に抗う闇が誘い続ける。
闇は決して忌まれる存在ではない。救いだ。人は闇だと分かっていてもそれに縋ることを辞められない時だってあるのだ。
光あるところに闇がある。彼らは同一なのだ。故にヒロは光という名の闇に身を委ね、どこまでもどこまでも加速し、その先の更なる深くて柔らかくてぬかるんでいて救いようのない衝動とも言えるものに、魂の安寧を求め続けた。
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雑談必勝法のブログ記事や有名インフルエンサーのつぶやきを読み漁っていたら朝になっていた。聞こえた雀の囀りに、渚は眠たい目を優しく擦りながらカーテンを開け、やや受け入れがたい表情でその朝日を受けた。
再来週、つまり月初に入ったらすぐに控えている高校の同窓会準備で渚は絶賛忙しくしていた。ひよりと定期的に話すのはもちろん、いくらか友達を紹介してもらったりして研鑽を積むがやはり会話が全然続かない。会話を無理やり続けようとすると、何故か自然に会話を打ち切られてしまう。
ヒロの前で失言をし、恥をかいて、あの頃のようにみっともなく泣くのは避けたかった。そんなことで泣くなんて絶対に避けたい。泣くなら、本当に助けて欲しい時じゃなくちゃいけない。
今日もヒロに会いに行かなくちゃ。最近すごく疲れてるっていうから、何か作ってあげよう。スタミナがついて、よく眠れるものがいい。何にしようかな。だけど、どうしようもなく睡魔が襲ってきているのも事実だった。ヒロのアパートに上がってすぐ寝ちゃって、逆に迷惑かけるのも嫌だし。どうしよう。
ヒロなら許してくれるかな。
渚はいつもの恰好に着替えをして、入念に身支度を整えた。料理のメモ帳をパラパラと眺めてから、ヒロの住むアパートに行く為にマンションの部屋を出て、鍵を閉めた。
寝起きなのに身体も足も軽い。視界も冴えていて、ダメージなんて無いようにすら感じながら、渚は軽やかに街を歩いた。
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もう既に昼だ。分かってる。俺にはもうよく分かっているんだ。別に時間を確認した訳じゃないけれど、断定できる。
布団にくるまって目を瞑るヒロは眠りと覚醒の狭間で、ぼんやりとした意識が覚醒したくないと闇の下に潜り込んでいるのを感じていた。だけど洗練された体内時計が、もう既に昼過ぎだとけたたましく騒ぐのを感じていた。
部屋の温度、目を瞑っているのに五月蠅い光、肌で感じる空気、暖かい匂い、時折響く誰かの生活音。
それらを総合して捉えて、目を瞑っていても何となくもう昼だと分かる。
許されるならこのままずっと目を瞑っていたい。許されなくたって眠っていたい。むしろ逆に誰が俺を許さないって?一体誰が俺の眠りを妨げることができるというのか。そんな存在が仮にいるとしたら、怒りを通り越して恐ろしくなるよ。だって人間の三大欲求を妨げるだなんて、鬼畜の所業と言わざるを得ない。
「もうとっくに外明るいよ?ヒロ。起きてー」
声が聞こえた。
幸せだ。俺はもう既に満たされている。幸せだ。ずっとこうしていられれば、ずっと寝てさえいられれば俺は幸せなんだ。それなのに。
しかしながら眠りを妨げてくるその声は、決して無視してはならない声だった。だってそうだろう。俺は今まで何度彼女に救われたのか。一体どれだけ彼女に迷惑を掛けて、世話をしてもらって、今こうして生きていられていると思っているのか。無事に生きていられているのも、俺が彼女を想い、彼女が俺を想ってくれているからに他ならない。だから俺は今、被ってくるまっているこの布団を鮮やかに力強く跳ねのけて身体を起こし、彼女に笑顔で挨拶をしなくちゃ。
「お寝坊さんも悪くないんだけどさー、お水くらいそろそろ飲んだら?次起きた時喉カラカラになっちゃうよ?」
それなのにどうして俺の身体は動かない。どうして動こうとしてくれない、その意思を宿してくれない。魂が拒否している。活動を拒否しているのだ。この声の主を嫌いになったとか、そんなんでは断じてない。分かっている。分かって欲しい。分かって欲しいのに、
「ヒロー?」
ひび割れる音がする。夢が、自分独りで完結していた世界が音を立てて崩れ落ちて、そこに何かが無理やり飛び込んでくるような、そんな音が。
「ヒローーーーっ!」
「っだぁぁーー!?」
抗い続けていたヒロだったが、抵抗虚しく、鋭い瞳で狙いを定めていた一匹の獣──ではなく、自分の彼女である美少女にのしかかられていた。
腹に容赦なく体重を載せられ、ヒロは誇張抜きで死にそうになりながら白目を剥き、三途の川でも目の当たりにしたかのような悲鳴を上げる。
「いいんだよー?そうやってずっと寝てたって。私もご飯作り終わったら、ヒロと一緒に寝ちゃうからね?一緒にどこかに行きたかったって後から言っても知らないから」
渚は仰向けの腹にのしかかりながら、澄んだ瞳で真っ直ぐに、グルグルと目を回すヒロを見つめていた。
ヒロは死ぬ、死ぬから……と掠れた声で言った。寝ていてもいいと仮に思っているなら、こののしかかりは一体何なのだろうとヒロは思ったが、頭が回らないのでそれを訊ねることもできない。
それでもずっと渚はじっとヒロの閉じられた目を見つめていたが、むんつけたように立ち上がってキッチンに立った。やがて肉じゃがの凄まじく食欲を駆られる香りが鼻腔を突くまで、碌に何も考えられないまま意識だけがそこにあった。そして食欲によってほんの僅かに目覚めてくれた意識も結局闇の中に吸い込まれていって、そして、
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渚は肉じゃがを作り終えた。そしてお目当てであるたった一人の男にあざとく歩み寄って顔を覗き込んでみたが、ヒロはぐーすかと寝息を立てて眠っている。
既に時間は十五時になろうとしていた。渚はつまらなくなって、すんとした顔をしてスマートホンを眺め始める。先ほどまでの続きと脳が認識した瞬間に、強烈な眠気が渚を襲った。だけどここで辞めたら、同窓会当日は恥をかくかもしれない。もしそこにヒロもひよりもいなかったら、助けてもらえないかもしれない。自分で自分のことくらいできないと……。
徐々に記憶が蘇る、独りぼっちだった高校時代。そして、卒業してすぐに独りぼっちになってしまった自分自身。ヒロに置いてけぼりにされてしまう。いなくなってしまう。また私を置いて、どこかに去ってしまう。
その瞬間、筆舌にすら尽くしがたい恐怖が込み上げるのを感じて、渚は微かに目を細めた。そして込み上げる恐怖から逃れるようにして記事を読み込んでいく。その集中力たるや、とっくに常人を越えていた。みるみる子供っぽい言葉遣いの改善が見られ、きちんとした大人の女性としての洗練度を確実に上げていく。日常に潜む虚無も怠惰も全部犠牲にして、恥ずかしくない人間になってみせる。
そんなふうにしているうちに、渚はふと、読み終わった頃には自分が雑談のプロになっているかもしれないなどと考えた。苦手を克服し、出来ないと喚いていた自分を打ち負かし、数多くの人と流暢に笑顔で雑談をし、ヒロに「全然コミュ障じゃないじゃん。流石俺の彼女」と褒められ、頭を撫でられる自分を思い浮かべた。そして渚は笑みを抑えきれなくなり、みっともなくえへ、えへへへと笑い始めた。
だけど、誰とお話して試したらいいだろう?と渚はふと考えて笑みが消えた。ひよりの紹介してくれる友達も無尽蔵に湧いて出てくる訳ではない。そろそろここからは自分で相手を見つけないと。
そんなふうに色々なことを考えながら沢山の記事を読み続けたが、やがて限界を迎え、意識が、集中が霧散していく。渚はスマートホンのロックすら出来ないまま、ヒロの身体に寄りかかって目を瞑り、寝息を立てた。午後の優しい陽だまりが二人をずっと、見守るように照らしていた。じきに日が暮れて、夜が訪れる。
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カーテンが開きっぱなしの窓から差し込んでいるのはただただ夜の闇と微かな電灯の明かりだった。
夜の深さを見るに、恐らくもう深夜だ。夜の闇に身を委ねていたはずだったが、自分の下にある身体がぴくりと動いた。その身体はしっかり眠ったからか、よく温まっているように感じた。
自分が重りになっているのか、起き上がるのに手間取っているようだった。やがて私を上手いことどかして上体を起こすことに成功したそれは、私が頭をぶつけないよう身体を優しく支えながら横たえて、この季節のために引っ張り出したであろう薄い掛布団で私の身体を包んでくれた。
誰?
意識が微睡んでいるせいで認識するのに時間がかかった。
………ヒロだ。ヒロ。
ヒロ、起きたんだ。
だけどそれでも、渚は起き上がろうとか、何かをする気にはならなかった。立ち上がったヒロが部屋のスイッチを押して灯した、二燭光の微弱な明かりすら煩わしく感じた。渚は寝返りを打って顔を光から逃れさせる。
身体が重たい。何もできない。少し頑張り過ぎてしまったからかもしれない。オールして沢山勉強して、朝はヒロのアパートにきて料理をしていたのだから。完全に立場が逆になったようだ。ヒロの足音と、何かをしている音が聞こえるのに、何もできないし身体が動かない。
「ひお」
「………渚?」
だけどそれでも、ヒロに声を掛けたかった。どうしても、ヒロとお話をしたかった。それだけを理由に生きているから。それだけが毎日の楽しみで、毎日の救いで、私に毎日がある意味だから。それが無かったら何にも意味なんてないとすら思う。
だから、私はヒロを呼んだ。声は掠れ、小さくて聞き取るのも難しかっただろうと思う。だけど、彼は答えてくれた。気づいてくれた。
「ごめん。起こしたか?」
「………んん。……ひろ、眠たかったのに……勝手に来ちゃって、ごめ。ね?」
「謝ることないよ。渚が作ってくれた肉じゃが美味しく食べてるよ。ありがとうね。ゆっくり寝てな」
そう言ってこっちに来てくれたヒロは私のおでこを優しく、柔らかく撫でた。そして立ち上がってテーブルに戻っていく。ヒロはちゃんと毎日働いて疲れてるんだから、ニートの私がお世話しなくちゃ……。一人でおっちょこちょいしたり、不安になったりしないように、私が見守らないといけない。
渚はまだまだ眠たい上体を起こして、微睡んだ瞳を僅かにぱちくりとした。
「渚。もう起きて大丈夫?」
「うん」
我ながら眠たそうな声色の返事になってしまい、ヒロが肉じゃがを食べながら苦笑いをした。足に乗った柔らかい毛布の感触をしばし堪能してから、丁寧に折りたたんで傍に置いた。そして持ってきていた水筒の水を飲んでから立ち上がり、ヒロのもとへ歩み出す。
視界はぼやけているが、ヒロの傍に辿り着くことが出来たらしい。私が足をふらつかせたのを見て、ヒロは慌てて手を伸ばして身体を支えてくれた。そして肉じゃがを食べているヒロのすぐ隣で足を崩して座り、まるで眠っているかのように一定のペースでの呼吸を繰り返しながら、微かに目を開けたり閉じたりなどしていた。頭の重量を支える力が出ず、安定しない頭が定期的に揺れる。
そして結局前のめりに倒れてテーブルに頭をぶつけそうになり、ヒロが再び腕を差し出してそれを阻止した。どこにも力が入らない私の身体を、ヒロが両肩を掴んで支えてくれている。
「困った女だな」
「………ねむ、い」
「待ってろ。今布団持ってくるから」
ヒロは再び私を優しく横たえて立ち上がり、今の今まで私が寝ていた布団を引きずってきた。そんな……。また、ヒロとお別れしないといけないの?やっとこうして起きられたのに。否、実質起きられてなんかいないのかもしれない。
私は結局、ヒロによって布団に寝かしつけられていた。肉じゃがを食べ終えて、呑気にスマートホンで何かを見ているヒロの横顔が部屋の明かりに照らされていた。
それを見ながら、渚の意識は再び深く深く落ちていった。
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再び世界が明るくなっていることに気づいたのは、それから数秒後の話だ。体感はヒロに寝かしつけられてから数秒しか経過していない。
だが実際には恐らく七、八時間が経過していたようだった。上体を起こすと身体がものすごく軽くて、頭が冴えているのを感じる。ブログ記事とはいえ、沢山新しい情報に触れて文字を読んだからかもしれない。渚にとって読書は慣れない行為でしかなく、脳に掛かった負担もそれから解放されての冴えも新鮮なものだった。
部屋着でインスタントコーヒーを飲んでいたヒロが渚を見て目を見開き、「起きたか?お寝坊さんだな」と言った。きちんと躾けられたワンちゃんのようにおりこうさんにヒロを見つめていた渚だったが、それを聞いた瞬間に眉を吊り上げた。
「ヒロに言われたくないんだけど?」
「ご、ごめん……」
「昨日私つまんなかったんだから。責任取ってよね」
「はい」
心底バツが悪そうに渚から目を逸らしながら、スマートホンに目線を戻すヒロ。そんな仕草に、ヒロが何を見ているのかが気になって仕方がなかった。
渚は飛び起きて、ヒロが眺めている画面を後ろから覗き見る。覗くなんて表現では足りない。彼からも分かるほど、堂々と隣で見た。
そこに映っていたのは、可愛い女の子のキャラクターが甲高い声で何か喋っている様子だった。やけに立体感がある様と、左下に設置されたコメント欄を見るに、単にアニメを鑑賞しているという訳ではないらしい。
紫色の髪の女の子は、魔法使いのような帽子を被り、片目に眼帯をしていた。背中にはマントを付けているが、正面から見ればその豊満な身体を惜しみもなく、これでもかというほど曝す衣装をしていた。
「ああ、これか?今流行ってるらしいんだよ。鳴上から送られてきたんだ。渚も見る?送り主が送り主だから最初は警戒したんだけど、見てみたら本当に結構面白くて……」
「………」
「渚?」
聞こえる声はコメントやスーパーチャットと呼ばれるものに反応しており、録音ではなく即興で喋っているのだと一目で分かる。
渚は物事の八割くらいを直感で捉えるタイプであるが、数秒それをヒロと一緒に眺めただけで、確かにこれは面白いと直感が言うのだ。どうしてこんなに面白い話ができるの?どうして知らない人と楽しくやり取りができるの?
中身はAIではなく、ちゃんと人間である。笑い方や抑揚を注意深く聞いてれば当然のように分かる。そしてそれを、ヒロが面白いと言って見ている。その事実に、渚は長年を掛けて積み上げてきたものを一瞬にして粉々にされるような衝撃を受けた。これまでの常識が嘲笑われながら塗り替えられ、自分よりも遥かに大きな存在にヒロが取られていくのを目の前で見せられているように感じた。
渚の目がじとっと湿っぽく細められているのに気付いたヒロは、再びきょどり始める。
「そんなに面白いんだ?私以外の女の話が?」
「違。待って。本当に面白いんだよ。フォロワーも沢山いるみたいだし、人気も」
「へー。すごいね。良かったね」
盛り上がっていたお店のBGMが突然切れてもこれほど興ざめすることは無いだろう。渚はヒロから距離を取って、彼に背を向けたままテーブルの傍で両足を抱えて座った。それを見ていたヒロも、空気を読んでその動画を閉じる。
「ごめんってば。渚」
「………」
申し訳なさそうな声色と、視線を感じる。どうせヒロはこの後、私の機嫌を取ることを言うだろう。だけど別に怒ってはいない。機嫌を取って欲しいなんて思っていない。これは私の問題である。私の私による私に根差した、私個人の問題なのである。
「ちょっと話したいことがあるんだ」
渚は驚いて振り返った。ヒロは本当に申し訳なさそうな表情をしている。ここまで改まって、一体何の話なのか想像もできない。私たちは普段、重要な話というものをしない。どうでもいい会話ばかりをする。だから、彼の口から何が語られるのかを前のめりになって耳を澄ませた。
「………何?早く話して」
「実は………」
「………」
こういった時、ヒロは思い切りがいいほうではない。それを重々理解しているので、待ち続ける。それ以上は決して急かさずに待ち続ける。
ヒロの口から、急かされずに紡がれたヒロ自身の言葉を待つ。あの時のように、自分の内側に溜め込もうとしていない。それが嬉しかった。
私はこんな状況で、嬉しい気持ちになってしまっていた。
「………渚?何で笑って」
「え?笑ってた?ごめんね」
「………」
屈託なく笑ってみせる渚を見て、ヒロは張り詰めたものが切れたように、そして呆れたように溜息をついた。決心したように言った。
「今日が終わったら、しばらく会うのやめないか?来週くらいまで」
「………」
「どうしても仕事が忙しいんだ。もしかしたらだけど、本当にもしかしたらだけど、遠方に異動するかもしれない。そうなったら渚とも」
そこまでヒロが喋ったところで、渚はすくりと音もなく立ち上がった。ヒロは驚いて、大きく目を見開いて私を見ている。ずん、ずんとヒロへ近づいていく私を、ヒロは目を離さずに見つめていて。
私はヒロの背中を、優しく抱いてみせた。
「そんなことで、私があたふた取り乱すと思ったの?」
「………」
「いいよ。不安になんかならないよ。だって、ずっと一緒だって約束してくれたもんね?私も会えない間、ちゃんと自分磨き頑張るから。だからヒロもたくさん成長して、もっともっとカッコよくなって戻ってきてね」
「………」
「戻って来なかったら〇すから」
「分かってるよ!?」
最後だけドスの効いた早口になってしまったが、ヒロにはきちんと伝わったらしい。頭を撫でてやると、ヒロは安心したように息を吐き出した。これでいい。ほとんど毎日デートしていたのが途切れるのは少し寂しいけれど、ちゃんと相談したうえだ。それに、ヒロの真剣な気持ちがちゃんと伝わってきたから。
ヒロが頑張ってるんだから、私も頑張らないわけにはいかない。
渚はずっと、ヒロの背中を包み込むように抱いていた。震える彼の不安を取り除くように。不安なんてどこかにいってしまえ。悪いものなんてどこかにいってしまえ。要らないものは捨ててやる。あの時ヒロの眼鏡を壊したように、私の人生に要らないものは全部ポイして、新しい自分になってヒロを迎えにいく。
一番安心しているのが自分だということには渚は気づかないままだが、ヒロは落ち着いて受け入れてくれた渚の腕に優しく触れていた。二人はしばらくの間ずっと、そうやって優しく触れあっていた。




