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私は頑張るあなたの味方!  作者: #N/A
第二章 『若葉色の絆』
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第19話 ペンギンが、いちおくろくせんななひゃくきゅうじゅうななまんななせんななひゃくろくじゅうきゅうひき

 ヒロの後ろに隠れた、たった一人の社会人になりたての女の子。奥山は胃の中にあるものをすべてぶちまけそうな程の吐き気を催していた。


 トラウマを植え付けられた存在の、その嘲るような笑みを見せつけられて。彼女の嗜虐的な瞳と視線が絡み合うたびに、みぞおちに拳を押し込まれたかのような感覚に陥って、口に手を抑える以外には出来ることがなかった。


 ヒロは後ろで強く握られたスーツの裾から、彼女のそんな感情を痛い程感じ取っていた。


「後ろの彼女は大丈夫なのかしら?全く、時枝さんのチームは皆してしっかりしていないのね?」

「………彼女は少し、休ませます。あなたは一旦フロアに戻っていてください」


 ヒロが伊藤を睨み、退出を促す。しかしクスクスと笑った伊藤は当然のように、そのヒロの指示に従わない。


「どうしてかしら?だって私は時枝さんのチームなのよ?私だけ退出だなんてつれないわ。うふふ」


 そう言った伊藤は意地の悪い瞳で、ヒロの後ろに隠れて口を抑えて俯く奥山を見つめていた。ヒロは唇を噛み切りそうになった。奥山の精神状態や、何でこうなったのかを理解したうえでやってるんじゃないだろうな……?何が目的なんだ?マジでこいつは。


「いいから退出してください。奥山さんが安定してから自分も戻るので」

「私が邪魔って?そう何度も、よく言ってくれるのね。新たなチームメイトへの態度、よく理解出来たわ。流石時枝さんだわ!冷血、酷薄、何という男なのぉ~?」


 伊藤は歌うようにそう言い残して、嗜虐的な瞳を逸らして去って行った。その背中を見つめながら、ヒロは自分の唇から血の味がすることに気づき始めた。激しい怒りと衝動を抑えながら、座り込んだ奥山の背中をさすってやる。


「しばらく休んでていいから」

「………すいません。私」

「大丈夫」


 俯いたままの奥山を食堂に置いて、ヒロは伊藤の待つ業務フロアに戻った。彼女の瞳には恐怖が宿っていた。乗り越えるビジョンのまるで見えない、洞穴の奥深くのような闇がそこにあった。



 ……………………………………………………



 奥山の哀れな瞳を思い返しながら社内スマートホンを見ると、宇佐からの通知が届いていた。それは伊藤と川村を事務管轄から外して、ヒロのチームに所属させるという内容だった。


 あまりにも身勝手な宇佐のやり口に、心臓を中心として身体が激しく燃えるような激怒が芽生えた。しかも毎月月初の葛木の指示により、まっさらな状態の伊藤と川村にも最低一件は受注させなければならない。それを他のメンバー達のコンディションやモチベーションに気を配って必要に応じてケアをフォローしながら、自分も大型商談を進めなくてはならない。残された日数は今日を含めて六日。たった六日しか用意されていない。


 そして売上最下位を抜け出せなければ、俺たちは皆揃って解体される。そしてヒロは、南端のどこにあるのか、そもそも存在していたのかもよく分からないような小さな支社へ異動させられてしまう。そうなればもう今のように、渚とデートすることは出来ない。


 具体的に最下位を脱出するのに挙げられる方法は、今時点で二つだけ存在する。ひとつは、ヒロが高橋との大型商談を成功させること。もうひとつは、ヒロの部下達がそれぞれ全員、これまで以上の売上を残りの六日間で上げ続けること。そのどちらか片方で構わなかった。どちらか片方さえ達成できる目途が立てば今自分を苛んでいる感情は全て去ってくれるのだが、どちらにしても並大抵ではない。後者は一人あたり普段の三倍くらいの数字を六日間上げ続けなければならないという物理的にほぼ不可能な壁がある。前者は堅物の奇人が相手の大型商談。これまで契約は続いてきたというが、ヒロとの相性はすこぶる悪い。


 一刻一刻がここまで貴重で取りこぼせないと感じたことがこれまであっただろうか。分からない。今すぐにそんなの出来る訳がないだろと弱音を上げて逃げ出したかった。しかしそれをしたところで、異動決定が一週間早まるだけだった。出来ない。渚の顔を思い浮かべればそんなことできる訳がない。


 かの伊藤と川村とはいえ、月初の指示とは無関係に、チームに所属した以上は雀の涙でもいいから売上に貢献してもらえなくては困る。たかが一件の数字が命取りになる可能性が、今この状況にはある。


 業務フロアに戻ったヒロは早速、デスクに座っている伊藤と川村に声を掛けて資料の説明をした。


 しかし、当然のように伊藤も川村も真面目には聞かない。伊藤は欠伸をし、川村はあろうことかスマートホンをいじっている。一体どれだけ歪んだ育ち方をしたらそうなれるのかを逆に訊きたい気持ちになった。


「もう少し分かりやすくお願いできる?つまり私は何をすればいいのかしら?」

「あ、もしもし?ピッピ?」

「すいません……本当にちゃんとやってもらっていいですかね……異動してもらって早々申し訳ないですけど、今、チーム全体としても本当に頑張らないといけない局面で」

「そんなの私に言われたって分からないわぁ。あ、そろそろ休憩行ってもいいかしら?」

「ウチ?元気元気。超元気だよ。今ね、仕事超だるくてー」


 今日あたりこの業務フロアに女性社員の死体がふたつ転がっていたら、それは俺の犯行だと思って欲しい。それ程までにヒロはイラついていた。身体がもう五つほど欲しい。俺の身体が五つに分裂出来たらこんな馬鹿馬鹿しいことで悩まなくて済むのに、一体どうして。どうして人間には限界が設けられたのだろう。限界なんて認めたくない。そう思っても、限界はある。自分に限界なんて無いと思ったとき、それは幻想に生きている。幻想が人に力を与えることはあるだろう。だが、本当の本当に心を追い詰められた人間には幻想は救いにならない。自分の無力さにも限界にも、心底苛つきが募っていた。



 ……………………………………………………



 伊藤と川村を昼休憩に出して、ヒロは白目を剥きながらデスクで項垂れていた。すると身に覚えのある端正な顔立ちの男の子がヒロの目の前に姿を現した。


「……………ペンギンが、いちおくろくせんななひゃくきゅうじゅうななまんななせんななひゃくろくじゅうきゅうひき。ペンギンが」

「………」


 古谷は世界に対する興味を失ったような、虚ろな瞳でヒロの前に立ち尽くしていた。それに気づいたヒロは目を細めてしばらく彼を見つめたあと、深い溜息を零した。


「こんくらいのメンタルが欲しいよ。俺も」

「いちおくろくせんななひゃくきゅうじゅうななまんななせんななひゃくななじゅっぴき。ペンギンが」


 何だか、何もかも全てが馬鹿馬鹿しく思えてきた。俺は一体何に悩んでいたんだ?今目の前を見れば、こんなにも自分の世界の中でペンギンと戯れて人生をエンジョイしている男の子がいるというのに、俺は一体何をしているのか。努力に意味があるのか。やるべきことを毎日きちんとすることに、さして意味があるというのか。ここまで擦り切れそうな身だと、彼が本気で羨ましい気持ちに駆られてしまう。


「古谷さん。奥山さんが今体調を崩して、食堂で休んでるんです。少し様子を見てきてくれませんか」

「………」


 聞こえているのか、いないのかは分からない。だが古谷は手提げ鞄をデスクに置きすらしないまま、虚ろな瞳で天を見上げながら業務フロアを去って行った。多分奥山のところに行ってくれるのだろう。もう少しコミュニケーションをスムーズに取ってくれると非常に助かるのだが……。


 ていうかお前どんだけ寝てないんだよとヒロは古谷の背中を見て思った。さては毎日一、二時間しか寝てないんじゃないだろうな。自分も入社初日はそんな感じだったということを今にして思い出したが、自分ですらあそこまで酷くはなかった気がする。そんな明らかに間違った道は自分以外に通してはならないとも心底思うので、もしそうなら止めたいところだ。



 ……………………………………………………



 古谷も奥山同様に、まだ独りで外を回れるほどの経験は積んでいない。これまでの数字も、アシストしていた北沢と葛西ありきのものだ。


 だから、古谷と奥山には今日は一日、資料の整理や帳簿の管理とかをしてもらうか、アフターフォローに入ってもらうしかない。この極限まで追い詰められた状況でまさか、売上を一円も上げられないという事態に陥るとは予想だにしていなかった。あまりのストレスで週明け、俺がいなかったらそういうことだと思って欲しい。


 伊藤と川村への資料説明を終えて、外回りの準備をさせて夕方になった。


 ヒロはヒロで、大型商談の準備の為に資料を確認していた。葛西と奥山が一生懸命俺の為に探して、用意してくれた資料たちだ。そしてこうして過去の資料を見てみると、これまで高橋との契約は本社の社員が率先してこなしていた内容らしい。


 本社は、従業員一人一人が、各支社の一位プレイヤーの売上と同等の実績を出すことの出来る、言い方を選ばすに言えば化け物の巣窟だ。全くもって別次元の人材ばかりが揃えられた本社へのキャリアアップを目指して努力する人間も各支社には存在するようだが、倍率はとてつもない。並大抵では本社に足を踏み出すことすら許されない。そんな魔境だった。


 そう考えると重たいはずのこの案件だが……どうして葛木は俺にこの案件を回してきたのだろうか。こうして考えてみれば、今のチームメンバーに編成してきたのも葛木だった。


 嫌がらせだろうかと一瞬思った。しかしあの男に限って特定の個人へ嫌がらせという、小さくて何の意味もないことをするとも思えなかった。皮肉にも、あの男が散々俺をボコボコと指導してきた日々がそれを証明している。あの男は自分の時間と金をこの世の何よりも尊ぶ人間だ。関わることで自分に利があるか、面白いと思っている人間以外に自分の時間と金を一切投資しない。あのギャンブル大好き男はそういう人間だ。つまり、彼は俺に機会を与えているのだ。最下位を脱却するための。あの一件さえ取れれば俺たちは残れる。だが……。


 ヒロは糖分不足で脳みそが回転しなくなり、衝動のままにデスクを立った。そして会社を出て近くのコンビニで餡ドーナツとヨーグルト味の炭酸ジュースを買い、出入口の横に立って食べた。


 脳みそが二つ欲しい。二つとは言わず三つだ。どうしてこうも辛いのだろう。どうしてこうも、限界が存在するのだろう。


 日が暮れようとしていた。たった六日しかないうちの、一日が終わろうとしている。あとは来週に自分の全てを賭けるほかはない。


 五日で俺に一体何が出来る。何かが出来るのか?五日で?いや違う、やるしかない。やり切る以外に道は残されていないのだ。あの太陽が再び昇ってくるように、俺もああやって返り咲かなければならない。土日でしっかり休んで、フルコンディションでやり切るんだ。


 もちもちとした餡ドーナツを咀嚼しながら夕日を眺めているうちに、何だかどうにかなってくるような気がしてきた。土日はゆっくり休もう。はは。どうにかなるって。人間死ぬとか思ったところで、そう簡単に死なないもんな。わはは。大丈夫だ。俺は大丈夫、絶対大丈夫なんだ。だから土日は、せめて土日は、しっかりと休んで………。



 ……………………………………………………



 色々と話を聞いてもらえたし、いつまでもここで蹲ってはいられない。時枝さんは明らかに切羽詰まっていて、何か自分よりも大きくて荒々しい何かに追い詰められていて、自分がそれを支えなくちゃいけない。


 それなのに、身体はずっと動かずにいた。こんなことをしている場合じゃないなんて分かっている。分かっていても身体は動いてくれない。


 食堂で蹲るように座って、テーブルを見つめる奥山。そんな彼女の傍に歩み寄って、目の前に資料を置いた人物がいる。


 奥山はその人物を見上げて、目を見開いた。それが酷く見慣れた顔だったからだ。


「悠馬?」

「………ペンギン」

「………」


 古谷は虚ろな瞳をしている。縋るような瞳の奥山とは、目が合わないままだ。そして当たり前のように奥山の隣に座って、資料を読み始める。そんな様子を、奥山は自分の身体が動かないのを感じながら見つめていた。


 どこまでいっても自分のペースの古谷を見つめて、奥山はがっかりしているのを隠し切れない瞳を伏せた。


「ペンギンが何よ」

「………」

「………悠馬って、冷たいよね。本当に」


 それを聞いた古谷は初めて、首を傾げながら奥山に目線を移した。それでも彼の瞳は虚ろで、口から涎を零している。


 彼女の瞳と声に宿ったがっかりは、他でもなく自分自身に向いたものだった。古谷と目が合った奥山は、古谷の視線に酷く驚いて目を見開き、そしてこんな自分を見られ続けるのは耐えられないとばかりに瞳の奥を震わせた。


 彼女はそのままガタリと立ち上がり、どこかへ走り去ってしまった。古谷は表情の一つすらぴくりとも動かさないまま、奥山の背中を焦点の合わない寝ぼけ眼で見つめていた。



 ……………………………………………………



 夕方から管理職者ミーティングがあるのを完全に忘却していたヒロは、それを思い出した瞬間に爆裂猛ダッシュで会議室に滑りこんだ。ギリギリセーフといったところだろうか。


「時枝さんのチーム、もう少しどうにかならないんですか?この業績は流石に……」


 出張中の葛木の代理で取りまとめる管理職の若い男性が、ヒロを見つめて言った。葛木の代理といっても葛木がこの会議に存在したことはほとんどないし、取りまとめの役割は順々に回ってくるので、この時たまたま取りまとめになっただけのヒロと同列の男である。


「頑張ってるところですね。各メンバー、日に日に順調に伸びていることだけは間違いありません」

「日に日に伸びるのはそりゃそうだと思いますが…….。僕も統括への報告があるので……」


 取りまとめの男を含め、場に居る管理職達からの目線は手酷いものだった。鳴上は別件でいないようだが、皆ヒロを見る目は冷たい。


 ヒロと交互に見比べるように見つめるのは、壁に映し出されたプロジェクター映像。ヒロ達の支社は全支社間比較でも業績に後れを取りつつあり、足を引っ張っているのが完全にヒロのチームなのである。


「もう少し頼りになってくれるとありがたいんですけどね」


 彼は瞑目してそう言った。誰も口に出しはしないが、ヒロのチームが頼りにならない残念なチームとして見られているのは周知の事実なのだろう。


「よく、あの鳴上さんに言い返せたものですね。尊敬しますよ」

「はあ」


 この中の管理職メンバー達は三十人弱居るが、誰一人として鳴上に口出しが出来ない。鳴上が支社内でトップのうえ、全くもって完璧な仕事をするからだ。鳴上という名を聞いて畏怖を覚えるもの、羨望や希望に顔を明るくするもの、嫉妬に染まるもの、興味無さそうにするものまで様々だが、管理職間ですらその影響力は大きい。


 つまり強烈な皮肉を浴びせられているのだとすぐに気づいて、ヒロは目の前のホワイトテーブルを蹴り飛ばしたくなった。だけど当然それは出来ないので、笑っておくしかなかった。みっともなく、無様に、媚びへつらうように笑う以外に、この場をやり過ごすために出来ることは残されてはいなかった。



 ……………………………………………………



 どこで飯を食うかを考えながらヒロは帰り道の繁華街を歩いた。ほんの少しずつだが、夏が近づいてきている匂いがした。


 流石に二十三時の繁華街は人が少なかった。明らかに怪しい人間や酔っぱらって騒いでいる人間しかいない。


 ヒロの目の前に、明らかにあちらの世界と精通していそうな男が立ちはだかった。ドンキに売ってそうな虎柄シャツに、ルーズな印象のパンツの男だった。生気を失った瞳は、ヒロを真っ直ぐに見つめている。


 彼は裏ビデオに興味は無いかと訊ねてきた。それを聞いて、鳴上なら多少興味があるかもしれないなとヒロは思った。ヒロは無視して通り過ぎようとするが、男は執拗にヒロに迫った。


「ヘイ、ヘイ。ビジネス、興味無い?」

「無いです」

「副業。月収、五十万円。どう」

「結構です。北朝鮮に生まれた人間よりかは肉体的にも精神的にも恵まれて生きていると俺は思っていますから」

「ヘイ!そう言うなヨ。俺たち友達!キョウダイ!これから夢のような日々が……」

「うるせえ!要らねぇって言ってるだろ!」


 ただでさえ精神的に参ってるんだよ。頼むから構わないでくれ。そう思って柄にもなく怒鳴り散らかすと、虎柄シャツの男は逃げるように去ってしまった。そしてヒロは再び一人になった。


 その時だった。ヒロは呼吸すら忘れて物陰に隠れた。


 まさかあんな所にいるとは。驚愕に震えるヒロの視線の先には、ヒロの怒鳴り声につられて表に出てきた大男が居た。


 それはまさしく、渚と二度目の再会をする直前にヒロがぶつかった男。鳴上よりも頭一つ分大きな体躯を持ち、顔を真っ赤にした大男は怒鳴り声の主を探してきょろきょろと睥睨し、当たりのゴミ箱や施設を乱暴に蹴り散らかした。ヒロは明らかに自分よりも大きくて重量があるであろうゴミ箱やモノが軽々と吹き飛ばされて粉々にされるのを見て、息を呑まずにはいられなかった。


 周囲にあるすべてを、その被害額が推定できないほど粉々にしてしまった彼は「誰だっ!名前言ってみろ!」と声高に叫び、三百六十度見渡していた。真っ青になったヒロは大人しくユーターンして、遠回りで駅を目指した。運命というのはいつでも地獄への入り口を用意している。それを日々、如何に避けて通るかが人生なのだとヒロは思った。



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