第18話 女たらし
結局異動になったら南端という事実を渚に伝えられていない。ヒロは自分の臆病さに腹を立てながら会社へ歩いていた。このまま終わらせるわけには絶対にいかない。
やり切る。絶対にやり切って毎月最下位の汚名を脱してやる。目にモノをみせてやる。俺を馬鹿にした全部の人間に目にモノをみせてやるんだ。その為には最下位を脱出するのが必要で。
最下位を脱出するには部下全員に死に物狂いで頑張ってもらって、そして俺は死ぬつもりで頑張る。今月が終わるその時、俺の身体が灰になってたって構うもんか。だってこの瞬間に全てが掛かっている。
それは、分かっていても。
結局不安のほうが強い。覆してやるのだという覚悟よりも、結局不安のほうが勝っていると思う。俺はどこまでいっても不安に勝つことが出来ないのか。
ヒロは額に浮かんだ汗を気持ちのままに乱暴に拭いながら業務フロアに入った。朝の業務フロアは相も変わらず嵐の前の静けさ。二十分もすれば来客と入電と営業と事務と色々なことで血を吐きそうなくらい忙しくなるというのに、フロアにいる誰も彼もがそれに気づかないような顔で缶コーヒーを飲んでいる。
全員がただ、普段どおりに月末を迎えようとしているように見えた。これほど決意を固めて業務フロアにいるのは自分だけである。それはほぼ間違いないことだろう。どいつもこいつも繁忙を乗り切れさえすればそれでいいのだ。全くもって呑気なものである。
まあ、それが当たり前なんだけど……。
葛木から課せられた最下位脱出さえなければ、俺はきっとみんなと同じ顔をしてコーヒーを飲んでいたに違いない。そんなことを考えていると、不意に会社用スマートホンが鳴ったことに気づいて呼び出しに応答した。
『時枝さん……!北沢です』
「おはようございます。どうしました?」
『すいません。昨日フライングして例の写真を研究機関に出したら、その写真が鳴上さんではないかという結論に至ったんです。俺は、何が何だか、もう……』
「………」
『そういうわけで申し訳ないのですが、三十九度の熱と激しい頭痛があるため、お休みさせていただきます……』
どういうわけなんだよ。ヒロはクソでかい溜息をついて電話を切った。その後も続々と連絡が続いて───
「………時枝さん。おはようございます」
ヒロのチームは今絶賛メンタルがやられている最中の、奥山だけが出勤していた。
奥山は目にクマを作って、まだ何もしていないのにヒロに申し訳なさそうに頭を下げていた。
……………………………………………………
北沢、葛西、石田は欠勤。古谷は寝坊したため遅刻して出社するらしい。この切羽詰まりに詰まり抜いているこの状況でこれとは、日頃の行いを疑われるところである。
とはいえ、北沢の馬鹿みたいな欠勤理由は論外として、葛西と石田の欠勤理由は仕方がないものだった。というか葛西はそもそもヒロが忘れていただけでこの日は事前に休暇を入れていた。石田は遠方の父の法事である。
しかしだからといって止まっていい理由にはならない。ヒロは朝一で、唯一出社していた奥山を呼び出して最下位脱出が急務であるという話をしようとしていたが、
「───」
彼女は酷く怯えきった目でヒロを見ていた。
「あすかさん?」
「………」
「どうしました?怒るわけじゃないですよ。いつもちゃんとやってくれてますから。全然お手洗いとか行っていいですし……」
しかしヒロが喋れば喋るほど、じっとヒロを見つめる奥山の表情は申し訳なさと不安と恐怖に吞み込まれるように青ざめていき、その身体は小刻みに震えていた。不思議に思って彼女の顔を覗き込むと、「は、はい……」と小さく、ほんのわずかに空気を震わせる返事をしただけだった。
………風邪ひいた?とヒロが緊張しながら訊ねると、顔を覗き込まれた奥山は瞳だけ下げて僅かに首を振った。彼女のウェーブがかかったセミロングの髪が揺れる。
体調が悪いわけではないらしい。そもそも彼女は普段何かそういった不都合があれば、率先して言ってくれるタイプの子だった。一体どうしてしまったのだろうとヒロは思った。明らかに何かがおかしい。何かが。
毎朝の全体朝礼を終えてから、ヒロは奥山を連れて小会議室へ足を運んだ。
「もう時間がない。早く来て」
「はい……」
歩くのが遅い彼女に、ヒロは切羽詰まった声色で呼びかける。そして後ろをついてくる彼女の返事は、どこか擦り切れてしまいそうな思いを秘めた声だった。
体調が悪い訳でもないのに彼女の態度は一体どうしてしまったというのだろうか。そしてそんな彼女の顔と声を見て聞いているうちに、ヒロは段々やっぱりもう無理なのではないかというあまりにも虚しくて激しい諦念に焼かれた。こんな状況で二人しか来ないってどういうことなんだよ。そして噛み切れそうなほどに唇を食いしばり、拳を握りしめることで衝動を免れた。
渚。
ヒロはその脳裏に焼き刻まれた、いつもいつも勇気を与えてくれる一人の黒づくめの女を再生した。そいつはくるりと綺麗な茶髪をなびかせて振り向くと、思わず全身の血肉が吸い込まれていきそうなほどの美貌と、真っ直ぐで大きな瞳を見開き、きょとんとしてヒロを見つめていた。
ヒロをじっと真剣な眼差しで見つめていた渚は、やがて呆れたように目を細めて言った。
『不安になったってなんにも良いこと無いってお話したばっかりでしょ?これだからヒロは』
そうだよな……。そうだ。そのとおりだ。
ありがとう。渚。
「あすかちゃん」
「あひ!」
ヒロが突然立ち止まったので、奥山は目と口を大きく見開いて驚きの声を上げて一緒に立ち止まる。彼女は心なしか、押しつぶされそうな瞳に見えた。
「めちゃくちゃ大事な話をみんなにしないといけないんだけど……俺が緊張して、喉乾いちゃったよ。一緒に飲み物でも飲もう」
「………!はい」
我ながらなんて不甲斐ないんだろう。そう思いながらの提案だった。
しかしそんなヒロのバツが悪い笑顔を見て、奥山の青ざめていた顔色はみるみる普段のような明るさを取り戻していった。そして瞳を輝かせてヒロを見つめ、気の良い返事をしてみせたのだった。
……………………………………………………
朝一、誰もいない食堂。考えてみればこの場所にあまり良い思い出がないような気がしないでもないけれど、奥山と一緒に座って缶コーヒーを飲む時間は悪くなかった。室内は澱んでいて生暖かいが、窓から差し込む太陽の光と爽やかな青空は新鮮で美味しい空気の味を想像させるかのようだった。
彼女はまだ少し幼さの残る顔立ちで、隣に座るヒロに笑いかけた。そして主に古谷の話をした。ほんの少し頬を赤らめてはにかみながら笑い、古谷が出来損ないで、バカという話を延々としていた。ヒロは時折反応に困りながらも、とりあえず否定せずに頷きかけて話を聞いていた。
「そんな話、俺にしてもいいの」
「いいんですよ。時枝さんなら是非」
「どうして?」
本当に不思議に思っていたのでヒロがそう問うと、奥山は一瞬何を言われたか分からないような顔をしたのち、すぐに心底恥ずかしそうに顔を伏せた。
「実は……聞いていたんです。燕さんが例の騒ぎを起こしたとき、時枝さんが鳴上さんと真剣に話していたのを」
奥山は口元を隠して、幼げな顔を上げてヒロを見つめた。それを聞いたヒロは当然のように驚き、目を見開く。
「あの時の時枝さんを見てから、この人のチームで良かったって本気で思ったんですよ」
「そうだったんだ……」
考えてみれば、もともとの奥山のヒロに対する態度はよそよそしさの拭えないものだったと思う。だけどどこかのタイミングから、この子の俺に対する態度が少し柔らかくなって、受け入れてもらえるようになったって感じたんだよな。
それがきっかけであったことを知ったヒロは、胃が潰れそうな思いをしながら鳴上と話をして良かったと思うし、あの頑張りは間違っていなかったのだと感じられる反面、もうあんな目には遭いたくないとも心底思った。毎秒胃に大きな風穴が開くような感覚だった。替えの胃がいくつあっても足りない。
「じゃあ、葛西さんもその時いたの?」
「はい。でも陰から話を聞いていたのは私だけだと思います。葛西さんは資料室で何か探し物をしていましたから」
「そうなんだね」
「はい」
奥山は安心しているようだった。ヒロは向かい合う相手が老若男女いずれであっても、向き合う相手の本心を履き違えずに察する力がある。その経験と勘と才能が、目の前の彼女がちゃんと安心して自分と向き合ってくれているのだと教えてくれていた。
「さっきあすかちゃんって呼んでもらえたのも、実は嬉しかったですし」
「そうだったの?かなり意外だったよ」
「?」
「今朝は、やっぱり一人で心細かった?」
ヒロが投げた問いかけに、奥山は眉を垂れ下げて俯いてしまった。
「いえ。全然、そんなことは無いです」
「じゃあ、どうして。昨日の伊藤が本当に嫌で?」
「それは無い訳じゃ、ないんですけど……」
「………」
「───時枝さんって、あんなに怖い顔するんだなって………」
俯いたまま、弱気な瞳だけを上げてヒロを見つめる奥山。怖い顔?俺が?ヒロは首を傾げて天を仰いだ。俺が一体いつ怖い顔をして、奥山を睨んだというのか。
「怖い顔してたのって、俺?」
「はい」
まだ会社に入り立ての子を睨みつけ、萎縮させるような先輩。もしそんなことをする奴がいるなら、俺が断固として許さない。決してそんな存在を許しはしない。そう思ったが、その怖い顔をしていたのは俺らしい。一体、どういう───
「今日、時枝さんが大事な話をするんだってわかってました。だって、いつもすっごく優しくて受容的な目をしてる時枝さんが、鬼気迫った目をしていたから」
「………」
「申し訳ございませんでした。私、時枝さんにあんな態度取りたかったわけじゃないんです。メンタルが強いほうじゃないから、怖くなってしまって」
チームで集まったのが自分ひとりだったから、心細いのかなと思った。昨日伊藤に嫌がらせにすら等しい仕打ちを受けたのが、メンタルに響いていたのだと思った。しかし奥山が今言った理由はそのどちらにも該当しなかった。
この子はずっと、俺の顔を見ていたんだ。今朝どころか、いつも俺の目を見て、俺を慕って、俺についてきてくれていたんだ。それを信じなかったのは、そんな子を信じてあげていなかったのは、他でもなく───。
「ごめん」
「いえ、大丈夫です」
「本当にごめん」
「謝らないでください!」
「実は本当に切羽詰まってて」
「はい。分かってますから。───もう、怖がりません」
奥山は決意を固めたように、唇をきゅっと引き結んでヒロを見つめた。
脳裏に蘇る、頬杖をつきながらヒロを睨む葛木の鋭い瞳。ひんやりと冷たい管理室。あの部屋と葛木の瞳には物理的な冷たさではなく、魂をこんがりと冷やされる何かがある。
だけど。
ヒロは再び、目の前の奥山を見た。先ほどまではヒロが彼女を心配していたにも関わらず、その立場が逆転したかのように彼女がヒロの顔を覗き込んでいた。まるで慈しむように、悩みがあるなら聞くとでも言わんばかりに。
負けられない。この子の為にも。そして、渚の為にも。
ヒロは突然勢いよく立ち上がった。そして目を丸くしてヒロを見上げる奥山の、頭を優しく撫でた。
「え!?時枝さん?」
「ありがとう。大事なことに気づけたよ」
「………時枝さんって、女たらしって言われますよね?」
「なんで!?」
頭を柔らかく撫でられながら頬を赤くして、拗ねたように顔を背ける奥山にヒロはきょどり散らかした。自己肯定力ゼロのヒロはモテる自覚も無ければ、女たらしをしている自覚も当然無い。自覚が無いところがまた質が悪いということにも気づかないのであった。
「嫌ね。嫌だわ。なんでこの私が外回りなんてしなくちゃならないのかしら?ねえ?最下位の時枝さん?」
有無を言わさず辟易するような物言い。いい加減そろそろ暴力に訴えてもバチは当たらないのではないかと考えさせられる挑発的な言葉。
いくら奥山と仲直りが出来たからといって、お呼びじゃないものを呼び寄せたつもりは無かったのだが。そう思いながら食堂の入口を見ると、腕を組んだ伊藤が心底楽しげに笑みを浮かべてこちらを見ていた。
「外回りってどういうことですか」
会話を最大限避けたい相手だったが、遭遇してしまったからには仕方が無い。再び露骨な恐怖に表情が呑まれ始める奥山を背中に隠して、とりあえず気になったことを質問として投げ掛けた。本当に本意じゃないし面倒臭いけれど、話しかけられている以上質問を投げ掛けた。何で朝っぱらからこの魔物と対話しなくちゃならないんだ?それを表情に出す失礼は例え相手が魔物だろうが鬼だろうが蛇だろうがしない主義だが、奥山と仲直りするという良イベントの直後を狙ってくるというのはちょっと慎みが足りない気がするんだよな。
奥山はヒロの背中に隠れ、伊藤を見つめて震え続けている。そりゃそうだろという感じだ。振り返って彼女の顔を見てみると、まるで貞子がテレビから出てきそうな場面に出くわしたみたいな顔をしている。
「今日から、あなたのチームに配属になっちゃったのよ。よろしくね」
「えっ?冗談ですよね?しかも今日から?」
「ええ。しかも、全メンバーきちんと一定以上の売上をあげるようにという統括のお達しよ。あと一週間しか無いけど………ちゃんとやり方はレクチャー頂けるのよね?」
「────」
伊藤はヒロと奥山を鼻で笑い、楽しそうな顔のまま言った。後ろの奥山は口を手で抑え、信じられないという顔をする。
仕事がまたひとつ、増えた。端的に言えばそうだが、言葉ほど可愛い状況では断じてない。
大型商談一件分の売上を出して最下位を脱却し、更にまっさらな状態の伊藤と絶望的なポテンシャルの石田に一件以上受注させなければならない。
その制限時間は、一週間。
俺が何人に分裂したらそんなことが出来るんだよ。ヒロはそう思い、青い空を憎んだ。




