第16話 最下位の時枝さん
倦怠感。倦怠感。一秒一秒、欠かさずに全身を苛み、軋ませる倦怠感───何故人間が週五回も八時間労働が出来ると思っているのか?
曇り空の午前だった。ヒロはそんなことを考えながら、葛西と奥山を連れて資料室を漁っていた。先日の大型商談の勝機を探すため、そしてチームを一歩高いところに押し上げるために力を合わせて奮闘しているのだ。
しかし、それらしきものをなかなか見つけられない。
ヒロが資料を棚から抜き取った途端に疲れでふらついたのを、その後ろにいた奥山が健気な瞳で肩を貸して支えた。
「疲れてますか?」
「あ、ああ……ごめん。ありがとう」
あまりにも気持ちが有難いと同時に、申し訳ない気持ちでいっぱいになり、咄嗟に彼女から離れる。
俺が支えなきゃいけないってのになとヒロは思った。
「しんどくなる前に休んでください。商談も控えてますし、それに……」
「?」
「………ごめんなさい。何でもないです」
直属の上長である自分を、本心から慕ってくれているのが彼女から伝わってくる。だけど、何かを思って隠したであろう俯いて発されなかった言葉は想像がつかなかった。
「時枝さんー?この資料室、すり潰したトウモロコシみたいな臭いするじゃないですかあ?何で?時枝さんの仕業?それで給料私たちよりももらってるのはちょっとお」
「そんな訳ないでしょ!?」
呑気な鼻歌を歌いながら、踏み台に乗って高い書棚に手を伸ばす葛西が不意に口を開いた。
ヒロはそれに対し、高らかにツッコミを入れてみせる。
「早く終わらせて早く出ましょうよお。これでもし鼻ひん曲がったら慰謝料貰えるんですかね」
「そんな臭いします?俺は腐りかけてはち切れそうなナスみたいな臭いに感じますけどね。俺も慰謝料請求しようかな」
「それがいいですよお。一緒に請求しにいきましょう」
「どっちの臭いもしないじゃないですか……。普通に、本のにおいです」
「あすかちゃんは本当に真面目だねぇ。可愛いねえ、嬉しいねえ。お姉さんはすごく良いと思うよお」
くだらなさすぎるやり取りを交換するヒロと葛西。そして下の名前で呼ばれた奥山は、初々しく嬉しそうにはにかんでみせた。
ヒロは資料を探しながらも、再び二人に向けて謝罪を口にする。
「すいません。ほんと。二人とも個別で売上伸ばしたかったところ、こんなことに付き合わせてしまって」
「んーん。ウチらのチームが平和なのは時枝さんのおかげですから」
「私も、そう思います!他のチームに行くのとか正直嫌ですし」
葛西も奥山も資料をぺらぺらと漁りながら、ヒロに快くそう返した。
上司思いの二人に、思わず涙が出そうになった。
良いメンバーに恵まれすぎてないか?俺。
「そーいや、時枝さんって最近あの鳴上さんと話す機会増えてますよね?」
「え?まあ」
「何でなんですか?今までお互い近づかなかったのに」
唐突な葛西からの問い。珍しくこちらを振り返ってヒロを見つめる彼女は、興味津々といった明るい瞳が見開かれている。
「えっと……ゲームかな。たまたま本ストを一緒にやる機会があって」
ヒロは何から説明をしたらいいのか一瞬分からなくなったが、当たり障りのないことを言った。
鳴上の名前を聞いた奥山が資料をめくるのを忘れてお腹を抑え、吐き気を堪えるようなポーズで震え始めた。
「鳴上さん、本当に怖いので絶対話したくないんですよ、私………」
「分かる。ウチと同期なの本当に信じらんない。北沢さんですら、めっちゃ怖がってるしい」
「この間すれ違った時、睨まれたんです。あれは絶対睨まれてました、完全に。悲鳴上げそうになりましたよ。私は何を間違えてしまったんだろうって。そして今日で辞めようって思いました。ていうか私以外も皆同じ言ってます」
「そうそう思い出した!あの人ね、めっちゃ厳しいんだよね!見た目通りって感じ。一年前同じチームだった時、ちょっとルール忘れて破っただけでちょー注意されたし!」
「そうだったんですか!?怖い!あの人と同じチームの人たちって大丈夫なんですか?私だったら一日ももたないんですけど……」
女性陣二人が口々にガールズトークを繰り広げ、鳴上という理解出来ない怪物を叩いて盛り上がる。
平常状態の彼ですらそれだけのインパクトを感じさせるのだ。
あいつが少し可哀想に見えなくもないが、正直に言って本当に申し訳ないけれど、ヒロにとってはめちゃくちゃ面白かった。流石に面白い。鳴上が聞いたらどんなリアクションをするのだろうか。
とりあえず訂正したりはせずに、このまま見物させてもらおうかな。訂正するのは無粋とすら思ってしまうこの面白さ。ヒロはにやけ顔で五冊目の資料をパラパラとめくった。
「時枝さん。あすかちゃんの可愛いお話聞きます?この間一緒に商談先から帰ってる時に───」
「きゃーっ!?やめてください!やめてくださいよ!時枝さんにそんなの聞かれたら!もう会社来れなくなっちゃいます!」
「えーっ?せっかく可愛いのに?」
「だめです。駄目なものは駄目!」
「ケチだなあ」
一体何が聞けるのか気になったが、奥山は葛西によるカミングアウトを断固として阻止した。
葛西と奥山のほっこりするガールズトークをBGMにして、資料を探し続けるヒロ。頭痛がするほど大量の資料に目を通しながらも、決して諦めはしなかった。
そして三十分の格闘の末、ようやく俺たちは参考になりそうな資料をいくつか手に入れた。
葛西と奥山は嬉しそうな顔を合わせ、両手でハイタッチする。ヒロも喜びを露わにして、そこに加わった。
「お、おぉ!これで何とかなるかも!何とかなるかもしれない……!ありがとうございます!」
「やりましたね!時枝さん」
「るんるんるんる~~ん」
ノルマ達成のためにも、先日敗北を喫した高橋にリベンジし契約を取り付けるのは必須。負けられない戦いを制すための準備が、着々と進みつつあった───
「あら?騒がしいのね?随分素敵な業務態度ですこと」
足の裏から徐々に身体の中心部へ、脳へ、情動となって届く。やがてそれが、久しく忘れかけていた嫌悪感であるということに気づいた。
三人が振り返った先、資料室の入り口に伊藤と川村が立っていた。ヒロは突然の来訪者に、息を呑む。伊藤の嗜虐的な視線の先は、当然のようにヒロだった。
おかっぱ頭に、まるで猫のような目をした美しい女。ヒロの因縁の相手だが、正直なところ彼女からの一方的な因縁でしかない。
「今から私たちがここを使うので、早くどいてくださいね」
伊藤はそう言って、どうすればいいのか分からず立ち尽くしていた奥山の肩を押しのけて奥へ入り進む。奥山は突然の出来事に、露骨に顔をしかめた。
「何言われてるか分からない?邪魔なのよ」
「────」
心底侮蔑の籠った声と剣幕で言ってのける伊藤。その怒りの眼差しを真っ向から奥山は混乱と怯えを孕んだ顔のまま、微動だにも出来なかった。突然のそれにあまりの恐怖を受け、動けないのだ。
川村はヒロ達三人に一欠片の興味すら無さそうに、スマートホンをいじりながら伊藤についていく。
「鼻はもう治ったんですかあ?随分と痛そうでしたけど」
泣きそうになっている奥山を後ろに庇い、おとぼけ顔で、それでいて熱い芯のある声でそう訊ねた葛西。その眼差しは真っ直ぐに、声をぶつけた先である伊藤の背中を見つめていた。
それを聞いた伊藤は大きな舌打ちをし、忌々しげに振り向いた。そして眉を吊り上げて睨んでくる葛西に、憎しみに満ちた眼差しを返す。
「どうして身の程を弁えられないのかしら?私たちが汗水垂らしてるおかげであなた達が呑気に外回れてるって、分かんないの?」
「………」
「分かんないんでしょうね?躾がなっていないわね?だけど考えてみればそれも当然かしら?時枝さんのチームの人ですしね?ね?聞いてます?最下位の時枝さん?」
ヒロが何も言わないのを見て、伊藤は小気味よさげに頬を歪め、嗜虐的な瞳を歪めて笑った。川村は伊藤の後ろでスマートホンをいじっている。
「────やめろ」
「はい?」
拳を握りしめたヒロの目と声は怒りに吊り上がり、に満ちていた。それを見た葛西は珍しいものを見たように目を見開いて、「おお」と誰にも聞こえない声で呟いた。その後ろにいる奥山は、震えて俯いたままだ。
「俺のチームの子を、侮辱するな」
きつく歯ぎしりをして伊藤を睨みつけるヒロ。伊藤はそれを見て口に手を当て、クスクスと笑ってみせた。
「あはぁらこわぁい。時枝さんって怒れるの?びっくりしちゃったわ。お人形さんみたいに大人しくて従順さんだと思ってたのに、ね」
「────」
「だけどそれで?あなたが最下位なのは変わらないわ。どうするの?どうやって脱却するのかしら?出来るの?出来ないわよね?」
「────」
「諦めたらいいじゃない。いつまでも抜け殻みたいにやるべきことだけやってたらいいじゃない。諦めたら楽よ?諦めれば余裕ができる。余裕ができればもう明日からくだらないことでイラつかないし、苦しまなくていいの。人生諦めが肝心よ。諦めた時に初めて、空が綺麗に青く見えることだってあるじゃない!身に覚えあるでしょう?まあ私ったらやっさしいー!うふふ」
「俺のことはそうやっていくらでも言ってればいい。俺の子に関わんないでくれ」
「あなたの子ではないでしょ。頭もろくに回ってないじゃない!キャハハ!」
取り合ってやる価値も、言い合う価値すら微塵もない。こいつは先日業務フロアでやり合った鳴上とは何もかも全てが根本的に違う。
ただ、悪だ。許されざる悪だ。自分に対して害が無いと判断した人間だけを選んで攻撃し、全くもって品性のない笑いを披露する悪、悪、悪───。
睨みつける眼差しを決して外しはしない。人を傷つけるためにある目の前の女の眼差しを、決して許さない。仲間を守るためなら、俺は。
怒りに染まったブレない瞳のヒロ。
しかし伊藤はそんなヒロの様子を見て露骨に鼻白んだ顔をした。そして突然すんと真顔になって「いきましょ」と低い声で言い、踵を返して資料室の奥へ消えていってしまった。川村もそれに応じるようにして、やり取りにまるで興味がない様子でスマートホンを眺めながら伊藤の背中に続いて消えていく。
結局、伊藤が何故ヒロにやたら強気で侮蔑的なのかは分からないままだった。
ヒロ達三人は資料室から廊下に出て、戸を閉めた。ひとつ息を吐いて、ヒロは燻る感情を隠せない瞳で葛西の方へ振り返る。
「奥山さん……。ごめん」
「───」
「大丈夫です。私たち、少し休憩してきます。ね?あすかちゃん」
奥山は葛西の背中で、ずっとずっと激しく泣き続けていた。ヒロはそんな彼女に、それ以上何も言えなかった。




