第15話 小さなシルエット
定時になって皆が帰った後、ホワイトボードに書かれた成績グラフを眺めた。
「あっちゃあ……今日も最下位か」
ヒロのチームの成績は毎度のように最下位だった。それがしっかりとグラフに刻まれている。
それをとがめられる者などいない。何故なら五名のうち三名は一人で業績を上げることすら出来ないからだ。
年度初めで入社した新人二名と、絶望的に業績不振の人間を一名抱えている。
ちょっと経験を積んだ二名が加わっていたところで、その二人で他を圧倒するほどの実力があるわけじゃないし、本当の意味で支社内でベテランと呼ばれる重鎮たちには及ばない。均等な実力者で割り振られた他チームとの差を埋められるはずもない。
しかしそんな事実は考慮すらされていないかのように、ヒロのチームが最下位の事実はしっかりと、知らしめるかのように刻まれていた。
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昼過ぎ。天気は良く、窓から差し込む陽の光はやけに主張的だった。
「『キーパーソンになる』。その大義に気づかせてくれた葛西さんの為にも、僕は活躍する為の知識をつけなくちゃいけないんです」
「はい」
戯言に付き合いながら、ヒロは石田に提案資料のスクリプトを落とし込む。同じ資料を落とし込むのはこれで一体何度目なのだろう。
今日も石田はてかてかとしたご機嫌な笑顔で資料を眺めている。流石にここ数日は、それを見て苦笑いする気力もヒロにはない。
「時枝さん。これを言えば出来るみたいな、魔法の言葉は無いのでしょうか」
「言うっていうよりかは、相手に話してもらってちゃんと信頼関係を作るんですよ。場合によっては何度も、話を重ねる為に通うんです。突然来た人間の言葉は、簡単に人の心の深くまでは言葉を届けられないので」
石田はてかてかとした頬を歪め、首を傾げた。
「だけど、こちらは来訪している側なのに、黙っていたら相手は不振がります。最悪、去ってしまうじゃないですか」
「えっと」
ヒロは資料を指さしながら何度も何度も、石田に説明をした。
今日も石田とのレッスンとかいうこの世で最もくだらないことで午前中が終わってしまう。こんなことならゲームセンターに行って『超時空波動砲Ⅴ』でもやってた方が有意義な時間に出来るんじゃないかとヒロは思った。
だが、微かに、ほんの微かにだが、日に日にこの男の質問の精度が上がってきていることは確かだった。
のろまな鈍亀が早く可愛く見えるくらい遅いスピードだが、確かにこの男は成長している。
それをヒロは見出していた。確実に見出していた。か細い光を掴もうとするかのような、微かな可能性を見出していた。他の人間ならまず投げ出すであろう可能性に、ヒロは賭けていた。
彼には伸びてもらわなければならない。そうしなければ、今の状況は───
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呼吸すら憚られ、手足を動かすことが重大な罪に問われてもおかしくないほどの空気。
全身の血の流れのスピードと鼓動が倍になり、血が大音量でここを離れるべきだと警告する一室で、ヒロは目の前の男に頭を下げて身を固くしていた。
廊下で爆睡する古谷を他社員に見られ、その報告が葛木に上がっていた。当然葛木がその事態を見逃すはずもないのである。
「あんまりがっかりさせないでくれる?」
「申し訳ございません……」
「そうやって謝ってくるたび毎回思うけどよぉ、お前は代表が頭下げて謝ってきたら給料未払いでも許す訳?」
葛木は鋭い光を宿した瞳を退屈そうに閉じて、手に持っていたペンを放り投げた。それがデスクに叩きつけられる無機質な音が室内に響き渡る。
ヒロはそれを実際以上の爆音として鼓膜と心臓に受けたように感じた。胃ごと全てを嘔吐しそうなほどの圧迫感を覚えながら、必死に言葉を探す。
「最大限善処しているのですが……」
「適当なんだよ。お前が適当でいいだろとか思って毎日無駄にしてっからそうなんの」
「────」
「もう解体でいいよな?お前のチーム」
「………すいません。それは、お断りします」
「何で?」
「────」
「業績は毎月全体の足を引っ張り、毎日受注ゼロ件で反省しねぇ豚に、業務時間に廊下で熟睡をこくクソ野郎。そしてそれを率いてるお前は、一体何様のつもりなんだ?どの面下げてここに来れたんだ?どんだけ面の皮厚くしてんだ。なぁ。言ってみろ」
「────」
「今月も最下位ならお前のチームには消えてもらうわ。メンバーは全員それぞれ別支社異動だ。そしてフリーになったお前には、人手が足りねぇ南端の支社に異動してもらう」
鋭利で、銃口を向けられたような瞳に射抜かれる。ヒロは何も言い返せる訳もなく、尻から臓器が全部出そうな感覚に陥って、手足が震え、呼吸が乱れ、視界がぼやけ始める。
上手くいかない商談に、チームの不和に加え、最下位という事実。ヒロは確実に、追い詰められつつあった。
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今日も今日とて石田のゼロ件にストレスを溜めながら、ヒロは書類をまとめ終えた。しかしまだ残業は終わっていない。時計を見ると十九時半だ。今日は何を食べて帰ろうか。
同窓会って確か、ちょうど来月頭だったな。月末付で南端に異動になったら、渚と同窓会にも行けない………。
そしてその月末まで、あと一週間しかない。
もっと言えば他チームが何枚か上手というよりも、ヒロのチームの売上が露骨に低いが故の最下位なのだ。つまりこのチームが根本的に変わらない限りどうにかなることは無い。
渚に言うべきだろうか。異動になったら同窓会どころか、もはやデートだって月に一回できるかも分からない。渚に言うべきだろう。だって、最下位を脱出できるビジョンなんてどこにも見当たらないんだから。
だけど、何て言う?一体どんな風に渚にこれを伝えたらいい?渚の笑顔が、真っ直ぐに射抜くあっけらかんとした瞳が脳裏に過ぎった。あいつだって、同窓会を楽しみにしているはずだ。俺に会えるのを楽しみにしてくれているはずなんだ。渚は納得してくれるだろうか。渚は南端に異動すると聞いて、うん分かったと言ってくれるだろうか。
どうしたらいい………。俺はもう、駄目なのか。諦めるしかないのか。出来ないのか。成し遂げられないのか。辞めれば楽か。
「おはようございまあす」
その時、聞こえるはずのない声がヒロの鼓膜を打った。
「え!?」
「うふふ。るるるんるん」
「時枝さん。今日も残業長いんですか」
ヒロが酷く驚いて振り返ると、とっくの昔に帰ったと思われた葛西と北沢がこちらを見ていた。
二人とも元気に振る舞ってはいるものの、確かに疲れを感じさせる顔だった。しかし、それに負けんとばかりに瞳には活力を漲らせている。
「疲れてないんですか?お二人とも」
「疲れましたあ。だけど、疲れたからってやめられません。あと少しで月末ですし、今回は初の最下位脱却目指しちゃいましょ」
「そういうことです。あと、俺はこの機会に時枝さんにひとつ相談があって」
葛西も北沢も、それぞれ最下位で終了することを受け入れるのは断固拒否の姿勢を示していた。
それを見てヒロは安堵する。そうだ。負けてはいられないんだ。まだ、こんなところでは。
三人で事務作業をし、次回の取引先について色々と話をし、コーヒーを飲んだ。不思議と、苦しいはずだったこの時間が至福に感じられた。やっぱり誰かが一緒にいてくれるだけで違うのだ。
渚が戻ってくる前の日々を思い出した。あの日々は二十四時間、いつも薄暗い『独り』に塗れていた。ヒロは首を振って、湧いて出たそんな日々を掃いて捨てる。
葛西が作業に集中し始めると、一段落ついた北沢が珍しくヒロの隣に座り、リラックスした表情で話始める。
「この間のボーナスで、気になっていた水中ドローンを買ったんですよ」
「そんなの売ってるんですか」
「はい。先日、例の大公園にある池で鯉を撮影したんです。想像以上の出来映えでしたよ。今度時枝さんにもお見せします」
「すごいじゃないですか。リアル水族館だ」
「ただ───」
そこまで言った北沢は息を吐き出して、奇妙な別世界でも見たようにその怜悧な目を細めて首を傾げた。
「明らかに、変なものが映っている写真も撮れまして」
「変なもの?」
「俺は決してオカルトを信じないんですが……ついに、信じざるを得ないのではないかと思うような事態、その片鱗を見たんです」
「なんか、怖い話ですね。というと……」
「笑わないで聞いてください。───”人魚”ですよ」
北沢は手を組み、その明晰で聡明たる瞳に、微かな畏怖を宿した真剣な眼差しでヒロを真っ直ぐに見つめて言った。
それを聞いたヒロは目を見開き、たじろぐ。北沢はそれを見て不気味な笑みを浮かべ、マッドサイエンティストのように瞳を光らせた。
「おや、時枝さんはこういったお話を信じられる方でしたか?しかし恐れたとしても、一度教えてしまったからにはもう戻れません。この世界には存在するんです。物の怪や妖怪といった、我々の理解を越えた存在が」
「────」
「更に驚きの情報を付け加えましょう。その人魚は小さなシルエットだけですが、筋骨隆々の肉体をしているように見えるんですよ。どういった文献を調べても、そのような生命体についてのデータは得られませんでした。俺は知識をまとめるのにはかなり自信がありますので、その事実に気づいた時の衝撃は計り知れませんでしたね」
「────」
「来週末にでも俺は専門機関に写真を持ち込み、調査に乗り出すつもりです。一部の有識者に既に確認してもらいましたが、これはもしかすると大天変地異や宇宙人襲来の前兆である可能性も示唆されたんですよ。驚きましたか?驚いたでしょう、フフフ……」
北沢は得意げに、たじろぐヒロを嘲るようにほくそ笑んでそう言った。お前絶対にオカルト好きだろとヒロは思った。しかし、それは口に出さないでおいた。
言うは知性、言わぬは品性。それを履き違えずに生きていたいと常々思うが、この時ばかりは何も言えなかった。その人魚の正体が鳴上だと知ったら、北沢のこの得意げで不気味な笑みはどうなってしまうのだろうか。
ていうかあいつは何で人魚になって泳いでいたんだ?全く意味が分からない。渚と一緒に無駄に混乱したあの時間を返して欲しいと思った。
「北沢さん手伝ってくださーい」
「あ、はいはい」
「真面目にやってくださいね」
「どれ?ああ、ここの取引先は……」
北沢は立ち上がり、それまでのやり取りを忘れさせるほど知的な振る舞いで葛西のパソコンを覗き込んだ。二人で仕事のことで話し合っている。
ヒロはコンビニで買ったチョコレートを齧り、十分に咀嚼してからコーヒーで流し込んだ。苦みを噛み締めながら取引先のリストをチェックしていると、ちょうど先日ヒロが失敗した大型商談と同額の売り上げを上げれば最下位を脱却できるという事実に気づいた。
書類を眺めていると、葛西が代わりに隣に座ってきた。北沢は代わりに仕事をさせられている。哀れな光景である。
葛西は疲れ切ったように息を吐き出して、ふとしたように横にいるヒロをじっと見た。彼女はフットワーク軽めの雰囲気でありながら、色々経験している人間特有の深い光を放った瞳をしていた。
目元は上がっていて優しそうにはあんまり見えないので、初対面で怖いと思ったのを思い出した。ヒロは思わず、先ほどとは別の意味でたじろいでしまう。可憐な容姿の彼女と目と目が合ったまま、二秒くらいが経って、
「時枝さんって彼女いるんですかあ?」
「それは逆セクハラだーーー!」
あまりにも軽い口調での質問が炸裂して、その直後に北沢がガタリと勢いよく立ち上がって叫んだ。
向かいのデスクでパソコンに向かっていた北沢が、普段怜悧な瞳をいからせ、足音を大きく立ててこちらに歩いてきた。ヒロと葛西はびくりとして、目の前に立った北沢を見上げる。
「時枝さんだからって逆セクが許されると思うなよ!」
「ええ?別に良くない?そりゃ初対面だったら引くかもしんないけどさあ」
「お前仕事してこい!俺は時枝さんに相談があるんだ!きわめて重大な相談が!」
「真面目だねえ。さっき人魚の話してたとは思えないですけどっ」
「聞かれてた!」
その剣幕に小言を残しながらも、葛西は渋々とヒロの隣を離れてパソコンに向き合った。それを見届けた北沢はヒロに向き合い、ちゃんと真面目な顔をして言った。
「古谷のことなんですが……あいつは、他のチームにやれたりしないですか?」
「────」
「手に負えませんよ……。今日なんて資料室で寝てたので、取引先に連れていくことも出来ず」
ヒロはしまったと思った。まずは古谷についての話を北沢とすべきだったのに、他業務で忙しすぎて出来ていなかった。
そもそも、奴を資料室に置きっぱなしにしていたのは完全に自分である。いい加減そろそろ、渚風に言えばシバく必要があるかもしれない。痛い目を見ないと分からないこともあるだろう。
「得意不得意ってやっぱりあるので、ここに来てもらった以上どうにかやってもらいましょう。俺からも引き続き叱りつけるので……直接面倒見てくれてる北沢さんには、頭が上がらないですよ」
「いえ。そもそも……時枝さんもおかしいと思ってない訳じゃないですよね?うちのチームだけ、明らかに安定しないことを前提とした人間が集約されている。新人二名に、石田」
北沢は賢いので、色々と一目で察してしまうようだった。その見立ては正しいし、最下位を脱却するのは極めて困難な状況にあると言いたいのだろうが、まさにそうだ。その通りだ。
「時枝さんが彼の先行きを心配されているのは分かりますが、面倒が見切れなくなってからでは遅いと思います。次にあいつが何をやらかすか、判断がつきません」
「うーん。そうですね……明日にでもまた、古谷とは話をしてみます」
「ありがとうございます」
北沢は恭しく頭を下げて立ち上がり、葛西とパソコンを交代した。葛西は再びヒロの隣に座ってコーヒーを一口飲み、ヒロのほうを見て言った。
「明日少し時間あるのでえ、時枝さんの商談のお手伝いしますよ」
「あ。ほんとですか?」
「それ決まれば、私たちの目標達成ですもんねえ。ふふふうんふうん。るんるるるるんるん」
何も考えていないように見えるが、葛西もかなり色々なことを考えるタイプだ。北沢が知識派なのに対し、葛西は応用的な力が高いタイプであるとヒロは評価していた。これまで彼女を頼りにした場面も、両手の指の数では収まらない。
故に、ヒロの大型商談次第で最下位を覆せる可能性にも彼女は気づいていたのだ。おどけて歌ってみせる葛西に、ヒロは感謝を抱いて微笑みかける。
「ありがとうございます……。正直、本当に助かりますよ。なかなか攻略口が見えない勝負で」
「あすかちゃんにも手伝ってもらいますねえ」
「奥山さんも?ああ、そのほうがいいですね。まだ彼女一人で外は早いですし」
明日の動きが決まった。月末まで、あと一週間といったところか。
石田は一週間じゃどうにもならないかもしれないけれど、二人を頼って、大型商談を成功させればどうにかなるかもしれない。
まだ諦めるのは早いと、自分を叱咤したヒロは前を向き直ったのだった。




