第13話 置き去り
「……ペンギンが、ひゃくいっぴき。ペンギンが、ひゃくにひき。ペンギンが」
「いつまで寝てるのよ!起きなさいよ!寝ぼけてんじゃないわよ!クビになるわよクビに!」
膨大な書類が収められた資料室で書類の整理をしていた奥山が、隣のデスクに突っ伏して寝言を言う古谷をどやした。しかし彼は夢の中でペンギンを愛でるのに夢中であり、当然のように起きない。
「俺から後で言っておくよ」
「! 時枝さん。ありがとうございます。どうかこいつを思い切り叱りつけてください」
「叱りつけるなら何度もしてるんだけどな……」
会議から戻ったヒロは、たまたまそんな二人の様子を見ていた。振り返った奥山は心底呆れていた表情を明るい笑顔にして、ヒロのもとへ駆け寄った。
どうやら、奥山は純粋にヒロのことを慕っているらしい。
「時枝さんのご指導なら、信じられます」
「ありがとう。だけど俺にそんなこと言っても、仕事は減らないよ」
「良いんです。言いたくて言うんですから」
そう言って奥山が見せた微笑みはあまりにも瑞々しいもので、ヒロは思わず顔を背けたくなった。
「比べてこいつはいつも寝てばかり。入社式でも寝ていたんです」
「まあまあ」
奥山はヒロから未だ目覚める気配など欠片もない古谷を睨みつけた。ヒロから目を背けた途端にこの忌々しげな顔である。ヒロはそれを穏便に済ませようとなだめる。
実は古谷はこれまでにも、類似の問題行動を何度か起こしている人物だった。その度にヒロは古谷を呼び出して説教をしている。
しかしいつ何度呼び出しても、何を言っても、彼はその端正な顔立ちの口端から涎を零しながら虚ろな瞳で天を仰ぎ、夢の中でうわ言のようにペンギンの数をかぞえること以外をしなかった。北沢いわく、商談をしているとき以外はほとんど起床していないと言われるほどだ。
対照的に、奥山は働き者だった。規範に忠実で思いやりがあり、コミュニケーションも得意。公務員とかのほうが向いてるのではないかと思わされるほどだ。親しみやすさを感じる風貌と雰囲気も、彼女の特徴のひとつである。
それが、ヒロがこのふたりを二か月見てきて出した評価である。仕事なんて一般的に何年もかけて覚えるものであり、ましてや一人の人間の真の評価など、たかが一、二年程度で見定められるものではない。否、何年あったところで、目の前の人間の真価など推し量ることは出来ないのかもしれない。
しかしヒロ達には、彼らに即戦力になってもらわなければならなかった。この残酷な職場のことを、まだ彼らは一割すら分かっていない。だけど耐えてもらわなければならなかった。
「奥山さんにそろそろ、AIツールの使い方を教えたいんだけどこの後大丈夫ですか?」
「あ、はい!是非お願いします!」
ヒロは奥山を連れて資料室を出た。古谷はデスクに突っ伏して寝たまま、完全に置き去りである。
初々しい微笑みを作り、ひな鳥のようにとてとてとついてくる彼女を後方に感じながら、ヒロは高校時代を思い出していた。今も昔も、誰かがこうやって後ろについてくるのは全然変わらないなと思った。
奥山が古谷を気に掛けるように資料室の扉を数秒、目を細めて眺めたことにもヒロは気づいていた。
長い廊下を歩いていると、ヒロの後ろを歩いていた奥山が口を開いた。
「そういえば、燕さんは異動されたんですね」
「そうだね」
「何があったか詳しく聞いていないんですが、色々大丈夫だったんでしょうか?」
奥山はヒロのチームに配属されてすぐに、今はもういない燕と仲良くなった。
だからこそ彼女の表情に暗雲が差し込むのに奥山は気付いていたし、しっかりしていて溌剌とした性根の彼女が何に悩んでいるのかをその胸の内に秘めて決して誰にも言わない性質も分かっていたし、救ってやれない自分に無力感を覚えていた。
「燕は……何だかんだしっかりしてたから大丈夫だと思ってるよ」
「それなら何よりですが」
しゅんとした顔を伏せる奥山を見て、ヒロは歯がゆい気持ちになった。俺がもう少し気が利いた対応をしてやれたら違っただろうか。
しかしいくらそんなことを考えても、時間は巻き戻せない。彼女が今どうしているかも分からない。前を見て進んでいくしかないのである。
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渚は同窓会に備えてコミュニケーション能力を磨くため、どうするかを考えていた。しかし生粋の陰キャである渚は、そのためのアクションプランを思いつけない。
迷った末に、料理教室のあとに行われる恒例のお茶会に参加してみたが、渚のあまりに偏った知識を披露し、ママ達にマスコット扱いされて終了した。
「だめ……。同窓会でマスコット扱いなんてされたくないもの」
渚はスーパーで果物の詰め合わせを購入し、とぼとぼと帰り道を歩いた。帰り道を歩きながらヒロのことを思う。
しかし、理想通りになるビジョンが浮かばない。
何をしたらいいのかも分からずに歩いていると、人にぶつかって果物の詰め合わせが入っていた袋を落としてしまった。
「きゃ!すいません」
「ヌ?草津殿ではないか!」
聞いたことのある声に顔をあげると、身に覚えしかない大男がドヤ顔で渚を見ていた。大男は仕事帰りなのかスーツを着ているが、時間は真昼間だし、荷物らしきものも持っていない。
「今日も会うなんて、世間は狭いね?」
「拙者は昼飯を買うために、これからスーパーに買い物でござるよ」
「鳴上君の会社ってこっちじゃなくない?どうしたの?ワープでもしてきた?」
「拙者にかかればワープも出来るでござるよ」
「すごいね!」
渚が本気で感心して目を輝かせており、鳴上は素直に得意げな顔をしている。IQゼロの会話を繰り広げた二人は、何ともなく並んで歩いた。
「聞いてくれ、草津殿。拙者は今朝時枝殿にすれ違ったことにより、遅刻の重大な危機を免れた。拙者は一体何度、彼奴に救われるのか分からぬでござるよ」
「ほんと?じゃあ、ヒロのことも助けてあげてね」
「もちろんだ!任せておくがいい」
「鳴上君ってどの辺に住んでるんだっけ?ヒロが近々、鳴上君のおうちにお泊まりするとかなんとかって」
「ああ、チラリと約束したでござるよ。───しまったッ!昼休憩が終わってしまうッ!草津殿、また近々ッ!」
鳴上はふと腕時計を見てそう叫ぶと、周囲に轟音と爆風を起こして走り去っていった。
もし会話に詰まったら、何言えばいいのか分からなくなったら───あんなふうにして、逃げちゃおっかな。
信じても大丈夫だよね。だって、鳴上君はヒロと仲良しなんだもの。
渚はそんなことを考えながら、鳴上の消えた方角を見つめていた。




