第10話 『戦場』
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会社は十階建てのビルだった。
ビルを見上げれば、ふてぶてしいまでに存在感を主張するロゴプレートがあった。
業務エリアを見渡せばいつもの光景だった。激務に追われて常に走り回る足音がして、無限に響き渡るタイピング音と、怒鳴り声が聞こえていた。
『いつもの光景』と聞くと少し退屈な印象を受けるかもしれないが、退屈という言葉とは全く縁のない場所だった。
見える光景こそ毎日同じでも、走り回ってる理由は昨日までと全く違うことである事がほとんどである。
状況も葛木からの指示も、状況に沿って目まぐるしく変わるからだ。
平和に思えるこの時代にも、一瞬足りとも気を抜けない『戦場』は確かに存在するのだ、とヒロは考えた。
ずっと後回しにしていたミーティングの議事録を完成させる為に忙しくタイピングしていると、雨の音がほんの微かに鼓膜を叩いた。
大好きなその音を、ヒロは聞き逃さなかった。
胸が高鳴り、『戦場』などあっという間にヒロの心からは消え去った。激務の最中である事も構わずに席を立って、窓から外を眺めた。
窓の外は夜と錯覚してしまいそうな程暗かった。暗雲が立ち込め、激しい雨が降り注いでいた。
突発的な雨であるからか、人々の大半は傘を持っていなかった。雨を逃れたい一心で、必死に目的地や近くの建物に入っていく姿が見えた。
微かに濡れていたガラスは、やがて無数の雨水が伝い落ちるようになった。地上ではコンクリートに叩きつけられた雨水が、排水溝に向かって勢いよく流れていた。
ヒロは雨が好きだった。それは癒しというよりも、救いと呼ぶべきものだった。
降っているのを窓の外から眺める度に、安心して落ち着くことが出来た。
雨という存在によって、自分も、広大な世界も、その世界に住む人々も、皆平等であると思う事が出来た。
自分という人間が、あたかも真っ当な人間であるかのように感じる事が出来たのだ。
「時枝さん。戻りましたよ」
「………」
振り返ると、こちらを見ていたのは眠たそうな瞳の青年と、恭しい瞳を向けてくる年下の女性。ヒロの後輩にあたる、古谷と奥山だった。
二人は新卒でまだ営業回りを覚えたてだった。古谷も奥山も高卒で、ヒロの中で勝手に仲間意識がある子たちだった。
「お疲れ様です。雨大丈夫でした?」
「はい、今降り出したばかりだったので運が良かったです。本日の私の業績ですが、一件獲得、一件は保留になりました」
「早速?すごいですね。努力の成果が出てる」
「ありがとうございます。葛西さんもそろそろ戻ると思いますので」
真っ先に丁寧に報告してきた奥山は毅然とした顔をしていたが、ヒロが率直に思いを伝えると微かに頬を上げて鼻を鳴らしてみせた。
誉め言葉が嬉しかったようだ。奥山は堅実に頑張れるタイプと見ている。今のところ吸収もかなり早いし、頼りになる存在になることが期待される。
たまに規則に囚われすぎて、怯え切ってしまうのが玉に瑕だが……。
奥山は引き締まった表情を崩さないままヒロに笑いかけると、そんな表情をぱっと切り替えた。
そして五歩くらい後ろでスマートホンを眺めている、古谷の方を振り返る。奥山は歳が十くらい離れていて手のかかる弟の面倒でも見ているような顔をしていた。
そしてカツカツと歩み寄り、奥山は自分の同僚である古谷の足をドカッと力強く蹴った。
「あんたちゃっちゃと報告しなさいよ!なに時枝さんの前でスマホ見てんのよ!みっともない!あんた今日もここが何階か忘れてエレベーターの前で突っ立ってた癖に調子に乗るんじゃないわよ!私とたまたま鉢あわせなかったらどうするつもりだったのよ!入社してから何週間経ったと思ってんのよ!」
「…………いい」
「はぁ?」
「ペンギンが、可愛い」
古谷はスマートホンでFoutubeを開き、氷の上をペンギンが群れで歩いているショート動画を眺めていた。
表情こそ乏しく何を考えているか分からないが、その細い瞳は思いがけず神秘的な美しさの精霊と出会ってしまったかのように輝いていた。
それを見た奥山は心底呆れたように額を抑えて、溜息をついてみせた。
「ペンギン好きなんですか?」
「…………」
ヒロの問いかけも、瞳を輝かせる古谷の耳に届いたのか届いていないのかよく分からなかった。
外交的な奥山とは対照的な人物だった。古谷は広大かつ鮮明に広がる、自分の世界にどっぷり浸かるのが好きな男性社員だった。
男性社員よりも、男の子と呼ぶ方が違和感がないかもしれない。
「ちょっと!質問されてんの!聞いてんの!?ペンギン見てる場合じゃないわよ!あんたね、ここは学校じゃないのよ!?社会ってもんを知らないのよ社会ってもんを!」
「………今日は二件、だと思います」
古谷は小さな声で、誰へともなくそう言った。そして何事も無かったかのように、スマートホンを眺めながら自席に戻っていった。
奥山はわなわなと手を震わせ、刺すように古谷の背中を見つめていた。営業実績では、奥山より古谷の方が上の日が多いのだ。
営業トークや切り返しの提案の練習に付き合った時も、古谷は初めてと思えない程上手だったのが印象に残っている。
三日に一回くらい、奥山が古谷に勝つ日があった。
そして奥山が勝った日は、毎回彼女の手が小さくガッツポーズになっているのをヒロは見逃していなかった。
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定時を過ぎ、時刻はそろそろ十八時十五分になろうとしていた。しかし当然のように仕事はまだまだ終わりそうになかった。
部下達がアポイントの整理や書類の処理に追われていたため、顔を出す事にした。
部下達は現場メインであるため、なるべく定時で帰して負担を軽減したかった。ちなみにヒロは一般社員だった頃から残業まみれだった。
業務フロア中央、全体を真上から見て丁度真ん中らへんにヒロのチームのデスクがあった。ヒロが顔を出すと、一斉に「お疲れ様です」と声が響いた。
古谷と奥山が順調に書類処理しており一安心していると、後ろに座っていた葛西が挙手してヒロの名前を呼んだ。
「時枝さーん。前から保留だった虹丘商社さん、受注出来ましたよ」
「本当ですか?金額的には中型商談に届きそうな案件ですし、もう少し長引くと思ってたんですが。流石ですね……どんな感じで決まったんですか?」
「覚えてないです!」
「覚えてない!?」
「忘れました!」
「忘れました!?」
「てゅーるるっるー。今日も~いい天気~」
彼女はおどけ、歌いながら大きく身体を伸ばして欠伸をした。葛西は入社三年目の女性社員。
入社したての頃はやる気が無かったが、最近特にグングン数字を伸ばしている。
営業以外の事をさせると変人である事実が露見してしまう点以外は非常に優秀なメンバーの一人だ。
そのおどけた態度は、かつて手のつけようもないほどのギャルだったことが関係しているとか、していないとか。そんな話を小耳に挟んだ気がする。
今はそんな経緯も感じさせない、落ち着いていて美しい容姿をしている。一言でも喋ればこれなので、ちょっと残念な女性だ。
現場で新人の奥山とペアを組ませているのも彼女だった。
「時枝さん。今日は俺、一件小さいのしか取れませんでしたよ」
「えーっ?北沢さんが?珍しくないですか?」
葛西は驚いて、椅子から乗り出しながら横やりでそう問い返した。馴れ馴れしく接する事の出来る友人に話しかけるみたいな口調だった。
問いかけられたのはベテラン男性社員の北沢だった。
ちなみに、ヒロが業務フロアで針のむしろにされていた時に状況の報告に来てくれたのも、鳴上が来たことに気づいて逃げていったのもこの男である。
北沢は毎回安定して四~五件以上を維持するハイパフォーマーで、全体で見ても相対的に評価が高い人物。現場では新人の古谷とペアを組ませている。
北沢はじとっとした目で葛西を一瞥してから、ヒロの方に目線を戻した。
基本的には怜悧で落ち着き払った目をしている男性だが、この時は腹の中が燻るのを隠し切れないというような顔をしていた。
「バックの伊藤が作った書類と連携内容が分かりづらいんですよ。最近雑だと思うんですよね。おかげで目の前に集中出来やしない。どう思います?」
「あー……これ、確かに分かりづらいですね」
ヒロは数枚の書類と、北沢に差し出された社内用スマートホンに表示されたメッセージを確認した。
見てみれば確かに用件や内容が端的過ぎて読み取りづらい。それを基に顧客対応をする身としてはストレスとなり得るだろうと思った。
バックアップ事務は管理職の宇佐を筆頭に、時短作業化を大掛かりに進めていた。
伊藤らがここ最近必ず定時で帰宅出来ているのはそこが影響しているのだろうと読み取った。
「葛西も気になんないか?これ」
「ウチも伊藤さんのメッセージ見て意味分かんなかったので『意味が分かるように説明お願いしまーす』って返信したんですけど、こちらでも連携した以上は分かりかねますとかって更に意味不明な返事返ってきましたよ」
煽りにも等しい返信してんなとヒロは隣で聞きながら思った。
「伊藤に直接返信したのか……度胸あるな。それでどうした」
「仕方ないんで連携された通りに対応しました。じゃんがじゃん。じゃん。じゃんがじゃんがじゃん」
葛西は歌いながらデスクの事務作業に戻ってしまい、北沢は完全に置き去りにされていた。呑気な顔で歌ってはいたが、デスクに向き直る時の仕草は完全に、不毛で興味もない会話を無理やり打ち切った時のそれだった。
置き去りにされて呆然としていた北沢には、とりあえず伊藤の対応について何かしら対処出来るよう対応すると伝えた。
考えてみれば、ここ最近の伊藤の株が落ちているのはヒロも同意見だった。
先日の食堂の一件がそうだ。川村と一緒に堂々と休憩時間を伸ばしたりと、明らかにその行動が誠実さに欠ける事は明確である。
それはバックアップの主任管理職である宇佐に訴え掛けるしかないだろうと、一旦伊藤の件を考えるのはやめた。
そしてにこにこと笑顔でデスクに向かう四十代前半くらいであろう男性社員、石田に声を掛けた。
石田はヒロに気づくと、笑顔の皴をさらに増やしてフレンドリーな雰囲気で手を上げた。とびきり美味しいものでも食べてる時のような、つやつやとした笑顔だった。
「石田さん。今日はいかがでしたか」
「ゼロ件ですよ。今日もゼロ!」
「そうでしたか」
「すいません、時枝さん。なかなかお役に立てず」
「折れず、次も前向きにいきましょう。あと、練習をもっと詰めたいので明日の午前中を空けておいてください」
「分かりました」
石田は営業回りに意欲的で笑顔こそ輝いており、パッと見の印象は素晴らしいものがあるが、なかなか数字には結びつかなかった。
あと一歩トークで工夫出来ればと思うのだが……。
ふと石田が声を潜めたので、ヒロは彼の顔に近づいた。すると石田はこっそりと周りに見えないように、端に座っている女性社員を指さした。
そして「彼女を見てやってくれませんか。最近ずっと浮かない顔をしていて」とつやつやと丸みを帯びた笑顔で言った。ヒロは頷いて、彼女の元へ歩み寄った。
ヒロのチームは古谷、奥山、葛西、北沢、石田と続いて最後の一人が二年目の後輩、燕だった。
長期的に見て、今後一番数字を伸ばすのは燕だと考えていた。当然まだまだスキルは未熟だが、飲み込みが良く実直な人物だった。
ちなみに後々、「ヒロにパワハラをされた」と言って回り業務フロアに騒動を起こしたのも彼女である。
「燕さんはメンタルとか、大丈夫なんでしょうかね。今週なんて、ずっとあんな感じなんですよ」
「ありがとうございます。改めて、俺から話をしてみますね」
石田はそう言って、切なさの中に厳しさを含んだような顔で眉を寄せ、腕を組んで燕のデスクをじっと見つめていた。
先週も先々週も同じ事をこっそり報告してきており、かなり心配をしているようだ。お前は自分の心配をしてくれとヒロは思った。どう考えても石田は他人に気を配っている暇はない状況だった。
しかしそれを石田にどのようにオブラートに包んで伝えるのかについて、結構頭を使って悩ませる事となってしまった。
そして妙案が思いつかないまま既に二十分くらいが経過していて嫌になったので、俺は食堂で缶コーヒーを飲んでイヤホンで適当なEDMを聴いて忘れ、明日の自分に任せる事にした。
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