第1話 縦横無尽な感情の旅
俺は渚と交際をし始めて、一か月くらいが経った。
しかしだからといって、今のところこれまでと特別変わることのない日々を送っている。
変わったことと言えば、毎日のように「私の事好きー?」と聞いてくるようになったこと。分かりきってるのに聞いてくるから、百パーセントわざとだ。
無視したり適当にあしらおうとすると不機嫌になるので、きちんと答えなければならない。
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ゆっくりとした時間に起きた渚はパジャマのまま、ごろごろと自宅マンションのベッドに寝転がってスマートホンを見ていた。時刻を見てみると、既に十四時だった。
今日もずっと胸の高鳴りが抑えられない。
だって、ヒロに会えるんだもの。
寝ても覚めても不安と緊張と、それを毎秒打ち消すくらいの心地良さと期待が同居した感覚がある。
これに慣れることなんてあり得ない。だから私は、気持ちが強かじゃないといけないんだから。
ここ最近は毎日デートをしているにも関わらず、愛は深まってゆくばかり。それはまるで底なしの沼のようで、寒い朝ベッドから出たくない感覚に近い。それの何がいけないの?
とはいえ、ヒロとの合流まではまだ時間があった。
渚は軽く身体を伸ばして机に座り、置いてあったノートを開いてペンを持つ。そして、少し早いが今日の分の日記を書き始めた。
それは高校を卒業して以来、毎日欠かさずに書いている日記だった。既に二十冊以上の山という形を成して、約三年続けた嗜みとその在り方を証明している。
もともとは趣味の料理や鑑賞した漫画、アニメの感想を書き連ねるだけだったノート。しかしそれは今や、ヒロと再会して交際が始まったことで、半分以上がヒロの内容で埋め尽くされていた。
ヒロがこの日はこんな顔をしていた。
この日はこんなことをしてくれた
この日はこんなことを言ってくれた。
この日は会えなかったけれど、こんなメッセージが届いた。
嬉しい。悲しい。楽しい。怒り。
ヒロ。ヒロ。ヒロ。眼中にあるのはヒロだけの女。
いつもヒロの事で頭がいっぱい。それはヒロの一挙手一投足で感情をあちこち連れまわされてしまう、哀れで幸せな女の日記だった。
どの日に書かれたものを見ても、その癖は強かった。しかしそんな渚のノート二十冊の中でも、彼女の中で一番長くて最高傑作という自負があるのは、ヒロから告白を受けてキスされた日の日記だ。
その日だけで、新しいノートの約半分を埋めてしまっているのだ。
渚は書く文字こそ綺麗ではあったが、文章を書くのが得意な訳ではなかった。むしろその手の事は下手くそであり、学業で修めた成績も秀でてはいない。
だけどそれでも十時間以上を掛けて熱心に紡がれた、稚拙でしかない文章の羅列。それを見れば誰もが、その日の渚の縦横無尽な感情の旅というものが窺い知れる事は間違いない。
もっとも、絶対誰にも見せないけど……。
特にヒロになんか、絶対見せられない。もし見られちゃったら恥ずかしすぎて、死んじゃうもの。
ヒロが遊びに来る日は、必ず過去の分を含めて全て、押入れの一番奥に仕舞いこむ。仕舞いこむ前に遊びに来たら、ヒロを玄関に留めておいてでも真っ先にこれを仕舞い込む。
絶対、誰にも見られちゃいけない嗜み。
そんなことを考えながら日記を書いていると、あっという間に一時間が経っていた。それに気づいても、渚はまるで白い壁がそこにあることに気づいただけみたいに表情を変えない。
日記を書いている間はコロコロと色々な表情に変わる彼女。それ以外の、つまりヒロに関連しないことにはあんまり興味がないのだった。
渚は眠たい目を細めてこすりながら寝室を出て、パジャマのままキッチンに立った。
昨日までの残りものを冷蔵庫から取り出し、豚肉と大根のオイスターソース煮とお吸い物を急ぎ目に作った。そして茶碗に米をよそって沢庵を添え、合掌して食べ始める。
渚は沢庵をポリポリと咀嚼し、ぼんやりとした顔でヒロの事を思った。いつも月光の下の凪のように落ち着いていて、穏やかで優しいヒロ。
透明な眼差しで、いつも私を見守ってくれるヒロ。
そしてそんなヒロに───いつしか、ドキドキさせてやりたいという願望が渚の中に芽生えていた。
だって私はヒロに会う時、すごく緊張してるんだよ?それなのに、どうしてヒロはいつもクールでいるの?
そんなの許されるわけないよね?
先日ヒロのスーツのポケットから風〇のクーポンが出てきた時は、流石の渚も過去一怒り狂ったものだった。
当然その時ほどではないにしても、いつも一定なペースのヒロに、そんな不満めいた感情が沸き立つのを彼女は抑えられなかった。
それがヒロの良さであるなど、渚は分かっていた。分かってはいるのだ。
分かっているけれどそのうえで、私の前では乱れて欲しい。
私のことを見て、私のことで焦って欲しいし、不安になって欲しいし、時に寂しさだって覚えて欲しい。そして私を求めて欲しい。
ご飯を食べ終わった渚は身支度を始めた。身支度をしてマンションを出た後も、ずっとヒロの事を考えていた。
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ヒロは仕事を終えて、いつものアニメグッズ店に来ていた。
ここ最近の仕事終わりはいつも、渚と『いつものコスプレコーナー』のベンチに待ち合わせして、二人で腰掛けている。
その時の気分で一緒に軽く食べ飲みしながら、『鳴上のいつもの』を眺める。
そして閉店の二十一時頃に、三人で店を出て帰るまでが日課になりつつあった。
ヒロが渚と一緒にベンチに座る機会はこれまでに何度もあったし、座った回数は両手両足の数では収まり切らない。
だけどそんなこれまでと、今で明らかに違っていることがあった。それは、二人の物理的な距離が全くないこと。
渚はヒロに身体を寄せてぴったりくっついて、常に左腕をぎゅっと抱き寄せていた。
それをする渚といえば、照れている様子すらない。
そんなことしなくても離れないんだけどな。
そう思ったヒロがたまに渚の顔を見ても、渚は抱きかかえた腕は離れるどころか、微動だにしない。そして何も言わずに、まるで「何?呼吸してるだけだけど?」みたいな顔で目線を返してくるだけだ。
「アマテラスオオミカミよ。私を見守りなさい。この甘目まどか……大宇宙。つまり、神界に誓うわ。必ずあいつを焼き払い、照り焼きにしてスープと一緒に食べてあげるとね。森羅万象に宿るは、ダイセイレイのみであるべきよ」
『甘目まどか Galaxy Edition』のコスプレ衣装を着こんだ鳴上は、アホほど短いフリフリのスカートでカーテシーをした。そして下に履いている短パンがチラッと見える。
「エロすぎる……」
「おいこら、エロい目で見るな」
自分の腕を抱きかかえたまま、唐突にスケベモードになった渚。その頭をヒロはぺしっと叩いて、ツッコミを入れた。
「さては、アナタ……。アマテラス様から浮気してその悪魔に乗り換えたってところかしら?オシオキ、しちゃうわよ……」
鳴上はビッと目の前を指さし、決めポーズをした。ポーズが決まった瞬間、ギャラリーの子供たちが絶叫にすら近しい叫び声を上げて歓喜を表明した。
「ヒロ、スマホ貸してー」
突然そう頼んできた渚は、あっけらかんな顔をしていた。渚の意図が分かるわけもなく、ヒロは表情を変えないまま首を傾げる。
「え?なんで?」
「いいから」
「あ、うん」
渚のお願いには、何故か謎の圧力があった。ヒロは何故なのか全く分からないまま、言われるままに渚にスマートホンを渡した。
スマートホンを受け取った渚はヒロのスマホでカメラを起動し、コスプレした鳴上の全身アップ写真をカシャカシャ撮り始めた。
「待ち受けにしてあげるー」
「いや。こら。やめなさい。おいこら」
ヒロは呆れ顔で、スマホを取り返すために手を伸ばした。
しかし渚はケタケタと楽しそうに笑いながら、スマホを返すまいと身と腕をよじらせてヒロの手から逃れる。
そしてその間にも写真撮影はされており、ヒロのスマートホンに不要すぎる写真が蓄積され続ける。
困った女だ……。
「保存しといてるからインスタに上げていいよー」
「上げるわけないだろ?え?何で上げると思ってんだおいコラ」
「きゃー♡」
「きゃー♡じゃなくてさ」
渚はゲラゲラ笑っている。ヒロが構えば構うほど、渚の術中にはまっている事実にヒロは気づくことが出来ない。
それが単なる悪戯だと思っているヒロには、彼女の思惑にかすりもしない。
フリフリ衣装にミニ丈スカートの、鳴上の筋骨隆々の肉体と迫真の顔面が収められていく。一体誰が得するんだ?誰が得するんだよ。
呆れ気味な表情でそんなことを考えていたヒロだったが、次の瞬間に、驚きに目を見開く表情に変わる。
───気づいた時には渚が持っているヒロのスマートホンは、内側カメラに切り替わっていた。
伸ばされた腕から逃れていた渚はヒロに背を向けた体勢で、器用にシャッターを切った。
楽しそうに弾けるような笑顔の渚と、スマホを取り返すために渚の背中に覆いかぶさりながら驚いた顔をするヒロ。
ほとんど渚に背中から抱きつく体勢になっていたヒロ。そんな二人が、上手くカメラに収まっている。
ヒロはどんな状況でも表情こそあまり変えない性質だが、その内側は人一倍繊細で思慮深かった。普通な顔をしていながら、激情を抱えてしまうことも多い男だった。
そんな思慮深い男すら唖然として、思考が消え失せるほどに器用過ぎる所業だった。
唖然として、スマートホンを取り返すための腕も止まっていた。そんな停止したヒロを渚は視界にも入れず、得意げに唇を舐めながら再び外側カメラに戻した。
そして、今度は鳴上の股間を超アップにして連写し始めた。
「何してんだやめろ!このスケベ!」
「やめなーい。ほら、可愛いでしょ〜?ひひ」
「うん、そうだね。早くスマホ返しなさい!ほら!」
「やだよー」
超高速でシャッター音が鳴り響き、毎秒数枚単位で鳴上の股間がフォルダに蓄積されていく。
数十秒の格闘の末、ヒロはやっとの思いで渚からスマートホンを取り上げた。
渚は不満げに頬を膨らませてヒロを睨んだ。頬を膨らませたいのはこっちだよとヒロは思った。
コスプレコーナーの端に位置するベンチ。鳴上と、そのギャラリーが良好に見渡せるベンチで、二人だけの世界の、二人だけの営みが行われていた。
渚は再び身を寄せて、自分の手荷物を当たり前に持つみたいにヒロの腕を持ち上げると、その胸にぎゅっと抱き寄せた。
「そんなことしなくたって離れないって」
ヒロは呆れと戸惑いを隠さずに細めた目で、腕を大事そうに抱きかかえて自由を奪ってくる自分の彼女を見て言った。
それを受けた渚は、きょとんとした顔をしてヒロへ目線を向けた。
そんなヒロの細められた目を見た渚は、やがて心底嬉しそうに頬を赤く染めながら、どこか意味深な笑みを浮かべた。そして何も言わずに、再び鳴上のショーに目線を戻した。
ヒロはそんな蠱惑的な渚の笑みに、思わず心臓を鳴らした。交際が始まって一週間経ったのに、今でも渚の反則的な可愛さに慣れることが出来ない。不意打ちとなれば尚更だった。
結局何を言っても腕を離してはもらえないと悟り、ヒロも鳴上のショーへ静かに目線を戻した。
腕に渚の胸が押しつけられる感触を常に感じ、その感覚を深く脳に刻まれ続けることに、絶頂的な幸せと罪悪感を覚えながら。
そのまま一分くらい経って、ヒロが自分がそんな言葉を渚に投げかけたことすら忘れ去りかけた時に、渚が笑顔のまま小さく、それでいて低い声で言った。
「───気づいたら居ないかもしれないでしょ?」
決め台詞とポーズをキメた鳴上によって湧いたギャラリーの歓声に、その声は掻き消された。そしてそれを呑気に眺めているヒロに、声は届かなかった。
だけど渚はヒロの腕の感触を楽しんで小さく笑ったまま、気に留めなかった。
恐らくですが、本作は十四章までの構成になりそうです。
あくまで最後まで書き切れたらの話のうえ、今のところの見立てでしかないので変わるかもしれません。あしからず。




