第1話 ねこ
俺は渚と交際をし始めて、一か月くらいが経った。
しかしだからといって、今のところこれまでと特別変わることのない日々を送っている。
変わったことと言えば、毎日のように「私の事好きー?」と聞いてくるようになったこと。分かりきってるのに聞いてくるから、百パーセントわざとだ。
無視したり適当にあしらおうとすると不機嫌になるので、きちんと答えなければならない。
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ニャ〜。
猫だ。猫がいる!
金曜日の仕事が終わり、フラフラしながら帰っていたらそこに救いを見つけた。塀のうえに、猫が乗っているではないか。
気持ち良さそうに眠っている、小さくて、手のひらに収まりそうな真っ黒の猫。
抱き上げても逃げる様子はない。ただ、ニャ〜と鳴いてヒロを見つめるだけだ。
「可愛いなぁ。おまえ、名前はなんていうんだ」
ヒロは珍しく瞳を輝かせて問いかけたが、当然返事は無い。退屈そうに鳴くだけである。大人しくて可愛い。
猫は餌を欲してか、足早に去ってしまった。ヒロはそれを見届けて、アパートに帰りついた。時間を見ると19時だった。
「眠てー」
今日は珍しく何も無い日だった。まさか週末に何も無いとは。ヒロは眠たいので寝ることにした。
「寝れる日に寝とかないとな。寝れない日だってあるんだから」
俺は一体誰に言っているのだろう。そしてそれが、自分に言い聞かせているのだと気づいた。眠いのでさっさと部屋着に着替え、何もかもほっぽりだして眠りについた。
「ねむてー」
眠いのに寝れねー。何でだよマジで。
こんなに眠いし、眠っても誰も文句を言ってこないタイミングなのに、何で目を瞑ってもさっさと眠らしてくんないんだ。
寝ようと力めば力むほど寝れねー。
逆張りしてランニングでもしてみるか。
ヒロはジャージに着替えて走ることにした。久しぶりにしっかりと汗をかいていると、先程の真っ黒の猫を見つけた。
しかし、ヒロを見ると即座に逃げてしまった。
「どうしてなんだ……」
ねみーと思いながら帰ってきて、シャワーをして、ねみーと思いながら布団に横たわった。流石に意識が遠のくのを感じていた。
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それは土曜の昼過ぎだった。断定してるけど、別に時間を確認した訳じゃない。
布団にくるまって目を瞑るヒロは眠りと覚醒の狭間で、ぼんやりとした意識の中で、時間が昼過ぎと理解していた。
部屋の温度、目を瞑っているのにけたたましい光、肌で感じる空気、暖かい匂い、時折響く誰かの生活音。
それらを総合して捉えて、目を瞑っていても何となくもう昼だと分かる。
そろそろ起きないと休日が台無しになってしまう。しかし、許されるならこのままずっと目を瞑っていたい。
きゅっときつく閉じた瞼を一週間くらいずっと開きたくない。
一番幸せなのは眠っている時だなあ。だから、眠くなくても寝られる時は目を瞑ってるべきなんだよ。
「ねー。いつまで寝てんの?早く起きてよ」
聞き慣れた声を投げつけられた気がした。秘めたる図々しさは、その声が気のせいではない可能性がヒロの脳裏を掠める。ヒロはそれを聞こえていない振りをした。
「さっきから起きてるの分かってるからね?遊ぼうよー。ねー」
どうして夢から覚めなくてはならないのだろう。それは───物好きの思考だ。
「ヒロー?」
ひび割れる音がする。夢が、自分独りで完結していた世界が音を立てて崩れ落ちて、そこに何かが無理やり飛び込んでくるような、そんな音が。
「ヒローーーーっ!」
「っだぁぁーー!?」
抗い続けていたヒロだったが、抵抗虚しく、鋭い瞳で狙いを定めていた一匹の獣──ではなく、自分の彼女である美少女にのしかかられていた。
腹に容赦なく体重を載せられ、ヒロはどこから出た声かも分からない悲鳴を上げながら、白目を剥いて悲鳴を上げる。
「ヒロー?遊びに行かないにしたって、ずっと私を放っておくのはどうなの?」
渚は仰向けの腹にのしかかりながら、グルグルと目を回すヒロを真っ直ぐに見つめていた。ヒロは誠にすいません、と掠れた声で一言謝った。
すると渚は柔らかい笑みを作り、ヒロの布団に潜り込んだ。
「冗談。ヒロが寝て過ごすなら、私も寝るねー」
「…………」
「いつもお疲れ様。おやすみ。ゆっくり寝ないとダメだよ?」
渚はヒロにぴったりと背中をくっつけて、瞬く間に寝息を立て始めた。
ゆっくり寝て欲しいと仮に思っているなら、たった今炸裂した下敷きは一体何だったのだろうとヒロは思ったが、目の前に横たわる渚の頭を撫でた。
「………ひお?」
「渚。ごめん」
渚は寝ぼけた声でヒロの名前を呼んだが、ヒロは何も返さずに渚の柔らかく綺麗な茶髪を撫で続ける。
しばらくの間渚は無防備に撫でられ続けていたが、突然渚がごろりと寝返りを打った。
端正な顔、不満げに眉を釣り上げた渚の瞳がすぐ目の前にあり、ヒロは思わず息を呑んだ。
ヒロは感情こそ表にほとんど出ないため分かりづらいが、その内側では心臓を激しく跳ねさせていた。突然の出来事と、渚の可愛さに目を奪われて。
「撫でるだけなの?」
「! 渚」
そう言った渚はもぞもぞと腕と身体を動かしたと思うと、グッと身体をヒロに寄せた。そして布団の中で、ヒロにの身体に腕を絡ませる。
「おやすみ」
一瞬にして寝息を立て出した渚は、ヒロを抱き枕にしていた。




