第2話 我らの″″″″″オアシス″″″″″
日曜の昼前だった。
渚がどうしてもサブスクで公開されたアニメ映画を一緒に観たいというので、ヒロは電車に乗って渚の住むマンションに向かっていた。
一席だけ空いていたので座っていたが、二駅先に着くと歩くたび明らかによたつくお婆さんが杖をついて乗ってきたので席を譲った。
お婆さんは「ありがとう」と、どこを見ているか分からない夢うつつみたいな目でヒロに言うと、十秒くらいかけて腰を下ろした。
吊革に掴まって、高速で移り変わる景色をぼーっと眺めた。ポケットのスマートホンが震え、手に取って通知を見ると渚からの連絡だった。
『何時に着くのー?』
『十二時前くらいじゃないかな』
『分かったー』
渚は本当に、俺に会えるのを楽しみにしてるみたいだな。もう毎日会ってるのに。
そんなことを考えている間に渚のマンションの最寄り駅に着いたので、ヒロは電車を降りて改札を通った。
今日は少し暑いななどと思いながら歩いた。駅を離れて五分くらいしただろうか。
聞き慣れた声が背後からヒロに声を掛けた。「時枝殿ではないか」という声に反応して振り返ると、鳴上がドヤ顔でこちらを見ていた。
「鳴上?ここにいるの珍しいな」
「暇で仕方が無かったので、朝から道端の草の数を数えたり百キロマラソンをしていたらこんな所に居たでござる」
「体力えぐ過ぎるだろ」
「どっちに向かえば拙者の家なのだ?一体ここはどこなのだ?考えてみれば、時枝殿にここで出会うのも妙な気がしてきたでござる。貴様………本当に時枝殿か?」
「よく分からないけど、とりあえず頭冷やしたら?水ぶっかけようか?」
「時枝殿も走ろう。ランニングをする事でしか得られない境地というものがある」
「いや、俺は今から……」
渚の家に行くところなんだ、と言いかけた。
しかし鳴上はクネクネと気色の悪い動きで、分厚い唇を尖らせてヒロに迫った。
百キロマラソンしたと言うが、鳴上は汗を一滴もかいていない。つまりマラソンしたというのは嘘であるか、百キロ走っても汗をかかないほどの体力を秘めているかのどちらかだった。
「時枝殿のゆく先は″解って″いる。かの荒野を越えた先になる、魂の呼び覚ませし………」
「普通に渚の家に行くだけだよ」
「ヌッホw 時枝殿!日和って過ごしている暇など無いでござろう。人生は一期一会、走ろうが止まろうが時間は過ぎ去り、悲しみや憂いは勝手に向こうからやってくる。それならば歓びと喝采を我らから迎えにいこう。待つだけの時間など無駄でござるw ヌッフw」
「えっと、聞いてる?」
話が全く通じない大男に呆れ顔を作ったヒロだったが、次の瞬間に身体を勢いよく持ち上げられた。
鳴上が神輿でも担ぐようにして、ヒロの身体を担ぎあげている。
「は、え!?ちょっと」
「さあ、″″往こう″″────我らの″″″″″オアシス″″″″″が待つ、その先へ」
「行かねえよ!?ちょ、──」
ヒロはまともに喋る事が出来なくなった。鳴上が凄いスピードで、渚のマンションとは反対の方向へ走り出した。
一瞬、冷たい液体に全身が沈んだと錯覚してしまうくらいの風圧がヒロの全身を殴り上げた。
「あああああああああーーーーーっ!」
時速五、六十キロくらいあるかもしれない。怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い。間違って振り落とされたら大怪我をする事は間違いない。
「時枝殿?そんなに早く走ってないでござるぞ?」
「あああ!ああ!ああああああああああ」
鳴上が何か言った気がしたけど、ヒロはそれを咀嚼する暇もなく風圧に煽られ続けていた。
鳴上がしっかりヒロの身体を掴んでおり、その安定感は見事なものだった。何者なんだ?何なんだコイツは。
「しっかり掴まれッ!」
「あ、待っ──」
何に?と訊く暇は与えられなかった。たちまちビルや人が増えてきて、鳴上は人が多い歩道ではなく車道を走り、高く飛び上がった。
そして目の前の赤信号とその下で走る車を全部飛び越えた。
「あああああああーーーーーーー!?」
何のことなく着地した鳴上は、あろうことか徐々にスピードを上げていく。
景色の移り変わりは、高速道路走行中の車の中を超えた。
風が、痛い!
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十五分くらい風に煽られ続けて、辿り着いたのはいつもの大型家電量販店だった。多くの人の往来がある。いつも平日で見る光景そのものだ。
鳴上の腕から降りたヒロはその場に倒れ込み、思わず嘔吐しそうに嗚咽する。
「ふぅ。流石に朝よりは車が多くて走りづらかったでござるな」
「…………」
「時枝殿?どうしたのだ?貴殿が来るのを望んでいた″″″″″楽園″″″″″に、着いたでござるぞ」
「お前が来たかっただけだろ………」
休みの日まで職場の最寄り駅付近に来る羽目になるとは。人が多いのは気が休まらないというのに。ていうかそれ以前に何が起こったんだ。
どうしようもないので、とりあえず鳴上と一緒に大型家電量販店に入り、三階へ上がった。自販機で冷たい緑茶を購入し、コスプレコーナーのベンチに座って飲んだ。
「拙者も喉が渇いたでござるよ」
「あれだけ走ったらそうだろうな!?」
ヒロの隣に座った鳴上は、今買ってきたであろう二リットルのアクエリアスのペットボトルを勢いよく傾けた。
それを五秒くらいでほとんど飲み干すと、鳴上は「ぬッ」と言ってポケットを漁った。
通知が届いたらしいスマートホンを見て、鳴上は驚愕に目を見開き、息を呑んだ。宝くじで一等当選した番号を信じられない気持ちで見つめるみたいな目だった。
「時枝殿………すまぬ。急用が出来た」
「急用?」
「あとは頼んだッ!」
「えっ!?何を?」
そう叫んだ鳴上はとてつもないスピードで、ヒロを置き去りにして走り去っていった。その勢いで、棚に上げてあったコスプレグッズが幾つか落ちた。
一瞬で消えた鳴上の背中が吸い込まれていったコスプレコーナーの出口を、ヒロはしばらく唖然として見つめていた。
そして思い出したようにスマートホンを見ると渚から不在着信が入っており、時刻は十二時十分だった。
ヒロは慌てて渚に電話を掛ける。
『ねー。ヒロー?大丈夫?』
「ごめん。大丈夫だよ」
『来れそうなの?』
「ああ。実はちょっと色々あって。一時半くらいになりそうなんだよ」
『色々って?』
ヒロは経緯を考えて、全て話そうかを二秒くらい迷った。
この家電量販店に連れてこられたという事実は、つまり渚のマンションが大きく遠のいたことに他ならない。
しかしどう話せばいいのか分からないし、説明を求められている内容が事実であるとも言い切れない。
車で四十分かかる道のりを十五分で踏み越えている点と突き合わせれば、事実であると認めざるを得ないような気もした。しかし、どう説明すればいいのかやはり分からなかった。
「そんな、大したことじゃないよ。今からすぐ準備して、なるべく早く向かうから」
『そうなの?……うん。分かった、けど。気をつけて来てよ?』
渚は会えるまで待つ時間が伸びたことに少なからずがっかりしながらも、ヒロのことを心配している声色だった。
そんな渚に、ヒロは心底申し訳なさを感じて項垂れた。そして鳴上を絶対に許さないと心に誓った。
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自販機で購入した緑茶を飲み切ったヒロは、仕方が無いのでさっさと電車に乗った。電車はそこそこ混んでいた。
ヒロはいつも職場や大型家電量販店がある最寄り駅には電車で訪れる。故に脳が、今電車で帰ろうとしている事に違和感を覚えている。
状況を理解していても、脳が不思議がって「まずここを見るのは行きの電車で辿り着いた時でしょう?最初に乗るのは行きの電車でしょう?」と言っているのだ。
ヒロは奇妙な感覚を覚えながら、つり革に掴まってスマートホンを開き、漫画を読んだ。混んだ電車は人間の群れの乾いた臭いがした。




