第18話 俺が俺を大切にしてない
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俺は雑巾で床を拭いていた。午後四時が近づいている教室では、俺を置いて三人の男子生徒が帰ろうとしていた。
俺には幼少期から、自己犠牲の上で人を助けなければならないという強迫観念にも似た使命感があった。
「トキ!ありがとな。今日も任せるぜ」
「ああ」
幼い頃から、ずっとそうだった。本当はマイペースなのに、何かあればすぐに些細なことや細かな事に責任感や罪悪感を覚えた。その度に自ら面倒ごとを買って出たり、裏方に回った。
「大丈夫なのか?任せて」
「大丈夫だよ」
俺の返事を聞くと、男子生徒達は笑顔で手を振って部活動に向かっていった。その後ろ姿を、俺は虚しい心で見つめていた。
俺は人の気持ちに敏感だった。
人の気持ちを、なんとなく瞬時に理解してしまう。
人は俺に敵意を向けないし、思ったよりも世の中は明るい。分かっていても、そうだ。
他人の顔色を伺って。
他人の思いを中心に生きて。
思いもしていない当たり障りないことを口にして。
いわゆる長男タイプで責任感だけはいっちょ前だった。イエスマンになり、やりたくない事や裏方を引き受けた。当然気が進む訳じゃない。責任や負い目を、一人勝手に感じてしまうからだ。
だけどそれで良いんだって自分に言い聞かせていた。人の為に馬車馬のように頑張る以外に、俺に出来ることなんて無かった。その度に辛い思いをしてきた。
辛い思いという名の楽に、逃げていたのかもしれない。
俺は、そんな自分が嫌いだった。
だけど皆はお前は良い奴だと、俺に優しい言葉をかけた。
だけど、俺が俺を大切にしてないから。
俺は俺の生き方に、納得してなかった。
水を組んだバケツで雑巾を洗った。
力を入れて絞ると、水がボチャチャと滴り落ちる。
俺の手に持っている雑巾はまだ新品だった。だから綺麗で、水をなかなか吸ってくれない。
そんな生まれもった生きづらさに更なる生きづらさを重ねたのは、ことある事に言い聞かせられた、父の言葉だった。
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『人のために生き、人の記憶に残る人生こそ、本当に意味のあることだ』
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幼い頃から耳にタコが出来るほど言い聞かされたその言葉は、ずっと頭から離れない呪縛であり、俺の全てを制限する″鎖″だった。
『自分のため』じゃなく『人のために生きる』という「ルーティン」がこびりついて離れない。
だから手を差し伸べるべき人間が目の前にいれば、瞬時に俺の身体は走り出す。
反射的に走り出すし、その人の求めることに応えた。
だけど、それは嘘っぱちだ。
どれだけ人の役に立とうが評価されようが、俺の気持ちはずっと虚しいまんま。
人に嫌われたくない。
人が怖くて仕方がない。
この鎖を捨ててルーティンを辞めた結果、『俺に見捨てられた』って人に思わせたくない。そんな単に臆病な気持ちが、自分の奥底にあるだけなんだ。
信念を盾に、自分守ってるだけの俺がかっこいいわけない……。
いつものように教室の雑巾がけをしながら廊下に目配せをすると、放課後の決まってこの時間によく見かける女の子が歩いていた。
草津さんだ。
ずっと話した事がない子だったけれど、一年生の頃から、気づけばあの子の姿に無意識に目を奪われていた。
俺は人と向かい合って話をすれば、別に確信がある訳じゃないけど何となく分かるんだ。言葉の裏というものが。
この子は承認して欲しいんだな。この子は周囲の人を支配したいんだ。この子は誰とも話しをしたくないんだ。とか、そういった事が。
それを感じる度に、感情をぶつけられたような気持ちになっていた。
だけどあの草津さんは不思議なことに、この世界で唯一親以外で、話してて全然ストレスが溜まったり嫌にさせられたりすることがない子だ。
草津さんはいつも一人。いつ見ても、一人だった。
マイペースで静かで、飾らない。
誰かと楽しそうに話してるところも、全然見たことないし。
むすりと独りで過ごすその時間を、誰にも邪魔させないという気持ちすら伝わってくるような気がする。
俺と草津さんのクラスは騒がしい男女が多い。
にも関わらず、雰囲気に一切流されず確固たる自分をもって静かにそこに存在している。
話した事がある訳じゃない。だけど芯を感じる草津さんを、俺はいつも無意識に目で追っていた。
彼女は所作が丁寧で柔らかくて、書いた文字も綺麗だった。
小さな声ながら喋り方も綺麗な草津さんを、俺は時折見ていた。彼女は気づいていないと思うけれど……。
『私みたいな根暗陰キャじゃ普段絶対話しかけれないような明るい子とかと、男女関係なく仲良く話してたから。でも、全然気取ってなくて。私みたいな友達いない暗いのともお話してくれてるでしょ』
草津さんに褒められて、心底びっくりした。
まさか、そんな風に思われてたなんて思いもしなかった。
あなたの生き方、みっともないわね。とか静かな口調で言ってきそうな雰囲気なのに。
あの時だけは一瞬だけど、人のために生きてきて良かったって思えた気がする。
女子の誰だかが飲み物を零して放置し、染みになりかけていた汚れを俺は拭きとった。そして教室後方に下げられていた机を全て元の状態に一人で戻し、汗を拭って一息をついた。そして、通り過ぎて行ってしまった草津さんの事を考えた。
草津さんにゲームを教えてから二週間たっていた。
少し仲良くなれたように思えたけど、別に会っても話すことは無かった。連絡先も知らないまま。
厳密には、話しかけたいけど会うと目をすぐに逸らされる。
この間の関わりの中で、嫌われることをしてないといいんだけど……。
しかし……ゲーム、とんでもなく上手くなったんだよな草津さん。
二週間で叩き出すには高すぎるスコアで、そろそろ競い合うには俺の頭と指が限界にきつつある。
頭がいい子って、すごいなぁ。
そんなことを考えながら、部活に参加する為に体育館にやってきた。
俺は運動も絶望的に苦手だった。バスケ部だけど、一年経っても未だにドリブルがきちんと続かない。
もはや、正式入部して一週間の新入生たちの方が上手い。
練習は部活と、帰った後もしてるんだけどな。わざわざ四千円くらいのバスケットボールを購入して、毎晩毎晩練習を重ねたのに。
どんだけ才能ないんだよ俺。後輩にもろくに教えられないし。
だから俺は自然と、マネージャーポジションで皆をサポートする事が増えてきた。
先輩と同級生たち、新入生が既に集まってミーティングをしていた。俺はその輪の中に加わった。
「おお、やっと来たか時枝!練習試合するから前のようにドリンクと審判を出来ればお願い……。って、もう全部準備してあるぅ」
「先輩。スケジュールなら見てるので全部準備出来てます。あと先日の地区対抗戦の選手傾向分析と対抗策をまとめたので後で見といてください」
「時枝……!お前ほんとすげぇな」
「時枝先輩………!かっこいいっす!!」
マネージャーの役割を先生が普段やってたけど、俺がやるようになった。試合出ても上手くないし。
メンバーにも顧問にも日々とてつもなく感謝された。先日挨拶したばかりの後輩もきらきらとした尊敬の眼差しを送ってきている。
でも、全く嬉しくなかった。
俺だって試合に出て、活躍してみたいに決まってるだろ。
胸のうちの虚無感は、俺しか知らない。
部活終わったら今日も速攻帰ろ。
「トキィ!終わった後皆でス○バ行くけどお前も来るかぁ!?」
「あ、今日もちょっと家事の手伝いで」
「そっか。トキは真面目だな。だが応援してるぜ!」
「困ったら俺らを頼れよトキ!」
「ありがとう」
同級生のメンバーにはトキと呼ばれてた。
皆はいっつも懲りず部活後の遊びに誘ってくれたけど、その度に断った。
バスケ部の皆は幸いにも裏表はそんなに無い純粋な人達だったけれど、元気溌剌でパワフルな人柄の人が多い。
悪いが、部活の時間が終わった後も皆と一緒にいたらストレス過多で死ぬ。
皆のように面白い話もなんにも出来ないし。
ふと視線を感じた俺は、コートの外に目をやった。
…………?
あれ、あそこにいるのは草津さん?
ギャラリーを見上げると、制服の草津さんがいた。超珍しく体育館にやってきてこっちを見ている。
どうしたんだろう。
しかし俺と目が合うと、草津さんは慌てたように体育館を去ってしまった。
「??」
草津さんの意図は知る由もなかった。
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夕暮れその空は、学校と部活で疲れた俺達を優しく照らしていた。
帰ろうと歩いていると、草津さんが学校前のベンチに一人座ってスマホをいじっていた。
メガネで前髪隠れてて制服もちょっと皺があって猫背。ひと目で草津さんって分かる。
もう夕方だし、もしかして誰かと待ち合わせかな?
「草津さん。久しぶり」
「……!時枝君」
俺は前と同じように、三人分くらい距離を空けて隣に座った。
草津さんは俺を見ると慌てたように、スマートホンをポケットに仕舞った。そして両手を膝にお行儀よく置いて、押し黙るかのように俯いた。
「………」
「………」
やっぱり草津さんと一緒に居る時間は、全然緊張しないな。
俺は忘れかけていたような、自然体を彼女の隣なら思い出す事が出来た。
聞いてみようかな?さっきの事。
「「あの」」
うわ!完全に被ってしまった。
「ご、ごめん。時枝君……教えてもらったゲーム、すごくハマっちゃって。今、最終ステージなんだ」
「最終?めっちゃ進んだね。俺はそこ行くのに三ヶ月くらいかかったよ」
「えへへ……ずっとやり込んでたから」
草津さんは相変わらずの無感情で目も笑っていないが、口元だけ微かに笑っていた。
だけど、全然嫌な感じも負の感情を覚えている感じもしないな。草津さん………笑ってるとこ初めてみたかも。
俺が教えたゲームにハマって、こんな笑顔を見せてくれたんだ。……なんか、嬉しいな。
ゲームに感謝だ。
「草津さん。ライヌ教えてよ」
「ふぇ、あ」
「?」
「う、うん!交換しよ」
草津さんはあたふたしながら、ライヌを起動した。ゲームの邪魔しちゃったかな?
俺と草津さんはライヌを交換した。
今度、ゲームの事で話しかけてみようかな?メッセージを送ったら、草津さんはどんな返事をくれるのだろう。全く想像がつかない。
「草津さんは頭いいんだね。俺はそんなに早く上達出来なかったな」
「……時枝君が色々教えてくれたおかげ」
「そう?」
そんなに色々教えたっけ。
二週間何も話してなかったような……。
頭がいい人は一聞いて十を学ぶらしい。
つまり、そういう事だろう。
「そういや、さっき来てたよね?何かあったの?」
「へ!!え、えっと。……久しぶりに体育館の部活風景、見たいななんて」
「そうなんだ……面白かった?」
「う、うん!時枝君すごいね。的確かつしっかりとした声がけと采配……部活動を完全にコントロールしてたよ」
「そう!?まあ、あれしか取り柄ないから」
草津さんの声はやっぱり小さかった。そして両手をお行儀よく膝に置いたまま俺を目だけ動かしてちらちらと見ては、目を逸らしてを繰り返していた。
それにしても……草津さん、見ててくれたんだな。
頑張った甲斐がほんの少しだけあったかも。
だけど……結局、今の皆が最も良い方向に進むのに最短のルートを辿ってもらえるように、余計なお節介をしまくってるだけなんだけどな。
人間嫌いとボール持っても役に立てないのを隠す、ただそれだけのために。
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私は、時枝君に話しかけたくて待っていた。
…………本当は、声をかけて欲しくて待っていた。
いつも声を掛ける勇気出なくて。ここにこの時間座ってれば、時枝君が話しかけてくれる可能性が高いから。
時枝君は、やっぱり話しかけてくれた。時枝君は相も変わらず黒縁眼鏡を光らせながら、穏やかな笑みを浮かべて私を見ていた。
そして何と……今日はライヌまで交換しちゃった!
嬉しい。どうして交換してくれたんだろ。
もしかして、私の事好きとか!?
きゃー!!
……………そんな訳ないでしょ。
時枝君、男女関係なく友達何人いると思ってるの。頭の中お花畑すぎるよ私。
………もしかしたら、彼女だって。いるのかな?
最近あまりにゲームにハマりすぎて、学校から帰ったら家のパソコンに張り付いてゲーム実況鑑賞やイラスト描くのにハマってしまった。
しまいにはあのゲームからこのゲームに手を出し、アニメや漫画も見るようになった。
ありったけの時間で、幻想やバーチャルの世界にのめり込むようになった。
心ゆくまで全部堪能するのに、時間が全然足りない。
そういうのが好きな人の感性って分からなかったけど、こんなに楽しいなんてって感動して、今までと違う刺激を感じて生きている。
時枝君にそれを打ち明ける勇気は無いけど。
体育館に行ったのは、今日こそ勇気を出して時枝君の連絡先を聞くためだった。
時枝君と、少しでも関わりたかった。
もし彼女がいても、関係ない。少しでも関われればいいんだから。
でも……体育館に入って、時枝君がスコアボードの前で懸命にメンバーに声を掛けて、無駄のない動きでサポートして頑張ってる姿を見て、自分のはしたなさを痛感した。
私なんて、なんにも頑張ってないのに。
私の胸は酷くズキズキと痛んだ。
毎日人のためにあんなに頑張って、懸命に走り回る時枝君に話しかける資格なんかある訳ない。
そう、思ったけど………。
それでも私は、ベンチに座って待っていた。
時枝君に話しかけるのを、諦められなくて。
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次の日もその次の日も、勉強する時間すら惜しかった。
暇さえあればゲームをして、アニメキャラのイラストを描いた。そしてスマートホンでライヌを開き、時枝君のプロフィール画面を眺めていた。
人生で初めて、連絡先を男の子と交換した。
何かメッセージを送る勇気なんてない。だけど、時枝君の事はもっと知りたい。お話をしてみたい。どうしたらいいの?
考えてみても、解決策なんて何にも浮かばないままだった。窓の外を見れば、桜がどこまでもどこまでも咲いていた。それを見る度に桜並木の丘で呼び止められた、あの光景がよみがえって苦しくなった。
あっという間に午前中の授業が終わって、お昼休みになった。
時枝君は部活のメンバーの男の子達や所属している生徒会の人達とお話をしながら、楽しそうに会話をしてお弁当を食べていた。
私はいつも通り一人でお弁当を食べた。時折ちらりと、時枝君の事を見た。彼の存在や笑顔はどんな場所でも透明に溶け込んでしまいそうなほど、繊細だった。
何だか放っておけないような、そんな気にさせるのだ。
たった数回しか会話していないのに、私は何を考えているの?
お弁当を食べ終えた私は、課題の勉強をしなければならない事を思い出して図書室へ向かった。そして全然興味も無い本を借りた。
本をもって教室に戻り、戸を開けようとしたが即座に身を潜めた。そして戸に身を隠しながら、ガラス越しに時枝君を眺めた。
時枝君は先ほどとは別の子達と話をしていた。
時枝君を囲んでいるのは、明るい髪色のキラキラした女の子達だった。ブレザーのボタンをラフに外してリボンを緩め、スカートは短い。
茶髪。金髪。黄緑色という奇抜な子も居た。時枝君を取り囲んでいる、様々な色に染まった髪色の女の子達は、まるで私とは違う人間だった。
彼女らの口から出てくる言葉は、常に勢いよく飛び出すかのようだった。真っ直ぐで率直で、時折突飛で、まるで私とは違う。
そんな女の子達と会話をしている時枝君は、先ほどまでと全然変わらない透明な笑顔だった。
何の話をしているのかな?
時枝君と彼女達が何のお話をしているのかを想像していたら、その日の授業が全て終わっていた。ずっとずっと、胸の中がもやもやしていた。
彼に何かライヌを送ってみたくて、まだまっさらなライヌのトーク画面を睨みながら靴を履いて外へ出た。
だけど、何て送ればあの子達みたいに時枝君と楽しく笑ってお話が出来るの?
学校を出ると、青い空気に一面の桜が私を出迎えた。
それを見ていたら、涙が込み上げた。私は開いていたトーク画面を閉じた。そして、誰も居ない丘を勢いよく駆けた。
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