第16話 生きゆく全ての者の身近に
大型商談は予想外にも成功に終わることが出来た。
そして更に、鳴上の「探している人がいる」という一言によって、俺はこれまでの人生で一番早く帰り支度を整えた。今日が納期の仕事があるという事実はこの時点で全て頭の中から吹き飛ばされていた。業務エリアを迅雷の如く飛び出し、混みあっているエレベーターに飛び乗った。
エレベーターが開いた瞬間に、俺は他に乗っていた大勢の人々を押しのけて降りた。周囲から明らかに反感の目線を浴びている気がするが、もうそんな事は気になりはしなかった。渚が立っている正面入り口前へ無我夢中で走り、叫んだ。
「渚ぁーーーーーーーっ!!!」
出口の自動ドアが開いた。迷いの欠片もなく全力で走ってくる俺を、渚はほんの少し戸惑いの瞳で見つめて、ふいっと俯いた。こんな所に居てもいいのか分からないというような、申し訳なさそうな顔で眉を垂れ下げていた。そしてそんな渚の顔を見て、俺を怒鳴りつけた早坂の息子の言葉が脳裏を過った。
『その決断力と思い切りは、紛れもなく『宝』だ』
俺は胸の中を渦巻いていた苦い思い出を全て、足元に置き去りにした。そして風のように走った。
そうだ。もう俺が思ってることをそっくりそのまま吐き出すしかねえ。
拒絶したにも関わらず、辛い思いをしてる俺の事を心配してわざわざ来てくれた渚。
いつも笑って、俺を元気にしてくれた渚。
わがままでもいい。
お前にはずっとずっと、笑っていて欲しいんだ!!!
「渚ぁぁぁぁぁっ!!!好きだぁぁぁぁぁぁっ!!!!!」
夕闇が滲む空の下に、俺の渾身の叫び声が響き渡った。
突然の叫び声に驚いて目を見開いた渚を、俺は真正面から勢いよく抱きしめた。突然抱きしめられた渚は戸惑いの声を上げたが、構わなかった。
「ごめんっ!ずっと連絡取らなくて。俺が渚に釣り合うか、分からなかった。自信がなかった。もっと相応しい人がいるって思ったんだ」
「…………」
「だけど俺もあの時からずっと、渚のことが好きなんだ。隣に居てくれるのが渚じゃなくちゃ、俺は嫌なんだ!!」
抱きしめた渚がどんな顔をしているか、俺には見えない。だけど、俺の言葉を黙って聞こうとしているように見えた。
「三年経ってもお前のことを忘れられなかった。忘れられる訳なんて無かった!ずっとずっと、お前の事が好きなまんまだったんだ。黙っててごめん!!」
「…………」
「辛かった時に手を差し伸べてくれたこと、俺は絶対に一生忘れない!だから、ずっと一緒に居てくれないか!?俺を一瞬でも好きだと思ってくれたこと、後悔させないから!!」
俺は己の中にある全ての思いを言葉に込めて叫んでいた。そして、街並みを遠巻きから眺めているかのような沈黙が数秒流れた。俺に抱きしめられた渚は黙ったまま何も言わなかったが、やがて小さな声で言った。
「…………………そんな事言えば簡単に、私が許すとでも思ったわけ?」
「え」
「分かってないよね?やっぱり。私がどれだけ辛くて寂しい思いしたのか」
渚の声色は怒っているようには聞こえなかったけれど、言っている内容を総評すれば不満だったようだ。俺の告白は失敗に終わってしまったらしい。
渾身の告白なら、出せるものを全て出し切っての告白なら悔いなんて残らないと思っていた。全然残るじゃねぇかよ。誰だ?全力を出し切れば悔いが残らないなんて言ったのは。俺はこのまま土に埋まってしまいたいような気持ちになった。
俺はそんな事を考えながら抱きしめていた渚を一旦離した。
向き合った渚は不満げに眉を吊り上げて頬を膨らませていた。なのに、これまで見た事もないくらいに嬉しそうに見えた。
そして挑戦的に微笑んでみせると、渚は「だけど」と小さく言って手を伸ばした。そして俺のネクタイを掴み、ぐいっと引っ張ってきた。
ネクタイを引っ張られて前のめりになり戸惑い百パーセントの俺と、してやったり顔で頬を赤く染めた渚の、お互いの顔と顔はすぐそこにあった。
「一生私を離さないで愛してくれるなら、許してあげるけど?」
渚の声は、その挑戦的過ぎる態度とは対照的に囁くようで、ほんの少し震えていた。そしてその瞳は全てを引き裂くように真剣だった。その瞳から感じる圧迫感に、これまでの俺であればしりごんだ事だろう。
「当たり前だろ」
「きゃ!?」
しかし俺は既に、胸につっかえていた何もかも全ての迷いを捨てていた。そして俺は渚を強引に抱き寄せた。抱き寄せられた渚は強気だったはずの表情も何もかも崩れて、赤かった頬をもっと真っ赤にした。夕焼けなんかより余程赤く染まっていた。
「閉じて。口」
「へっ!?ふみゅ」
俺は渚の後頭部に手を回し寄せて、唇に唇を重ねた。
渚の唇は温かくて、有り得ないくらい柔らかかった。熱されたとろけるバターよりも柔らかかった。
このまま永遠にキスをしていたいと俺は思った。夕焼けに照らされながら俺たちはずっと、唇と唇を重ね続けていた。
渚の肩を掴んで唇を離し、渚の顔を見た。渚は爆発しそうなくらい恥ずかしそうに眉を顰めて震えていた。
「いつものあっけらかんとした顔はどうしたの?」
「……!ヒロ……!!こんなとこで……!」
「一生傍に居るって約束したんだぞ?場所なんか関係ない」
「そっ……!そうだ、けど………!」
「もっかいするから口閉じて。ほら早く」
「んみゅ!んっ……!んぅ………」
渚は抵抗していたが、全く持って可愛らしい小動物にしか俺には見えなかった。
口を閉じるように言うと、渚は抵抗していながらも迷わずに従って唇を閉じ、きゅっと目を瞑った。
そして渚の唇を俺の唇で塞いだ。渚の身体を壊れてしまいそうなくらいきつく抱きしめながら、唇を唇で蹂躙した。
唇を離して渚の顔を見ると、その瞳はとろんとして潤んでいた。俺はその顔を見て完全にスイッチが入ってしまった。何も言わないので、俺は再び抱きしめてキスをした。
俺はキスをして、キスをして、キスをしてキスをしてキスをして、キスをし尽くして、キスをしながら渚の頭を撫でて、背中を上から下、下から上というようにゆっくり優しく撫でた。
キスをされながら撫でられた渚は淡い息を吐き出して、だらんと垂らしていた腕を上げた。そしてそのまま、何も言わず俺の身体をぎゅっと抱き返してきた。
「帰ろう。渚も疲れたんじゃないの」
「………うん」
「あー。可愛い。渚が世界で一番可愛い」
「ん!みゅ」
何度も何度も渚にキスをした後、唇を離して訊ねたのだが、眉を垂れ下げた渚の顔はもう何が何なのかもう全く分からない、みたいな顔をしていた。
なので俺は喋ろうとした渚の唇を再び奪って塞いだ。夕焼けが暗くなるまでずっと、俺たちはキスをしていた。
俺は少しふらついている渚の手を引いて一緒にアパートに向かった。俺たちの空白だった年月を、埋め合わせるために。やがて我に返った渚は「結構恥ずかしかったんだけど!?」と言って頬を真っ赤にしながら俺の肩をバシッと叩いた。痛かった。そしてその日の夜はぶっ叩かれた肩をひりつかせながら、渚と一緒にゲームをしてゆっくりと過ごした。
……………………………………………………
会社正面出入口のすぐ目の前で渚にキスをし続けているヒロを、鳴上は会社の柱の陰から盗み見ていた。
ヒロは退勤でビルから出る大勢の人たちの道を思いっ切り塞いでいることに全く気がついていなかった。人々はその空気感を察し、やむなく何も口を挟まずにヒロ達を避けて去っていく。
帰ってゆく社員達から沢山の白い目線をぶつけられているのに、ヒロだけが全く気づいていないのであった。
渚は人々の目線に気づいているようだったが、二十秒、三十秒、一分とキスを続けていくうちに、もう抵抗する意思すら感じられなくなった。
二人は相当長い時間キスをしていた。
そして渚は、ヒロに手を引かれていった。その様子を陰からずっと見ていた鳴上は、感心するかのように目を見開き頷いていた。
ふむ………。間違いない。
あれこそが、″真実の愛″というものでござるな………。
″真実の愛″は、実は生きゆく全ての者の身近にあるが、なかなか気づかないものであるという。
こんなことをしている場合では無い。拙者も、探す旅に出ねばな。
鳴上は鞄を手に持ち、一人誰にも見られることの無いドヤ顔をすると、例のコスプレコーナーへ向かった。己の愛する””ハニー””との逢瀬を、再び実現する為に───。
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何だか嘘みたいな響きだけれど、渚は俺の彼女になった。
後から聞かされた話だが、キスをしていた俺と渚は出入口のガラスの自動ドアのほとんど目の前で、ずっと大勢の社員達の通行を妨げていたらしい。
しかも提出書類もメールの返信も何もかも忘れており、翌日俺は葛木に朝一で呼び出されてこてんぱんに絞られる羽目になった。
俺は一体どれ程周りが見えていなければ気が済むんだ?話をしてきた渚は俺が恥ずかしがっているのを見て、くすくすと笑っていた。
その会社前でのキスの日から平日はあっという間に終わってしまい、土曜日になった。
カップルになっても、俺たちの関わり方は別に何も変わらなかった。二人で興味の向いたところへ行き、二人で何かを食べ、ほとんど散ってしまった桜を一緒に寂しく眺めた。
「もっと早く告白してくれたら一緒にお花見出来たじゃん」と渚にむすっとした顔で文句を言われ、俺はごめんと謝った。
俺ら二人の間に、たまに鳴上が居た。何でお前がいるんだと思いはしたが、俺も渚も面白いと思っていたので放置していた。
俺は自宅のアパートでゆっくり過ごしていた。布団に潜ってぬくぬくしながらスマートホンを操作し、次に渚とどこにデートに行くかを考えていた。別にこれまでデートという意識があった訳じゃないから、デートと考えると何だか緊張してしまう。これまで通りでいいか。
そんな事を考えていると、渚が突然最近運動不足で身体が訛っているから公園に行きたいと言い出した。
俺は緊急時以外のスマートホン禁止のルールを設けて公園へ行くことを提案した。渚は嫌そうな顔をしたが、無理やりそのルールで決行した。そうでもしないと、どうせ公園についてからも二人揃ってスマートホンで遊び出すのが目に見えていたからだ。
春の夕方にしては暖かい気温だった。普段の恰好では少し暑いくらいだった。夕闇の中で、俺も渚も涼しい恰好で電車に乗って公園を目指した。
二人とも白の半袖シャツと短パン、サンダル。渚とおそろいの洗練されたデザインの黒いキャップを俺も被った。涼しくなった時の為に、リュックサックに長袖を詰め込んだ。俺も渚も寒がりだからだ。
渚が上下真っ黒以外の私服着ているのを、とてつもなく久しぶりに見た。新鮮で、俺は胸が高鳴っているのを感じた。
「渚ー。置いてくぞー」
「むー……」
徒歩だと二十分以上かかる道のりだが、敢えてのんびりと歩いて公園を目指した。のんびりとした、何だか懐かしさを感じる雰囲気の田舎道を歩き続けて早くも十分が経過した。
歩き始めた当初は久しぶりの屋外遊戯気分に、渚のテンションはうなぎのぼりだった。しかし運動不足がたたってか、早くも足をおぼつかせて根を上げた。
「帰ろー」
「早ぇわ。せめて公園に辿り着け」
「嘘に決まってるでしょ?……いいよねー男は体力あって。羨ましい」
「男女とか関係ないから。ちゃんと運動しなさい」
「ぶー」
しかし、渚はかなりの量の汗をかいていて本当にしんどそうだった。今にも干からびてしまいそうな顔をしていたので、幸運にも近くにあったベンチで腰を下ろして休憩をした。
ぜえ、ぜえと肩で呼吸を整える渚に、水が入ったペットボトルを手渡した。渚はありがと、と朽ち果てそうな声で言って受け取り勢いよく水を飲むと、さりげなくポケットに入れたスマホを取り出そうとしたので即座に止めた。
「ぜー。ぜー。………ヒロってこういう時意外とスパルタだよね」
「せっかく外出たんだから自然を堪能しなさいほら。今を逃すと暑くなって蚊も出てくるぞ」
休憩を終えて、公園まであと五分くらいの地点まで歩いてきた。しかし、渚は再び根を上げてしんどそうにしゃがみこんでしまう。
心臓が止まるまであと五秒みたいな顔をしていたが、突然渚は普段のあっけらかんとした顔に戻って俺に訊ねた。
「タクシーって土日も呼べるよね?」
「何でタクシー呼ぼうとしてんの?頑張れって!あと少し。しんどいからってすぐ辞めたら何もしてないのと同じだぞ」
「む、無理は身体に良くないって。身体に毒だよ」
「まだ十五分歩いただけだろ。国は一日八千歩を推奨してるんだからまだまだだよ。大体、運動不足なのどうにかしたいって言ったのはおま」
「ヒロきらーい!」
「えっ?あ!おい!」
渚は突然立ち上がり、すたたーっと俺を追い越して先を走っていった。機敏に動けるじゃねえかよと思ったが、そんな突っ込みを入れる暇すら与えられずに走って渚を追いかけた。
小走りをして先をゆく渚を追いかけていると、古い集合住宅の陰に小さな公園を見つけた。五十メートルくらい先にいる渚が瞳を輝かせながら俺の方を振り向いて、早く、と言わんばかりに全身を使って大きく手招きをしていた。
「見てみて!着いたよ!公園」
「…………」
球技の出来そうな広場。そしてブランコ。ジャングルジム。滑り台。鉄棒。俺は懐かしさを覚えると同時に、改めて自分が子どもでは無くなってしまったと遊具の小ささを見て実感した。
しかしそんな感傷はこの場においておまけ程度のものでしかなかった。
もうじき沈む夕焼けの下、電灯で照らされた公園には既に大勢の人が集まっており、屋台が沢山並んでいたのだ。
炭で燃え盛る火の匂い。公園の砂の匂いに混じった熱気の匂い。大勢の人が会話に花を咲かせながら食欲を満たし、お酒を楽しむ匂い。そして仄かに心地よく鼻と食欲をくすぐる、焼肉のタレの香り。
「ひひ。すごく喜んでるみたいだね?本能目覚めちゃった?」
「………ああ。目覚めてしまったかもしれない」
「でしょ?途中諦めそうになったけど来てよかったー。ヒロの大好物、あるよ。行こ?」
渚はにしし、といたずらっぽく笑いながら俺の背中を押した。
俺は屋台の食べ物が好きだった。そこそこ歩いて汗をかき、火照った俺の身体が肉を求めているという事も、こんな催しが公園で行われているという事も、渚は最初から知っていたかのようだった。
屋台で気に入ったものを色々と買い回り、二人で公園の隅っこを陣取った。フランクフルトをケチャップとマスタードをたっぷりとかけて久しぶりに食べた。
ぷちんという心地よい食感と同時に口の中を油が弾け広がり、全身が歓喜に満ちているのを感じていた。何度咀嚼しても、何個食べても足りないような至福が俺を翻弄した。
仕事は残業ばかりで辛いこともあるけど、お客さんに感謝された時と、飯を食ってる時は全てを忘れられた。ここに居る人たちを見ていても分かる。全ての人がきっと、結局は美味いものを食って明日も生きる為に働いているのだ。
「渚。このお祭りの事知ってたんだろ」
「…………」
「ありがとうね。どうして?」
渚は頬張った綿あめを飲み込むと、俺を不思議なものでも見るような目で見た。そしてしてやったり顔で頬を桜色に染めて、満足そうに頷いた。
「言ったでしょ。運動不足の解消だよー」
「そっか」
「お仕事、無理しちゃだめだよ?」
「ああ。分かってるよ」
こいつの事だから、きっとサプライズ気分を味わって欲しいと思ったんだろうと俺は思った。しかしこれは実際、正直嬉しすぎる誤算だった。
「ヒロに告白される前の日、鳴上君に会ったんだよ」
「え?そうなの?」
「うん。ヒロ、ずっとマンションの前で座ってたでしょ?そこからヒロが居なくなったあと、私ずっと泣いてて。泣きながら散歩してたら鳴上君に会って、会社辞めた!って言ってて」
「…………」
「相談したら、すっごい、ヒロの事褒めてたの。『時枝殿ほど、信頼に厚い人物などおらぬぞ!』って」
「…………」
「それで、ヒロに『俺は渚がいないとダメだ』って言われたこと思い出して、もっと泣いちゃって。どうしてもヒロに会いたくなって。迷惑って思われるかもしれないけど、会えるタイミングを聞いて会社まで行ったんだー」
いつの間にか、鳴上に世話になっていたようだった。彼が居なければあの日、俺は渚に告白する事が出来なかったのだ。
俺は食べきったフランクフルトの棒を手に持ったまま、渚に静かな微笑みを向けた。渚も俺の微笑みを見て、ひひ。と悪戯っぽく笑った。
熱気と焼ける香りに包まれた夕方が、俺と渚を包んでいた。賑わっている屋台と大勢の人が浴衣やラフな服装で楽しんでいる広場を、渚と二人で静かに眺めていた。少しずつ染まっていく夕闇の匂いが身体を満たしていく。
吹き抜ける風が俺と渚の身体を優しく撫でると、渚のもう少しで肩に届きそうな綺麗な茶髪がゆらゆらと揺れていた。渚はそれを気にもとめず、あっけらかんとした顔でぷちゅんと音を立ててフランクフルトを頬張っていた。
しばらく二人でお祭りを眺めていたが、不意に渚は思い出したような声を上げて、最大限のさりげなさを装って俺に振り向いて訊ねた。
「帰り、タクシーでいいよね?」
「だめ」
「うぇぇぇぇん!」
闇に染まりつつある微かな夕焼けの光に、渚の悲痛な声がこだました。




