第14話 『お友達同士』
餃子をドカ食いして気絶するように眠り、気づいた時には七時になっていた。俺はスーツを着て鞄を持ち、普段そんなにこだわりの無い身だしなみを鏡を見て念入りに整えて歯を磨いた。
今日がいよいよ、進めていた大型商談の最終局面だった。今日で滑れば全てがお終いだ。順調に順調を重ねてほとんど成功が確定しているとはいえ、油断する事は出来ない。絶対成功させる。その思いだけが俺の全身を動かしていた。そして改めて自分の瞳に本気の炎を宿しているのを鏡で確認し、両頬を叩いて深呼吸する事で気合を重ねて注入した。
俺は何ともなく振り返ると、いつの間にか着替え終えた渚が、俺の後ろに立ってこちらを見ていた。俺が本気で気合を入れたのに対して、渚は本気で不貞腐れているように見えた。むすっと心底不満そうに眉間に皴を寄せて腕を組み、濃いクマが出来た目でただじっと俺を睨んでいた。
「渚。行ってくる」
「あっそ。行けば」
「え?なんか冷たくない?なんで?」
「知らない」
渚は愛想を着かしたようにツンとして、腕を組んだままそっぽを向いてしまった。俺は悲しくなった。一体どうしてしまったというのか、脳みそをフル回転させて考えるが何も思い当たらなかった。こんな朝こそ、渚の笑顔が見たかったというのに。
「今日、仕事終わったら一緒に飯行かない?」
「ふん」
「…………」
「…………」
渚はすこぶる不機嫌な様子でそっぽを向いている。声を掛ければ掛ける程その不機嫌な表情が濃くなっていくかのようだった。今何を言っても何も得るものが無いどころか、しっぺ返しすら受けてしまいそうだった。
俺は鍵を預けておくから、帰る時締めておいてと言って渚に鍵を渡した。渚はそっぽを向いたまま再びふん、と不貞腐れたように鼻を鳴らしながらそれを雑に受け取った。
玄関の前まで歩いて再び振り返ってみると、渚はジト目で刺すように俺の事を見つめていた。しかし再び目が合うと、渚はむすっとしてまた目を逸らしてしまった。解錠して玄関の扉を開けても尚、ずっと渚の刺すような視線を背中に感じていた。
「………ヒロ。ポケットになんか入ってるよ」
結局渚は世話を焼きたいと言わんばかりに、俺の傍にぱたぱたと寄ってきた。俺の腕をグッと掴んで振り向かせ、スーツのポケットに手を突っ込んだ。そういえばちり紙とか入れてたなと俺は思った。しかし渚が手に掴んだゴミの中に、異様なまでに派手な紙が一枚混じっているのを俺も渚も見落とすはずが無かった。
「? 何これ?」
「あ。それは」
渚がくしゃりと丸まった派手な紙をぺらりと開いた。それは葛木に無理やりポケットに突っ込まれた、風〇のクーポンだった。やべぇ、絶対捨てると思ってたのに突っ込んだままだったじゃん。昨日取引先に行って商談していた最中にも、これがポケットに入っていたという事実に流石の俺も肝を冷やさざるを得なかった。
「渚!変なもの見せてごめん。それは」
しかし、それ以上俺は何も喋る事も弁明する事も出来なくなった。渚の顔を見て心臓が跳ね、胸を引き裂かれるような感情が込み上げた。
その異様で派手な紙を見つめている渚は大きく目を見開いており、紙を持つ手は震えていたのだ。それは紛れもなく、ずっと信じていたものに裏切られたと激しく主張するような顔だった。
言いとどまった俺に対して、渚はゆっくりと顔を上げた。確かな怒りに身体をぶるぶると震わせて、目には大粒の涙が浮かんでいた。唇が何か言いたげに動こうとしているが、彼女の中でも上手くそれが出来ないかのように澱んでいた。
「最っっっ低!!!!」
やがて渚はそう叫ぶと、ポシェットを手に取って俺の肩を思い切り突き飛ばし、深い深い哀しみの涙を爆発させながら勢いよく俺の部屋を走り出ていってしまった。誤解を解く間などみじんも与えられないまま、渚の背中は見えなくなった。
……………………………………………………
一旦会社を経由して手続きや書類を再確認して、俺は大型商談の取引先に向かうために電車に乗った。いよいよこの時がやってきた。これが成功すれば、俺は大きく自分の支社に貢献する事が出来る。
吊り革に掴まり、無限に移り変わる窓の外の景色を眺めながら渚の事を思った。ふと気づいた時には、今朝の渚の事を考えてしまう。これから始まる勝負が一番肝心で気が抜けないというのに、俺の気持ちはもはやそっちに向いていなかった。
俺は女の子に対するデリカシーの無さを反省した。まさか風〇のクーポンを見ただけであんなに怒るとは思いもしなかった。次から葛木から受け取った変なものは即座に捨てようと心に誓いを立てながら窓の外の移り変わり続ける景色を眺め続けていた。まあ、どうにかなるだろうと思っていた。落ち着きさえすれば、また渚は俺と話をしてくれる。
そんな風に考えていると、ポケットに入れていたスマートホンが震えた。多分渚からだろう。そんな風に通知を見たらやっぱり渚からの連絡だった。俺はスマートホンのロックを解除して内容を確認した。
『もう会いに行かない事にするね。私、邪魔だったよね。迷惑ばっかりかけて、ごめんなさい。さようなら』
俺はここ数か月で一番びっくりして、気づけば電車内ということも忘れて大きな声を上げていた。
「は?ま、待って………!!」
俺は即座にスマホをタップして返信を入力し始める。しかし何を返信しても、それ以降渚からは何も連絡が来なかった。周囲の乗客たちから奇怪なものを見るような目で見られているが、もうそんな事はどうでも良いし気にしている暇は一秒も無かった。俺は今、間違いなくここ数か月で一番焦っている。
『悩んでるからあんなにイライラしてたんでしょ?…………まさか昨日も一昨日も、ほんとに私が嫌いで怒ってた?』
俺は不意に、渚が唐突に家に入り込んできた時に言った言葉を思い出した。窓の外は渚の連絡が来る前も来た後も、何も変わらずに景色をめまぐるしく変え続けていた。それはまるで自分の焦った心を映し出しているかのようだった。
「渚………!」
電車を降りた俺は、反対方向へ進む列車に乗り換えて進んだ。そして渚のマンションの最寄り駅につくと、一目散に降りて駆け出した。周りの人にぶつかろうとも構わず、息を切らし、汗をかき、足が棒になっても、俺は走って走って走り続けた。
ずっと慎重に進めてきた商談の事など、もはや頭には無かった。
あの日俺は断崖に立っているかのような思いで生きていた。渚と再会できた時、どれだけ自分が救われたと思っているのだろう。
救ってもらったお礼を何一つとして出来ていない。逃がす訳にはいかない。俺だけ施してもらって終了なんて、流石にそこまで人間として未成熟であるつもりは無いが、現実にそうなってしまいそうになっている。そうさせてはならない。
俺は駅を飛び出て、ただ一人の大切な人に会う事だけを望み、前を見て全力で走った。
……………………………………………………
渚の部屋の前に辿り着いた時には視界がぐるぐると周っており、普段のように上手く立っていられない状態だった。膝に手をついていないと今にもぶっ倒れてしまいそうで、立ったままでの呼吸すらままならない。
まるで脳みそを固いもので思い切り殴られたかのようだった。喉がどうしようもなく乾いているのに飲み物ももっていないし、何故か鼻血が出てきたのにティッシュも持っていない。
スマートホンを見ると十一時十分だった。既に大型商談の取引先に着く必要のある時間を過ぎていた。しかしもはやそんな事はどうでも良かった。俺は渚の部屋のインターホンを何度か押してみたが、渚は出てこなかった。ノックしてみても、結果は同じだった。
腕で鼻血を拭いながらスマートホンを開き、渚に連絡をした。『部屋の前で待ってる』とだけ送信した。本当に用足しか何かで部屋に居ないだけの可能性もある中、少々乱暴すぎるやり方だった。だが、なりふりに構ってもいられない。
俺は一分一秒がじっくりと長すぎる感覚を覚えながら、渚の部屋の扉の前で待ち続けた。歯ぎしりしたい思いだった。そろそろ三十分くらい経過したのではないかと思い時刻を確認するが、十分しか経っていなかった。
このまま渚は一生来ないのではないか?このまま二度と会う事は出来ないのではないか。そんな悪い予感がして、心臓が跳ね散らかした。気休めに深呼吸しても何も変わらない。渚から連絡が返ってくる事もなければ、俺の連絡に既読がつく気配もない。
汗が乾いて体温が急速に冷えていき、寒さを感じてきた。このまま何事も無かったかのように帰宅してしまいたい気持ちが一瞬芽生えた。こんな時に一体何を考えているんだ俺はと思ったが、実際寒いしなんかもうどうでもいい気がしてきた。何で俺はこんな事をしているのだろうという風に思い始めた。
「…………ヒロ」
俺は聞き慣れた声に、即座に振り向いた。そこには渚が立っていて、まさか嘘でしょ?みたいな顔で俺を見つめていた。その表情には戸惑いと疑惑だけがあって、眉を顰めていた。服装はスウェット姿で、買い物をしてきたのか野菜が入った袋を手に持っていた。
疑惑の目線をぶつけてくる渚に、俺は歩み寄った。
「渚……。渚!俺は。……その……」
「…………」
「…………」
俺は大切にポケットに入れておいたものが、気づかない間に失われていたみたいな気持ちになった。あれだけ伝えたいと思っていた言葉が、思いが、感情は、どれも何一つとして意味をもった言葉として口から出てきてはくれなかった。確実に象られていたものが、手品でも見せられたかのように消えてしまったのだ。
何でこんな大事な時に言葉が出てこないんだと流石に俺は自分自身に憤った。しかし言葉を紡ごうとしている俺を、彼女は見ていた。じっと目を逸らさずに、疑念と、真剣さと、色々な感情がごちゃ混ぜになってしまったような瞳で俺の事を見ていた。その瞳に吸い込まれていってしまったみたいに、俺の言葉は出てこなかった。
渚は真剣な眼差しのまま無言でポケットを漁り、俺に黄色い花柄のポケットティッシュを差し出した。鼻血が垂れているのを見たからだろう。俺はごめんと謝ってそれを受け取り、鼻を拭った。渚は俺が鼻を拭っているのを見て、全く知らないものでも見ているかのようによそよそしく目を細めた。あまりにも自分が情けなさ過ぎる自覚こそあったが、どうしようもなかった。
「……………で?楽しかった?風俗」
「! 違う!誤解だって。あれがポケットに入ってたのにはちゃんと理由があるんだよ」
渚は呆れと失望の表情を作ってみせて俺に問いかけた。俺は誤解を解くために、クーポンがポケットに突っ込まれる事となった経緯を可能な限り説明した。しかし渚は最後まで聞き終えても、納得してなさそうに眉を吊り上げて俺から目線を逸らした。
「へー……。そうなんだ」
「そうだよ。だからあれは俺のじゃないし、風俗なんて行ってないし、行く気も無いんだよ」
「…………」
「悲しい事言うなよ。何でもう会わないなんて言うんだよ。最近、また会えたばっかじゃんか。俺はまた渚に会いたいし、話だってしたい事があるんだよ。だから、……だから。これからも、ずっと」
「勝手なこと言わないで!!!」
渚の悲痛な叫び声に、俺の全身は容赦なく引き裂かれた。
「じゃあ、何で私から逃げたの!!!何で、三年も連絡取ってくれなかったの!!!」
喉奥に血が滲みそうな叫びで俺に問いただし、次第に渚は再び泣き始めた。唇を震わせて、俺を睨みつける目から一筋の涙が零れた。今になってようやく、もともと謝らなければならないと思っていた事を謝れていないのを忘れていた事に気づいた。
「突然ヒロと連絡取れなくなって、私がどれだけ寂しい思いしたか知らないくせに!!どれだけ悲しかったか知らないくせに!!!」
「………渚」
「馬鹿じゃないの!?今更『ずっと』、とかさ!!!」
渚の悲痛な表情に、言葉に、剣幕に、涙に。俺は何も言葉を発する事が出来なかった。重く、鋭く胸を抉られてゆく。これまで見た事も聞いた事もないような号哭に、魂が引き裂かれるかのような痛みを感じて悲鳴を上げるのを感じた。
「とってもドンカンなヒロに教えてあげる。……私、ヒロのことが好き」
渚は涙を流しながら小さな声で言った。その声はさっきまでと打って変わって消えてしまいそうな程小さくて、震えていた。
「ヒロのこと、誰にも取られたくないの。ヒロが、他の女の子に優しくするのも、本当はイヤ」
「………」
「でも付き合ってもいないのにそんな事言って、気持ち悪いって思われちゃうのはもっと嫌!!だから……」
そこまで言って言葉が続かなくなった渚は両手で顔を覆い、咽び泣いた。
俺はどうすればいいのか分からなかった。渚は俺に好きだと言ってくれた。そして俺は運命というものを憎たらしく思った。せっかく思いを伝え合える機会が出来るのが、何でこんな状況なんだと俺は思った。俺も好きだよだなんて、口が裂けても言える訳はない状況だった。何も言えず、何も出来ないまま、俺は両手で顔を覆って咽び泣く渚を見ていた。
すると渚は俺の横を通り過ぎ、鍵を開けて部屋に戻ろうとした。俺は咄嗟に渚の手を掴んだが、彼女は強い力で抵抗して俺の手を振り払った。
「でも気遣ってくれなくて大丈夫だよ?もう、ヒロに迷惑かけないから。これ以上一緒に居たら私、勘違いしちゃうし」
「待って。渚」
「私達、『お友達同士』だもんね?」
渚は目尻の涙を光らせながら、絞り出すみたいな健気さの笑顔をみせた。それでも諦められず、俺は渚に再び手を伸ばそうとした。
「二度と来ないで。来たら通報するから」
「…………」
しかし結局渚はそう言って部屋に一人入っていき、施錠してしまった。
俺はエレベーターを降りてマンションを出た。マンションの脇を見ると、自販機があるのを見つけた。そういえば喉が渇いたと思って俺は財布を取り出そうとしたが、ほんの三十メートルばかり先の自販機にすら辿り着くための歩く体力も気力も残されておらず、すぐ近くのベンチに腰を下ろした。
家に来たら通報するお友達同士って何だよ。
もう、二度と渚に会えないんだ。
俺の身体は肉体的にも精神的にも限界を迎えていた。何も出来ないと俺は思った。腕も足も動こうとしなかった。渚の本気の剣幕を真正面から浴びせられて、それがずっと俺の中に残って容赦なく反響し、切り刻み続けていた。それなのに、今この時がこれまでの人生で一番『自分が生きている』実感がある事実が皮肉過ぎて、笑いが込み上げそうになった。
これまでも仕事で失敗したりしてメンタルを挫かれた事は数度あったけれど、今回受けたダメージは一周回って受け入れられていない部分すらあった。今日起きた出来事が夢である事をひたすら願って、じっと何もない土の地面を見つめていた。
空を飛んでいたスズメが数匹、俺の足元に降り立った。そしてナニシテル。ハタラケ。カイシャイケ。とばかりに甲高く、五月蠅く俺に向かってチュンチュンと鳴いていた。ぶち殺すぞこいつらと俺は思ったが、ここでようやく俺は、自分が今何をしてしまったのかをはっきりと自覚した。
その瞬間、とてつもなく時間の流れがゆっくりになった。気味が悪い程にじっくり、ゆっくりと時間が流れていくのを感じた。吐き気を催すようなねっとりとした冷たさを背筋に感じて、俺はその場から動けなくなるのを感じていた。
ポケットが振動しているのだ。スマートホンが鳴っている。手に取って見てみれば葛木からの着信だった。考えれば当たり前の事でしかなかった。これまで散々重要と話をしてきた商談に行かなかったんだから。もはや取り返しはつかないし、何を言われるか分かったものではない。
俺は身体がブルブルと震えるのを感じていた。気づけば、自分の身体の数倍重たいものを持ち上げるように身体中力んでいた。俺は応答ボタンを押した。スマートホンの応答ボタンはすぐそこにあるはずなのに、何百メートルも遠く離れているように感じた。
「…………はい」
『おう。生きてんの?』
「はい………」
『まあ生きてるならいいわ。何してんの?先方からお前が来ねぇって電話来てんだけど』
「すいません………今から」
葛木の口調は怒っている訳でも、状況を意に介している様子も無かった。そんな口調に、むしろ突き刺されるような感覚を覚えた。
『いやもういいよ。鳴上も辞めたし誰か代わりに向かわせるわ』
「………すいません」
『後で説明しろ』
葛木は早口で淡々とそう告げると、無情にもガチャンと電話を切った。俺は崖から這い上がる為に腕を伸ばし掴んだ手を、離されたような気持ちになった。葛木のポジションはタイミングによっては本当に忙しないはずだから、今は俺を電話で詰めている暇が無かったのだろう。
そして俺は自らの時間を賭して積み上げた会社からの信頼も、それを受けて契約しようとしてくれた取引先も裏切り、せっかくの大型の商談という機会を与えた葛木の意思も踏みにじった事に気づいた。
俺の元居た場所が、帰りたくても二度と帰れない場所になってしまったような気がした。俺は一体何をやってるんだ?取り返しがつかない事は理解していたはずだったが、理解したつもりになっていただけなのだと俺は思った。会社に戻っても、もう今朝出社した時までと同じ場所ではないのだ。
俺は愛想すら尽かされてしまった。大型どころか、通常の商談の機会すらもう与えられないだろう。
鳴上も居なくなって、渚も居なくなってしまった。
俺の帰る先は一体どこなのだ?
『馬鹿じゃないの!?今更『ずっと』、とかさ!!!』
何もかも全ての気力を失い、生きてゆく気力も意味も失った俺はベンチに座ったまま動く事が出来なくなった。十分経っても十五分経っても、一時間経ってもずっとそこで座っていた。マンションの他の住人から心配そうに何か話しかけられたような気がしたが、俺は何も反応を示す事が出来なかった。
辺りを見渡せば呑気なものだった。世界は今マンションで俺と渚に何が起こったかも知らずに、憎たらしい程今まで通りに何も変わらず続いていた。
そんな世界はやがて凍えるような白に包まれてゆき、無へと還元されて消えた。




