第13話 消えていく仲間
葛木に命じられる事となった例の大型商談は、ついにあと一息の段階まで来ていた。言い換えれば仕上げの段階とも言える。あと一、二回足を運んで何も問題がなければ、円満に契約成立となる見込みだった。
管理室へ報告に行くと、関係書類を眺めた葛木は心底嬉しそうに頬を吊り上げていた。俺もその様子を、内心まだ早いガッツポーズをしながら見つめていた。
「おいおいおい。順調だなァ〜。早坂さんと相性いいみたいじゃん」
「はい、どうにか。俺的にはすごく話しやすいです」
「そっかそっか。時枝に任せて良かったわぁやっぱ!!!ハッハッハッハ!これ決まったら、デケェぞ〜!!」
「いえ、そんな」
取引先の早坂さんは温和な人間で、幸運にも俺の中で話しやすい人だった。本当に有難いの一言である。葛木が豪快に笑うのを、俺はいよいよあと一歩なんだという実感を噛み締めながら微笑んで見つめた。
確実に、胸の高鳴りというものを感じていた。
「今日もまた行くんだろ?」
「はい。十六時ぐらいに」
「じゃあ今日明日で決まりそうだな。しっかり頼むぜ」
「分かりました」
「俺は午後出張でいねぇけど、ここはお前と鳴上で指揮してくれ」
「はい」
自分で言うのもなんだが、ここまでの道のりは相当頑張ってきた。三年間での集大成とも言えるだろう。必ずやり切って、葛木と支社の皆を喜ばせたいと俺は思った。
……………………………………………………
忙しく動き回ったり取引先に出向いたりしていたら十七時になっていた。例の大型商談も予定通り順調に進み、恐らく本当に何も無ければ次回の訪問で契約成立するだろう。これ程高揚と不安が入り混じった状態は経験したことが無かったかもしれない。プロスポーツ選手とかは毎度こんなプレッシャーの中で戦っているのだろうかと俺は思った。
俺は込み上げる緊張が解けなかった。このまま絶対に成功させると、固く胸に誓いながら会社の入り口をくぐった。
業務フロアに戻ると、目の前には地獄の光景が広がっていた。もともと殺伐としていた異様な空間である事は認識していたはずなのだが、ついに死人が出始めましたみたいな魔境だった。
「まだですか?!こちらも本日中と言われてるんですから。これ以上待たされても困るんですよ!!」
『ちょっと!!おたくの商品どうなってるの?なんで部品が1個無いのよ!!詐欺じゃ無いでしょうね!!』
「書類の桁違うんで修正お願いします!!ファイルNo.はこれとこれと、それです!!あと……」
切羽詰めに詰めまくった来客。
ブチ切れた客のクレーム。
ミスした書類の大量修正依頼。
俺は一周回って笑えるものでも見ているような気分だった。何故人間は仕事ごときでこんなに命を懸けられるというのだろうと俺は思った。現実は小説より奇なり。俺にはフィクションやファンタジーの物語よりも、現実世界の方が余程奇妙な世界に見える。
「時枝さん!!やっと戻られましたか………!早く助けてください!!」
「時枝っ!!これ、頼めるか………!?」
場にいる全員が明日の存命を懸けているかのような目をしていた。仕方が無いので俺も加わる事にした。どの案件も心底くだらなくて、下手なお笑い番組を見ているよりも面白かった。さっさとパソコンに向かい合い、諸々を処理していく。
来訪している客は腕時計をチラチラと見て、のろまな亀が自分の歩幅に合わせてくれないせいで全然散歩が進まないみたいな目で片足を激しく貧乏ゆすりしていた。こんな状況に限って、葛木は出張で不在だ。いつもこういう時に居ないのは困りものである。
そしてこれは誰かが消えてゆく前兆だろうと俺は思った。もう何度も経験しているから、よく分かっているのだ。仲間が誰かチームから消える時というのは、必ずこういった、明日はもう来ないかもしれないみたいな空気の出来事が起きて支社の利益が落ち込んだ時だった。
「俺のチーム一旦全員集まって!」
あまり柄ではないが、俺は手を叩いて大声でメンバーを集めた。俺は正直、もう消えていく仲間を見たくはなかった。どんなメンバー達であってもせめて、円満に退社して欲しいと切に願っている。
『さっさと全員!!!!!持ち場に戻れ!!!!!』
その為には、目の前で繰り広げられる地獄を全部定時までに収拾を付ける他は無い。生々しい臭いを発して腐り落ちかけたこの場所に、一瞬で息を吹き返した上司の叫び声を胸に焼き付けて、俺はスピーディに集まってくれたメンバー達に指示を出した。
冷静に状況を把握してひとつひとつ、確実にメンバーと連携しながら片付けていく中で少しずつ、それでいて確実に解決の糸口を見出していた。一致団結している。いつもバラバラの皆が、一旦俺のチームだけとはいえ団結していた。
捌き切れるという希望が芽吹くのを感じたその時、後ろから重たく胸にのしかかってくるような怒声が響き渡った。
俺は半ば反射的に怒声が聞こえた場所へ駆けつけた。するとさっきから切羽詰まって貧乏ゆすりしてた来客の中年男性が怒鳴り声をあげ、それに対して頭を下げ、謝罪を重ねる鳴上の後ろ姿があった。彼は謝罪する後ろ姿すら厳かでオーラがあり、毅然としたものだった。
「どんな教育してんだよ!ミス連発の上、すぐに書類を持って来れませんだ!?出来ませんばかりここは!以前はそんなんじゃなかったと思いますけどね!二度と契約なんてしませんよ!」
「は。申し訳ございません」
「状況は全部上に伝えときますからね!」
鳴上と中年男性のやり取り内容と、ブースに投げ散らかされた書類の内容を見て、俺はすぐにデスクからノートパソコンを持ってきて火中の栗を駆け込み飲み込んだ。
「申し訳ございませんでした。代替案の提案など、させて頂けないでしょうか。お急ぎという事ですので、後日でも問題ございません」
「ん?あんた誰?」
「時枝でございます。最善の配慮をさせて頂く為にもどうかお願いします」
鳴上は駆け込んできた俺を見てハッとしたように目を見開いていた。中年男性は頭を下げる俺に、怒りと侮蔑の眼差しを返してみせた。
「もうそういう問題じゃないんですよ。すいませんがこれで帰ります」
「畏まりました。期待に添えず大変申し訳ございませんでした」
「なんか……あんたの態度気に入らないわ。時枝さんの態度が一番有り得なかったと報告しときますね」
何でだよと俺は思った。
別にどうでもいいけど、理不尽な憂さ晴らしにしては流石に雑過ぎるだろと思った。本当に客も社内の人間も関係なくどいつもこいつも、俺への当たりだけは強く出てくるな。
「重なるご不快の念を与え、失礼しました。どういった点が有り得ないと思われたか仰って頂けませんか?」
「そんな事自分で考えろよ!全く、考える力も無いのか。吐き気がするよ。AIの方がまだいい仕事するね本当に」
何を言ってるんだこいつはと俺は思った。しかし当然そんな事は言えないし気持ちを表に出す事も出来ないから、俺はずっと頭を下げ続けていた。中年男性は舌打ちをして振り返り、さっさと来客対応エリアを出て行った。
中年男性が帰った途端に、ブースはシンと静まり返った。その静まり返った瞬間はやけに心地よく感じた。中年男性の背中が完全に見えなくなってから振り返ると、鳴上は手のひらで両目を覆い、俯いて絞り出すような声で言った。
「これは拙者の責任でござる」
「え?」
「拙者のチームで連携が取れていなかった故に起きたアクシデントだ。時枝殿。………今になって、事態がこうして身に起きて初めて、貴殿の言ったことは正しかったのだと理解出来た。裏切られ傷つけられたにも関わらず、その仲間を信頼して大切にしようとしていたでござるな。そういう者にこそ、道は拓けてゆくのだ。この結果と、今時枝殿のチームが一致団結しているのがそれを証明している。拙者にはそういったマネジメントは必要無いと捨て置いた」
「…………」
「よって拙者は辞表を出そうと思う」
「は!?」
俺は開いた口すら塞がらなくなった。そして辞表を書く鳴上を必死こいて止めようとするが、彼の意思は鋼のように固く変わる事はなかった。一度決めた事を変えないのも、鳴上の性質故だった。彼は俺を振り返り、クールに腰に手を当てて不敵に笑ってみせた。
「拙者は″″″漢″″″。増してや腹切りの宣言に、二言は無しッ!!………最後に時枝殿と草津殿と『心の友』になれて、本当に良かった。さらばだ」
引継ぎをさっさと済ませて会社を出て行く鳴上の背中を、俺は呆然と立ち尽くしたまま見つめていた。何が起きたのか頭の中で処理しきれていない。結局俺は仲間が消えるのを止められなかったのだ。生きていく事も、働く事も、犠牲を目の当たりにして次は自分がそうなるのかと怯えるような事じゃないはずだ。そうであってはいけないと、そう強く思うのに。
相変わらず堂々とした鳴上の背中を、俺は見送る以外に出来る事は無かった。
------------------------------
その日は夜になっても去っていってしまった鳴上の背中が頭から離れず、ずっと俺の気持ちは落ち込んでいた。既に二十一時だというのに気持ちは晴れないままだった。
俺は楽しそうに笑っている渚と肩を並べて夜の住宅街を歩いていた。目的地は俺が住んでいるアパートだ。とうとう渚の押しに負け、今回はとりあえず俺の部屋に上げる事にしたのだった。
渚にも、鳴上が辞めてしまった事を伝えた方がいいのだろうか?よく分からなかった。別に伝えなくても何ら影響は無いのは分かっているのだが、次もコスプレコーナーに顔を出したら彼の顔を見る事が出来るだろうか。考えてもそんな事は結局分かる訳はなかった。
俺は嫌な記憶から逃れるように、渚の笑顔を見つめていた。俺の視線に気づいた渚は心の内まで伺うかのようにじっと俺の目を覗き込むと、悪戯っぽく微笑んだ。
そうしているうちにほんの少しずつではあるが、どうにかこの先をやっていけるような気持ちがしていた。
「渚。もしかして、飯作ってくれんの?」
「いや?居間散らかすだけ散らかして帰る」
「どうぞ真っ直ぐにお帰りください」
「うそうそ!!冗談だって!ヒロさ、餃子食べたいって言ってたじゃん。作ってあげるよー?」
「ああ、この間かー。食べたい気分だから嬉しいかも」
「沢山焼いてあげるね。特別だよー?」
渚はあたかも恩着せがましい言い方をしているが、その表情はよっしゃと言わんばかりに嬉しそうに笑みを浮かべ、拳を小さく握っているのを隠す様子もない。彼女は昔から料理がとてつもなく得意な女で、高校時代も何度かその絶品の手料理にお世話になっていた。今日のところは一旦忘れ、餃子を楽しみにしておくことにした。
煌々と光る電灯と周辺の家の灯りの光が、二人の歩く薄暗い道を照らしていた。
「ヒロのお家行くの二回目だねー?楽しみ」
「おん」
「こんな暗い夜の道で、私たち誰かに襲われたらどうしようね?」
「ないだろそんなの。漫画の見すぎなんだよ」
「でも安心しな?おれがおめーを守ってやっからよ」
渚は特に楽しい気持ちになった時、変なテンションで悪ふざけをするのだ。そして小悪魔にように笑みを浮かべ、べしべしと俺の肩をぶっ叩いた。その叩いてくるのは地味に痛ぇからやめて欲しいんだよな。
「何言ってんだお前」
「心配すんなって。おれがおまえを、何不自由なく養ってやるさ」
「あ、そう。よろしく」
「その代わり………っ!おめーを抱いてやるぅ!うりゃあ!」
「うおっ!やめろ!!ちょおいい!」
両手をワキワキとうねらせ、企み顔でじりじりと近寄ってきた渚を何する気なんだこいつと思って観察していたが、突然飛びついてきた。そして俺は脇腹をくすぐられた。そして想像以上にくすぐったくて、今の沈んだ気持ちと対照的に思わず笑いが込み上げて噴き出た。
「わ!はっは……!はは!ははは」
「あはは!ヒロ笑ったー」
「ひぃーー……ったく。このイタズラっ娘め」
俺を笑わせて満足げに笑っていた渚は、少し不満げに眉を垂れ下げて頬を膨らませながら俺を睨んだ。
「やっと笑うんだから世話が焼けるよ。ヒロ、ずっと元気ないじゃん」
「え?ごめん」
「今日も何かあったんでしょ?」
渚には結局、全てお見通しだったという訳だったのだ。俺はどこから話したものかを考えたが、次の瞬間に心臓を激しくドクンと跳ねさせた。暗い渚の足元と、その先を見て反射的に俺の身体は動いていた。
心配の滲む瞳でこちらを見つめながら歩き続けている渚の肩を、俺は咄嗟に掴んでいた。渚は不満顔だったのをかなりの驚き顔に変えて目を見開き、俺を見つめた。
渚はあと一歩でも先に進んでいれば、排水溝のレンガが欠けた部分に落ちるところだったのだ。渚も下を見てそれに気づいたらしく、ひゅっと息を吐き出した。
俺は渚の背中をトンと押して、彼女を通路の内側に立たせた。
「俺が端っこ歩く。車来たら足元に気を付けて寄ってきて」
「………なんか今日は逞しいね?ヒロ」
「今日はって何だよ。今日はって」
渚はきょとんとした顔で俺を見つめていた。俺が歩き始めても渚はずっとその場から動かずに、俺の背中を見ているみたいだった。構わずに俺が先を三、四歩と歩き進めると、渚はやがてぱたぱたと軽い足音を響かせて後ろについてきた。
そして驚くまい事か、渚は俺の腕に勢いよく抱きついてきた。
「おぉ!?どうしたんだよ」
「えー?分かんない。なんか嬉しいな。みたいなー?」
「離れろ!次は俺が落ちたらどうすんだ」
「大丈夫だよ。しばらくはあんな罠みたいなとこ無いってー」
渚の顔は肩を隔てたすぐそこにあった。俺は渚に、腕を抱きかかえられながら夜の静かな住宅街を歩いていた。そんな渚と目が合うと彼女は悪戯っぽい笑みを浮かべていたが、やがて「ひひ」と恥ずかしそうに笑って舌を出した。街灯に照らされた渚の頬は、ほんのりと赤く染まっていた。
「私もね、ヒロが一緒に居てくれなくちゃダメなんだー」
俺は渚の赤らんだ笑みに、思わず全身の血を熱くした。心臓を激しく跳ねさせて、何もかも全ての意味が分からなくなる程に高揚した。
きっと今の俺と渚を後ろから、第三者の目線で見たらカップルに見えるのではないだろうか。いつか俺の想いを、ちゃんと渚に伝えたい。俺はそう思ったが、渚の破壊的に愛らしい笑顔を見ると全ての自信を失ってしまうのだった。
……………………………………………………
俺はさっさと頭と身体を洗ってシャワーを終えた。寝間着に着替えて居間に戻ると、渚は狭いダイニングで明かりを点け、器用な手つきで餃子の皮を包んでいた。
渚の表情は相変わらずあっけらかんとしていて何を考えているか分かりづらいが、普段笑ったりじっと見てきたりする事が多いのを踏まえると、集中している表情なのだろうなと俺は思った。
しかし渚は「シャワーもう終わったの?早いね?」と、餃子から一瞬も目を離さず表情も一切変えず、作業も中断しないまま俺に問いかけた。この部屋に結界を張る能力でも持っているのかと思い思わず身構えそうになったが、餃子の具の美味しそうな匂いが鼻腔をくすぐって途端に激しく空腹を感じた。
「既に美味しそうな香りがする。さすが渚」
「もっともっと褒めろー?」
「渚様仏様。ありがとうございます。感謝。一生ついて行きます」
「一生?本当に?」
「ああ。本当だよ」
「やったー」
褒めちぎると流石の渚も嬉しかったのか、作業する手を止める事こそ無いものの、頬を桜色に染めて微笑みを浮かべていた。
俺は渚を手伝おうと蛇口を捻って手を洗い、渚の横に立った。しかし嬉しそうにしていた渚はコロッと表情を変え眉間に皴を作り、嫌そうな顔をした。
「すぐ出来るから。座って待っててー」
「え?でもそこそこ量あるし、一人じゃ大変じゃ」
「『座ってて』って言ってんの。分かる?」
「はい」
渚は真顔で顔を上げた。底なし沼の奥底が映し出された鏡みたいな瞳だった。俺は渚のオーラに圧され、結局居間に戻って床に寝っ転がった。
俺はスマートホンで漫画を読もうとしたが、何故か異様な眠気に襲われた。このままでは眠ってしまうと思ったが、その時には意識は既にそこになかった。
------------------------------
いつの間にか、部屋の中は薄暗くなっていた。
今は何時だろう?結局俺は渚が作ってくれた餃子を食べる事なく、床で眠ってしまっていたようだった。どうして眠ってしまったのだろうと考えた。恐らく、夕方の会社での一件や去ってしまった鳴上の事で、無意識の間に疲れを溜めこんでいたのかもしれないと俺は思った。
漫画を読もうとして眠気に襲われ、結局転がしておいたスマートホンに寝っ転がったまま手を伸ばした。手に取って時刻を見ると、既に時刻は真夜中の三時だった。俺の視界がスマートホンを捉える事が出来ているのは、二燭光ばかりの明かりが辛うじて部屋の中を照らしているおかげだった。
そして起きた瞬間から薄々感じていた違和感に、ようやくそこで目を向けた。薄い掛布団すら掛けずに眠ったはずなのに暖かく、身体が動かないのだ。厳密には、肩と腕から下が動かしにくい、というのが正だ。まるで仰向けに寝っ転がっている俺の身体に、何かがのしかかってきているような、そんな重量を感じていた。
自分の身体を見ると、まずすぐ目の前に渚の頭があった。
呼吸すればする程に際限なく、無限にシャンプーのいい香りがする。
薄暗いからそんなによく見える訳じゃないけれど、気のせいでなければ渚は下着姿だった。
これまでの人生、振り返ってみれば色々な事があったような気がするけれど、今が一番虚をぶち抜かれていると思う。俺の初恋の相手が、俺の身体を抱き枕にように全身で抱きしめて、すぅすぅと寝息を立てて眠っているのだ。
状況を言葉にするとそんなところだろうか。おまけに首を動かしてよくよく見てみたが、やっぱり渚は本当に下着以外何も着用していない。
寒いだろうに。
いや違う、そうじゃない。
渚は眠ってこそいるようだが、その柔らかい身体の色々な部分が俺の色々な部分に当たりまくっていた。当たっているとかの次元ではなく、百二十パーセント密着して押し付けられている状態だった。一体どうしたらいいのだろうか。起きた瞬間に直面させられた四面楚歌。俺がここからどう動いても渚を傷つける気がする。
こんな状況、渚が目覚めてしまったらなんと言い訳をすればいいんだと俺は思った。俺はここが自宅なのも忘れて帰りたくなった。どうしてこんな事になってしまったのだろう。
薄々分かってはいるが、偶々、偶然にこのような状況が発生する事はまず無いのだ。偶然でないとしたら、渚は俺が男という事を忘れているとしか思えない。今にも崩壊しそうな理性を懸命に思考する事で押しとどめた。
やっぱり、渚は俺の事が好きなんだよ。
そうじゃなかったらこんな事してくる訳ないだろ。
ほんの一瞬だけそう思ったが、やはりそんな訳は無いと理性で自分を落ち着けた。仮に奇跡的に俺を好きだと仮定したとしても、俺じゃ渚と釣り合わない。渚だぞ?手先が器用で、家事も料理も上手で、笑顔が可愛い、俺ごときが指先一本触れるのも憚られるようなよく出来た子なんだぞ?そんな子が俺を好きなんだなんて、思い上がるにも甚だしすぎるのではないか?
しかし俺の手は思考とは対照的に、渚に触れようとしていた。彼女の柔らかい身体を抱きしめ返す為に、無意識にその手を伸ばしていた。
俺は?俺の気持ちは?俺の気持ちが大事なんじゃないのか?
俺は、渚が好きだった。
高校生だったあの時。渚に恋を教え、その深い沼に突き堕とされたあの日から、ずっと。
しかし俺が渚を好きなのは、手先が器用だからでも、家事や料理が上手だからでも、笑顔が可愛いからでもない。それらは尊敬できる部分であったり、後付けで好きな部分として挙げられる要素のうちの一つというだけなのであって、それらの要素が全て揃っている他の女が幾ら目の前に現れようが渚の代わりなんて決して務まらない。
渚じゃなくちゃ、駄目なんだ。渚以外の女の子を選ぶなんて俺には絶対に出来やしないし、ていうかしたくないんだ。
いつも渚は俺が本当に辛い時に、目の前に現れてくれた。俺が本気で誰かを幸せにしたいと思えるのだとしたら、それは渚以外に存在し得ないんだ。渚と会話をするたびに、もはや目を合わせるその度に、俺の魂は浄化されていくのを感じていたんだ。
未だ抱きついてきている渚はむにゃむにゃ言いながら、俺の胸に頬を擦り付けていた。
………違う。駄目だ。渚の幸せを考えられていない。あくまで俺が渚を好きという、ただそれだけの話なのだ。こんなに出来ていい子なら、必ずもっと相応しい男が居るに違いない。俺が選択すべきは渚が如何に幸せになるかだろう?渚が最高に幸せに生きていける選択肢が他にあるなら、それを選ぶべきだ。
俺は安堵の息を吐いた。危うく勘違いをして渚を抱いてしまうところだった。邪な事を考えているのは全宇宙で俺ただ一人だけだ。
起き上がった俺は、天皇陛下を持ち上げるよりも大事に渚をお姫様抱っこした。そして俺がいつも寝ている布団に渚を横たえて、毛布を被せた。
これでよし、と思わず独り言を漏らしながら何気なくテーブルを見ると、渚が作ったであろう餃子が盛り付けられたお皿にラップが被せられていた。俺はダイニングの照明だけ点けて炊いてあった炊飯器のご飯を山盛りにし、渚が買ってきてくれていたであろう新品のラー油の包装を取った。そして小皿を取り出して醤油とラー油を垂らした。
「!? 何だこれ、美味。流石渚だなぁ」
俺は夢中で餃子を食べていたが、ある事に気づいて背筋を冷やし、その箸を止めた。毛布から出ている渚の拳が固く握られ、小刻みに震えているように見えたのだ。心なしか、鳴上を連れて三人で行った居酒屋の時みたいなドス黒いオーラを感じていた。
あれ、渚、起きてる?と声を掛けた。しかしその瞬間に渚の手は引っ込められた。気になって布団をのすぐ傍まで見に行ったが、渚は先ほどまでと同じように寝息を立てており、その時にはドス黒いオーラも綺麗さっぱり消え去っていた。結局俺は餃子を半分くらい食べてしまった。その後ご飯と小皿の皿を洗って再び床に横になって、気づいたら朝の七時だった。ついにこの日、大型商談が成功するか否かが決まる。




