表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
私は頑張るあなたの味方!  作者: #N/A
第1章 『救済の桜』
12/22

第12話 『にっこり』笑顔

 雨が降りそうなくらい漆黒の闇に満ちた空の朝だった。俺はまだ寝室で眠っている渚に、一言ライヌでお礼を伝えてマンションを出た。昨晩は結局、よく眠れなかった。渚に鞄ごと浴槽に沈められたせいでそれらをひたすらドライヤーで乾かす羽目になり、睡眠時間は二時間くらいといったところだろうか。


 鞄と書類を乾かし続けて、自分の眼球まで酷く乾いてしまった感覚だった。脳みそと眼球を取り出して丸洗いしたい気持ちで、やたら湿った風を浴びながら駅を目指して歩いた。


 俺は出社して朝一で管理室へ行き、書類を提出した。その中には渚の手によって水でビッチャビチャになったのを乾かしたものも含まれており、結局また葛木にこってり絞られる羽目になった。


 葛木は退屈そうな目で数枚の書類をさっさとチェックするが、例の書類を見つけると退屈そうだった顔を露骨に顔を顰め、俺に迫ってきた。


「時枝ク〜〜〜〜〜ン。これは一日お世話になった書類さんの″お洗濯″か?立派な心がけじゃねぇか。あァ。いい心がけだわ」

「す、すいません。本当に………」

「次やったらただじゃおかねぇぞ」


 葛木の口調は相変わらずだるそうで、淡々と話しているだけだった。しかしキレ顔で目の前に迫り、脅迫めいた目で笑う様はとてつもない威圧感を放っていた。俺は震え怯え、謝罪するしかなかった。


 何度怒られても慣れる訳はなかった。



 ……………………………………………………



 どうにか週末を乗り切るに至り、待ちに待った土曜が訪れた。会社は休みである。平日の湿った空気も暗雲も全て洗い流されてしまったかのように消え去って、驚いて腰を抜かす程青くて綺麗な空が広がる恵まれた天候だった。スマートホンで時間を見ると十二時半だった。


 俺は鳴上と一緒に、TVアニメ『甘目まどかの照り照り魔法少女記』の新作映画を観るために一緒に映画館に来ていた。その帰りに、葛木から貰った飲み屋の半額券で飲みに行く予定だ。


『甘目まどか』を超簡単に説明すると、クソ上司にクビにされた腹いせに、突然現れた変な生き物のお願いを聞いて魔法少女になったけど、その生き物の趣味で変身中は毒舌以外吐けなくなった。という内容の異世界ファンタジーだ。


 土曜の映画館は混みに混んでいた。数多くの人間でごった返し、人口密度は高くて少し籠った臭いがした。家族、友人同士、恋人同士、一人、子供、学生、大人、見渡せば見渡す程に様々な客層が居るが、誰も彼もが、この日を楽しみにしていたと言わんばかりに笑顔を咲かせているのがよく分かる。


 しかしこの空間の中でこの日を一番楽しみにしていたであろう人間は間違いなく、俺の隣で気障に瞑目して腕を組み、堂々と佇む男だった。


 鳴上は休日でそこそこ気温も高いのにスーツを着ていた。待ち合わせ場所で合流して彼の決まりようを見た時、これから結婚式でも始まるのではないかと俺は思った。俺はラフな青色のTシャツと黒いチノパンを履いており、何だか申し訳ない事をしたかのような気持ちになった。もちろん、何故スーツで来たのかを訊ねてみた。


「決まっているだろうッ!拙者の愛するハニー(まどか)との逢瀬───気合が入らない訳があるまい!この燃え上がる”””想い(バーニング・ラヴ)”””を目に見える形にするには、まずは服装からでござるよ」

「すごいじゃん。良い事だよ」

「こういった一つ一つの丁寧な積み重ねこそが、愛する女性からの信頼に繋がる───と、先日読んだモテる為の心得の本に書いてあったでござる」


 俺はモテるとは一体何なんだろうと考えながら鳴上の話に相槌を打って、すぐ目の前に貼られている甘目まどかのポスターを眺めた。


「時枝殿は愛する人との逢瀬に正装をせぬのか?」

「着たいものを着たらいいんじゃない?分かんないけど」

「甘いのではないか?時枝殿。逢瀬の時間は、人生に何度も訪れるものではないでござる」

「そう?その人が素で居られる恰好ならいいと思うんだけどな。正装は落ち着かないから、着るのは数年に一回でいいくらいだよ。せっかく会って話せる時間なのに慣れない服装で焦ってもしょうがないし」

「時枝殿は女性が『これが落ち着くから』と言ってドブの臭い漂う布切れ一枚でデートに来ても愛せるというのか?どうなんだッ!」

「それは単にそうなってしまった事情があるんじゃ……」


 鳴上は俺に無意味なドヤ顔をしてパワフルなマッチョポーズを披露し、キランと輝く歯を見せてガチムチの笑みを見せた。


 そしてそのポーズと笑みを解いた鳴上は壁へ一歩一歩と近づき、愛する甘目まどかポスターを眺めて一滴の涙を目に浮かべた。そしてごつごつとした大きな手で、ポスターのまどかに柔らかく触れた。


「嗚呼………まどか………これから、”””逢いに往く”””でござるよ。星の導きにより邂逅した、我が友と共に」

「ほんとに一秒一秒を心から楽しんでんな」

「時枝殿には分からぬでござろう。愛する人が─────手の届かぬ先へ居るこの苦しみなど」


 愛するとは一体何なのだろうと思いながら受付へ歩きチケットと飲み物を二人分購入した。何にしても、映画の上映まではあと三十分を切っていた。見てみると近くの椅子が幾つか空いたので、俺は鳴上と一緒に座って待機していた。


「このシリーズは、毎度毎度ヒロインの変身シーンでお色気要素をぶち込んで来るでござるよ。デュフw 股間にキたらシ〇っていいでござるか?」

「ダメです」

「加え、『You4 テーブル』の躍動感と迫力満点の演出でござるから、期待しかないのでござる。躍動する女体w ブッヒw 股間がもたぬでござるよォブッヒヒw」

「ダメです」

「どうして駄目なんだ!何故駄目だと言うんだッ!このお預けの罪は重いでござるぞ……? そんな時枝殿には────"開宴"。酒池肉林の肉だけの部分の刑でござるゥ♡ ヌッフ~~~~~~~♡」

「やめろっ!来るな!近寄ってくるなぁ!!んだよその意味不明な刑は!?」


 上映の時間が近づけば近づく程に鳴上のⅠQはおもむろに下がっていった。そして尖らせた分厚い唇で熱烈なキッスをされそうになるのを、鳴上の頬を思い切りぶっ叩いて無理やり止めた。頬をぶっ叩いた事で彼は止まってくれたが、顔色が少しも変わっていないのを見る限りダメージは入っていない様子だった。怖すぎる。


 鳴上とそんなやり取りをしていると、やがて俺のポケットが震えた。スマホが鳴っており、見てみると渚からライヌが届いていた。


「お?まさか……この間の子でござるか」

「うん。今から遊べないかって」

「ウグッ!リア充……爆発……ガク」

「死ぬなそんなことで」


 今友達と一緒に映画館に居て、あと三十分で映画が始まると送った。なんと渚はすぐに合流できる場所に居るらしい。現実は小説より奇なり。おまけに葛木から貰った飲み屋の半額券は三枚ある。もしやちょうどいいのではないかと俺は思った。


 そんなことを考えていると、渚はそのまま電話をかけてきた。


『甘目まどかの映画観たいー!私も行っていいよね?』

「別にいいよな鳴上?」

「ちょw リア充見せつけるつもりじゃないでござろうな!?非リアの拙者のガラスのハートが死ぬでござるよw」

「ツレも大丈夫だって」

「ちょww 露骨なスルーやめw」


 合流する事になった。



 ……………………………………………………



 俺は十分ばかり、静かに座っていた。隣に座る鳴上は鼻息をフンス、フンスと蒸気機関車の煙突も顔負けの勢いで噴射しながら、熱い瞳で甘目まどかのポスターを見つめて映画の上映時間を待っていた。


 やがて、聞き馴染みのある足音が聞こえた。渚がこちらへ走ってきていたのだ。彼女はいつもと同じ、黒づくめの恰好をしていた。


「お待たせー!」

「渚。めっちゃ息上がってるじゃん」

「はぁ、はぁ。面白い映画の鑑賞に遅刻は許されないから。仕事じゃないからね」

「遊びじゃないって言いたいのね」


 渚は息を切らしながら俺のすぐ隣にやってくると、両手を膝について呼吸を整えた。そして額に汗を浮かべながら、俺の顔を見上げた。


「ヒロが映画って珍しいね?」

「確かにあんまりないね」


 鳴上を見ると、今日も渚を見てモジモジしていた。人見知りだからなのか、知り合いの知り合いに位置づく女性だからなのかは不明であるが、先日のコスプレショーのくだりを考えると後者の可能性が高いのではないかと勝手に推測していた。


 そんな事を考えていると渚は鳴上を指さし、物珍しいものを見かけたかのように目を見開いた。


「あっ!この間の甘目まどかの人!」

「む?もしや、甘目まどかを知ってるでござるか?」

「知ってるよ。fuluで全部観た。とんでもないスピードで成長して怪人をけちょんけちょんにするまどかがコワ可愛いよね」


 渚はにこにことした笑顔で語った。それは俺と二人で居る時は見せる事のない、愛想の良い笑顔だった。それを聞いた鳴上は砂漠の真ん中にオアシスでも見つけたみたいな顔で目を輝かせて渚を見つめていた。俺はこの二人の繋がりを、不思議な光景のように見つめていた。


「オォ!まどかの魅力を理解してるでござるな!ユニバースと初めて交信した時は、涙が止まらなかったでござる」

「分かる!昨日の夜もヒロとエピソードについて語り合ったからバッチリ!」

「あぁぁぁぁ!!リア充エピソードはダメでごさるぅ!

 心が!心がぁぁ!」


 鳴上は気づいたら終電で最寄り駅を寝過ごしていたみたいな顔で頭を抱えて白目を剥き、会心の一撃を受けたかのように叫んでその場でぶっ倒れそうになっていた。


 仕事終わりにいつもみたいに通話を繋いで一緒にゲームしながら、アニメの感想言い合ってただけだけどなと俺は思った。


 渚は鳴上がぶっ倒れそうになる光景を、きょとんとした顔で見つめていた。そしてどうしたらいい?みたいな目をして俺の顔を見た。俺を見るな。俺を見られてもこの男に何かしてやる事は出来ないんだ。許してあげて欲しい。


 そんな事をしている間に上映時間が二十分前に迫り、会場が開いた旨のアナウンスが流れた。



 ------------------------------



 映画を観終わり、心から満足したらしい渚が嬉しそうに出口へ踊り出ていくのが見えた。


 俺は絶対に鳴上を許さない。


 上映場所に入り、俺が真ん中で左隣に渚、右隣に鳴上が座っていたのだが、鳴上がずっと独り言をぶつぶつと言っているせいで気が散り、半分くらい映画が頭に入ってこなかった。


 静かにしてくれと五回は言い鳴上もその度に「すまぬ」と言って頷いていたはずだったが、彼はもはや自分が独り言を言っている自覚が無いのか、さっぱり改善は見られなかった。


 挙句、一瞬ヒロインが全裸になる変身直前の一気に静かになるシーンで、鳴上が「─────────”来る”」とか言って上げた両拳を音が鳴るほど強く握りしめ、生唾をごくりとデカい音で飲み込んだ。それが気になり過ぎて俺の中の何もかも全てを攫っていった。しかもまどかがステッキで魔法を使う度に、鳴上も一緒になって腕を振るって風を巻き起こしたり「オォッ!」て叫んだりするせいでそれ以降の物語に感情移入も出来なかった。映画は静かに観てくれねぇか?


 鳴上は映画上映後、つやつやと溢れる満足感を笑顔から湛えていた。まるで幼子の如く映画を楽しむ事が出来たようだ。俺はお前を許さない。これが自分よりも幸せな人間を妬むという事なのかもしれない。社会の縮図というのは、こんな身近なところにも存在しているのだ。


 総合的に、映画の内容は面白かったと思っている。鳴上が隣に居なければ絶対にもっと楽しむ事が出来ただろうと俺は思った。


 渚は背中で手を組んで、映画館内を周ってポスターを楽しそうに眺めていた。俺と鳴上はつかの間の余韻に浸ってから、この後をどうするかを話し合っていた。どこかに遊びに行くか、飲みにいくか。その結果、どこかいいお店があれば遊びに行こうという話になり、鳴上が近くのお店探しに名乗り出た。


 鳴上が早速ポケットからスマートホンを取り出して、マップアプリでサーチを始めた時だった。ポスターを眺めていた渚がぱたぱたと戻ってきて、目を輝かせて俺と鳴上を見ていた。


「ねぇ、聞いた?『甘目まどか』とパズゴラがコラボするんだって」

「ブッ、ブッヒィィッ!?拙者のハニー(まどか)が、パスゴラにッ」


 鳴上は怜悧で落ち着いた瞳でスマートホンを操作していたはずだった。しかし渚がそう問いを投げかけた瞬間、鳴上は鼻息を荒くして目を見開いて叫び、光の速さでマップアプリを閉じてパズゴラをインストールし始めた。


「あ、コラ。店探ししなさい店探し」

「時枝殿。お店探しの大役、託したでござる。キリ」

「自分からやるって言ったんじゃん」

「拙者は″漢″。″漢″たるもの、時に譲れない事もあるのでござるよ。オ、オォォォッ!!パズルを運び、次々と消していくまどかたんッ!!ンン〜〜!これで生きる活力一ヶ月分ゲッチュなw」

「お前もう一ヶ月何も食うなよ」


 全く仕方がないなこいつと思いながら俺は代わりにマップアプリで検索を掛けた。俺と鳴上の様子を、正面にいた渚は観察眼を光らせるようにじっと見ていた。


 渚は俺の隣に戻ってきて、「やっぱり二人仲良いんだね」と言って口に手を当ててクスクスと笑った。これまた二人きりで居る時はまず見られないレアな、控えめで女の子っぽい笑い方だった。


「ねー。どういう関係なの?」

「会社の同僚」

「キューティクル・ユニバースされてない?大丈夫?」

「会社では真面目だから」


 俺と渚は会話を続けながら、鳴上を少し離れた距離から見つめていた。鳴上はインストールしたパズゴラを無我夢中でプレイし、大袈裟な程に一喜一憂していた。時に怒り、時に涙を流していた。


「リア充、爆発。リア充は、爆発……!!!!オオオォオォォォォォォォ〜〜〜〜ッッッ!!!雑魚めッ!拙者の″往く″道を塞ぐでないぞォォォォ……………!!!!」


 鳴上は未だにその場で立ったままソシャゲに熱中し、叫び声を上げていた。渚はしばらくそんな鳴上をじっと見つめていたが、やがて俺を見て「どうしてあんなに楽しそうなの?」とあっけらかんとした顔で訊いた。


 あれは楽しんでいるというよりも無尽蔵に溢れてくるどうしようもない感情の波をゲームで発散しているように見えるけどなと俺は思った。籠っていて小さく恨めしい声で何を言っているかまでは聞こえないが、何か恨めしい感情を発散しているという事だけは確かだった。職場にいる時の鳴上が放っているピリピリとした雰囲気は、今この時は微粒子たりとも存在しなかった。人は何かを得て何かを失うものなのだ、俺も例外なく、と思った。



 ……………………………………………………



 俺と鳴上と渚は良さげで遊べそうなお店を探すが、特別行きたいところは見つからなかった。その為、いつも俺と渚が遊ぶ時と同じように、気ままにアニメショップや本屋、家電量販店を興味の向くままに三人で適当に見て回っていた。


 そうして過ごしていたらあっという間に十九時になっていた。やっとの思いで捕まえた土曜日は俺らを嫌がって足早に逃げ去ろうとしているかのようだった。少しは立ち止まって休んでくれればいいのにと俺は思った。


 やがて渚が「足疲れたー」と言ったのを機に、俺たちは葛木からもらった半額券が使える居酒屋に入った。掘りごたつがあり、敷居と襖でスペースが明確に区分けされたそれなりに雰囲気のある居酒屋である。いい感じの狭さというか、余分な広さのない三~四人がリラックス出来るスペースだった。


 俺は渚と隣同士で座り、鳴上は向かいに着席した。とりあえず備え付けのタブレットにてビールを注文すると、スタッフが冷えたビールとお通しの漬物の皿をきびきびと置いて行った。


「おっとォ!十九時なので、本ストのデイリークエストの時間でござるゥ!!ちょいと失礼失礼」


 鳴上はわざとらしい素振りと口調でスマートホンを取り出すと、そのままソシャゲを起動した。


「え!本ストやってるんだ。一緒にやろうよ」

「俺もやるわ。確か今、素材ドロップ二倍やってたよな」

「いいでござるな。二人とも、フレンド申請を送ってくだされ」


 そのまま、俺らは三人ともビールに口を付ける事無く三十分くらいゲームに熱中して過ごした。届いているビールを忘れる程度にはゲームに夢中になっていた。


 鳴上と渚が廃課金廃ステータスの為、無課金で普通程度のやり込みだった俺は突っ立ってるだけでクエストが終わっていた。厳密には鳴上は渚の倍くらい課金しており、所謂ランカーだった。


「鳴上君……強すぎでしょ」

「草津殿もなかなかでござるよ」

「お前ら二人ともステータスおかしいだろ」

「ヒロはそのまま立ってればいいんだよ?♡」

「どうせなら俺も活躍したい……」

「時枝殿。まずはやる時間を増やすでござる」

「家帰ったら疲れてすぐ寝ちゃうからなぁ」

「拙者はどうしてもの時は仕事を無断で二〜三時間くらい抜け出してやってるでござるよ」

「え?なんか俺とんでもない事聞かされてる?」

「その日の仕事がもう終わってるんだから問題ないでござる」

「いやダメだろ」

「ヒロもサボってやり込むしかないね、もう」

「あのね?きみらのように器用じゃないの、俺は」


 俺らは時折思い出したかのようにビールをちびちび飲みながらゲームを楽しんでいたが、次第に全員、ゲームに熱中するあまり飲み屋にいることを忘れつつあった。鳴上だけはおつまみを結構がっつり食べてはいるようだったが、あくまでゲームのついでみたいな雰囲気だった。


 そんな時、スペースの仕切りをノックする音が聞こえた。仕切りが開き、女性のスタッフがグラスを持って現れた。ギャルっぽくてサバサバした、学生さんっぽい女の子だ。


 やたら甲高い発声に絶やさない笑顔は、恐らくこの場所で身につけたものだろう。


「失礼します。追加のご注文の焼き魚と唐揚げです♡」

「あれ?これ誰頼んだの」

「拙者でござる。すまないが更に追加で枝豆ともやしナムル、ローストチキンも頼む」

「かしこまりました〜♡」


 店員のアルバイトらしい女の子は鳴上に小さく頭を下げて去ろうとするが、自然な流れで俺の方を見た。すると目を輝かせ、俺に擦り寄るようにしゃがんだ。


 それは一際輝いた瞳だった。まるで自分にとってのお気に入りを見つけたかのような、そんな目だった。そして甲高い声を、更に甲高くして俺に問いかけてきた。


「お兄さんは追加注文大丈夫ですか?♡」

「あ。ありがとうございます。大丈夫ですよ」

「しばらく注文されてないようですし。遠慮なく、申し付けください〜♡」

「うん。親切にありがとう。気遣い出来るのはいい事ですね」

「そうですかぁ?ありがとうございます!♡」


 女の子は上目遣いで、嬉しそうに俺に笑いかけた。とりあえず俺も笑顔を返しておく事にした。なんだこれ。結構気分いいなぁ〜。俺は完全に鼻の下を伸ばしていた。居酒屋の店員にこんなに綺麗な人がいるなんて……。今、ここ最近でもかなりテンションが上がってる方かもしれない。


 しかし、気のせいだろうか?


 俺の隣、渚の方から、ドス黒い殺気を感じる………。


「分かりました!もし何かあればいつでも………あっ♡」


 スタッフの女の子はつまづいてしまい、他のテーブルに持っていく予定だったであろうビールを俺のスボンにぶちまけた。グラスが下に落ちて、がちゃがっちゃんとガラスの塊が床に叩きつけられる大きな音がした。


「ごめんなさぁい!♡ すぐ、拭きますね♡」


 スタッフの女の子は申し訳なさそうな顔をして俺に謝罪をした。そして俺の足元に跪いて、タオルを持った手をびちゃびちゃになった俺のズボンに伸ばした。


「あ……大丈夫ですよ。俺が拭き……」


 ダァァァン!!!!!!


 ガチャガチャガチャーン!!!


 彼女が俺の足元とズボンを拭こうとしたその瞬間、テーブルが二つにぶち割れたかと思うほどの大きな音が上がった。


 テーブルを拳でぶっ叩いていたのは、俯き怒りに震えている渚だった。その表情は髪に隠れて見えない。しかし渚の一撃によってテーブル上に既にあった三人のグラスやその他もろもろはひっくり返り、大きな音を立ててテーブル下に落ちた。


 店内がシン……と静寂に満たされたのが、はっきり分かる。個室内が渚の殺気で充満しており、俺と鳴上は思わず息を呑んだ。


 スタッフの女の子は当然のようにビクリとして動きを止めた。半分パニックになり恐怖で青ざめ、震えながら渚を見つめている。


 零れたビールで二人のゲーム画面が表示されたままのスマホが浸水していくのを、俺はあまりにびっくりして呆然と眺めることしか出来なかった。


「私たちで拭くので結構です。早く空いたグラス持って行ってくれませんか?」


 きつく拳を握り小刻みに震わせながらそう言い、徐々に、ゆっくりと俯いていたその顔を上げた渚は、スタッフの女の子にあまりにも無機質過ぎる笑みを投げかけていた。


 表情こそ『にっこりと』笑顔。


 だが低く発せられた渚の声にははっきりと、胸にずしんと重く残る怒気が籠っていた。


 渚の拳の下からミシミシと、木製のテーブルが軋む音が聞こえた。


 スタッフの女の子には、その音が死が近づく音に聞こえたかもしれない。渚にあからさまに怯え切った女の子は、顔面蒼白になりすいません……とだけ超絶小さな声で言うと、グラスを急ぎ拾い上げて逃げるようにスペースから出、パタンと仕切りを閉めた。


「ヒロ、だいじょーぶ?」


 そう言って、渚は俺の顔を見た。こちらを見た渚は至っていつも通りのあっけらかんとした表情に戻っていて、それを見た俺と鳴上は安堵の息を肺の奥底から吐き出した。


「全然大丈夫だよ、こんなの」

「全く、お茶目な子もいるもんでござるな」


 渚は俺の足元にしゃがみ込んで、足元と、俺のズボンを綺麗に拭いてくれた。


「あ、いいよ。俺が拭くから」

「気にしないでー」

「いいのに」


 俺はテーブルの上と、俺と渚のスマホをしっかり拭いておく事にした。特に渚のスマートホンはおしぼりでしっかり拭き上げておいた。


 本当に、地球というこの惑星が真っ二つに砕けて全てが終わったかと想像させられた程にドス黒い何かを渚から感じた気がする。今こうして呼吸出来ているのはもしかすると神の慈悲なのかもしれないと俺は思った。


「ところで渚。何であんなに怒ったんだ?ズボンがビールで汚れただけなのに、そんな」

「時枝殿」


 俺は純粋に質問を投げかけたつもりだったが、咄嗟の声量と勢いで遮られた。鳴上の方を見ると、勘弁してくれとでも言うかのような顔で眉をひそめて俺を見つめ、首を小さくブンブンと横に振りまくっている。


 その鳴上から、普段のようなおふざけのオーラは微塵も感じられなかった。まるで、『お願いからそれくらい聞かなくても察せ』と言わんばかりだった。


 渚はそんな俺と鳴上の様子を見て、にこにこと笑みを作っていた。


 え……?どういうことだ?


 俺には結局分からなかった。ズボン汚れたくらいでそんなに怒る必要無いだろうと俺は思った。この考えは間違っているのだろうか?二人とも今日、何だか変じゃないか?


 俺は結局胸の内の疑念を拭い去る事が出来ないまま、三人で居酒屋を出た。結局スタッフの女の子がビールを零した一件の後はなんとも微妙な空気のまま、飲み放題の時間が終了したのだった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ