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私は頑張るあなたの味方!  作者: #N/A
第一章 『救済の桜』
11/24

第11話 作り置きしていた杏仁豆腐

 十分くらいお手洗いで蹲った後、俺は居間に戻った。スーツの上着だけ脱いで座り、渚の淹れてくれたハーブティーを飲んでいた。


 そうしているうちに渚が温かい毛布を持ってきて、俺の肩に掛けてくれた。俺はありがとうと伝えた。振り返った渚はきょとんとした顔をしており、ほんの少しだけ考えるような素振りをしてから微笑んで俺の頭を優しく撫でた。


 その微笑みは普段見せる無邪気な笑いというよりも、俺に見せる為に意図して作った笑みのように見えた。かといって嫌な気は全くしなかった。渚のくすぐったい手の感触に、俺は一瞬五歳まで若返ったかと錯覚した。


「悪いのはぜーんぶヒロ以外。ヒロ以外が悪いの」

「ありがとう。だけどそれが通るなら、この世界の皆がそういう風に考えて怠惰にならない?」

「自分以外がどういう風に生きてるかってどうでも良くない?どうして知らない人の人生の責任を取ろうとするの?ヒロは善意のつもりかもしれないけど、そういう考え方してもヒロが不幸になるだけで世界の誰も幸せにならないよ?」


 俺の頭をひとしきり撫で終えてそう言った渚は、さっさと薄青色の部屋着に着替えてくると、向かいにあるソファにごろりとうつ伏せに寝っ転がってスマホゲームをやり始めた。俺は渚があっけらかんとした顔でゲームをする姿を横目で眺めていた。


 渚の部屋で流れる時は穏やかで、それでいて勢いよく流れる川みたいに早かった。スマートホンで時間を確認すると、あっという間に二十一時になっていた。俺の身体を包みこむような安心感がそこにはあった。こうして時の流れを感じているだけで、朝を迎えられそうに思えた。


 渚は不意に俺の名前を呼んで、「お仕事、楽しいの?」とゲームをしながら訊いた。俺は少し迷って考えて、楽しい時もあるけど辛い事もあると答えた。それに対して渚は何も言わなかった。俺は目の前にあるティーカップにあと少ししか入っていないお茶が、固形みたいに微動だにしないのをずっと見つめていた。


「そういえば、さっきヒロがトイレ行ってる間にお湯沸かしたから。お風呂入っておいでー」

「風呂?渚、先に入ってきたら。俺は今動く気になれなくて」

「そんな気持ちだからこそだよ。お風呂に入るとさっぱりするよ」

「だけど色々準備とか」

「あ。下着気になる?私の貸して欲しい?」

「気持ちは嬉しいけど、男として何かを失いそうだからやめておくよ」


 俺は毛布を折りたたんで置いた。そして立ち上がって出口へ歩くと、素の表情でゲームをしていた渚は露骨に驚き目を見開いて俺を見た。しかし俺が手に鞄を持たず出て行こうとしているのに気付くと、普段の表情に戻った。


「どこに行くの?」

「スナックが食いたいんだよ。ストレス過多社会でやられた日は食いたい衝動に駆られたものを食う事でしか己を癒せないんだ」

「そんなのお風呂入ってから買いに行けばいいじゃん。沸かしちゃったんだよ?」

「渚が先に入ってて良いってば」

「そんなに私が浸かったお湯に入りたいの?」

「入ってくりゃいいんだるぉ!?」

「ヒロの身体がどうしても私が浸かったお湯を求めてるなら止めないけど?」

「今入るよ。入る。ありがとうね」


 下着はひとまずついでとして、渚が好きな緑黄色野菜と甘い苺アイスでも買ってこようと思ったのだ。こうしていきなり世話になっている手前、何も渡さない訳にはいかないと思っていた。


 しかしその計画は一旦頓挫して終わった。ていうかお湯なんて先だろうが後だろうが変わらないだろと俺は思った。確かに一番の方が気持ちほんのちょっと違うかもしれないけれど。俺はシャワーを借りて頭と身体を洗い、熱い湯船に沈んだ。入浴剤の香りと共に俺の魂まで全て散り散りになりそうな程心地の良いお湯だった。つくづく思うが、渚は俺の想いを何一つ感づいていない。どんな思いで渚と普段会話をしているかを理解していない。何とも呑気で無防備な女である。俺は湯に顔を沈め、透明な祈りと白い諦観の狭間で呼吸を止めた。



 ……………………………………………………



 十五分くらいでさっさと髪まで乾かし終えた俺は渚から簡易な着替えを借りて、マンションの出入りに必要なキーを受け取った。そして渚と風呂を交代し、マンションを出て少し歩いたところにあるスーパーに入った。


 スーパーは閉店間際だった。クローズに向けて清掃をしていた若い男性店員に、針をちくりと刺すような目で見られた。しかしそんな事に意識を向けている暇は俺には無かった。渚に買っていくものはもう決まっていた。それを探して手に入れるために脳の全細胞を使用していた。


 俺はピーマンとほうれん草とにんじんとチーズとオレンジジュースと箱の苺アイスと替えの下着を急いで籠に突っ込んで、疾風の如くセルフレジに突入して会計を済ませた。風呂の後に汗をかく事となったが、不思議とそれは嫌な気持ちにはならなかった。


 袋を手にぶら下げてマンションに戻り、渚から渡されたキーを使って居間に戻った。渚はまだ風呂に入っているようだった。俺は食材をダイニングに置いてアイスを冷凍庫に仕舞い、下着を取り換えてカーペットに仰向けに寝っ転がった。


 そうやって寝っ転がっているうちに腹が減ると思ったが、結局腹は減らないままだった。照明で眩しくて真っ白い天井を薄目でぼんやりと眺めながら、この部屋と俺の職場が同じ惑星に存在している事実を不思議に思った。何かの間違いではないのか?それだけ場所には力というものがあるのだと俺は思った。


 やがて渚が風呂から上がってきた。タオルで髪を拭いている渚は少しぼーっとした表情をしていたが、俺が買ってきた差し入れを見ると想像していたよりも遥かに目を輝かせて喜んでいた。そして仰向けに寝っ転がっている俺にまた四つん這いで急接近し、俺の顔を至近距離で覗き込んだ。二つの意味で眩しすぎて、俺は咄嗟に目を逸らした。


「ヒロっ。ヒロ!すっごく嬉しい。ありがと」

「い、いいんだよ。当然だろ。この間のカレーだって美味かったし」

「ねー、まだお腹空かない?」

「そうだなあ、まだ」

「じゃあゲームやろうよ?クリアしたいクエストあるから」

「渚のステータスならクリアくらい一人でどれでも出来るだろ」

「いいの!待ってね?準備終わらせるから」


 渚は興奮気味でそう言って、鏡を見てスキンケアを始めた。


 俺は渚がスキンケアをしている間、寝っ転がったままスマートホンを開いてゲームアプリ『本スト』を起動した。三か月ぶりくらいにログインしただろうか。ちなみに本ストとは、今大ブレイク流行中のソシャゲ『本当にストライク』の事だ。爽快かつスピーディに進められるひっぱりハンティングゲームで、多くのユーザーが中毒となり、社会現象と化しているコンテンツの一つである。懐かしいメニュー画面、懐かしいBGMに胸が躍るのを感じた。


 しかし、結局本ストも先日プレイした格闘ゲーム同様に腕が訛りきっていた。腕が訛っているというより、やっていて何も楽しいと思わなかった。難易度を三段階落としてリハビリをすると、あっけなく『クリア』の文字が明るい演出で表示された。


 この『クリア』の演出のどこに価値を感じていたんだったっけ?この引っ張りハンティングの、このキャラクター達の、セリフの数々の、何に魅力を覚えていたんだっけ?胸に湧き上がるワクワクだけが残滓として残っていて、それがかつて楽しかった理由を何一つ言語化する事は出来なかった。それどころか、この演出はこうしたらもっと良いのではないかとか、UIの細かい仕様についてここを改善しないと不便なんだよな。何で改善しないんだろう。とか、そういう夢中でプレイしていた頃は少しも気にもならなかったような、ちくちくした事を延々と考え続けていた。俺は段々イライラしてきてスマートホンの画面を叩き割りたいような激しい衝動に駆られた。渚の手前だからそんな事はしないが、一人だったら今頃叫んでいたに違いないと俺は思った。


 そんな風にしてゲームをプレイしているうちに、俺の凡ミスで失注した取引先や葛木の顔が脳裏を過った。俺はゲームなんてしている場合なのかと思ってしまうのだ。胃がむかむかする感覚を覚え、次第に考えるのすら面倒くさくなったので少し休むことにした。スマートホンをポケットに仕舞い、寝っ転がっている身体を横向きにした。


 腕を枕にして目を瞑っていると、スキンケアを終えた渚が近寄ってくるのを音で感じた。


 俺のすぐ傍に寄った彼女は「ヒロー?」「眠たいの?」と言って、横向きで寝そべる俺の頬を指で二回突いた。触れるか触れないかくらいの柔らかい突きだった。俺は眠たい訳じゃないけど目を休ませたいと言った。渚は俺のすぐ隣に座って本ストをプレイし始めた。


「まだ元気出ないねー?ヒロ」

「………ああ。ごめん。もう少しすれば元気出ると思うんだけどな」

「そういえばさ。本ストのガチャ引いた?」

「ガチャ?まだ引いてないよ。そもそも最近はログインも出来てないし」

「だよね。実は、聞いて欲しい話があります」


 急に改まった口調になったので何だろうと思い、俺は顔を上げて渚を見た。渚はまるで急所でもぺちぺちと叩かれているかのように大きく目を見開いて、汗をたらたらとかきながら頬を真っ赤に染めていた。


 恥ずかしいのか、テンパっているのか。いずれにしても、今にも飛び上がって叫び声でも上げてしまいそうな渚は口を最大まで大きく開いて話し出した。


「わっ。笑わないで最後まで聞いてね?……………わ、私、限定のサオリちゃんが欲しくて。一昨日十五万円課金しました!」

「…………」

「そっそそっそして!!…………全部すり抜けました。私はショックで一昨日ほんとに体調を崩し、一日寝込みました」


 一昨日といえば、鳴上の甘目まどかコスプレステージを初めて目の当たりにした日であり、渚が『予定が長引いていて抜けられない』と言ってきた日だった。俺はなるほどと思いながら話を聞いていた。


 渚は真っ赤にしていた顔を普段のあっけらかんとした顔に戻すと、さっさと立ち上がってどこかに行った。そして部屋の隅にあるゴミ袋周辺をガサガサと漁り、何かを手に持って戻ってきた。見てみると、それは真っ二つに折れた新品らしき光沢を放つキーボードだった。


「ほら見て?これ。ショックで八つ当たりしたやつ」

「…………」


 俺は見せられたものを手に取って眺めてみた。キーボードは見るも無残に叩き割れ、痛ましすぎる容貌だった。片割れが首の皮一枚というようにぶら下がっている。


 購入してから一か月も経っていないのではないか、これは?この光沢は新品だ。相当強い力で叩きつけない限りこうなる事はないだろうと俺は思った。実際に叩き割る光景を想像したらちょっと面白い気がした。しかし実際に見たらきっと笑えないだろうなとも思った。


 俺もムカついた時よく手に持っているものを破壊したくなるけれど、まさか本当に破壊している人間が居るとは思いもしなかった。俺と渚は全然似ていないようで、どこかよく似ているのだ。


 渚は俺から返却されたキーボードを元の場所に戻し、再び俺の隣にすとんと座った。そして俺の顔を覗き込むように見上げた。その顔に、ふざけている様子も恥ずかしがる様子も無かった。それどころかいつにも無く真剣で、笑いを誘うような要素などどこにも有りはしなかった。


「呆れたでしょ?」

「…………」

「こんなに滑稽な事をしても、私はこの先を何食わぬ顔で生きる気満々な訳」

「…………」

「だから、毎日一生懸命頑張ってるヒロが落ち込む必要なんて無いんだよ。誰だって失敗はする。絶対、皆もヒロが頑張ってるところを見てるもの」

「…………」

「元気出してね。ヒロ」


 俺は彼女の話をぼんやりと話を聞きながら、この話はきっと渚としても、墓場まで持っていきたかったのではないだろうかと思った。あんなに恥ずかしそうに話している渚は見た事が無かった。初めて見たかもしれない。本当に、腹を割って話してくれたのだ。


 それが分かっているのに、痛いくらい伝わってくるのに、何で俺の心はなかなか明るさを取り戻さないんだろうと思った。少しでも沈黙があれば、迷惑を掛けた取引先の顔や葛木の言葉が脳裏を過る。ここまで後ろ向きになれる自分の頭を靴べらで引っ叩きたい気持ちになった。俺が黙って床のカーペットに目を向けている姿を、渚は真剣な眼差しでずっと目を逸らさずに見つめていた。



 ……………………………………………………



 俺は渚の寝室に招待されていた。俺はベッドの脇に座り、渚はベッドに寝っ転がっていた。二人一緒に本ストをプレイしていたが、結局俺はさっぱり楽しむ事が出来ずにアプリを閉じてしまった。


 それを見た渚はゲーム機を引っ張り出してきて、笑顔でコントローラを俺に押し付けた。懐かしの名タイトルを数作一緒にプレイしたが、結局俺はゲームを続ける気力が湧かずコントローラをがちゃりと下に落としてしまった。


 やらかした事に絶望したあの瞬間の感覚は、すっかりと身体に染みついて消える気配が無かった。葛木の叱責は魂の奥深くに刻み込まれたかのように反芻していて、自分なんて居なければいいのにという思考に支配されていた。


 どのゲームも俺の精神を回復させるに至らなかったが、俺を見ていた渚は表情を変えなかった。ただ小さく、それでいて確かな声で俺の名前を呼び、優しく背中をさすってくれた。何で俺は渚にこんな事をさせているんだ?好きな女にこんな事をさせているんだ?何で渚がこんな風にしなくちゃいけないんだ。


 渚を見ていると、俺は俺を大嫌いになる。自分が渚を支えて生きていける人間なんかじゃないんだって、嫌でも分かってしまうからだ。恋に待ち受けるのは喜びや快楽だけでは断じてない。恋が愛へ変わってゆくための滑走路────即ち、恋を知る前の人生以上にハードな運命が待ち受けるのを受け入れ、その高い高い壁を越えてゆく為に毎日歯を食いしばる事に他ならないのだ。恋をしたその瞬間からもう既に、その滑走路を走り出しているのだ。恋さえ知らなければ、人は平坦で下らない運命を平気で受け入れられるものなのだ。恋さえ知らなければ。恋を一度知った人間はもう、知る前の自分には戻れない。


 意気地が無さすぎる態度だなんて事は俺が一番よく分かっていた。だけど今俺の心は、風前の灯火だった。世界から自分が消えていくかのようだった。せっかく渚に励ましてもらっても、蠟燭の灯が暴風と大雪の中にあるかのように心の灯火が搔き消えそうになる。そして再び視界は真っ白に染まっていき、世界から自分が消えていくかのようだった。


「今日は寝ていきなね?ベッドとソファどっちがいい?……ちょっとだけ狭いけど、私と添い寝するっていう手もあるよ?」

「………ありがとう、渚。本当に。だけど今日は一旦帰ってゆっくり」

「だめー。どうせ帰ったら、寝ずにお仕事するつもりでしょ?」


 図星を突かれた俺は振り返った。俺の事を見ている渚は悪戯っぽく笑っていた。


 今日の失敗を捲るためにも、本当は今すぐにでも動き出さなければならなかった。それが渚と帰り道に鉢合わせた事で、たまたま延期になっていただけの話なのだ。会社では忙しすぎてしっかりと準備する時間など到底ありはしないから、書類を持ち帰ってきていた。そしてそれを、渚はいとも簡単に見抜いていた。


「あ!寝れないならさー。寝れるまで一緒にアニメ見ようよ?最近出たやつがね」

「ダメだ………そんな事してる場合じゃ」


 渚は楽しげな声で話題の舵を取り、スマートホンを操作していた。しかし俺の中では不安と焦燥という名の血液が循環してのたくっていた。心臓が鼓動を打つたびにそれは巡りめぐらされ、次第に視界が真っ暗になっていくような思いになった。吸って吐き出す空気にすら不安と焦燥が入り混じっている気がした。


「このままじゃ不味い状況なんだ。分かってくれよ。帰ったらちゃんと寝るから」

「ううん。休まないで動く時の顔してるからだめ」

「何だよ、それ?」

「今は寝る時だよ」

「会社に迷惑かけろってことか?」

「そんな事言ってないでしょ?何でそんな言い方するの?」

「俺一人のせいで……俺のせいで!大勢の人が困るんだよ!」

「休みもせず体調崩す方が迷惑に決まってるでしょ!」


 とにかく帰らないとと思い説得するが、渚は意地でもという様子で譲らない。俺と渚は次第に言い合いになり、お互いに少しずつ声が大きくなっていった。俺は視界もまともに定まっていない中で渚の顔をぼんやりと見た。


 言い合いを続ければ続ける程、渚の顔は怒りの声色とは裏腹に哀しげに眉を垂れ下げていった。その様が俺の胸を尚の事強く、激しく搔き乱した。訳が分からなくなりそうだった。


「とにかく!俺は今までずっとそうやってきたんだ……。口出して来るなよ!」

「落ち込んだ時は寝るのが一番って、ヒロが教えてくれたんじゃん!!」


 胸の奥をずしんと重く引き裂くような声だった。そこで俺は初めてハッとした気がする。渚は俯いていて、拳を握りしめたまま小さく震えていた。


 一瞬、そんな事言ったかなと思った。数年前の記憶だ。確かに高校時代、渚にそんな事を言ったような気もした。しかし、どんな場面でそれを言ったのか思い出す事が出来なかった。


「男ってそうなんだよねー。ほんと困るよ。すぐそうやって自分が言った事忘れるんだからさ」

「…………」

「どうせ何も覚えてないもんね?ヒロが私にしてくれた事も、言ってくれた事も」


 渚は少しだけ顔を上げ、眉を吊り上げて俺を睨んだ。彼女は確かに不満を俺にぶつけていた。だけどそれは俺が声を荒げたことに対してでも、元気を出さない事に対してでも無かった。


 ゴメン。


 俺は何も声を出せなかった。心の中でそういう風に謝って、逃げるように渚の寝室を飛び出した。急いで借りた部屋着を脱いで可能な限り丁寧に折りたたみ、スーツを着直した。そして消灯されていた居間の照明をつけて、置いておいた鞄を探した。


 頬を、一筋の汗が流れるのを感じていた。


 無い。無い。無い。見つけられない。確かにこの辺に鞄を置いておいたはずだったのに。一瞬、最悪の事を想定して心臓が止まりかけた。あの鞄の中に、本当は持ち出し禁止の書類だって入っている。だけど渚の部屋に上がってから外に持ち出した記憶は無いから、ここにあるはずだった。


 俺がソファの裏やテーブルの下を必死に探していた時、足音が聞こえた。開けっ放しにしていた居間の扉の前をさっさと通り過ぎていった渚は、こちらを一瞥すらせずに部屋の奥へ向かった。そして彼女は確かに、何故かは全く分からないが、俺の鞄を持っていた。


 彼女は部屋の奥へずんずんと歩いて行く。俺は慌ててそれを追いかけた。一体どこに持っていく気なんだ?ていうか何で持ってるんだ?俺は全く理解が出来なかった。


 その時、バスルームの方からバチャンと水に勢いよく何かが叩きつけられた音がした。


 俺は何故渚が鞄を持っているのかという方向に意識を持っていかれていたが、やがて猛烈に嫌な予感がした。俺は無我夢中で渚を追いかけた。いや流石にそれは無いだろう。いくら渚でも、流石にそこまでの事はしないだろうと、希望的観測を出来る限り胸に詰めて更衣室に入った。


 更衣室に入りバスルームを見ると、渚は俺の仕事の書類が入った鞄を湯が張られたままの浴槽の奥に沈めていた。



 ……………………………………………………



 俺が浴室の扉の前で呆然として立ち尽くしていると、渚はゆっくりとこちらへ振り返った。


「ごめんね?手が滑っちゃった。だけどもう、ヒロがひと眠りするのを妨げるものは無くなったよね?」

「…………」

「ヒロは悪くないよ?この間みたいに全部私のせいって言いなよ。私が悪いんだもの。ヒロのお仕事の書類ぜーんぶ駄目にした、私が悪いの」

「いや……ちが」

「違うって?何が?何が違うの?」


 ゆらり、ゆらりとこちらへ向かってくる渚の顔は楽しげに笑っていた。目尻を下げて、心から嬉しそうな笑みだった。


 しかしそれを見て俺もつられて笑うという事は到底出来そうにもない空気感がそこにはあった。俺は渚に、魂をまるごと見えない大きな手で鷲掴みにされて逃げられないような錯覚に陥った。


 俺は思わずその場で尻もちをつき、腕を使って後退した。その間、一瞬たりとも渚から目を離す事は出来なかった。ただ楽しそうに笑って俺を見下ろす渚は、ゆっくりと確実に迫ってくる。


「ねー。私教えたよね?あの眼鏡はもう壊してあげたでしょ?どうしてヒロはいっつもそうなの?」


 俺は壁にぶつかって後退出来なくなった。渚は四つん這いになり、俺だけをその目に映してゆっくりと迫ってきた。すぐ目の前に迫った渚は笑顔そのものなのに、その笑顔は、何もかも全てが吹っ切れて己の命すら賭す覚悟が決まったかのようだった。


 そしてその笑顔は────三年前の、他でもないあの時。俺が、恋に堕とされた瞬間に渚が見せた笑顔だった。


 血が倍の速度で流れ出すのを感じざるを得なかった。自分の心臓の音がけたたましく聞こえた。


「全部私にぶつけたらいいんだよ。そうすればヒロは楽になれるよね?この間みたいに言って?私のせいだろって。ほら。早く」

「違う。俺は……」

「さっきキーボード見せたよね?私やっぱり後悔したけど……正直ね、物に八つ当たりしてすごくスッキリした自分も確かに居たの。………だからヒロも私に、ああいう風にしてスッキリして?」


 俺は渚が何を言っているのか全く理解出来なかった。渚は一体何を望んでいるというのだろう?否、分からない振りをしているだけだった。そんな事は分かり切っていた。渚は俺に、休息を取って欲しいのだ。癒されて欲しいと、その一心なのだ。本当に、ただそれだけでしかないのだ。


 ただ、そんな渚の思いやりの言葉と行動の中に、雫ばかりではあるが、渚自身の欲望のような何かが確かに入り混じっているのを感じざるを得なかった。渚のうっとりと何かを期待して待っているかのようにぬかるんだ瞳が、俺の喉奥に絡みついていくるのを感じていた。浴室内を柔らかく照らす灯りが、そんな嫣然とした渚の笑みに影を作りだしていた。


 気づいた時には渚の顔は鼻と鼻がくっつきそうなくらい近くにあった。彼女の頬は饅頭のように柔らかそうで、桃色の唇は今すぐにしゃぶりつきたくなる程ぷるんと瑞々しく潤っていた。このたかが一週間と少しくらいで俺は渚に何度寿命を縮められただろうと思ったが、今が最も凄まじい勢いで寿命を擦り減らされているかもしれない。


 僅かに肩で呼吸を乱しながらその頬を朱らめ、俺の両頬を優しく包み込んでいた。俺は何もする事が出来なかった。そしてお互いの唇が重なり合おうとした、その時だった。


 不意に俺の足首に、不気味な感覚が這い巡った。無脊椎動物が、蜘蛛のような生き物が無秩序に足首を這い回っている感覚だった。


「あっ!ああぁぁぁああぁぁぁぁぁぁぁあっ!?」

「ぎゃん!?」


 蜘蛛が大の苦手だった俺は、瞬時に情けなさ過ぎる咆哮をぶちまけた。そして脊髄反射で自分が頭を上げたと気づいた時には、渚に勢いよく頭突きをした後だった。俺と渚の額同士が打ち鳴らされてそこそこえぐい音を出したと同時に、彼女の身体は弾き飛ばされていた。


 慌てて足元を見たが、蜘蛛どころか何もありはしなかった。ただ、少し大きめの服の繊維の切れ端のようなものが一つ落ちていた。それが何かの拍子に宙を舞い、それが俺の足首を撫でるように着地しただけだったのだと気づいた。


 渚は横向きに倒れて、痛みと混乱の顔でおでこを抑えながら小刻みに震えていた。そしておでこを両手で抑えながら、何も言わずに俺の方を見た。明らかにその目は「何で?」と恨みがましく俺に問いかけていた。


「渚!あ、えっと……ゴメン!ト、トイレそっちだよね?ちょっとまた借りるわ」


 俺は出来る限りの笑顔を作ってそう言った。渚は返事をせず、ゆっくりと俺から目線を逸らした。その場で仰向けにごろんと寝っ転がって天井を見つめ、何が何だか分からないというように見開いた目をぱちくりと瞬きさせていた。


 その様を見届けてからトイレに駆け込み、あの繊維によって込み上げた尿意を解消した。生きているって素晴らしいな、と俺は思った。さっきまでの鬱々とした気持ちが嘘のようにどこかへ行ってしまい、晴れ晴れとしていた。何だかどこまででも旅立ってゆけそうだった。どうして俺はそんな風に思っているのだろう?その訳は俺にもよく分からないが、恐らくこれまでの人生で一番スッキリする排尿だった。


 トイレから出るとまだ渚は更衣室の狭い空間の真ん中で仰向けに大の字で寝たままだった。俺はごめんと言って渚の身体を抱き起こしたが、渚はゴキブリでも見るような目で俺を見ると「触らないでくれる?」と言って俺の手を振り払い、さっさと居間に戻っていってしまった。俺は謝りたくて渚に近寄っていくが、渚は本当に嫌そうな顔で俺を一瞥して早足で逃げていってしまう。


 そのまま五分くらいの間、渚に口を利いてもらえなかった。しかし俺はそれに対して納得が出来なかった。確かに頭突きをしたのは悪かったと思っているが、それは渚を嫌いになったからでも無ければ、鞄を浴槽に沈められた事に対する報復でも無い。ただ、何かの拍子に更衣室を舞った繊維が全ての始まりだったんだ。始まりというのはいつも突然、何の前触れもやってくる。それを運命と呼ぶのかな。俺は逃げる渚のすぐ横につきまとって部屋の中をぐるぐると周りながら、五分間に渡ってひたすらそれっぽくて迷惑極まりない弁舌を振るった。営業トークで鍛えた活舌と流暢さと図太さをこれ以上無い程に活かしているうちに、何だかもはや楽しさすら覚えてきた。そして八回くらい誠意を込めて謝罪したところで渚は折れたのか、「分かったってば!うるさい!もう寄ってこないで!」とこめかみに青筋を浮かべながら半ギレで叫び、寝室に入ってバタンと扉を閉めてしまった。



 ……………………………………………………



 居間のテーブル前に座って漫画を読んでいると、しばらく寝室に閉じこもっていた渚が戻ってきた。彼女はいつの間にか普段の、あっけらかんとした顔に戻っていた。


 時刻は既に二十三時になろうとしていた。時間の流れはなんて早いのだろうと俺は思った。渚に小腹が空いたと伝えると、渚は何か作るねと言ってくれた。ダイニングに立った渚は、今日は緑色ベースにひよこ柄のエプロンを身に着けた。


「何食べたいのー?この時間だし、あんまり沢山は食べられないでしょ?」


 渚はキッチンで俺に背を向けたまま訊ねた。小腹は空いたものの、今これといって食べたいものがある訳でも無かったので一瞬困った。


「そうだな……甘いものが食べたいかも」

「甘いもの?デザートってこと?」

「うん」

「杏仁豆腐でいい?それなら作らなくても今すぐ出せるけど」

「杏仁豆腐?……イタリアンからチャイナに趣向変更してたの。草津主任」

「まぁね。最近ハマってて作り置きしてある」


 渚は冷蔵庫から作り置きしていた杏仁豆腐のお皿を出してラップを剥がし、「どうぞー」と言ってテーブルにごとりと置いた。スプーンを手渡され、早速俺はそれを一口食べた。


「おぉ!?んだこれ美味すぎる!」

「美味しい?」

「美味いよ!こんなの美味いに決まってる!仕事で失敗しても美味ぇもんは美味ぇんだよな」

「ひひ。やったぁ!」


 渚は山奥の洞窟でこれまでに無い程の財宝でも掘り当てたかのように目を輝かせて俺を見つめ、嬉しそうに笑った。まるで、この瞬間の為に料理を続けてきたと言わんばかりの弾ける笑顔だった。


「ああ!やっぱり俺は、渚が一緒に居てくれなきゃダメなんだ」


 俺は無我夢中で杏仁豆腐を頬張っていたが、やがてシンとした空間に違和感を感じた。突然渚が何も喋らなくなったのだ。


 顔を上げると、俺を見つめる渚は頬を赤く染めて驚きと歓喜の狭間みたいにして目を見開き、全身固まって息を呑んでいた。


「? 渚っ!おかわり!」


 俺は満面の笑みを作って空っぽになったお皿を差し出したが、渚は何故か勢いよくその場でずっこけた。その晩、渚は自分の寝室で、俺は渚の居間のソファで眠った。鞄が浴槽に沈んだままである事を、少なくともこの瞬間は完全に忘れ去っていた。



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