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私は頑張るあなたの味方!  作者: #N/A
第1章 『救済の桜』
10/22

第10話 リア充大爆発

 非常に運が良かったのだと思うが、俺は今日も会社をほぼ定時で退勤した。今時点で十八時三十分だ。しかし会社を出ようとしたところで鳴上に声を掛けられた。そして昨日のアニメショップのコスプレコーナーに付き合わされる事になってしまい、運が尽きるのが早すぎると思った。


 舞台裏ではフリフリの魔法少女衣装に身を包み、出番となるその時を楽しみに待ちながら頬を綻ばせている鳴上がいた。主張強く瞳を輝かせ、筋骨隆々の肉体を曝し、その外見からは考えられない程コミカルにステップを踏み、大型動物のように鼻息をフンフンと荒くする大男の傍らで、俺は一体何をすればいいのか分からず立ち尽くしていた。


「今日も”””戦”””が始まる………時枝殿。この重要性を、”理解って”いるな?ヌフ………」

「分からん。てか鼻息荒いなめっちゃ。気合入り過ぎだろ」

「世界は、抗いがたい哀しみに満ちている………そうは思わぬか?それを照らせるのは魔法少女だけだッ!w 行くわよッ! ””地獄を焼き尽くす炎(サルブ・インフェルノ)””────見なさい。愛を知るとは────絶望を知る事ね♡ ヌッフゥン♡」

「えっと、寄ってこないでもらっていい?」


 魔法少女のセリフを呟いた鳴上は、分厚い唇を下品に尖らせた変顔で身体をクネクネさせながら俺に迫ってきた。それでいて力強過ぎるのが厄介だったが、俺は何とかそれを両手で拒否して激熱のキッスをされるのを逃れた。


 彼が懇願してきたのは、コスプレをしてグッズの宣伝をするからどうか一緒に居てほしいという内容だった。


 ついでに俺にもコスプレしてほしいと頼まれたが、断った。三回くらい粘られたが、断った。俺は絶対やらん。やるわけないだろ。何でやると思ったんだよ。そもそもこんな奴が宣伝なんてしてたら皆怖がって帰っていくんじゃないのかと俺は思った。


 先日ライヌでやり取りをした通り、今日は渚ともこの家電量販店を見て回る約束をしていた。合流するまでにはまだ時間があり、渚が来たタイミングで鳴上と別れ、二人で家電量販店内を見て回る予定だ。


 その時、鳴上のスマホが鳴った。スマホが鳴った瞬間に鳴上は我に返ったような顔をして、幸せいっぱいに綻んでいた表情を仕事の時みたいな真剣で厳かなものに変えた。その表情はやはり、衣装やコミカルな動きと全く釣り合っていなかった。瞳は研ぎ澄まされた刀のような真剣さに満ちていて、ギャップが凄まじすぎるだろと俺は思った。


 鳴上はスマホに届いた通知の内容を凝視し、見開かれた瞳には緊張と緊迫が満ち満ちていた。そして頬を、一滴の汗が流れた。


「時枝殿…………スマン。急用が出来た」

「え」

「────後は頼むッ!!!!」

「は?」


 鳴上はそう叫ぶと、瞬く間に魔法少女衣装からスーツに着替え、爆速でコスプレコーナーを走り出て行ってしまった。


 俺はまさかの、舞台裏にたった一人で取り残されていた。鳴上によって生み出された風圧が狭い舞台裏を撫でて、コスプレグッズが幾つか棚から落ちた。まぁ主役が早々に帰ったし、今日はお開きにするしかないな。そんな風に残念さを装いつつ、どこか安堵している自分もいた。


 しかし、コスプレコーナーの店員は俺がそのまま去るのを許さなかった。店員はそばかすが浮いた頬に赤いハチマキを巻いた男だった。体型はひょろりとしていて一見は目立たない風貌の男だが、その目には確かに職人みたいな炎が宿っていた。宣伝への熱意が並々ならぬ男で、鳴上に代わり、俺に店に残ってコスプレして宣伝の協力をするよう願い出てきたのだ。


 報酬が出るかを聞いた。別に報酬が出てもやるつもりは無かったが、報酬が出るのかだけ確認してみた。彼は「完全ボランティアなんで、報酬は無いっすねー」と言った。それがやたら流暢な口ぶりで俺はなんかムカついた。まるで、こちらご注文いただいたラーメン一丁ですねーみたいな言い方だった。尚更やる訳がないだろ。俺はその願い出を十四回くらいはっきりと断った。


 しかし、コスプレコーナーの店員のあまりにも強い熱意(ここまで来ると「異常」という表現の方が適切かもしれない)を瞳に宿しており、説得され続けた。それに押されて俺は面倒くさくなり、結局『悪役』の付け髭と黒スーツのコスプレを着せられて立たされる事になってしまった。


 俺はスーツを脱いでコスプレをして、白目を剥きながらグッズコーナーの出入口に立っていた。頭には長さ二十センチメートルくらいの、大きな悪魔の角が飛び出ている帽子。悪役の付け髭。片手に魔法のステッキ。


 近くにあったショーケースを鏡にして自分の姿を見ると、俺はまさに『悪役』という雰囲気を醸し出していた。コスプレは簡易なものであったため、まさに子供向けみたいな優しさと滑稽さが共存していた。


 持たされた武器である三十センチメートルくらいのステッキの材質はポリエチレンで、仮に誰かを叩いても怪我する心配はない。


 頼むから魔法少女のコスプレをしてくれと言われたが、それだけは何が何でもの勢いで断り、尊厳を死守した。そもそも冷静に考えてみれば、何で魔法少女を男にやらせるんだよと俺は思った。次鳴上に会ったら、絶対何か奢ってもらおうと心に誓った。


 そして、渚に会う前にこのコスプレを脱いでしまいたいと思った。こんな姿を見られた瞬間に、指をさして抱腹絶倒されることはまず間違いない。


 まだ合流するまでには三十分くらい時間があるが、俺は焦り始めた。慌てて先ほどの店員を探そうとした時だった。パタパタと足音が近づいてきたので振り返ると、まだ合流まで三十分以上先の予定だった渚が、何故かこちらに向かって小走りして来ていた。


 渚はすぐそばまで駆け寄ってきて顎に手を当て、コスプレしている俺の『悪役』姿をもの珍しいものを見るかのように観察しだした。勘弁してくれと俺は思ったが、渚の肩まで伸びた茶色い後ろ髪がフードに当たって丸みを帯びているのを見て和まされ、その感情が帳消しになった。


「渚?早くない?」

「今日は用事が早く終わったんだー。というかヒロ……いくらお仕事で疲れたからって、異世界に転生しちゃダメだよ」


 渚はそう言い、コスプレを指さして笑った。


「仕方ないだろ。毎日のようにストレス抱えて働く毎日なんて、もうゴメンなのさ」

「ウケる」

「これからは甘目まどかを倒すために奮闘する日々を送るからよろしく」

「このステッキ弱そうだね。五秒で負けそう」

「今はまだ仮の姿だから」


 渚は俺が渡した派手なステッキを手に取って眺め、くるくると回したり装飾をいじったりした。そして俺の顔に目線を戻して、ひひ。と楽しそうに笑った。どうやら指をさして爆笑はされずに済んだらしい。俺がコスプレしているのを見て、渚は純粋に雰囲気を楽しんでくれているようだった。


 それよりも、渚の笑顔に全てをもっていかれた。周りは文明の利器だらけであるはずなのに、俺たちの居る半径二メートル内だけが新緑の景色になったかのように瑞々しい笑顔だった。俺はその笑顔を見て、本気で身体が持たなくなりそうな程心臓を跳ねさせた。


 俺が渚とくだらない会話で盛り上がっていると、アニメソングを歌う声がスタッフルームから聞こえてきた。その声の主は俺が昨日絶句した、コスプレコーナーでステージ上に居た男だった。突如響き渡った、野太くてボリューミーな声量。俺と渚は同時に振り返った。


 そのありがた迷惑なくらい雄々しい声は、歌い手がこちらに近づくにつれ大きくなっていく。


「Ah〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!秩序と歓喜を願い創られたッ!結晶と袋小路……………。肉身を削ぎその勇気と期待を注ぎ込んだのに………どうして忘れてしまうのォoh〜〜〜〜〜〜〜!!!!真実は残酷だけどッ!目を逸らさないでェ〜〜〜〜〜〜〜ッ!!!」


 スタッフルームの藍色の暖簾を弾き飛ばして、急用で帰ったはずの鳴上がその巨躯をクルクルと横回転させて踊りながら降臨した。明らかに男が歌いこなすには難しそうなリズムとトーンの歌を、器用に歌いこなしながら。


 お前いつからスタッフになったんだよと俺は思った。そして鳴上は結局昨日同様、魔法少女『甘目まどか』のコスプレをしている。ピンクと白のドレスが鍛え上げられた胸筋ではち切れそうに張り、ミニ丈スカートが風圧で翻った。その圧倒的な存在感は、俺たちとは生物学的に異なる生命体である可能性を示唆させた。ていうか普通に人間じゃなかった。


 横にいた渚は異様な成人男性を目の当たりにして、プッと噴き出して口を抑えた。


「砕け、砂となった時ィ………切なる思いはッ!果たさ……………れッ…………!?!?」


 鳴上は床を踏みしめて横回転していた巨躯を止め、主張が強すぎるドヤ顔で俺を見つめた。しかし、俺の背中に隠れるような仕草で凝視している渚に気が付くと、鳴上は露骨にぎょっとした顔をして歌うのをやめた。


 そして俺たちも鳴上もお互いに硬直し、視線を交錯させたまま気まずすぎる沈黙が二、三秒流れた。


 そして鳴上はお腹のあたりで両手を絡めて俯き、右足に体重を乗せて左足を遊ばせ、頬を赤らめてもじもじし始めた。それを見た渚は俺の背中に隠れたまま、耳元で声を潜めて言った。


「ねえ?ヒロ」

「どうした」

「ほら。甘目まどか来たよ。倒さなきゃ」

「負けるんでやめときます」

「逃げちゃダメ」

「いや、あの筋肉は無理です」


 鳴上がモジモジし始めて結構経った。少なくとも折り紙で鶴を一羽くらいなら折れそうな時間が経っていた。渚は俺の背後で衣装の裾を掴みながら、硬直する鳴上をじっと見つめていた。


 何であいつはずっとモジモジしているんだろうと俺は思った。そのムキムキの巨躯で、やたら繊細で乙女チックな動きを実現しているから余計に気持ちが悪かった。昨日子供たちや親御さん達に見られて何もないどころかノリノリだった事を考えると、その理由はよく分からなかった。今更、コスプレを見られて恥ずかしいなどと抜かす事はないだろう。


 もしかしたら見ているのが渚だからだろうか、とも考えた。昨日との相違点といえば、客が誰であるかとステージの違いくらいしか無いけれど、結局鳴上がモジモジしている理由はよく分からなかった。あの親御さん達に見られるのと何が違うのだろう。


 鳴上は両手の人差し指を合わせてずっとモジモジしていた。目線があちこちに泳ぎ、内股で巨躯をクネクネさせて、何かぶつぶつと独り言を言っているがよく聞こえなかった。かろうじて挙動不審に一歩届かないレベルの、歯がゆい様子だった。


 そして鳴上は意を決したのか観念したのか分からないが、叫んだ。


「ブモオオオォォォォォォォォォォ!リア充、許すまじ!リア充は、裏切り者!爆発!リア充は大爆発ブッヒッヒ!」


 鳴上は逞しくそう叫ぶと、スタッフルームに逃げるように戻って行った。風のように逃げ去って行ったように見えた。それは本当に一瞬の出来事だった。瞬きをした次の瞬間には、既に鳴上の姿は無かった。スタッフルームの藍色の暖簾が、強風が過ぎ去った後みたいに虚しく床に落ちたままだった。ていうか強風は比喩ではなく吹いていた。結局何故先ほど鳴上がコスプレコーナーを出て行ったのかは分からないままだった。


 再びグッズコーナーで、沈黙が落ちた。がやがやとした喧騒だけが俺と渚を包んでいた。そして、ずっと俺の後ろに隠れて袖を掴んだままの渚と声を潜めてやり取りをした。


「勝った?」

「勝ったかもしれない」

「よかったね。甘目まどかに勝てて」

「うん」


 渚はくすくすと、心底楽しげに笑った。一体何なんだこの状況はと心の中で突っ込みを入れざるを得なかった。


 グッズコーナーでしばらく、渚と一緒に宣伝をしていたと思う。すると先ほどのハチマキの店員が再び顔を出した。店員は俺に声を掛けて何らかの話をしようとしたが、俺のすぐ隣にいた渚を五秒くらい凝視し、異星の水晶で未来を覗いてしまったかのように息を呑んだ。突然凝視された渚はきょとんとしていた。


 渚の横を素通りして俺の傍に歩み寄ってきたハチマキの店員は、受験の結果発表当日に友達は受かってたのに自分だけ受かってなかったみたいな目で俺をじっと見つめた。そして静かに、「脱いでください。リア充の方には………その””””””神聖””””””たる衣装をお貸しする訳には参りません」と言った。


 どうでもいいけどその偏見意識は一体何なんだと俺は思った。そりゃあ、そりゃあ渚と恋人になれたらどれだけ良いだろうって考える。毎晩、毎晩のように俺はそれを考える。考えなかった日の方が少ないだろう。他の全てが霞んで見える程、俺は渚に恋をしていた。だけど色々と、俺と渚の間には三日三晩では語り切れない事情というものがあるんだよ。それを理解していないだけなんだ。それを理解すれば見る目も変わってくるだろう。


 しかし俺はそんな説明を、今日出会ったばかりのハチマキ店員に出来る訳がなかった。結局何も言わずに舞台裏に行き、さっさと衣装を脱いでスーツを着直した。そして渚と一緒にコスプレコーナーを後にしてグッズコーナーを見て回った。


 甘目まどかのコーナーへ行くと、明らかに他の作品群とは比にならない程大きなスペースが確保されており、多くのグッズが並んでいた。俺は缶バッチを購入し、渚はプチぬいぐるみを購入していた。


 家電量販店を一通り見て回った後、渚は一度俺を呼び止めた。どうしたのだろうと思い振り返ると、ぬいぐるみを手に持った渚はどこか迷いを含んだ表情で俯いていた。やがて顔を上げた渚は眉を垂れ下げながら俺の目を真っ直ぐに見つめ、「今日こそうちに泊まっていってよ」と懇願した。


 何でそんなに泊まりにこだわるんだと俺は思った。俺は心臓を激しく跳ねさせながら、そろそろ排水溝の修理の業者が来る時間だからと言って断った。


 渚は疑いを拭えないようにじとっと少しだけ目を細め、「こんな時間に来てくれるものなの?」と訊いてきた。俺は流石に怪しまれたと思い心臓をバクつかせながら、友達のちょっとしたコネで特別対応してもらえるのだと言った。渚は数秒の間ジト目のままじっと俺を見つめていたが、やがて「すっごく心強いね」と言い、俺ににっこりと笑いかけた。その笑顔はあまりにも美しかった。まるで手のひら二つ分の大きさの花が咲いたかのようだった。


 今日はすんなり納得してくれて良かったと一瞬安心したが、にっこりと笑みを浮かべて前へ向き直った彼女の手元を見ると確かに小刻みに震えており、手に握っていたマスコットキャラクターのぬいぐるみが粉々に握りつぶされていた。



 ……………………………………………………



 仕事を終えた俺はお手洗いで用を足し、鏡を見た。鏡に映る自分の顔は、肩に亡者が何人ものしかかってるみたいな無表情で、真っ白い顔だった。これを一般的には絶望の顔というのかもしれないと俺は思った。


 ポケットからスマートホンを取り出し、見てみると十九時だった。会社を出てアーケードを歩いた。すると街中では色々な人が活気溢れていて、誰かと話したり商売をしていたりした。しかし俺にはそれらが全て空虚で何も意味の無い愚かな行為に思えた。


 今日、俺は完全に仕事でやらかした。例の大型商談とは別件ではあるが、そこそこ大きな案件だった。あまりの忙しさに期日までの取引先への連絡を失念し、取引停止になってしまったのだ。そして俺は、またも葛木にこってり絞られる羽目になった。


『こんなゴミみたいなミス出来る理由って何?』

『はい………すいません………』

『いつまで経ってもレベル低いのやめろって。な?』


 心にぽっかりと穴が空き、そこから感情のみならず血まで一緒に落ちていくように思った。普段聞き流す事に慣れ切っているはずの通り過ぎていく車のエンジン音が、俺を威圧しているようだった。街の人々の楽しそうな笑い声は、俺を嘲笑っているようにしか聞こえなかった。


 足のつま先から、白い何かによって徐々に全身を蝕まれていった。前方から大雪が降り注いで叩きつけられるかのように視界が錆びついていった。俺はそれを、己の心が垂れ流した血をすくい上げて啜る事によって生命力を吹き返して歩き続けていた。


 会社に迷惑をかけ、せっかく契約しようとしてくれた取引先にも迷惑をかけた。俺は己の血で己の血を洗うようにして歩いているのに、何であそこに居るあいつらはあんなに楽しそうに笑っているんだ?随分面白いなと俺は思った。愉快になって、込み上げる笑いを堪え切れなくなりその場で噴き出し、ケタケタと独りで笑った。


 俺は要らない存在なんだ。


 そして笑ってるあいつらの元に今すぐに歩み寄り、理不尽に殴り倒したい衝動に駆られた。しかしもちろんそんな事は出来る訳がなかった。


 ほんの少し風が吹いたら、吹き飛ばされてしまいそうだった。己の心情は外見にはあまり現れないものなのだ。もし心の状況を覗き込めるスコープが存在したなら、今それで俺を覗き込んだら空洞になっているのではないだろうか。


 その時、俺の名前を呼ぶ声が後ろから聞こえた。パタパタと足音が聞こえ、振り返ると渚が走り寄って来ていた。駆け寄ってきて回り込み、渚はすぐ目の前に来た。そして好奇心に満ちた瞳で俺の顔をじっと覗き込んだ。今日は会って話す予定は無かったはずだった。


「………………渚?どうして」

「お家にいても暇だったから迎えに来たよー」


 楽しげな笑顔でそう返した渚は不可思議なものを見るような目で俺をじっとしばらく見つめていたが、やがてゲラゲラと笑い出した。


「あっははは!!まだ火曜なのに顔死にそうだけど大丈夫?賢者タイム?」

「…………」


 渚はむせて呼吸出来ないくらい笑っていた。頬が破裂しそうなくらい爆笑していた。そして俺の背中を強くバシバシと叩いた。更にスマートホンを取り出して俺の顔にカメラを向け、写真を撮り始めた。


 普段の俺ならまずどつくところだが、心にぽっかりと風穴が空いた俺は何も反応する事が出来なかった。


 そこからはよく思い出せない。意識はぼんやりとしていたが、どうやら俺は渚に手を引かれて街を歩いているようだった。途中でコンビニに寄って温かいお茶を買ってくれたので、俺はそれを飲んだ。


 そして導かれるかのように手を引かれて街を歩き、電車に乗り、どこなのかよく分からないところを歩き続けていた。まるで光ひとつ存在しない道を、渚だけが前を見えていて案内してくれているかのようだった。


 気が付いて我に返った時には、俺は居間で足を崩して座っていた。そこは普段帰る、俺の小汚くて薄暗い部屋ではなかった。明るい照明で全体をしっかりと照らされた邪気のひとつも感じさせない広くて清潔な居間で、ほんのりと柑橘の良い香りがした。


 その香りは瞬く間に鼻穴を通って全身の血管と細胞を満たし、俺の中を蠢いていた何もかも全ての感情が洗い流されて淡い若草色が芽吹いた。


 俺は体裁も忘れて、身体がぺしゃんこになるくらい深く息を吐き出していた。そこは何日でも居続けたくなるような居間だった。白と緑を基調とした家具が揃っており、それらは全てぬかりなく手入れされていて埃ひとつ無かった。桜色のカーペットを手のひらで撫でればふかふかでうっとりするような手触りだった。


 テーブルの上には様々なものが散らばっていた。和食をラクに美味しく作るレシピの本と七、八年くらい前に流行っていた少年漫画の単行本。百均のタグが点けっぱなしのハンガーと洗濯ばさみ。青色の光沢を放つ大きな画面のタブレット。鏡。コスメ道具。ヘアアイロン。ドライヤー。


「ごめんねー。今片付けるね?ちょっと待ってて」


 少しだけ忙しげな声が俺の鼓膜を叩いた。俺はマンションの、渚の部屋にいた。


 渚は慣れた手際であっという間にテーブルの上をぴかぴかに片付け終えると、お茶が入った高級感のある花柄のカップをふたつ、かちゃんと静かにテーブルに置いた。ハーブティーの上品な香りがした。


 そしてあざとい、どこかわざとらしい仕草で俺のすぐ隣に座り、ぴたりと肩と肩をくっつけた。渚は曲げた足を抱きかかえて、静かな表情で俺の目を見つめていた。そして、渚はにっこりと笑った。


「ヒロをこんな顔にさせたのは誰?私が今すぐぶっ殺してきてあげるから言って?」

「いや……ありがとう。大丈夫だよ」


 渚はにっこりとした笑顔を保っているが、その声色は深い悲しみの中で辛うじて絞り出されるかのようだった。やがて笑顔だった渚の目は切なげに細められて、雫のような涙を光らせた。


 俺は渚を抱きしめたくなった。しかしそれは出来なかった。俺から言わせれば渚という女には宝石や金がくだらなく見える程の価値があった。自分の命よりも大切な程の光を放つ女だった。だからそんな事は出来ないのだ。


「何か食べる?」

「………腹は、減ってなくて」

「そっか。じゃあお腹すいたら言ってね」


 渚は俺の背中を温かい手で撫でた。ずっとずっと俯いている俺を、渚は何も言わずに見つめたまま優しく撫で続けてくれていた。それは大丈夫だよ、と言ってくれているかのようだった。


 俺は渚の温かさの狭間で、自分が迷惑をかけた人々の顔を思い浮かべていた。全てを忘れたいという思いと、自分が幸せになんてなる資格は無いという思いがせめぎ合い始めた。俺は渚に撫でられる感覚に身を委ねるうちに突然、嗚咽を上げて泣き叫びたいような衝動に駆られた。そして用を足すと言ってトイレに籠った。


 こうしてトイレで一人縮こまっていると、一瞬、こうやってトイレで蹲るために生まれてきたと錯覚した。母の胎内に戻ったかのように安心していた。自分の発想が個性的過ぎる方向へ押し流されてしまっている事は自覚しているが、それでも俺はしばらく蹲り続けていた。



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