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Live Forever  作者: 二駆付アルケミスト
第一章漂流篇

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第五話「出町柳パラレルユニバーシティ 後篇」

返却口に、食器を戻す。


「健司、バイト代、今日やぞ。忘れんなよ」

「分かってるって! 信用ないなあ、もう」

「ないから言うてんねん」


駿に念を押されて、健司の背中がとても情けなく見えるのを感じた。

その横で、寿が腕時計を見た。


「ほな、三限行くか。

響、悪いけど、ここからはついていかれへんから、適当に時間つぶしといてくれ。

終わったら迎えに行くわ」

「ああ、分かった」


寿たち6人は、ぞろぞろと、それぞれ別の教室へ散っていった。


ひとりになる。


中庭のベンチに腰を下ろして、行き交う学生を、ぼんやり眺めた。

ぶかぶかのデニム。大きなリュック。

ベンチの端では、誰かが堂々と煙草を吸っている。

電話ボックスの前には、テレホンカードを握りしめた学生の列。

誰一人として、スマホなんて持っていない。


——この中の誰も、俺のことを知らない。


ポケットの中で、カセットプレーヤーを、指でなぞる。

再生ボタンを押せば、帰れるのだろうか。

……押す勇気は、まだなかった。


(母さん、今ごろ、心配してるかな)


実家の台所で、朝飯を作っている母さんの背中が、ふと浮かんだ。

「ちゃんと食べなさいよ」が口癖の人だった。

そういえば、今朝、寿に怒鳴った台詞は、あの人そっくりだった。


笑ったつもりが、うまく笑えなかった。


そうしてぼんやりしたり、キャンパス内をうろうろしているうちに、

いつの間にか、空の色が変わっていた。


五限終わりのチャイムが鳴った頃には、空が、夕焼けに染まっていた。


木々の影が、ベンチの足元まで長く伸びていた。

どこかの部室から、吹奏楽部のトランペットの音が、風に乗って聞こえてきた。

昼間のにぎやかさが、少しずつ、夕方の静けさに溶けていく。


「響ー! 迎えに来たでー!」


駆け寄ってきた寿が、俺の肩をぽんと叩いた。


「待たせたな。ほな、行こか。店長にも、もう話してあるし」

「バイトの紹介、本当に通るのか?」

「大丈夫やって。あの人、ええ加減やから」


健司が、ニカッと笑う。

それは、全然、安心材料じゃない気がする。


出町柳駅で、寿が、切符を一枚、俺の手に押し込んだ。


「悪い、また借りだな」

「ええから、そんなん」


がしゃん、と古い改札機が、切符を飲み込んで、反対側から吐き出す。

この感触も、いつ以来だろう。

電車に揺られて、京阪三条駅を降りると、

空は、もう藍色に変わり始めていた。


ライブハウスは、木屋町の裏通りにある、雑居ビルの地下だった。

看板には、『KYOTO MOzZ』という名前が飾られていた。


階段を降りるにつれて、重たい低音が、

足の裏から這い上がってくる。

分厚い防音扉の向こうで、誰かがリハーサルをしているらしい。


「店長ー! 連れてきましたでー!」


寿が扉を押し開けると、煙草の煙と機材の熱気が、どっと溢れ出した。


カウンターの奥から、ガッチリとした体格の男がのっそりと顔を出す。

顎髭に、色の抜けたバンドTシャツ。

いかにも気難しそうな店長だ。


「あら、寿。で、その後ろの子が、言ってた子?」

「え」


——俺は拍子抜けした。

こんな体格から出てくる声と口調ではなかったからだ。

いかんいかん、世の中色んな人がいるんだ。

令和で培った、多様性の極意を今まさに見せる時だ。


「こいつ、響です。昨日拾ったんスけど、

体力はある思うんで使ったってください!」

「ひ、響といいます。よろしくお願いします!」


寿に背中を叩かれ、俺は慌てて頭を下げた。

店長は、俺の顔を頭のてっぺんから足元まで、

じろりと値踏みするように眺める。


「……ふぅん。イイ顔してるわね」

「え」

「採用よ。今日から入ってちょうだい」

「あの、履歴書とかは……」

「ウチはそういう紙切れ、要らないの。

イイ顔してて重いアンプが運べれば、それで十分。

アタシ、後藤豪(ごとうつよし)。よろしくね、響クン」


あまりにも、あっさりしすぎている。


(……これが、1995年か)


身分証も、住所も、何も聞かれないまま、

俺は、いつの間にか、ライブハウスの従業員になっていた。


「給料は、日払いの手渡しよ。そしたら、まず機材運びからね」


それからの数時間は、体力勝負だった。

アンプ、ドラムセット、重たいケーブルの束。

階段を何往復もして、

久しぶりの運動だったのか、ヘトヘトになっていた。


開場の時間になると、狭いフロアは、

あっという間に、人でいっぱいになった。

寿はドリンクカウンター、健司は入口のチケットもぎり。

俺は、空いたグラスを回収する係だ。


トリを務めるのは、オルタナティブロックを鳴らす、4人組のバンドだった。


最初の一音から、歪んだギターの轟音が、

フロアを呑み込む。畳みかけるようなドラムと、疾走するベース。

その上に、少し掠れたボーカルの声が、

叫ぶように、まっすぐなメロディを乗せていく。


「meteors(メテオズ)や」


カウンターの内側から、寿が、小声で教えてくれた。


「オレらの、憧れの先輩バンドや」


素人の俺が聴いても、分かるくらい、うまかった。


(……あれ。この曲、どこかで聴いたことがある)


令和の、どこかで。

サークルの先輩がコピーしていたのか、

利來のプレイリストで流れていたのか。

いろんな人に、いろんな曲を聴かされてきた。

そのどこかで、確かに耳にしたメロディーだった。


でも、バンドの名前は、違ったような気がする。


(気のせいか。……いや、でも)


思い出そうとするほど、記憶は、霧の向こうへ遠ざかっていった。


「ええなあ。オレらも、あれくらい、デカなりたいなあ」

「ほんまやなあ。いつか、あのステージ立ちたいなあ」


ステージを見つめたまま、寿と健司が、ぽつりと呟く。

グラスを回収する手を止めて、2人の横顔を、横目に見た。

いつもの軽口とは、少し違う声だった。

二十歳の2人が、本気で憧れているのが分かった。


(Lanternなんて名前も、令和では、聞いたことがない)


胸の奥が、少しだけ、ちくりと痛んだ。


最後のバンドが、アンコールの最後の一音を鳴らし終えると、

フロアは、あっという間に空っぽになった。


床には、空き缶と、吸い殻と、誰かが落としたピック。

モップとちりとりで、黙々と片づけていく。

機材を撤収して、階段を何往復もして、

気づけば、腕が上がらなくなっていた。

高校まで野球をしていたのが嘘のように、

体力を絞られた。


「お疲れサマ。今日の分よ」


店長が、白い封筒を、俺の手にぽんと置いた。


中には、しわくちゃの千円札が、数枚。

——1995年で、初めて自分で稼いだお金だ。

たったそれだけのことなのに、胸の奥が、じんわりと熱くなった。


「ありがとうございます!」

「あらイイ子ね。それと、これも持っていきなさい。

新しいスタッフTシャツよ。汗だくのままじゃ、風邪ひくわよ」


店長が放ってきたのは、『KYOTO MOzZ』のロゴが入った、

新品の黒いTシャツだった。


「ありがとうございます!」

「ふふ。またよろしくね」


店長は悪い人じゃないのだ、決して。

ただ、見た目と声のギャップにまだ慣れていないだけなのだ。


裏口から外に出ると、夜風が、汗ばんだ肌に気持ちよかった。

その壁際に、腕を組んで寄りかかっている人影がある。


「やっと出てきたか」


駿だった。


「うわ、なんでおんねん!」


健司の顔が、一瞬で引き攣る。


「今日全部返す、言うたよな。ほら、約束や」


駿が、手のひらを差し出した。

健司は、観念したように、

封筒から千円札を数えて、一枚ずつ、駿の手に乗せていく。


「……ひい、ふう、みい……」

「ちょっと待て、一枚足らんぞ」


健司が、急に真顔になって、それっぽい標準語で語り出した。


「そらそう返すよね、正常だよ。これ、アメリカの心理のやつ」

「ごちゃごちゃ言うな、利子もろともはよ返せ!」


寿が、横で腹を抱えて笑っている。

俺も、つられて笑った。

昼間の学食から続く、いつもの光景なんだろう。


笑い声が収まったところで、寿が、思い出したように言った。


「あ、そうや響。明日、スタジオで練習やねん。お前も来いよ」

「え、俺が?」

「オレらの音、ちゃんと聴かせたるわ。

昨日は、ベースの音しか聴いてへんかったやろ」


寿が、にやっと笑う。


「……行く」


自分でも驚くくらい、即答していた。


1995年に来てから、明日が待ち遠しいと思ったのは、これが初めてだった。


「ほな、汗くっさいし、銭湯寄って帰るぞ!」


寿の号令で、残った4人

——俺、寿、健司、駿は、出町柳の近くにある、深夜営業の銭湯へ向かった。

駿が押す自転車の、キコキコという音を聞きながら、

鴨川の河川敷を、北へ歩いていく。


番台で、タオルとシャンプーの小袋を買った。

寿が財布を出すより先に、俺は、白い封筒から千円札を一枚抜いた。


「今日は、自分で出す。……初任給だし」

「お、言うやんけ」


おつりの小銭が、手のひらに、ずしりと重かった。

借りを数えてばかりだった俺が、初めて、払う側に回った気がした。


熱めの湯船に肩まで浸かり、今日一日の疲労と汗を洗い流す。

アナログ機材の重さでパンパンになった腕の筋肉が、

じわじわとほぐれていくのが分かった。


風呂上がり。

店長にもらったTシャツに袖を通す。

少し大きくて、まだ糊の残る新品の生地が、

風呂上がりの肌にぱりっと触れた。

髪を乾かして、脱衣所の扇風機の前で、

4人揃って冷蔵庫の前に立つ。


「やっぱこれやろ」


寿が迷わず手に取ったのは、黄色いフルーツミルクだった。

健司はコーヒー牛乳。

俺は、さっきのおつりで買った、普通の白い瓶牛乳。

駿だけは「俺は炭酸や」と、

王冠のついた瓶コーラを栓抜きでシュポンと開けた。


「「「「ぷはぁーっ!!」」」」


4人同時に腰に手を当てて飲み干し、息を吐く。


「くぅーっ! バイトの後のコーヒー牛乳はたまらんなぁ!」

「お前、今日チケットもぎってただけやろ」

「労働は労働や!」


他愛のない言い合いをしながら、

夜風に吹かれてアパートへの道を歩く。

当然のように、健司と駿も寿の部屋に向かっていた。

どうやら今日は、

4人で寿の家で少しおしゃべりしてから帰るつもりらしい。


「ただいまーっと」


ガチャリとドアを開け、暗い六畳間に入る。

電気の紐を引っ張った瞬間、部屋の隅の電話機で、

赤いランプが『ピコン、ピコン』と点滅しているのが目に入った。


「おっ、寿。留守電入っとるで」


健司が、電話機を指差しながら言った。


「うげ。オカンからやったらダルいなぁ」


寿が電話機に駆け寄り、適当に再生ボタンを押す。

ピーッ、という発信音のあと、ノイズ混じりの女の人の声が流れ出した。


「もしもし、寿? 私よ。……はぁ、また出ないのね」


少し怒ったような、けれど、どこか疲れのにじむ声だった。


「ちゃんとご飯は食べているの?

どうせ今日も、缶コーヒーだけで済ませたのでしょう。分かっているのよ」


寿と俺は、思わず顔を見合わせた。

——当たっている。


「明日、練習が終わる頃に、スタジオまで行くわ。

逃げようなんて、思わないことね。……覚悟しておきなさい」


ブツッ、と音がして、テープが止まった。


「……あ、あかん」


寿の顔が、みるみる青ざめていく。


「明日、終わった……」

「ひえー……相変わらずおっかない彼女さんやな。

寿、完全に首根っこ掴まれとるやん」


健司が、わざとらしく体を震わせてニヤニヤ笑う。


「しゃーないやろ。

缶コーヒーで済ませたことまで言い当てられとる時点で、お前の完敗や。

明日は大人しく絞られてこい」


駿が、腕を組みながら呆れたように吐き捨てた。


「お前ら、他人事やと思って……っ! ああ、明日、どないしよ……」


(寿の彼女、か。……すごく、おっかなそうな人だな)


俺は、ほんの少しだけ、その人に会うのが、楽しみになっていた。

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