第四話「出町柳パラレルユニバーシティ 前篇」
まぶたの裏が、やけに明るかった。
目を開けると、
カーテンの隙間から朝の日差しが遠慮なく俺の目に入ってくる。
眠い目を擦りながら起き上がり、辺りを見回す。
知らない匂いの中で霞んでいた景色が、徐々に輪郭を取り戻していく。
朝日が照らす、畳の部屋だった。
どこもかしこも、今までいた俺の部屋の面影はない。
……ああ、そうか。
——夢じゃ、なかったんだ。
胸の奥が少し冷えた。けれど、俺の口角は確かに上がっていた。
悲喜交交ってやつは、きっとこういう時の言葉なんだろう。
昨夜は、電気が消える直前にざっと見ただけだった六畳一間は、
朝の光の下で見ると、
思った以上にひどい散らかりようだった。
壁一面のフライヤー、日に焼けた畳、
キッチンのそばで吸い殻の山になった灰皿。
その中で、部屋の隅のケースだけが、昨夜と同じ角度のまま、静かに立っていた。
その隣には、座布団を枕に、口を半開きにし、
ヘソをだらしなく出したままぐっすり寝ている男がいた。
——寿である。
(……爽やかな好青年、ね)
布団で寝させてくれた感謝と共に湧いてきたのは、
昨夜との大きな落差だった。
そんなことを思いながら枕元にあったラジカセの時計を見た。
AM8:10
——明日から後期やぞ。一限、遅れんなよ。
刹那、昨夜の駿の声が、頭の中でよみがえる。それから、もう一つの声も。
——ちょっとだけ、見たってくれ。
俺は焦って寿の肩を掴んで、遠慮なく揺さぶった。
「寿、起きろ!一限だろ!」
「……んー……あと5分だけ……」
人間の言うことは、どの時代でも一緒らしい。
ってそんなこと思ってる場合じゃない!!
「駿に怒られるぞ!」
「……駿……?」
その名前で思い出したのか、寿がガバッと跳ね起きた。
「今、何時や!?」
「8時11分」
「あかん、バス乗らな間に合わん!なんで起こしてくれんかったん!?」
「さっきから何回も起こしてるでしょ! 早く顔洗いなさい!」
……今のは、俺か? 実家で毎朝聞かされていた、
母さんの声と、そっくりだった。
「なんかお前、オレの彼女と似たようなこと言うとるわ」
「寿、彼女いるのか?」
「おるけど、ってそんなこと言うとる場合ちゃうやろ!遅刻してまう!!」
言い合いはそこまでにして、
寿と俺は急いで、
顔と髪を洗い、
寿からもらった新しい歯ブラシで歯を磨きながら、
貸してくれた服に着替えた。
着替えたあと、寿は鞄を引っ掴んで、
玄関でナイキのスニーカーの靴紐を結びながら、
廊下で突っ立っている俺に振り返って言った。
「お前も来い。ここに一人で置いとくんも悪いし、一限だけ付き合え」
「え?お、おう」
断る理由も、行くあても、ない。
昨夜借りた古いコンバースに、
慌てて足を突っ込む。
少し大きいが、靴下だけで歩くよりは、ずっといい。
俺は、ほとんど引きずられるようにして、手ぶらで部屋を出た。
出町柳の駅前、
寿は自販機の前で足を止め、缶コーヒーを一本買った。
「朝メシ代わりや」
「朝から…それ?」
「オレはこう見えて甘党や、甘いもん飲んだら目ぇ覚めるんよ」
ラベルには、『ミルクと砂糖たっぷり!』の文字。
もはやミルクコーヒーとすら呼べないだろ、と俺は思った。
それを一息で飲み干す寿を見て、俺ははっきりと顔をしかめた。
シャトルバスは学生で、すし詰めだった。
吊り革に掴まっている誰もが、
ぶかぶかのデニムに、ネルシャツやら、少し大きめなTシャツに古いスニーカー。
——全員、古着屋のラックから抜け出してきたみたいだ。
令和なら、どれも高い値札がついているやつだ。
なんとか大学に着き、
開始ギリギリで大講義室の後ろの席に、二人で滑り込んだ。
必修科目の初回らしく、教室は学生でぎっしりだ。
誰も、俺が部外者だなんて、気にも留めない。
教授が、初回の授業らしく、名簿を片手に出席を取り始める。
寿は、席に座った途端、机に突っ伏して寝息を立てていた。
(こいつ、前期はちゃんと単位取れてたのか…?)
なんてことを思っていたら、
ふと、少し前の席のほうで、見覚えのある五人組と目が合った。
昨夜、運命的な出会いをした、
駿、健司、泰示、日向、結弦だ。
みんな揃って大小さまざまな形で、手を振ってくる。
健司は両手をぶんぶんと、日向はとてつもなく直角な敬礼、
泰示は胸の前で控えめに、結弦は眠たげにあくびをしながらに片手を上げるだけ。
駿は、両手を合わせて拝むようにしながら、口パクで何かを伝えてきた。
たぶん、「ありがとう」だ。
嬉しいやら照れくさいやらで、笑顔で小さく手を振り返していると、
「……北泉」
教授の声が、ぴたりと止まる。
「北泉寿くん。いないのか」
——きたいずみ、ひさし。
隣で寝ているこの男の名前だ、
と気づくまでに、一拍かかった。慌てて、肘で脇腹をつつく。
「呼ばれてるぞ、寿」
「は、はいッ!」
寿が、飛び上がるように手を挙げた。教室中に、小さな笑いが起こる。
もちろん、あいつらは隣同士で目を合わせて、くすくすと笑っていた。
寿は恥ずかしさで顔を真っ赤にしながら、
もう一度机に突っ伏した。
苗字は、北泉というらしい。
そういえば、他のメンバーは苗字を聞いたのに、寿だけ分からなかった。
アパートの郵便箱の表札も掠れていて、よく分からなかった。
——次からは恥ずかしい思いさせないように覚えておいてやろう。
そこから時間が経ち、チャイムと共に、
長い九十分がようやく終わった。
講義室から人がぞろぞろと出ていく中、
寿だけは、まだ机に突っ伏している。
(こいつ、結局あれからずっと寝たままだな。先が思いやられる……)
そんなことを思っていると、
駿たちがこっちにやってきた。
「お疲れ! いやー、今日は朝イチから笑わせてもらったわ!」
「ほんまな。コイツの真っ赤な顔ったらもう……プププ」
日向と健司が、さっきの出来事を笑いながら話していると、
ムクリと寿が起き上がった。
「ん……ああ、お前らか。もう授業終わり? 二限あるやろ、はよ行きや」
「何言うてんねん。二限はみんな空きや。この前、みんなで授業組んだやんけ」
駿が呆れ声で指摘する。
「ほんまアホやなあ。寝ぼけすぎやで」
結弦が、眠たげな目のまま乗っかった。
「お前だけには言われたないわ!」
寿が、むっとして言い返した。
ようやく講義室が俺たち7人だけになり、
大学のピロティへ移動する。
その道中、泰示が、紙パックのジュースにストローを刺しながら、
気遣うように話しかけてくれた。
「響くん、一限はどうやった?ずっと起きてたみたいやったけど」
「正直、爆睡する寿の隣で、聞いてるふりをしていただけです」
「それ、一番賢い座り方やん」
日向が、悪びれもせずに笑う。そのまま、何気ない調子で続けた。
「そういや響って、どこの学生なん? 見いひん顔やけど」
心臓が、跳ねた。
鼓動のメトロノームが速くなっていくのを感じる。
(まずい。本当のことなんて、言えるわけがない)
「えっと……ちょっと、遠くから来ていて。まだ、どこにも」
「標準語やもんな。東京か」
「……まあ、そんなとこです」
遠く、という言葉に、嘘はない。
ただ、距離の話じゃないだけだ。
「詮索すんな。寿の連れや、それでええやろ」
駿が、さらりと話を切ってくれた。
寿も、「細かいことはええねん」と、あっさり流す。
この人たちは、聞かないでいてくれる。
それが、ありがたかった。
ピロティに着くと、そこは、現代の大学とはまた違う、
コンクリート打ちっぱなしの無骨な吹き抜けだった。
柱だけの一階を、風がそのまま通り抜けていく。
段差に、七人でだらだらと腰を下ろす。
「ほんで、俺らにも敬語なんて使わんでええで!
見た感じ同い年ぽいし、これから一緒に仲良くしよや!」
「そうやで響くん、寿の友達は僕らの友達やから」
駿と泰示がそう言うと、他のみんなも大きく頷いていた。
寿も少し照れくさそうに頭を掻いていた。
「ありがとう!これからよろしく!」
もう、遠慮する必要なんてなかった。
心細くて不安だった1995年の生活が、とても楽しいものに変わった気がした。
そこから色々楽しい話が続き、あっという間に時間が流れた。
二限が終わる十分前に、駿が腰を上げた。
「ほな、そろそろ席取りに行くで。二限終わったら、学食は戦争や」
学食は、校舎の裏手にある、大きなプレハブのような建物だった。
長テーブルを二つ寄せて7人分の席を確保し、
鞄を置いてから、券売機の前に並ぶ。
その途中で、健司が、そろそろと駿の隣に寄っていった。
「……あのー、駿さん」
「あかん」
「まだ何も言うてへんやん」
「どうせ、金貸せやろ」
「いや、それはその、あの、はい」
駿が、深いため息をついた。
「前のも、その前のも、まだ返ってきてへんぞ」
「せやから今日返す言うてるやん! 今日のバイト代出たら、全部! 利子つけるからぁ!」
「毎回、その台詞やで」
「今回はほんまやって!」
しばらく睨み合ったあと、駿は、諦めたように財布を開いた。
「……今日返せんかったら、二度と貸さへんからな」
「駿様ぁ! 一生ついていきます!かっけぇなぁ!」
「ほんま、テキトー言いやがって、こいつ」
駿の呆れた顔を横目に、
健司は迷いなく、券売機の一番高いボタンを押した。
カツカレー。
「一番高いの選ぶな!」
「あ、ばれた」
その横で、券売機の前に立ち尽くす俺に、寿が声をかけた。
「響、何食う?」
「あ、俺は……」
「ええから、好きなん選べ。オレが出す」
「いや、かけうどんで大丈夫」
「遠慮すんな。ほな、せめてコロッケつけとけ」
結局、かけうどんに、コロッケが一つ付いた。
寿の財布から、また一枚、食券が消えていく。
——借りが、また一つ増えた。
「響」
背後から、駿が、小声で言った。
「お前は、健司みたいになるなよ」
「……おう」
「ひどっ」
席に戻ると、テーブルの上は、見事にバラバラだった。
寿は、カツ丼の大盛り。
駿は、きっちりした日替わり定食。
健司は、借金の身で、堂々のカツカレー。
日向は、ご飯大盛りのハンバーグ定食。
泰示は、サラダ付きのバランスの良い定食を、上品な箸さばきで食べている。
結弦は、温かい卵とじうどんを、眠たげな顔で、ふうふうと冷ましていた。
そのとき、駿が、自分の小鉢のおひたしを、黙って寿のトレーに移していた。
寿は、カツ丼に夢中で、気づいていない。
(朝は、砂糖たっぷりの缶コーヒー。昼は、大盛りのカツ丼……)
好みも、服も、タバコの銘柄も、見事にバラバラ。
こんな連中が、同じバンドで、一つの音楽を奏でているらしい。
——本当に、個性豊かな集団だな。
俺は、かけうどんをすすりながら、小さく笑った。




