第二話「半拍のズレ」
俺の名前は、北泉寿。
二十歳。京都を拠点に活動している、
いまだに売れないバンドのベース担当で、
一応はリーダーだ。
バンド名は「Lantern」。
それなりに、うまくやってきたつもりだった。
今日までは。
ミスをしたのは、ほんの一瞬だった。
大宮駿の刻むビートは、今日も狂いなく正確だった。
むしろ正確すぎて、息が詰まるほどだ。
その完璧なリズムに、イケイケなグルーヴで応えようとして、
俺の指はほんのわずかに前のめりになった。
たった半拍。
客には気づかれもしないような半拍のヨレ。
だが、弾いている自分にだけは、はっきりと分かる。
——ズレた。
曲が終わって歓声が湧いても、腹の底の苛立ちはちっとも収まらなかった。
打ち上げの居酒屋の座敷は、いつも通りの騒がしさだった。
テーブルの上には、
赤いマルボロ、マイルドセブン、赤ラークの箱が無造作に転がり、
換気扇の追いつかない煙がもうもうと立ち込めている。
「いやー、今日のライブ、二列目におった子、めっちゃ可愛かったよな!」
ビールのジョッキ片手に身を乗り出してくるのは、ギターの嵯峨日向だ。
見た目も中身も派手な男で、女性にはやたらモテるくせに本命の彼女はいない。
この通り、ライブ中まで客席に目を奪われている始末だ。
「お前、ライブ中に客の顔なんか見てる余裕あったんか」
呆れた声で突っ込んだのは、
ボーカルの今宮結弦だった。
手元のハイボールをすすりながら、
タバコを吸いたい衝動を必死に誤魔化している。
ギターを始めたのは最近だが、
歌に関しちゃ全国で通用する腕を持っていると、俺もみんなも認めている男だ。
それもあって、あいつは喉のために大好きなウィンストンを我慢している。
「まあでも、今日のライブは普通に良かったと思うで。お客さんのノリも良かったし」
結弦の言葉に、キーボードの烏丸泰示が小さく頷く。
けれど、その手は、日向が吐き出したマイルドセブンの煙を顔の前でパタパタと払っていた。
こいつはバンド唯一の完全な非喫煙者で、煙にはいつも敏感だ。
「日向、せめて煙、こっち向けんといて……」
「あ、悪い悪い」
煙を避けながらも、泰示の口元は緩んでいる。
文句を言いつつ、この空気が嫌いじゃないのは、見ていればすぐに分かった。
「ほんでほんでな、俺の話聞いてや!」
赤ラークを咥えながら割って入ってきたのは、
DJの一条健司だった。
そもそもこのバンドを作ろうと言い出したのはこいつのくせに、
リーダーの面倒事をすべて俺に投げ、
今ではアホなムードメーカーという立場にきっちり収まっている。
「俺なんか、三列目のお姉さんにめっちゃ気合い入れてウインクしてん。
そしたら、気まずそうに会釈だけ返されてん。あれ流石に凹んだわ。
でも大丈夫、次来たら投げキッスしたるわ!」
「……」
「ブハッ……!」
ヘラヘラ笑っている健司の
「そういう問題ちゃうやろ」という空気に場が包まれる中、
結弦だけが律儀に吹き出していた。
そんな輪の中、俺は曖昧に笑いながら、杯を傾けるだけだった。
「……寿、元気ないな」
ふと、隣から声がかかった。ドラムの駿だった。
周りがはしゃいでいる間も、こいつだけは、ちゃんとこっちを見ている。
バンドの屋台骨で、何かあった時に一番冷静なのもこいつだ。
「……別に、普通やけど」
「嘘つけ。お前、今日ミスったやろ」
図星だった。
昔から、こいつの耳と目には誤魔化しが利かない。
「……ちょっとだけな」
「ちょっとだけ、って顔とちゃうぞ、それ」
そこから、二人の間に沈黙が流れた。
皿の上の唐揚げが冷めていく。
灰皿に放置した俺のラッキーストライクも火が消え、
フィルターだけが残っていた。
駿は、それ以上は深く追及してこなかった。
ただ少し心配そうな顔のまま、黙って俺のグラスにビールを注ぎ足してくれる。
その優しさが、今はかえって、酷くしんどかった。
「頭、冷やしてくるわ」
そう言い残して、
俺は自分のプレシジョンベースとエフェクターボードを掴み、席を立った。
駿が呼び止める声がしたが、振り返らなかった。
夜の木屋町は、どこまでも湿っぽい。
川沿いの空気は、
酒の匂いと、ついでに言えば自分自身の不甲斐なさで、
よけいに重たく感じられた。
柳の木の下に、コンビニで買ってきた缶チューハイとベースをドンと置き、
座り込む。
弦に指をかけて、適当に弾く。
いつもの曲じゃない。
ただ苛立ちをそのまま弦にぶつけるような、めちゃくちゃなスラップ。
粗くて、荒くて、誰かに聴かせるためのものじゃない。
ただ自分のためだけの、八つ当たりの音だ。
新しく咥えた煙草の先が、ちりちりと赤く灯る。
ヤケになった時や疲れている時に、
やけに美味く感じる不思議な銘柄。ラッキーストライク。
——それにしても。
今日の半拍のズレは、どこから来たんだろう。
考えれば考えるほど分からなくなる。
分からないことを、分からないまま弦にぶつけ続ける。
それ以外に、この苛立ちの行き場がなかった。
「くそっ……なんであそこでミスったんや……!」
そう呟いた後すぐに、強烈な視線を感じた。
顔を上げると、すぐ近くの暗がりに、妙な男が立っていた。
——なんだ、あいつ。
年齢は俺と同じくらいに見える。
しかし、服装からして圧倒的におかしい。
シルエットそのものは若者のそれだが、妙に生地の質感が真新しい。
着古された風もなければ、くたびれた感じも一切ない。
まるで「昨日、明後日のデパートで買ってきたばかり」みたいに、
この木屋町の薄汚れた風景に対して致命的に浮いているのだ。
手には、見慣れない黒くて平たい板きれのようなものを握りしめている。
そいつは、俺の顔と、手元のサンバーストのプレベを、
まるで幽霊でも見たかのようにまじまじと見つめていた。
道に迷った観光客にしては、様子が異常すぎる。
しかし——なんだろう、この感じ。
初めて会うはずなのに、
なぜか、酷く懐かしいような気がした。
大昔の親友と異国の地で再会したような。
あるいは、ずっと探していた身体の一部が突然目の前に現れたような。
安堵とともに泣きたくなるような、説明のつかない感覚だった。
説明がつかないことを、無理に説明しようとするほど、
よけいに分からなくなる。
分からないことばかりが積み重なる夜だった。
今日は、朝からそういう日だったのかもしれない。
ただガンを飛ばされているわけでもなさそうだ。
俺はスラップの手を止め、
苛立ちと、見られているほんの少しの照れ隠しと共に男を睨み返した。
「あ? なんや」
話しかけられて完全に硬直している謎の男に向かって、
間髪入れずに言葉をぶつける。
「見せもンちゃうで。……まぁ、金くれるんなら話は別やけど」
口にしてから、すぐに変なことを言ってしまったな、と思った。
別に、この奇妙な男を追い返したいわけじゃないのに。
ささくれ立った俺のどうしようもないプライドが邪魔をして、
素直な態度が取れなかった。
——そんな夜だった。




