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98.人は器の形で、水の形をはかる ◆★

97話「水から、歩み寄る(後編)」の別視点

 水底に沈んだ丘を包む泡の中は、人々の息遣いと祈りと怯えに満ちていた。


 外はどこまでも澄んだ水に満たされ、その底には森も道も人も、すべてが黄金となって沈んでいる。

 ここだけが、御子たちの張る泡に守られて辛うじて残った陸地だった。


 ミュルナ、ミュリナ、ミュシアの三人は、外から押し寄せる水を必死に押し返している。

 リディアは人々が命がけで運んだ水を魔術で細く繰り、御子たちへ与え続けていた。


 効いてはいる。

 それでも、この広い泡を三人だけで支えるのに無理があるのは明らかだった。


 そんな時、巨大な水の霊子が近づいてくる気配に、リディアの背筋が強張った。


 濁りなく、冷たく、深く、それでいて、押し潰すような乱暴さとは違う。

 泡の向こうの水そのものに覗き込まれているかのような感覚だった。


 リディアが顔を上げたのと、御子たちが一斉に振り向いたのは、ほとんど同時だった。


『マァマ!』

『マァマ!』

『マァマ!』


 三人の声が、弾けるように重なった。


 澄み切った水の彼方、黄金の木々と人影の沈む底の向こうから、青白い光が近づいてくる。


 最初に見えたのは、水の中をゆらめく長い長い水色の髪だった。

 波打つ髪の合間から伸びる枝分かれした角。

 重なり合い、薄く揺れる羽衣。


 幻想的なのに、妙に生々しく、人の目を惹きつけてやまない女の形をした美。


 ――女神だ。


 誰もがそう思う存在がそこにいた。

 気付いた者から声を失くして立ち尽くした。


 けれど、リディアが息を呑んだのは、その腕の中に抱かれている人影に気づいたからだ。


 歪んだ水越しでも分かった。見間違えるはずがない。


「アイオリスさん……!」


 思わず口からこぼれた声に、自分でも驚いた。

 女神を前にしているのに、畏れより先にその名を呼んでしまった。


 泡の中がどよめく。


「あれは……聖者様なのか……?」

「おお、生きておられたのか……!」

「女神様が、聖者様をお連れに……?」

「まさか……亡くなられているのでは……」


 人々の声が重なる。泣く者、祈る者、顔を覆う者。

 誰もが、水の向こうから近づくその姿に釘付けだった。


 だが、リディアは気が気でなかった。


 神域の底へ向かう途中、アイオリスだけが女神の手で連れ去られた。

 リディアがその後も無事でいられたのは、ミュルナたちが助けてくれたからだ。

 水から浮かび上がってみれば、世界は黄金と共に沈みかけていた。


 ――女神は、アイオリスだけを救って、人間を見限ったのではないか。


 そんな考えが、胸の底から消えてくれない。


 イズミールに恩があることを、リディアは忘れていない。

 アイオリスが“女神”ではなく“イズミール”というひとつの存在を見ていることも、もう知っている。


 それでもなお、怖かった。

 女神は今、人間の味方ではないかもしれない。


 けれど、御子たちにとって、女神は心から慕う母でしかなかった。

 御子たちが今にも飛び出そうと身を乗り出した、その時だった。


 水の向こうから、女神の唄声が泡の中へと響き渡った。


―~―~―――~(待て待て、ステイっ!) ~~――~―~(俺はこれから大事な話)――~~―~(があるから、ちょっと)~―(待て!)


 清流のせせらぎのような優しい唄声の意味を、人は理解できない。

 だが、声が届いた瞬間、御子たちがつんのめるように止まったのを見て、人々はただならないものを感じてざわめいた。


「み、御使い様……女神さまは、今、なんと……?」

「ああ、女神さまはやはり、お怒りなのでは……」

「御子様たちを、迎えに来られたのではないのか……」


 御子たちは、女神の声にぴたりとその場に留まったが、手足をばたつかせ、不満げに騒ぐ。


『ヤーァ! ミュルナ! いこぉ!?』

『メー? ミュリナ、メー……?』

『マァマ……マァマ……ッ』


 その姿は、叱られて駄々をこねているかのようだった。


 リディアはその様子を見て、震える声で言った。


「今のは……ミュルナたちへの、呼びかけだと思います」


 一斉に人々の視線が集まる。


「その……たぶん、来ちゃ駄目って……」


 そう言いながら、自分でも確信しきれてはいなかった。


 リディアにも、言葉の意味そのものは分からない。

 ただ、怒鳴りつけるような響きではないことだけは分かった。


 強く止めようとしている。

 それなのに、安堵したようでもあり、焦っているようでもあり、どこか言いよどむような揺れも混ざっている。


 ひとつの声のはずなのに、水の重なり方が妙に複雑だった。


 リディアの漏らした言葉を聞いて、泡の中の人々はますますざわついた。


「め、女神さまが……御子様を拒んだ……?」

「我らが御子様を攫ったと誤解なさっているのでは!?」

「いいや、我らが御子様に縋ったから……」

「裁きから逃れた我々を罰しに来られたのだ……!」


 年老いた女は嗚咽混じりに、若い兵が青ざめた顔で唇を噛む。

 皆、口々に己の解釈で女神の真意を測ろうとする。


 リディアにはそのどれも否定しきれなかった。


 実際に、ミュルナたちには無理をさせてしまった。

 自分の軽率な願いに、身を削って応えようとしてくれている。


 イズミールが万能ではなく、揺れる心を持つことを、リディアはもう知っていた。

 だからこそ、女神が人間への失望や怒りを抱いていないと、簡単には言い切れなかった。

 あまりにも状況が悪すぎたし、神域の底でどんなやり取りがあったかもわからない。


※※※※※


 水の向こうから女神が近づいてくる。すると、泡の膜が静かに開く。

 泡が弾けることも、境目から水が流れ込むこともなかった。


 女神はアイオリスを抱え、宙を浮いたまま、音もなく泡の中へと進み出る。


 泡の内側が一瞬で濃い水の気配に満ちた。神域と同じ空気だ――と誰もが肌で理解する。


 人々の間に、恐怖とも感嘆ともつかない息が走った。

 女神があの穏やかな微笑を浮かべていなかったからだ。


 唇を固く結んだその顔は、怒っているようにも、ひどく張り詰めているようにも見えた。


「め、女神様が……微笑んで、いらっしゃらない……?」

「あ、ああぁ……どうかっ、どうかお赦しを……」

「お願いいたします……妻を、家族をお返しください……」


 次の瞬間、丘を埋めていたほとんどすべての人間が、深く跪いた。


 呆然とする者。額を地につけ、ひたすら赦しを乞う者。

 両手を組み、震えながら祈り願う者。


 その中で、ギュゲスも膝をついた。

 彼は負けん気の強い若者だが、目の前に現れたとてつもなく美しい姿をした女神が、洪水を引き起こし、人間を黄金に変えるとんでもない存在であることも理解している。

 だから、今は唇を引き結び、ただじっと頭を垂れた。


 女神は、人々の視線を浴びながらも、そちらには目を向けようとしない。

 ふわりと地に降り立つと、腕に抱いたアイオリスを驚くほど丁寧に下ろした。

 壊れ物を扱うような慎重な手付きでその身を甲斐甲斐しく支え、囁きかける。


―〜〜――(おい、大丈夫か。)―〜〜――(座った方がよくないか)


 言葉は分からずとも、アイオリスを気遣い、労わるものなのは誰の目にも明らかだった。


 聖者アイオリスは、女神に愛された者だと噂する者はいた。

 低俗な作り話だと眉をひそめる信徒もいた。

 けれど今この場で、女神がアイオリスを支える姿を見て、それを否定できる者はいなかった。


 アイオリスは女神の言葉に小さく首を振り、自らの足で地面に降り立った。


 リディアは、もう我慢できなかった。


「アイオリスさん!」


 駆け寄った少女に、周囲の人々が息を呑んだのが分かった。

 だが、リディアには、もうどうでもよかった。


 アイオリスは、疲れた顔のままリディアを見る。

 蒼い目を細め、安堵するように小さく息を吐いた。


「良かった、良かった!……無事でっ! 

 女神様とお会いできたんですね! で、でも……矢が、まだ……!

 それに、み、みんな、沈んで、水がっ」


 リディアは自分でも何を言っているか分からない。

 一度に多くのことが起こり過ぎた。師匠ももういない。

 ミュルナたちは頼りになるが、相談は出来ない。


「わ、わたし、水の中でっ、ひとりでっ!

 みんなといても、何にもわからなくて! でも、なんとかしなきゃって――」


 その不安と恐怖が一気に噴き出して止められなかった。


「心配をかけたな、リディア」


 その声は弱っていたが、驚くほど穏やかだった。


「ミュルナたちを、君に任せきりにしてしまったことも詫びる。

 無事でいてくれて良かった……本当に頑張ったんだな」


 その言葉に、リディアは一瞬だけ喉が詰まった。


 怪我をしたアイオリスを一人で行かせてしまった。

 せっかく呼び戻したミュルナに無理をさせてしまった。

 目の前で黄金になる人を助けられなかった。


 不安も後悔も全部吐き出せたわけではないけれど、アイオリスの言葉に胸のつかえが、心のしこりがほどけていくのを感じた。


 リディアは唇を引き結び、首を振った。

 言葉には出来そうになかった。今、口を開けば嗚咽が零れてしまうから。

 それでも、一番心配な傷へと視線を向ける。


「傷は大丈夫だ。イズミール様に黄金で固めていただいた。今は痛みは抑えられている」


 その呼び方に、リディアははっとさせられる。


 イズミール様。


 いつものアイオリスの呼び方ではない。

 彼がゴルディウムで“聖者”と呼ばれているのを思い出した。


 アイオリスは、イズミールが女神として祈りを叶えるだけの存在にしたくないと言っていた。


 けれど、ここには女神に祈り、赦しを乞う多くの人々がいて、皆、限界近い。

 だから、この場をまとめるために、女神の言葉を人に伝える“聖者”として振舞っているのだとリディアは理解した。


 アイオリスの声に従うように、人々の視線が一斉に黄金の傷口へ向く。

 どよめきが広がった。


「き、傷口だけが、黄金に……」

「……でも、生きて、動いておられるぞ」

「女神様が、聖者様のために……?」


 リディアも、目を見開かずにはいられなかった。


 血は止まっているように見えるけれど、身体の一部を黄金にするなんて信じられない。

 あんなにもイズミールを恋い慕うアイオリスに対して、どうしてそんなことが出来たのか。


 思わず女神の顔を見つめるが、目が合わされることは無かった。


 アイオリスは続けた。


「私はイズミール様に招かれ、神域の底に行った。

 そこには魔樹が巣食っていた」


 その一言で、泡の中の空気が一変した。


 魔樹。その言葉を聞くだけで、人々の顔から血の気が引く。

 女神の御座所、神域は聖地の中でも最も清浄な場所だと信じられていた。

 浄化を司る女神は、黒禍を祓い、深淵を寄せ付けないと。


「イズミール様は黒禍に苛まれながらも、聖地を守ろうとしておられた」


 リディアは、聖地に黒禍が蔓延しつつあることを知っていた。

 女神が黄金で蓋をして、必死に抑えているのを見た。

 まさか、あの神域の底に魔樹が潜んでいたなんて。


 なら、アイオリスを神域に招いたのは、ひょっとして――


「案ずるな、魔樹は既に断った」


 アイオリスはそこで一度、浅く息を継いだ。


「女神の浄化によって、黒禍は消えた。聖地が深淵に堕ちることはない」


 リディアが目を見開き、人々がわっと沸いた。


 安堵。驚愕。祈り。誰かが泣き、誰かが女神の名を呼び、誰かが聖者に手を合わせる。


 そうか、とリディアは思った。

 魔樹を断ったのは、この人なのだ。

 心から助けたかった相手を、助けに行って、本当に助けたのだ。


 女神がアイオリスへ目を向ける。

 彼はそっと目を伏せた。

 それだけの仕草なのに、二人の間には、他人には割り込めない何かがあった。


 リディアが息を漏らし、アイオリスが再び口を開こうとしたその時――


 群衆の中から一人の男が立ち上がり、進み出てきた。


 黄金の兜を小脇に抱えた、口髭の兵士。カストールだ。


 ミュルナを連れて行こうとしたペリエレスの部隊の副隊長。


 リディアは眉をひそめた。


 カストールは女神とアイオリスの前で跪き、頭を垂れた。

 その横顔は、やつれて青ざめていたが、どこか静かな覚悟が宿っていた。


「女神イズミール様、聖者アイオリス殿」


 低い声が泡の中に響く。


「我らペリエレスは、聖者殿の要請を己の利のために伏せたまま動き、混乱を招きました」


 周囲がざわつく。ペリエレスの名に、避難民や信徒たちの目つきが変わる。


「ペリエレスのカストール。私は確かに、貴殿らに黒禍の捜索を頼んだ。

 だが、黒禍は神域の底にあった。貴殿らだけで見つけられるものではなかった」


 己の陣営の非を告白するカストールに、アイオリスが取りなすように言う。


「不幸な行き違いはあったが、私も御子様も大事には至らなかった」


 アイオリスがそう言った瞬間、女神からぐらりと沸き立つような気配が生じた。

 気付いたのはリディアだけか、いや、アイオリスも僅かに女神を振り返って続ける。


「だが、ペリエレスに責任が無いとは言えない」


 その言葉にカストールは頷いて続ける。


「我々は、有事を理由に御子様を聖地から連れ出そうとさえしました。

 あまつさえ、御子様と聖者殿を害し、女神様をも苦しめた。

 私はそれを諫めるべき立場にありながら、止められなかった」


 リディアは息を止めた。


 その言葉の重さ。

 ああ、この人は責任を自分へ引き受けようとしているのだと分かった。


 ギュゲスも、急に出てきたカストールを訝し気に見ていたが、話の流れに不穏なものを感じて、身を強張らせた。


 それを今、ここで、聖者と女神の前で言うか? 正気か? と思った。


 カストールは、黄金の兜を静かに地へ置いた。

 討ち取った首を捧げるように、女神に面を向けて。


「この災厄が、我らの罪に対する女神様の裁きであるのならば――」


 リディアの背筋が凍る。


 駄目だ。

 この流れは、駄目だ。


「責ある者として、この命をもって、咎を雪がせていただきたく。

 何卒……何卒、人々に御慈悲を――」


 カストールが腰の短剣へ手を伸ばした。


「待って!」


 リディアが叫び。


「お、おい! 馬鹿! やめろって!」


 ギュゲスが身を起こして、手を伸ばす。

 だが、その手が届くより早く、アイオリスの声が落ちた。


「カストール、御子様もいらっしゃるのだぞ」


 その一言に、場が止まった。


 カストールの手も止まる。だが刃はもう半ば抜かれている。


挿絵(By みてみん)


 アイオリスが傷を庇いながら手を伸ばそうとした、その瞬間だった。


 女神がカストールへ手を向けて、拳ほどの水球を飛ばした。ぱしゃり、と音がして、カストールの顔が濡れた。


 泡の中の空気が凍りつく。


 水に触れれば黄金になる。

 それを皆、見てきた。


「ひ……っ」

「女神様の裁きだ……!」


 誰かが怯えた声を漏らす。


 だが、カストールが黄金になることはなかった。


「黄金に……ならない?」

「なぜ……?」


 頬を伝う水が口髭から落ち、滴になって地面へ散る。

 それでも何も起こらず、疑問の声があがる。


 カストールも呆然とした顔で、女神を見上げている。


 女神は怒ったような、呆れたような表情をしていた。

 どこか困っているようにも見える様子だった。


 アイオリスがそれを受け取るように、静かに顔を上げた。


「ペリエレスのカストール」


 その声は、泡の中へ静かに広がった。


「女神イズミールは、死を償いとはお認めにならない」


 息を呑む音が一斉に走る。


「その身に女神の水を受け、なお黄金とならなかった意味を考えよ」


 カストールの目が揺れる。


「生きて咎を贖え。それが女神の裁定だ」


 リディアはそこで、鳥肌が立つのを感じた。


 今のが本当に女神の言葉なのか分からない。

 ただ確かなのは、女神はカストールを罰しようとしなかったことだ。


 それは、泡の中の人々にも広がっていく。


 場の空気は、カストールに対する非難や敵意だけではなくなった。

 困惑。驚き。疑念。祈り。


 人々が再び頭を垂れる。

 今度は、ただ怯え惑うためだけではなく、裁定を受け取るために。


 カストールは短剣から手を離し、深く頭を垂れた。


「……御心のままに」


 その声は掠れていたが、もう死ぬつもりの人間の声ではなかった。


 ギュゲスが、そこでようやく大きく息を吐いたのが分かった。

 止めようとしかけた緊張が、ようやく抜けたのだろう。


 けれど、アイオリスはまだ終わらせなかった。


「――皆、そのまま聞いて欲しい」


 リディアはアイオリスの顔を見つめた。

 額にじっとりとした汗が浮いている。決して万全な状態ではないのだと思う。


 それでも、アイオリスは人々を見て言う。

 きっと、隣に立つひとを守るために。


「今、世界を沈めつつあるこの水は、女神の手を離れたものだ」


 泡の中に息を呑む音が広がる。


「元凶は、神域を浸蝕していた魔樹だ」


 リディアは、その言葉に思い当たることがあった。

 師匠は、神域の水の霊子の高まりは、女神ひとりの変調では済まない、どこまで広がるか予想もつかないと言っていた。


「だが、今もなお、水は止まっていない」


 人々の顔が再び強張る。魔樹は断った。

 聖地は深淵に堕ちない。聖者はそう言っていたのに、何故だ、と。


「だからこそ、女神は沈みゆく者たちを黄金に変えられた。

 あれは罰ではない。災厄から命を守るために、女神が差し伸べられた手だ」


 リディアは開いた口が塞がらない。


 理由も、手段も、あまりにも荒唐無稽で型破りだった。


 けれど、確かに罰なら沈めるだけで済む。黄金にする理由が分からなかった。

 それが、命を守るための選択だなどと、分かるはずが無かった。


 精霊や神様の考え方や発想は、やっぱり人間とは違うんだ、と妙な感心と納得をしていた。


「女神は、人の死を、争いを望んではいない」


 泡の中が静まる。


「少なくとも、今ここで誰かが血を流すことも、いがみ合うことも望まれてはいない」


 最後の言葉はカストールへ向けられていた。

 だが同時に、ここにいる全員へ向けられていた。


 その罪を裁くのは女神であり、人が勝手に責め立てることは赦されない。

 そう言っているのだと理解させられた。


 リディアは、女神を見る。


 その目は泡の向こうのどこか遠くを見ているかのようだった。

 でも、今のアイオリスの言葉通りなら、決して人間を見限ってはいない。


 カストールを思い止まらせる為に、率先して動いてもいた。


 神域の水面に現れた時のような、優し気な微笑を浮かべてはいないけれど、アイオリスが惹かれたのは、こうやって人を見捨てきれない優しさなのかなと思った。


 泡の中の空気はまだ重い。ただ、重苦しさの質は明らかに変わっていた。


 女神イズミールは人を滅ぼそうとしていない。


 聖者から伝えられたその“事実”は、信仰と共に生きてきた人々に安堵をもたらした。


 カストールは両手で顔を覆い、背を震わせた。

 リディアはそれを見て、胸の奥にこびりついていた警戒が、ほんの少しだけほどけるのを感じた。

 ギュゲスは頭を下げたまま、長く息を吐く。

 人々はようやく、ほんの少しだけ呼吸の仕方を思い出した。


※※※※※


 その時だった。


『マァマッ!』


 頭上で小さな声が弾けた。


 リディアが振り向くと、ミュルナ、ミュリナ、ミュシアの三人が、泡の縁で涙を浮かべて震えていた。


 癇癪を起したように手足を勢いよく振るって叫ぶ。


『マァマァ!』

『マァマーッ!』

『マッマ!』


 三人が、ほとんど同時に飛び出した。


 その瞬間、水を押し返すのに費やされていた霊子が、一瞬でほどけて消えるのをリディアは視た。


「待っ――」


 リディアの声が終わる前に、泡は大きくへこんで一気に崩れ出した。


 全周囲から一斉に水が流れ込んでくる。人々が悲鳴を上げるが、逃げ場などどこにもない。


 だが次の瞬間、女神が僅かに顔を向けただけで、水はぴたりと止まった。

 そして、自分の居場所を思い出したかのように、すごすごと外へ戻って行き、丸い膜が何事も無かったかのように張り直される。


 リディアは息を止める。


 ミュルナたちが三人がかりであれほど必死に支えていたものを、女神は造作もなく直した。泡の周囲を巡る霊子は途方もない量で、今、あの水の壁は通り抜けることさえ出来ないほど強固になっているのが、リディアには理解できた。


 圧倒的な神威と言うほかない。


 けれど同時に、女神の仕草にはわずかな戸惑いが見えた気がした。

 御子たちが癇癪を起したことに驚いているようだった。


 次の瞬間、ミュルナが女神の胸へ飛び込んだ。


『マァマ!』


 水色の小さな身体が、女神の胸元へしがみつく。

 羽衣を握り、豊かな胸に顔を押しつけ、全身で甘えている。


 水の身体に、角とヒレ、浄化と水を操る力を持った女神の御子。

 人々を洪水から守り続けた神秘の存在。


 でも、今、この場で見せている姿は、ただの幼子に過ぎなかった。

 神話のような光景でありながら、ただの母娘の抱擁でもあった。


 人々は、ただ呆気に取られていた。

 女神と御子が親子だと信じてはいても、こんなふうに甘え、甘えられる姿までは想像していなかったのだ。


 そして事態は、それだけで終わらなかった。


『みゅ、りなぁぁ! ヤーッ!』

『しあーっ! メーッ!』


 ミュリナとミュシアが、負けじと飛びついた。

 ミュルナを引っ張り、女神にしがみつき、三人でもつれ合う。


 女神が、明らかに困ったように何かを言う。


~~――(おいおいおい)! ~~――~~(いっぺんに来るなって)!」


 その声の調子だけで、止めようとしているのは分かる。

 けれど、本気で拒絶してはいないのは手つきからも明らかだった。


 リディアの口元が、思わず綻びかけた。


 無垢で無邪気なミュルナが、母を慕う姿をずっと見てきた。

 ミュリナとミュシアにも、母に会わせてあげたいと思っていた。それがやっと叶った。

 今、あの子たちは、ただ母に抱かれたい子どもでいられる。

 そして女神もまた、それを突き放してはいない。暖かくて尊い景色だと思った。


 ギュゲスが肩を震わせている。

 さっきまであれほど強張っていたのに、今は祈りの姿勢のまま笑いを噛み殺していた。

 女神は、人間を虫けらみたいに見下ろすだけの存在ではないらしい。

 そんな実感が、若い大工の肩から力を抜いていた。


 カストールは目の前の光景を呆然と眺めていた。

 その目に浮かんでいたのは、恐れよりも、深い悔恨と羞恥だった。


 御子たちは、力ある存在である前に、母を求める幼子だった。

 その御子を、母から引き離そうとする行いの何たる恥ずべきことか。

 自分たちは一体何をしようとしていたのか。


 その思いが、彼の肩をさらに深く沈ませていた。

 同時に、新たな決意が根付く。この尊い光景を何人も侵してはならない、と。


 女神が、アイオリスに何かを問うように振り向く。

 アイオリスが短く答える。


 女神が、ミュリナとミュシアのそれぞれに順番に呼びかけた。


『マァマ!』

『マァマー!』


 ミュリナとミュシアの顔がぱっと輝き、さらに勢いよく女神へしがみつく。


~~~―(だから!) ~――~~―(三人同時は無理だって)!』


『マァマ!』『みゅりな!』『しあー!』


 三人が一斉に母へ群がってはしゃいだ声をあげる。


 女神が危なげな手つきで、幼子たちを抱え、受け止め、声をあげる。

 その表情は、泡の中に入って来た時の硬さとは打って変わったもので、困惑や呆れ、苛立ちと、面倒見の良い優しさが垣間見えた。


挿絵(By みてみん)


 今や、泡の中の空気は完全に変わっていた。


 リディアは、女神に群がる御子たちの向こうで、アイオリスが、ひどく満足そうに微笑んでいるのを見た。


 肩に黄金の傷を抱えたままなのに、御子と母を見て、救われたような顔をしている。


 散々、心配をかけて、戻ってきたと思ったら、相変わらず自分の傷もそっちのけで、満足そうにしているなんて、ずるいなぁとリディアは思った。


 女神の頭によじ登って、枝角に掴まって『マンマァ~』と叫ぶミュルナを見ていると、頬が緩んでしまう。


 けれど、リディアの視線は、またアイオリスの肩へ戻る。


 そこにはまだ矢が刺さったままで、それだけではなく黄金で固まっている。

 泡の外の世界は水も沈んでいる。


 何となく、救われた気分になっていたけれど、まだ何も変わっていないのだ。

 こんな時に水を差すようで気が引けた。

 けれど、今を逃せば、何となくで先送りにしてしまいそうだった。


 リディアは小走りで女神と御子たち、そしてアイオリスの元へ向かった。


「あ、あの、アイオリスさん! 女神様!

 その傷の黄金って、直せるってことですよね……?」


 ずっと気になっていたことを小さな声で訊ねる。


「……黄金から戻せるか、と言っている」


 アイオリスは、女神と顔を見合わせた。


 ほんの一瞬。

 それだけで十分だった。


 大丈夫だと答えるべき場面で、女神の視線は明らかに泳いでいた。


「……大丈夫だ。問題ない」


 女神は何も言わなかったが、アイオリスはそう口にした。

 だが、その袖を女神が露骨に引いているのを見て、リディアの背筋は冷えた。


 どう見ても、大丈夫だと言っている者たちの様子ではなかった。


 女神から見える人間らしさに温かみを感じたのに、今度はその人間味にひやりとさせられる。


 あの黄金が戻せないのだとしたら、アイオリスの傷どころか、世界もこのままになりかねない。


(あれっ、えぇ……こ、これ、本当に大丈夫……?)


 女神は圧倒的な力を持っていて、でも、万能ではない。


 それを改めて実感して、まだこれからなのだとリディアは思い知らされた気分だった。

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― 新着の感想 ―
The MC can actually emote in the real world now. Did she level up because her water spread across th…
イズミールは言っている ここで死ぬ定めではないと 木こり野郎「一番いいのを頼む」
それだけの仕草なのに、二人の間には、他人には割り込めない何かがあった。 ふーん、二人の間には他人に割り込めない何かがあったらしいですよ俺くん、木こり野郎。
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