97.水から、歩み寄る(後編) 〇★
「□□□□□□! □□□□□□□□!」
水底の泡の中に残っていた人間たちが、泡越しにこっちを見て何かを叫んでいる。
うん。やっぱり、さっぱりなーんも分かんねぇ!
すっかり慣れ親しんだ糞仕様は、相変わらず健在だった。
俺は水の向こうで跪く人間たちを見ながら、抱えているアイオリスへ小さく視線を落とした。
「……なあ、おい」
「ああ」
「やっぱ俺、話すの無理っぽい。何言ってるか、全っ然分からん」
アイオリスは、ほんのわずかに目を瞬かせた。
驚いたというより、そういうものなのかと受け止める顔だった。
「声は、聞こえているのか」
「そもそも、お前が名前を呼んでくる時のしか聞き取れた試しがねえんだよ」
「……そうだったのか」
「そうだったのか、じゃねぇよ。なんでちょっと嬉しそうなんだ」
「君と言葉を交わせるのは嬉しい」
「俺は嬉しくねえ」
通話先限定とかお子様・老人向けの携帯かよ。
異世界転生って言ったら翻訳付きだろ!
担当者を出せ、上の者を呼んで来い!
詫びチート……はいいや。
謎能力はもういらん。
言ってから、俺は泡の中の人間たちへ目を向けた。
まずい。
見てる。滅茶苦茶見られてる。
今のやり取りも、こいつ以外には分からないのだとすると、出待ち中の信者そっちのけで、イケメン野郎とこそこそ内緒話をしていることになる。
滅茶苦茶感じ悪くないか、それ。
「おい、これ、あっちからしたら俺、お前以外ガン無視してるみたいじゃねぇか?」
「……そう見えるかもしれない」
「どうすんだよこれ、普通に炎上案件じゃねえか。
やべぇ、やべぇよ……暴動とか起こされたらどうすんだよぉ……」
入った途端にブーイングかまされたら絶対へこむ自信がある。
アイオリスは痛みを堪えているはずなのに、なぜか少しだけ目元を緩めた。
おい、なんだその微笑ましいみたいな目は。
久々にキレちまったよ、表に出ろ。あ、駄目だ。溺れる。
「では、やはり私が話そう」
「怪我人が軽々しく引き受けんな」
「他に方法がない。君の言葉も、私が伝えよう」
「だからって……」
「“何かいい感じにまとめろ”だったな。どうにかする」
こいつはそう言って、俺を見た。
くそ、また俺の発言を拾ってきやがって。
水底の青い光を映した目だった。
疲れていて、顔色も悪い。
肩も背中も、矢を黄金で固めたままだ。
それなのに、俺へ向ける視線は妙に静かで、揺るぎない。
僻みでしかないが、堂々としすぎていて腹が立つ。
でも、こいつ、俺が困ってる時に、自分が間に入れることを実は少し嬉しがってないか?
……いやいや、そんなわけないか。
こいつは真面目な男だ。
今も怪我を押して、俺と人間たちの間を取り持とうとしているだけだ。
……それだけ、だよな?
でも、あの目。
なんか、こう……俺が他の奴と話せないのを喜んでるみたいな。
「……お前、まさかとは思うけどさ」
「何だ」
「今の状態、ちょっと嬉しいとか思ってないだろうな……?」
アイオリスは、わずかに黙った。
黙るな。
「おい」
「……不謹慎だとは、思っている」
「思ってんのかよ!」
「だが、私だけが君の言葉を受け取れるのだと思うと……」
『ええ! ええ! わたしも嬉しいわ。だって、あなたとわたしだけの――』
「ああ、もういい。もう黙れ。その先言うな」
俺は思わず顔をしかめた。
案の定、頭の沸いてるバカ女まで湧いてきた。
この状況で独占欲とか出してんじゃねぇ。
周り見ろ。人類滅亡手前みたいな絵面だぞ。
こいつは俺への好意を一切隠そうとしない。
いつでも豪速球でぶつけてくる。
最悪だ。
ちょっとだけ、胸の奥が変な感じになる……だから、最悪だ。
「……いいから、通訳だけしろ。変なことは言うなよ。
あと無茶すんな。傷が開いたら、今度こそ全身金ぴかにするぞ」
「ああ、分かった」
「本当に分かってんのかぁ……?」
※※※※※
俺はアイオリスを抱えたまま、デカい泡へ近づいた。
外からは薄い膜にしか見えないが、中には乾いた地面が残っていて、人間が詰まっている。
これ、入っていいのか。破れないか?
いや、周りは俺の水だし、どうにかなるだろ。どうにかなれ。
思い切って近づいてみたら、こっちと向こうの泡がくっついて繋がった。
境目が開いても、水が中へ流れ込むことはない。
アイオリスを抱えたまま、境目を通り抜ける。
すると、泡の中の人間たちが、さらに深く頭を垂れる気配がした。
やめろ。
今のはただ自動ドアを通って来店しただけで、奇跡とかじゃない。
……たぶん。
泡の内側には空気がある。
水の中にいる時は圧は感じないが、空気の中にいると自分の重さを思い出す。
匂いは分からない。ただ、人間の息遣いと視線が、わっと押し寄せる。
うわ、人間多い。
いっせいにこっち見んな。怖い、怖い。
泡の外から覗いた時よりも、人間どもの視線がダイレクトに刺さってくる。
見上げる頭。
震える肩。
握りしめられた手。
祈りの形に組まれた指。
俺は思わずUターンしたくなったが、腕の中のアイオリスの重みで踏み止まった。
俺は地面に降り立って、アイオリスを慎重に降ろすことにした。
まだ病み上がりで、ちゃんと立てるかも分からない。
だから、右肩と腰を支えながら、様子を窺う。
顔色は。表情は。足元はどうだ。
「おい、大丈夫か。座った方がよくないか。やっぱり、やめとくか……?」
声をかけるが、あいつは小さく首を横に振って、自分の足でしっかり立った。
周囲から息を呑む気配が広がる。
何をどよめいてんだ?
ただ地面に降ろしただけだぞ。怪我人の介護だ。
なんか神聖な儀式的な空気を出すな。
アイオリスは姿勢を整え、物怖じした様子もなく群衆を見回した。
群衆の間から真っ先に飛び出してきたのは、茶色い髪の女の子だった。
リディアって言ったか。
アイオリスを見て、驚きから心配、そして安堵と痛ましさへ表情が変わる。
涙を浮かべて何かを叫んでいるが、言葉は分からない。
アイオリスは少女へ穏やかに目を向ける。
「リディア、心配をかけたな」
イケメンのくせに不愛想気味なこいつにしては、表情や声に、温かみと親しみがあるように見えた。
「ミュルナたちを、君に任せきりにしてしまったことも詫びる。
無事でいてくれて良かった……本当に頑張ったんだな」
片方の言ってることしか分からないのって不便だが、会話の流れは大体分かった。
うんうん、それはどう考えてもお前が悪いぞ、木こり野郎。
あんな危ない場所に、こんな普通っぽい子を連れ回すな。
「傷は大丈夫だ。イズミール様に黄金で固めていただいた。今は痛みは抑えられている」
イズミール"様"。
なんだその喋り方。
急に他人行儀になるな。なんか気色悪いぞ。
いや、人前だからか。
俺の非難の視線に気付いたわけじゃないんだろうが、今、俺の方をちらりと見て言った。
外向けには女神様として敬う感じで行くんで、そこんとこヨロシク、みたいな感じか?
嘘だろお前……ド直球しか投げられない壊れたピッチングマシンじゃなかったのか……。
いや、俺も元社会人だ。社内向けと社外向けの使い分けはマジで重要だ。
だが、こいつにそういう真似が出来るのは正直意外だった。舐めてたかもしれない。
こいつは今、女神様の代弁者みたいに振る舞おうとしている。
たぶん、今はその方が説明が手っ取り早いと思ったんだろう。
ありのままの俺を見せたら、こじれると思ったってことか!?
(はいはい! いやもう全くもっておっしゃる通りです……!)
ちょっとは腹が立つが、女神様の中身が陰キャな元男とか知られたら絶対こじれるわ。
泡の中に、またざわめきが走った。
アイオリスの傷口が黄金で固められていることに気づいたのだろう。
リディアも、目を見開いている。
俺を見て、アイオリスを見て、傷を見る。
その顔に恐怖と驚きが混ざった。
分かる、分かるよ。俺もどうかと思うもん。
人の傷を金ぴかに固めるとか、正気の沙汰じゃないよな。
でも、やるしかなかったんだよ。
だからそんな目で俺を見ないでくれ。
アイオリスは続けた。
「私はイズミール様に招かれ、神域の底に行った。
そこには魔樹が巣食っていた」
魔樹と言った途端に、泡の中の空気が変わった。
この世界の人間には、それほどのものらしい。
驚愕の直後に、恐怖と嫌悪が来る。
「イズミール様は黒禍に苛まれながらも、聖地を守ろうとしておられた」
おい。守ろうとした、とか言うな。
聖地とか知らん。自己防衛だ、自己防衛。
「案ずるな、魔樹は既に断った。
女神の浄化によって、黒禍は消えた。聖地が深淵に堕ちることはない」
リディアが目を見開き、人々がわっと沸いた。
おいおい、お前らも周りを見ろって。
その聖地が沈んでるだろうが。黒いのどころじゃないだろ!
……それとも、それくらいヤバい扱いなのか、あれって。
それはさておき、俺はアイオリスを睨んだ。
お前、さらっと流したけど死にかけながら魔樹を断ったのは、お前だろ。
もっと自分の功績を誇れ。でないと、俺の功績みたいにされるだろうが。
アイオリスはそんな俺の視線に気づいたのか、わずかに目を伏せた。
それから、また人々を見て、何かを言おうとした。
その時、群衆の中から一人の男が進み出た。
金髪で口ひげだが、盗っ人野郎じゃない。
鎧を着ていて、何故か黄金になった兜を小脇に抱えている。
真面目そうだが、要領が悪いというか幸薄そうというか。
社畜界隈ではありがちなツラだ。
アイオリスの表情がほんの少しだが強張った。
え、誰だ? 知ってる奴か?
男は俺たちの前で跪き、頭を垂れた。
それから、思い詰めた表情で何かを言う。
「□□□□□□、□□□□□□……」
うん、分かんね。
だが、重たさだけは伝わってきた。こいつ、木こり野郎寄りの奴だ。
たぶん、何かを謝っている。何かを背負って頭を下げてる人間の顔だ。
アイオリスが小さく息を吸う。
「ペリエレスのカストール。私は確かに、貴殿らに黒禍の捜索を頼んだ」
たぶんこれは、俺に聞かせようとして言ってるなとは思ったけど、知らんて。
カストールってのが名前で、ペリなんとかは何? 地名か?
とりあえず、口を挟まないでおこう。
「だが、黒禍は神域の底にあった。貴殿らだけで見つけられるものではなかった」
だが、次の瞬間、アイオリスが静かに付け加えた。
「不幸な行き違いはあったが、私も御子様も大事には至らなかった」
(……おい)
流石に今のは聞き捨てならなかった。
大事だろうが。
その矢がぶっ刺さったままの状態が大事じゃないなら、何なんだ。
あと、御子様って、ちびのことだよな?
この鎧……そうか。
あの時、撃ち合いを始めやがった兵隊どもか。
俺の中で“わたし”と“私”がおもむろに腰を上げたような気配。
一言物申したいっていう、その反応に、逆に俺の方が落ち着いた。
待て、待て、お前らもステイ、ステイ!
とりあえず、この場はアイオリスに任せるぞ。いいな。
『『……』』
「だが、ペリエレスに責任が無いとは言えない」
やっぱりそうか。
俺の前で、勝手に揉めて、ちびとアイオリスをあんな目に遭わせた奴ら。
面白くはない。当然だ。あれは笑い事じゃ済まない。
周りもざわめいた。
カストールという男を責めるみたいな雰囲気が、にわかに漂い始めた。
たぶん、自分たちの非をバラすような事を言ったんだろう。
なんだか良くない流れになってる気がするぞ、おい。
目の前の男は頭を垂れたまま、何かを言った。
アイオリスが俺に訳してくる。
「ペリエレスの兵として、自分には責があると申しています」
「……」
「聖地の守護を果たせず、私と御子を危険に晒した、と」
カストールはさらに何かを言った。
表情と声だけが硬い。覚悟を決めた者の声だった。
男は手にしていた兜を、俺の方へ向けて地面に置いた。
アイオリスの表情が変わった。
俺も何だか嫌な予感がした。
「おい、こいつ、今、何て言った」
「……この一命を以て、罪を償う、と」
「は?」
カストールの手が腰へ動いた。
短剣。
それを理解した瞬間、頭の中が真っ白になった。
何してんだこいつ!?
ちょ、おい、待て。やめろ!
カストールが刃を抜きかける。
アイオリスが低く言った。
「カストール、御子様もいらっしゃるのだぞ」
その一言で、カストールの手が止まった。
だが、刃はもう半ば抜かれていた。
アイオリスが、黄金に固めた肩を庇いながら、それでも右手を伸ばそうとする。
馬鹿、お前は動くな。
何で怪我人が怪我を増やそうとしてんだよ。
俺はカストールに手を向けて拳大の水の球を放った。
ぱしゃり、と音がして、カストールの顔が濡れた。
泡の中の空気が凍りついた。
カストールも、アイオリスも、周囲の人間たちも、全員が動きを止める。
その反応を見て、俺も止まった。
(ん……?)
あ、やらかした?
水を浴びれば黄金になる。
ここに居る人間たちは、それを目にしてきたはずだ。
トラウマを刺激しちまったかもしれない。
カストールの頬を、水が伝う。
口ひげから一滴、ぽたりと落ちる。
黄金にはなったりはしない。
俺が直接動かした水だし、黄金にする気でかけたわけでもない。
カストールは短剣を握ったまま、呆然と俺を見上げていた。
周囲の人間たちから、息を呑む音が広がる。
違う。今のは、ええと、あれだ。
顔を洗って頭を冷やせ的なやつだ。
別に、深い意味とか、そういうのは――。
アイオリスが、俺を見た。
やめろ。何かロクでもないことを言おうとしてるだろお前。
だが、アイオリスは静かにカストールへ向き直った。
「ペリエレスのカストール」
その声は、泡の中へ静かに響いた。
「女神イズミールは、死を償いとはお認めにならない」
(だいぶ端折ったな!?)
俺は内心で叫んだ。
そんな立派な言い方してないし、頭を冷やせ、くらいのノリだったぞ。
「その身に女神の水を受け、なお黄金とならなかった意味を考えよ」
(おい、増やすな! 勝手に意味を増やすな!)
「生きて咎を贖え。それが女神の裁定だ」
(女神の裁定!?)
いや、意味は合っている……合ってるか?
それにしたって盛り方が神話的すぎるだろうが。
また、余計な勘違いが広がりそうなんだが!?
泡の中に、ざわめきが広がった。
何を言っているかは分からないけれど、空気だけは変わった。
恐怖だけではない。
驚き。困惑。そして、何かを見出そうとするような、祈りに似た気配。
人々が頭を垂れる。
リンチ的な流れは回避できたのか……じゃあ、ヨシと言える……か?
変な誤解をされてたら、あとでアイオリスに説明させよう。
カストールは跪いたまま、項垂れていたが、アイオリスを見上げ、続けて俺を見た。
そして、短く。掠れた声で何かを言った。
たぶん、従うとか、そういうことを言ったのだろう。
まったく、冷や冷やさせやがって。
目の前で人に死なれるとか、本当、冗談じゃない。
だが、それで終わりではなかった。
アイオリスは、泡の中の人々へ顔を向けた。
「――皆、そのまま聞いて欲しい」
おい、まだ喋る気か。
俺は思わずアイオリスの肩へ視線を落とした。
黄金の傷口は動いていないし、血も出ていない。
でも、こいつの呼吸はさっきより少し荒い。
今止めたら場がどうなるか分からない。
アイオリスは短く息を吸った。
「今、世界を沈めつつあるこの水は、女神の手を離れたものだ」
(手を離れたって何だ。いや、止めたいのに止まらないのは合ってるけどな?)
人々が顔を上げる気配がした。
「元凶は、神域を浸蝕していた魔樹だ」
(うーん? 元はと言えば確かに黒いのが大体悪い……な?
起点がそれなのは間違いない。源流とか水門とか、説明すると長いもんな。
なんか、それだけ聞くとめちゃくちゃシンプルだな……)
「だが、今もなお、水は止まっていない」
その一言で、泡の中の空気がまた固くなる。
一様に恐怖と不安の表情を浮かべる。
アイオリスは続ける。
「だからこそ、女神は沈みゆく者たちを黄金に変えられた。
あれは罰ではない。災厄から命を守るために女神が差し伸べられた手だ」
それを言ってくれるのは、助かる。本当に、助かる。
あれはバカ社員どものやらかしだが、怒り任せに殺すためだけじゃない。
アイオリスは、俺が自分で言えないところを、ちゃんと掬う。
それはそれとして、言い方!
「女神は、人の死を、争いを望んではいない」
泡の中のざわめきが、静まった。
「少なくとも、今ここで誰かが血を流すことも、いがみ合うことも望まれてはいない」
最後の言葉は、カストールへ向けられていた。
でも、泡の中の全員に届いていた。
俺はアイオリスを見た。
端折りすぎだし、盛りすぎだし、説明不足だし、言い方がいちいち神話っぽすぎる。
でも。
大事なとこだけは、ちゃんと合ってる。
俺は人の死なんか望んでいない。
そんな重たいものは、俺には背負い切れない。
なら、今はそれでいい。
どうせ、言っても通じないしな。
泡の中に、重い沈黙が落ちる。
恐怖はまだある。畏れも、罪悪感も、祈りも、疑念もある。
ただ、さっきまでのように、命を差し出すとか、糾弾するみたいな空気ではなくなった。
カストールは両手で顔を覆い、丸めた背中を震わせた。
その姿を見て、俺は少しだけ力を抜いた。
※※※※※
――その時だった。
『マァマッ!』
頭上で小さな声が弾けた。
水のちび――ミュルナだ。
俺は反射的に振り向いた。
ミュルナ、ミュリナ、ミュシア。
ちびどもが目に雫を溜めて、泡の縁でぷるぷると震えていた。
見るからに我慢の限界って顔だった。
やばい。待てをかけたまま、忘れてた。
『マァマァ!』『マァマーッ!』『マッマ!』
三人がほぼ同時にすっ飛んできた。
次の瞬間、泡が大きくへこんで、縁がぶわりと崩れた。
外の水が一気に押し寄せる。人々の悲鳴が上がった。
(うわっ!?)
俺は反射的に水へ意識を向けた。
流れ込む水を止めて、外に押しやって丸い泡を作り直す。
おお、あっぶねぇ。
そういや、これ、今までこいつらが維持してたんだったっけ。
なんで、もっと早く気づかなかったんだ、俺は。
自分の仕事を投げ出すなって叱るべきか?
いや、でも、俺がやれって言ったわけでもないのに、やってたんだよな?
むしろ、褒めるべきか。
子どもも社員も褒めた方が伸びるんだったか、自主性が育つとかなんとか。
『マァマ!』
決めかねてるうちに、ミュルナが飛んできた。
「うおっ」
水色の小さな身体が、俺の胸元へぽちゃんと飛び込んできた。
羽衣をぎゅっと握って、丸い顔を胸にすりすりと押しつけ、全身でしがみついてくる。
「ミュルナ、お前、また俺の水を吸ってるだろ。
いいか、そういうのはちゃんと断りをだな……」
『マァマァ……ミュルナねー!』
まったく聞いていない。
ミュルナは俺の胸元に顔を埋めて、離れない。
頬ですりすりしながら、触れたところから水を吸ってくる。
胸元から吸ってくるせいで、見た目がややこしい。
違う。授乳とかじゃねぇ、水だ。給水だ。
そういうママ的なのは“私”にやってくれ。
周囲の人間たちが息を呑む気配がした。
女神の御子が母に抱きついた、とか、そういう神聖な絵面に見えているのかもしれない。
違うぞ。ただの給水行為だ。
やましいことは何もない。
そして、当然、それだけで済むはずがなかった。
『みゅ、りなぁぁ! ヤーッ!』
もう一人が突っ込んできた。
ミュルナの背中にしがみつき、ぐいぐいと角を引っ張る。
『しあーっ! メーッ!』
さらにもう一人。
俺の脚に噛り付くみたいにしがみついた。
「おいおいおい! いっぺんに来るなって!」
ミュルナは、ヤーとか、メーとか騒いで、俺の胸元から離れまいとする。
ちび二号は、そのミュルナを引き剥がそうとしている。
ちび三号は、俺の脚をよじ登って、今度はミュルナの足首を掴んだ。
「こらっ、お前ら、喧嘩するなって……うわっぷ」
俺を足場にちびたちが大喧嘩をする。
でも、だんだん、理由が分かってきた気がする。
あとの二人、ミュリナとミュシアは、お前ばかりずるいと言わんばかりにミュルナだけを狙っている。
俺、こいつらの名前をまだ呼んでやってなかった。
だから、拗ねて、怒ってるんだ。お子様だもんな。
「……おい、アイオリス」
「ああ」
「どっちがどっちだ」
アイオリスは、少しだけ目を細めた。
「君の右腕にしがみついているのがミュリナ。腰に抱きついているのがミュシアだ」
「なんで分かるんだよ」
「見ていれば分かる」
「そういうもんかよ……」
俺は、右腕にしがみついてミュルナを睨んでいる子を見た。
「ミュリナ」
ぴたり、と動きが止まった。
次に、腰に抱き着いてさらによじ登ろうとしている子を見る。
「ミュシア」
そちらも顔を上げた。
二人の水色の目が、ぱあっと輝く。
『マァマ!』『マァマー!』
両側から同時に突撃された。
三人同時に胸にしがみつこうとするな。
「だから! 三人同時は無理だって! ミュルナ、張り合うな!
ミュリナ、乳を引っ張るな! ミュシア、髪を食うんじゃねぇ!」
『マァマ!』『みゅりな!』『しあー!』
聞いちゃいない。
三人は俺の腕と胸と羽衣にまとわりつき、ぎゅうぎゅう押し合って、きゃっきゃとはしゃいでいる。
ミュルナが胸元を独占しようとすれば、ミュリナが腕を引っ張り、ミュシアが羽衣にぶら下がる。
暴虐の化身かお前らは。誰に似たんだ、誰に。
さっきまで死だの罪だの贖いだの、泡の中を重苦しく満たしていた空気が、完全にどこかへ吹っ飛んだ。
人々は跪いたまま、呆然とこちらを見ている。
リディアは口元を押さえて、泣きそうな、笑いそうな顔をしている。
ガタイの良い男が、額を地面につけたまま肩を震わせていた。
あれは跪いてるってより、腹を抱えて笑ってるだろ。誰だか知らんが不敬だぞ。
カストールは、へたり込んで茫然と暴れ回るちびどもを見ている。
涙の跡は見なかったことにしてやる。だから、妙な真似はするなよ。
女神及び社長改め、人型アスレチックと化した俺は、助けを求めてアイオリスを見た。
そもそも、俺はお前のためにここに来たんだぞ。
黄金の戻し方も、手当ても、何も片付いてない。
なのに。
アイオリスは、こちらを見て満足そうに微笑んでいた。
ひどく疲れた顔で、肩には黄金の傷を抱えたまま。
それでも、目元だけを柔らかくして。
どうしようもなく愛しいものでも見るみたいに。
だ、駄目だ、味方がいねえ。
俺は三人の御子にまとわりつかれたまま、満足そうに微笑むアイオリスを睨んだ。
お前の治療のために来てるんだぞ。
何を良い話だったみたいに済まそうとしてんだ、この木こり野郎が!




