96.水から、歩み寄る(前編) 〇★
泡の中に意識を戻すと、アイオリスの野郎は寝ていやがった。
こともあろうに、俺の胸に顔を預けてだ。
いいご身分だなぁ、おい。
イケメン無罪が俺に通じると思うなよ。
……まぁ、こいつが相当消耗していたことくらい、流石に分かる。
眠っているというより、意識を手放しかけているだけなのかもしれない。
だから、そっとしておく。
だって、左肩にも背中にも矢が刺さったままだ。
黄金で固めた傷口から、血は流れていないが、見ていて痛々しい。
青白い泡の中、肌の一部が光を受けて金色に輝いていて、出来の悪い現代アートみたいだ。
以前、黒髪を金髪にしたと思っていたのは、ただの勘違いだった。
でも、これは違う。
これは紛れもなく、俺がやったことだ。
「……どうすんだよ、これ」
思わず声が漏れた。
アイオリスは泡の中で、俺に抱えられたまま浅く息をしている。
さっきよりは呼吸が落ち着いているし、顔色も多少は戻ったように見える。
だが、このままでいいわけがない。
このまま抜くのはまずい。
いや、そもそも固まっていて抜けるのか?
固まった状態で削ったり折れたりしたらどうなる。ヤバくないか。ヤバいよな。
どうにかして黄金から戻して、その後に抜くとして、抜いたら血が出る。
血を止めるには、包帯とか、薬とか、針と糸とか、そういうのがいる。
あと、濡れたまんまなのも、たぶん不味い。
そういや、傷口を焼くとか言ってたな、こいつ。正気か?
そんなのお話の中だけにしてくれ。痛そうすぎるだろうが。
それに、焼くって火だよな?
火はなんか知らんがムカつく。水の底がぐつぐつする。
「あぁー、くっそ」
火なんかのことを考えたせいで、思わず悪態が出た。
でも、それくらい状況が詰んでいる。
包帯。薬。手当ての知識。着替え。毛布。
何一つ、ここにはない。
あるのは水だけだ。
世界を沈めるくらいの馬鹿みたいな量の水。
森も、草も、家も、荷も、道具も。
水に沈んだものは、全部、黄金にしてしまった。
包帯があったとしても金だ。
薬があったとしても金だ。
針は金でも使えるかもしれないが、糸が金だ。
金があれば何でも手に入るってよく言うが、ここには水と金しかない。
ゴールドラッシュとかインフレってレベルじゃねえぞ。
今じゃあ金なんて、石ころ同然の価値しかねえ。
いや、金を増やしまくってるのも俺なんだけど。
俺はアイオリスの傷口を睨みつけた。
睨んでも何も変わらない。
金色の傷は、静かにそこにあるだけだ。
黒いのを消して痛みはなくなったのに、問題は終わらない。
こいつは人間だ。
水じゃない。
俺みたいに、崩れても創り直せば元通りなんて、いい加減な身体じゃない。
傷ついて、血を流して、心臓や呼吸が止まれば死ぬ。
病気でも、寒すぎても、飲み食いできなくても死ぬ。
そうだよ。
こいつ、メシはどうする?
飲むものは俺がいるとして、食い物なんか何もない。
水の中のものは、魚だって黄金になっている。
『わたしの水だけを飲んでもらえたら、それでよくない?』
「いいわけあるか、ボケ! 水だけ飲んでろとか拷問かよ!」
バカ女がバカなことを言い出したので、即座に却下する。
こいつは基本、アイオリスのことしか考えていない。
なのに、根本的なところで人間ってもんを分かっていない。
メシを食わせるとか、体温を保つとか、人間としての当たり前を今まで忘れていた俺も俺だが……。
結論、このままだとこいつは死ぬ。
傷だけ塞いだってしょうがない。
矢を取り除いて、手当して、乾いた服を着せて、栄養を取らせて、ちゃんと休ませなきゃ駄目だ。
人間が生きるには水が絶対に欠かせないが、水だけじゃ生きていけない。
絶対にだ。
『そんな……』
“わたし”がショックを受けている。
今更か。
そういう面倒臭い生き物なんだよ、人間ってのは。
あーあ、女神様ってなんだよ。
こんな肝心な時に、何の役にも立たねぇじゃねぇか。
『……人なら、残っています』
静かな声がした。
“私”だ。
真面目な良い子ちゃんぶった女神様な部分の俺。
こいつも大概ヤバい奴だが、俺よりも広く細かく物事を見通せる。
「マジで? どこだ、街とか残ってんのか」
『いいえ……ミュルナたちのところに』
ミュルナ。
確か、ちびにそんな名前を付けたって言ってた。
他は確か――。
『ミュリナ、ミュシアです。
あの子たち三人が力を合わせて、人間たちを守っています』
“私”が妙に誇らしげに言った。
急にママぶってやがる。
もう、お前がママでいいから、俺までママにすんなよ。
言われて意識を向けてみると、遠くの水の中に、確かにそれっぽいのがいる。
底に沈んだ丘みたいなところに、大きな泡があった。
ちびたちが泡の内側から水を押し出すみたいに踏ん張っている。
ちょっと覗いてみると、中にはたくさんの人間がいた。
あの茶色い髪の女の子は、リディアって言ったか。
他にも結構いる。
ガタイの良い奴、兵士っぽいの、おっさん、爺さん、女、子ども。
信者どもがよく着けていた、あの水色のタスキは半々くらい。
生きている人間たちが、そこにいた。
『あそこでなら、人間の治療を頼めるかもしれません』
「……そこに、こいつを連れて行けって?」
自分で言って、喉の奥が詰まった。
喉なんて本当は無いはずなのに。
こういう時だけ、身体は人間みたいな反応をする。
俺が人間のところに行く。
今、この状況でか……?
森も家も人間も、みんな水の底で黄金になって沈んでいる。
俺がバカ社員どもを止められなかったから、こうなった。
そんな俺が、人間の前に出ていって、こいつを助けてくださいって言うのか?
なんて言って、どういう顔をすればいいんだよ。
社長女神として謝罪会見?
責任取って辞職?
辞められるもんなら辞めたいくらいだわ。
大体、もう謝って済む段階じゃなくないか?
賠償金……いや、金とか完全にゴミだ。
いい感じの棒とか、どんぐり以下。
そもそも、俺、人間と喋れるのか?
アイオリスとは、なんか知らんが喋れるようになっていた。
けど、別に前と話し方を変えたとかじゃないし、言葉の聞こえ方がおかしいのは前と一緒だ。
どういうわけか、こいつの言ってることの意味が分かるようになっていた。
『心が通じ合ったのよ。愛されていて、愛しているから!』
うん、お前は黙れ。
じゃあ、百歩譲ってその通りだとしたら、他の人間とは通じないってことになる。
女神パワー的なやつで、なんかいい感じになれーっ!
……そんな雑な理論は、もう信じていない。
今までそれで散々な目にあったからな。
(いや、でも、通じないんだとすると、どうなる?)
女神みたいなツラをして、泡をノックして入室。
まず、その時点で大騒ぎだろう。
この洪水が俺由来だろうってことは、誰だって思い付かないはずがない。
信者どもを末端の従業員に例えるなら、俺は会社を傾けた上に、大量リストラをかました言葉の通じない外国人社長ってわけだ。
地獄かよ。
陰キャにいきなり特大級の謝罪会見やらせるんじゃねぇ。
しかも俺が路頭に迷わせた奴らを相手に。
例えが最低すぎる。
やめろ。
『アイオリスを助けるためなら仕方ないわ』
今度は“わたし”が囁いた。
甘くて熱っぽい、うっかり頷きそうになる声。
「……簡単に言うな」
人間の前に出るのは嫌だ。
この景色を作った後で、ノコノコ顔を出すとか、考えただけで水底に沈みたくなる。
『アイオリスは難しいことをやってくれたじゃない』
「うるせえ、分かってんだよ……!」
俺だって、こいつをこのまましておくのは嫌だ。
俺はアイオリスを抱え直した。
泡の中で、水の膜が揺れる。
アイオリスが薄く目を開けた。
「イズミール……話し合いは終わったのか……?」
「起きてたのかよ」
「聞こえたのは、君の声だけだが」
サラッと脳内会議を察するな。
勘違い野郎のくせに、なんでそういうのは外さないんだよお前は。
「聞き流しとけよ……」
「すまない」
「すぐ謝るな」
いつものやり取りに近いものが返ってきて、少しだけ息が抜けた。
こいつはまだ生きていて、喋れる。
そうだ、俺一人で全部をなんとかしなきゃいけないわけじゃなかった。
これは、こいつ自身のことだ。
こいつにも背負ってもらおう。それがいい。
「ちび……ミュルナたちのところに、まだ人が残ってた。
リディアって子も無事だ。そこでなら手当くらいできるかもしれない」
「……そうか」
アイオリスの目が、わずかに和らいだ。
「だが、君にとっては好ましくない場所のはずだ」
それなのに、出てくる言葉がこれだ。
自分のことより、他人のこと。他人のことより、俺のこと。
だから、そんな怪我をしたんだぞ、お前。
「……お前にとっては必要な場所だろ。
そのままずっと、イカれた飾りをブッ刺して過ごす気かよ」
睨みつけてやると、何故か目を逸らしやがった。
普段は滅茶苦茶覗き込んでくるくせに、たまにこうなるんだよな、こいつ。
いや、ちょっと顔が赤いか? 熱がある? やっぱ着替えと毛布が要るな。
「……私から話そう」
「お前、自分の状態分かって言ってる?」
矢が刺さってんだぞ。
しかも身体の一部が金ぴかの変態野郎だ。
いっぺん死にかけたってことを、理解してんのか、おい。
「分かっている。だが、君が無理に話す必要はない」
アイオリスは、浅い呼吸のまま言う。
そういうとこなんだぞ、本当に。
「彼らが恐れや恨みを抱いたとしても、私が受ける」
「説得力ねえんだよ、口下手のくせに。しかも怪我人だろ」
そう、どう考えてもこいつが説明上手とは思えない。
女信者なら絆されちまうかもしれないが、野郎には逆効果だぞ。
俺にもな。何が、"私が受ける"だ。
「だが、もう君一人を矢面には立たせない」
「だから、矢が刺さってんの、お前!
そういう綺麗ごとを言えば、俺が黙るとでも思うなよ」
いかにもこいつらしい物言いに、俺はそっぽを向いた。
と言っても、泡の中にはそっぽを向ける場所なんてほとんどない。
こいつは典型的な、仕事を抱え込んで無理して潰れるタイプだ。
自分一人で抱えて潰れる分には、自分のせいだけで済む。
人を巻き込んで失敗して、そいつに詰られる方がキツいと思っている。
暗い水の向こうには沈む黄金。
こっちにはクソ重たい怪我人。
どっちもロクでもない。
「……じゃあ、行くぞ」
「ああ」
「俺も話してみるから……まずそうなら、お前が何かいい感じにまとめろ」
「努力する」
「努力じゃねぇ。どうにかしろ。
でも、かばうとかそういうのは無しだぞ。
怪我は増やすな、今度こそ絶対の絶対だからな!」
返事を待たず、アイオリスを包む泡ごと、水の中を進む。
こいつは沈めない――そう思うだけで、ほとんど意識せずに周囲の水が退いていく。
水はどこまでも澄んでいて、どこまでも深い。
水が俺の動きを邪魔することはない。
水の中を進むというよりも、空を飛んでいるみたいだ。
泉が広がって湖になってから、水の中を飛ぶのは好きだった。
旋回も宙返りも自由自在で、魚を追っかけまわしたりもした。
けど、今、広がり過ぎた水の中には、魚一匹すら泳いでいない。
水の底には黄金が沈んでいる。
黄金の木々。
黄金の屋根。
黄金の荷車。
黄金の人影。
それらを見下ろしながら、俺たちは進む。
見たくない。
けれど、見えてしまう。
誰かが腕を伸ばしたまま固まっている。
誰かが子どもを抱えたまま黄金になっている。
兵士らしい男が、剣を抜こうとした姿勢で止まっている。
叫び声が聞こえてきそうな顔をしているのに、水の中はどこまでも静かだ。
アイオリスも同じものを見ているはずだが、何も言わない。
何か言われたら、責められているか、気休めだって思っていたかもしれない。
だから、何も言われないことに少しだけ救われて、少しだけ苦しくなる。
(……いきなり、わけわかんねぇ状況に放り込まれんのはキツいよな)
身動きの取れない状態になった人間たちを見下ろし、俺は心の中で呟いた。
(今は、もうちょっと待っててくれ……なんとかするから)
誰に言っているのか分からない。
黄金の人間たちにか。
沈んだ森にか。
自分にか。
分からないまま、俺は水の中を進んだ。
やがて、前方の水底に、大きな泡が見えてきた。
俺が沈めた世界で、まだ人間が息をしている場所だった。
※※※※※
透明な泡。
その内側に、人間たちがひしめいている。
泡の縁では、三つの小さな水の影が両手を突っ張り、必死に外の水を押し返していた。
俺が近づいた瞬間、三人が同時にこちらを向いて叫んだ。
『マァマ!』
『マァマ!』
『マァマ!』
声が、大泡を通り抜けて水を震わせて、こっちの泡の中に届く。
言葉というより、意味が水に直接混ざってくる感じだ。
うわぁ、本当に喋れるやつが増えてるじゃねえか。
で、やっぱりお前らもママ呼びなのかよ。
もう、量産型でも水フィギュアでもない、お子様の追加だ。
『ああ……なんて、なんて立派な子たちでしょうか』
勝手に感心してる“私”は放っておく。
ぱっと全身を輝かせて、ぶんぶん手を振ってきたのは、ちび――うん、あれがミュルナだな。
で、後の二人が、ミュリナとミュシアだっけ?
流石にどっちがどっちかまでは分からん。
ちびたちは今にもすっ飛んできそうだった。
だが、待って欲しい。大人にはいろいろ事情があるんだ、謝罪会見とか。
「待て待て、ステイっ! 俺はこれから大事な話があるから、ちょっと待て!」
思わず声が出た。
俺の声は水を震わせ、大泡の内側まで届いたらしい。
ちびたちがつんのめるみたいに止まった。
ヤーとかメーとか駄々をこねるみたいに叫んで、手足をじたばたさせている。
いい子だからおとなしく待ってろ、後で構ってやるから。
問題はそっちじゃない。
泡の内側の人間たちが、一斉にこちらを見た。
ざわめきが止まる。
やべえ。
「イズミール……」
腕の中からアイオリスが見上げてくる。
やめろ。
そんな目で見るな。
確かに、ちょっと、やらかしたかもしれない。
だが、まだだ。
まだ取り返せる……はずだ。
大泡の中の様子を恐々と窺いながら、ゆっくり近づいていく。
泡の内側で、誰かが膝をついた。
それが合図みたいに、次々と続いた。
兵士も、信徒も、避難民も。
泥まみれの人間たちが、黄金の水底の上で一斉に跪いていく。
俺はまだ何も言ってないんだが。
何も裁いてない。
というか、何も分かってない。
額を地面につける者。
両手を組んで震える者。
泣きながら何かを叫ぶ者。
「□□□□□□! □□□□□□□□!」
「□□□□、□□□□□□□……!」
泡の内側から、声が重なって届いた。
重なり合って聞こえないんだと思いたかった。
「□□□□□□、□□□□□□!」
(あー……)
そんな予感はあった。でも、当たって欲しくなかった。
俺は内心、天を仰いだ。今は水面だが。
「□□□□□□!」
泣いている。
震えている。
たぶん、謝っている?
赦しを乞うているとか、そんな感じ。
そのくらいは、空気で分かる。
でもな。
「□□□□□□□□、□□□□□□!」
やっぱり、何言ってんのか、分かんねぇまんまじゃねぇか!




