95.水に沈んだ泡沫は、絶えず結びて ◆★
91話「聖女は水から浮かび、富者は黄金と共に沈む」の直後から、94話「94.水の泡に、帰す」の少し先くらいまで
――どおん、と音を立てて、神域から巨大な水柱が立ち昇った。
遅れて押し寄せたのは、洪水と呼ぶにはあまりにも澄み渡った水の壁だった。
丘の周囲が、一息で水に呑まれる。
だが、水はそのまま人々を呑み込まなかった。
流れ込んだ水が、見えない壁にぶつかったように丸く撓む。
絶え間なく押し寄せ、砕け、白波を立てるのに、丘の上には飛沫一つ落ちてこない。
丘全体が、透明な泡に包まれていた。
水に没しながら、辛うじてそこだけが踏み止まっている。
誰もが声を失った静寂の中で、幼子たちの叫び声が響いた。
『『『ミュィィィッ!!!』』』
ミュルナ。ミュリナ。ミュシア。
角とひれを持つ水の幼子たちが、泡の縁に向かって両手をかざしていた。
まるで、その小さな手で迫ってくる水を押し返すように。
助かった。
そう思って周囲を見回した瞬間、リディアは喉の奥をひゅっと鳴らした。
自分たちを包む丸い泡の外側には、どこまでも澄み切った水が広がっていた。
水面はずっと、ずっと上だ。
差し込む日差しは青白く揺れながら、伸ばした手では届かないほど遠い。
丘は水底に沈んでいた。
泡の内側には、辛うじて空気がある。だから息はできる。
だが、見上げるたび、陽の光は薄く、遠く、小さくなっていく。
まるで、神域の湖の底へ沈んでいった時のように。
――いや、実際、沈んでいるのだ。
今度は自分たちを乗せた小舟ではない。
世界が、沈みつつある。
泡の外では、地面も、根を張っていた草も、低木も、すべてが黄金へ変わっていた。
もっと遠くには、人の形をした黄金も見えた。
呆然と立ち尽くしたままの者。
跪き祈りの姿勢をとった者。
誰かに縋ろうと腕を伸ばした格好のままの者。
皆、朝の光を受け、黄金色に冷たく輝きながら沈んでいく。
木の葉一枚たりとも流れてこない。水に呑まれたものは、触れた瞬間に黄金になって止まるからだ。
澄んだ水の中、どこまでも続く金色が不気味に鮮やかだった。
泡の内側は生きている者のざわめきで満ちているのに、泡の外はどこまでも静かで美しかった。
「空が……沈んで……」
誰かが空を見上げて、掠れた声で呟いた。
その奇妙な言い回しを指摘する者も、笑う者もいなかった。
頭上に水面が広がるその光景は、空が水に落ちたかのようだった。
「やだ、やだ……っ、どうしてぇ……」
「女神様、どうか、お赦しを……!」
「御子様、御使い様、お助けくださいっ」
泡の中に押し込められた避難民たちは、口々に悲鳴をあげ、あるいは祈り、あるいはその場にへたり込んでいた。
膝をついて祈りの言葉を繰り返す老人。
その場にへたり込み、子どもを抱きしめる母親。
武器を握ったまま震え、ぶつぶつと意味の分からぬ声をこぼす兵。
皆、狭い泡の中で、同じ恐怖に押し潰されかけている。
リディアは、それらの音に背中を押されるように、はっと我に返った。
「ミュルナ! ミュリナ! ミュシア!」
慌てて呼ぶと、宙を舞う水色の小さな影が、ふらつくように揺れた。
『ん、みぅー……!』
『みぃっ、みぃっ……!』
『や、やぁーっ!』
三人の御子たちの姿は、丘へ舟ごと飛び出してきた時よりも明らかに小さい。
丸みのあった腕は細く、頬の水も少し薄くなり、角もヒレも力なく垂れている。
リディアには、幼子たちをかたちづくる水の霊子がみるみる減っていくのが分かった。
押し寄せる水を、たった三人で受け止めているからだ。
丸い泡の膜が震えて、べこりとへこんだ。
外からの圧に押され、泡そのものが少しずつ狭まっていた。
『みぅぅ……っ』
その度に、幼子が腕を突っ張らせ、へこんだ箇所を押し返す。
三人はまだ張り切っているつもりなのだろう。
けれどその声は力なく、押し返そうとする小さな手は震えていた。
じわり、じわりと泡が縮まり、水に呑まれた地面が黄金に染まっていく。
「みんな!」
リディアは駆け寄った。
ミュルナは振り向いて、いつものように笑おうとした。
だが、その笑みはひどく弱々しい。
『だぁ……じょ……』
大丈夫、と言いたいのだと分かる。
でも、明らかに弱っている。
無理もない。
神域では三人で力を合わせて、やっと小舟を包む泡を作っていたのだ。
それなのに、今、この丘を包む泡は、あまりにも大きい。
ミュルナたちは己の霊子を削りながら、なんとか押し返そうとしている。
リディアが助けを求めたから、それに応えようとしたのだ。
「だめ……このままじゃ……!」
リディアはすぐに両手を掲げ、水の魔術を組んだ。
泡の外側の水は、あまりにも大きく、濃すぎる。
今のリディアの魔術では、掴もうとしただけで加減を誤り、泡の中へ激流を呼び込んでしまいかねない。
だから、泡の内側に残る水気をかき集め、細い流れに変えて三人へ流し込む。
少しでも水を与えれば、失った霊子の補いになるかもしれない。
そう思った。
「みんな……! これで、少しでも……!」
淡い青の光が走り、御子たちの身体の表面へ水が薄く巡る。
一瞬だけ、ミュルナが目をぱちぱちと瞬かせた。
ミュリナのヒレがぴくりと動き、ミュシアの頬に少しだけ丸みが戻る。
『マァ……』
けれど、それだけだった。
泡はなおも軋み、三人の身体はなおも削られていく。
リディアの集められる水では、失われる霊子の速度にまるで追いつかなかった。
「だめ……追いつかない……!」
リディアは歯を食いしばった。
目の前に水があるのに、未熟な魔術師には、その途方もない流れに手が出せない。
周囲では、泡が狭まっていくのを感じ取った人々がまたざわめき始めていた。
誰かが「お助けを」と叫び、別の誰かが「ああ、御子様が……」と泣き出す。
泣き声に釣られた子どもまでわんわんと喚き始め、泡の中はたちまち混乱の坩堝になった。
そんな中で、大工のギュゲスがリディアのすぐそばまで来て、泡の外を指さした。
「なぁ、リディアって言ったか」
低く太い声だった。
ざわめきの中でも通る、現場で声を張り上げることに慣れた声。
「あの御子様たちに、水をやればいいんだよな?」
リディアは振り向いた。
「え……?」
「水なら、その辺に腐るほどあるだろうが。それをあの御子様にぶっかけりゃいいんじゃねぇのか?」
「だ、だめなんです……。私の魔法じゃ外の水を直接動かせなくて……」
リディアはほとんど叫ぶように答えた。
「それにミュルナたちは今、水を押し退けるのに精一杯で、自分で取り込む余裕もありません」
ギュゲスが腕組みして唸る。
「じゃあ、誰かが汲んでくりゃ、動かせるってことか」
「そ、それなら、たぶん、私でも……。でも、人が触れたら黄金になっちゃいます!」
言いながら、リディアは言葉を詰まらせた。
どうやって。
この場にいる者は、誰もが水を恐れている。
さっきまで目の前で、人が触れた途端に黄金へ変わっていくのを見ていたのだ。
恐れるなという方が無理だった。
しかも泡はどんどん狭まっている。
人々は互いに肩を寄せ合い、子どもを抱き寄せ、祈りの言葉を途切れ途切れに呟いていた。
誰もが助かりたくて、でもどうすればいいのか分からない顔をしている。
水を汲んで運ぶ。
言葉だけなら簡単なようでいて、今は何よりも危険な行為だ。
その役を誰がやるのか。
泡の中の人々も、リディアとギュゲスの会話を聞いていた。
だが、皆、顔を強張らせたまま動かない。
外の水へ触れた者がどうなるかは、もう誰もが知っている。
だから誰も、すぐには動けなかった。
「……なら、私にやらせて欲しい」
その沈黙を破ったのは、ひどく疲れた、それでいて妙に張り詰めた男の声だった。
群衆の一角から現れたのは、ペリエレスから派遣された部隊の副隊長、カストールだった。
その顔を見た瞬間、リディアの胸がざわついた。
黄金の水場。
ペリエレスの陣。
師匠と引き離された時の不安。
そして、飛び交う矢。
地面に溶けたミュルナ。
アイオリスの肩から散った血。
今の惨事は、みなそこから繋がっている。
リディアの表情が強張ったのを見て、カストールは一瞬だけ目を伏せた。
ただ、兜へ手をかける。
「……許されるとは思っていない」
低く、乾いた声だった。
「だからせめて今、役に立ちたい。使ってくれ」
淡々とした声音だった。
謝罪ではない。言い訳でもない。
しかし、覚悟を決めた者の声だった。
湖岸に残って自分たちを送り出した師匠の顔を、リディアは一瞬だけ思い出した。
リディアは唇を噛んだ。
信用できるかと問われれば、しきれない。
怒りや疑念は消えてはいない。
だが、今ここでそれにとらわれてミュルナたちを見殺しにすることは、もっと違う。
ミュルナたちの小さな手が震えているのが見えた。
リディアはぎゅっと目を閉じ、すぐに開いた。
「……お願いします」
カストールは頷いた。
それだけで、もう十分だった。
※※※※※
彼は脱いだ兜を手に、泡の縁へ向かった。
泡の膜すれすれまで身を寄せ、外の水に手が触れぬよう慎重に兜を差し出していく。
兜の端が泡の膜をつぷりと抜け、外の水が兜の内側へ流れ込んだ。
カストールは息を呑んだ。
兜は外の水に触れた箇所から、たちまち黄金に変わった。
泡の内側へ引き戻しても、その変化は縁を伝ってじわりと広がっていく。
だが、兜を黄金へと変えた力は、カストールの身にまでは及ばなかった。
黄金の兜の中で水が揺れる。
これがほんの一滴でも肌へ跳ねれば、自分も黄金になるだろう。
陣地で物言わぬ像になったオイバロスや部下たちの姿が目に浮かんだ。
カストールは全身の筋を張り詰めさせながら、兜を引き戻した。
「水を持ってミュルナの……あの子の傍に。あとは、私が」
リディアが言うと、カストールはうなずき返した。
汲み取った水をこぼさぬように。
水に触れぬように。
慎重に、ゆっくりと歩き出す。
黄金の兜に水を溜め、水の幼子の元へと向かう。
群衆が畏れるように割れ、道を開ける。
皆、一様に、黄金と水を見つめていた。
「御子様――どうぞ、お受け取りください」
低く言って、カストールがミュルナに向けて黄金の兜を捧げ持つ。
人が触れれば黄金になる水でも、御子たちにとっては違う。
それは母の水であり、力そのものだった。
リディアは魔術で、兜の中の水を細い水流に変える。
一滴も無駄にしないように。
人にかからぬように。
泡を維持するのに必死なミュルナが受け止められるよう、ゆっくりと。
水が流し込まれると、青白い髪めいた水が揺れ、小さな身体に僅かだけ張りが戻る。
『マァー……?』
ミュルナは、ぱっと笑みを浮かべた。
それを見て、カストールが悔恨に僅かに表情を歪める。
『みゅ……っ!』
ミュルナが満足そうに声をあげる。
すると、ミュリナとミュシアも負けじと騒ぎ出した。
『みゅ、りな……っ』
『しぁーっ! メーッ!』
まるで、ミュルナだけがお菓子をもらってずるい、と叫んでいるようだった。
緊張に強ばっていたリディアの口元が、ほんの少し綻ぶ。
だが、すぐに叫んだ。
「効いてます……! あとの二人にも、お願いします!」
リディアの声に、泡の中の空気がざわめく。
「ああ、御子様がお元気に……!」
「助かる、のか……?」
その声で、凍りついていた人々の顔がようやく変わった。
祈りでも絶望でもない、別の色がそこへ差した。
「心得た!」
カストールはそれだけ言って、黄金の兜を抱えて泡の縁へと走る。
今度は、別の兵士が駆け寄ってきた。
「副長、私もお手伝いいたします!」
所属の異なる兵士たちも声を上げる。
「ペリエレスの者たちだけにやらせるわけには……!」
別の避難民が半泣きの顔で「俺もだ」と言い出した。
老いた信徒までもが「汲み取るだけでも」と震える足で前へ出ようとする。
泡の内側で“助けを待つ者”の中から、“助かるために動く者”が現れ始めた。
だが、その中の一人が水の汲み取りの最中に焦ってつまずいた瞬間だった。
泡の縁から跳ねた飛沫が、男の腕へかかる。
「あっ」
短い声。
次の瞬間、その前腕が金色に固まった。
男は悲鳴を上げたが、そこから先は早い。
肘へ、肩へ、全身へ。その肉体だけが黄金となる。
リディアは咄嗟に風の魔術を放とうとした。
だが、他の者にまで飛沫がかかりかねないことに気付いて、手を止めた。
そうこうしているうちに、男は黄金の像となって動かなくなった。
痛いほどの沈黙が落ちた。
皆、動けない。
だが、カストールは一瞬目を閉じてから、叫び、また動き出した。
「止まるな! 続けるんだ! 我々で御子様をお助けするんだ!
慌てず、手元と水を見てゆっくりと進め!」
「は、はいっ!」
その声に、固まっていた人々が再び動き出した。
落ち着きを取り戻したわけではない。
恐慌に飲まれぬように、目の前の出来ることに逃げただけだ。
それでも、人が動けば事態も動く。
何度も水が汲まれ、御子たちの元に運ばれる。
リディアは御子たちの霊子の働きを見ながら、順番に水を与える。
繰り返していくうちに、少しずつだが、御子たちは確かに持ち直していく。
泡の縮みも、ほんのわずかに遅くなった。
だが、すぐに問題が見えてきた。
「駄目だ、駄目だ! こんなんじゃ足りねぇっ」
ギュゲスが低く舌打ちして吐き捨てた。
「この兜じゃ浅ぇし、こぼれる。話になんねぇよ!」
遠慮のない言葉に、兜の持ち主だった兵士が顔を顰めた。
だが、水を汲むにも運ぶにも不向きなのは確かだった。
「だ、だがっ、他に使えるものなどっ」
避難民たちの多くは、着の身着のままでこの丘に逃げ込んできた。
荷物を捨てきれなかった者は、とっくに水の底だ。
ギュゲスの目が、泡の中をぐるりと見回した。
そして、ふと止まる。
そこにあったのは、リディアが乗ってきた小舟だった。
半ば横倒しになり、櫂が二本、その脇へ転がっている。
「……あるじゃねぇか、使えるもんが」
ギュゲスが呟いた。
「舟を、使うんですか?」
リディアが問うと、ギュゲスは首を振った。
「あのままじゃでかすぎる。外へ押し出しゃ、水がどっと入ってくる。けどよ、材木にはなる」
ギュゲスは小舟を見下ろし、歯を剥いて笑った。
「道具がねぇなら作りゃ良いんだ!」
ギュゲスはすでに動き出していた。
小舟の縁へ手をかけ、構造を確かめる。
どこを外せば板が取れるか。
どこを折れば無駄なく使えるか。
その目はもう迷っていない。
「おい、そっちの兵隊! 剣持ってんだろ! 貸せ!」
「な、何を――」
「いいから来い! あの舟から板を剥がすんだよ!
ボサッとしてる奴らも手伝え! 服でもなんでもいい、布持ってこい!」
ギュゲスは声を張り上げ、人手を集める。
その剣幕に、周囲の人間が思わず流されて動き出す。
ギュゲスは兵が差し出した剣を受け取るなり、舟の側板の継ぎ目へ刃を差し込み、梃子みたいに捻った。
みし、と木が悲鳴を上げて、板が剥がれる。
剥がした板を、今度は木目に沿って叩き割る。
二度、三度と繰り返すうちに、板は棒切れのようなものになった。
棒切れを組み合わせ、靴紐で結わえて四角い枠をこさえる。
そこへ集めさせた布を噛ませるように張ると、口を大きく広げた、不格好な袋が出来上がった。
木枠に吊られた布が箱のような形を保ち、底へ向かって深く垂れ下がっている。
「……こんなもの、一体どうする気だ。これで水を運べると思っているのか?」
言われるがままに手伝わされていた者が食ってかかる。
皮袋であればともかく、布では水が染み出してしまうではないか、と。
だが、ギュゲスはそれを無視して、御子に水を運ぶ兵士に呼びかけた。
「おい! その水持ってこい! こいつを固めるんだ!」
リディアはそこでようやく、ギュゲスの狙いに気づいた。
触れたものを固めるのなら、布袋でも器になる。
「あの水は触れたものを金に変えるんだろ?
だったら薄くても脆くても関係ねぇ! パリッと固めて貰おうぜ!」
ギュゲスは歯を剥いて笑った。
「祝福だか罰だか知らねぇけど。使えるもんは使わせて貰わなきゃな」
その顔は、恐怖の中にいてもなお、生きるために頭を回す人間の顔だった。
「カストールさん! 水をこっちに!」
リディアの声に、カストールは一瞬迷ったが、黄金の兜に残っていた水を運んできた。
その水が、ギュゲスの指示で即席の袋へ慎重に注がれた。
木枠で口を広げられた布袋が、触れた先から静かに黄金へ変わっていく。
垂れていた布は張りを帯び、沈んでいた底はぴんと形を持ち、角までそのまま固まった。
木枠ごと黄金に変わったそれは、もはや袋ではなく、箱とも桶ともつかない容器になっていた。
リディアとカストールは目を見開いた。
それは不格好な容れ物だった。
だが、兜よりは遥かに深く、広い。
縁も高く、中へ溜めた水がこぼれにくそうに見えた。
「水漏れなし、枠とも噛み合ってるな……よし! いけるぞ」
ギュゲスは水に触れないように、黄金と化したことで硬くなった容器の各所を確認してから叫んだ。
「おい、これ持ってけ! 枠の両脇を片側ずつ持て!
底は平じゃねえから、置くときは気を付けろよ!」
兵と避難民の男が一人ずつ駆け寄る。
二人でその容れ物の枠を抱え、泡の縁へ向かい、外の水へ慎重に傾けて、中へ水を取り込む。
兜と比べて、一度にかなりの量を入れることができた。
兜で水を運んでいた者が、おお、と感嘆の声をあげた。
「そこに置いてください。一旦離れて……!」
運び込まれた水を、リディアが魔術でミュルナたちに分けて注ぐ。
小さな身体が受け止めやすいように、細い流れにして少しずつ流し込んでいく。
『んマァ!』
『みぁ……っ!』
『しあっ!』
今度の反応は、さっきまでよりはっきりしていた。
ミュルナが顔を上げて笑った。
ミュリナが力いっぱい腕を突き出す。
ミュシアが真似をして、笑顔で腕を突っ張る。
へこみが増えて歪になっていた泡が、ぎし、と鳴って円みを取り戻した。
縮む勢いが、初めて目に見えて鈍った。
「止まっ、た……?」
「まだです! 次を、お願いします!」
リディアは安易な救いを即座に否定した。
だが、その声には先ほどまでよりずっと張りがあった。
その声で、人々の顔に一斉に何かが灯った。
希望と呼ぶには、まだあまりに恐怖が濃い。
だが、もうただ泣いているだけの顔ではない。
カストールはもう迷わなかった。
声を張り上げて、ギュゲスと周りに呼びかける。
「同じものをもっと作ってくれ!
皆、布を集めて彼の元へ! 手伝え!」
「任せとけ!」
ギュゲスが応え、誰かが続く。
「俺も手伝わせてくれ!」
「板を剥がせばいいのか!」
「おい、布が必要だってよ!」
「だが、これは女神様への……」
「馬鹿! 御子様を助けるためだろうが!」
今度は列ができた。
舟から板を剥がす者。
布や紐を持ち寄る者。
使えそうな道具を差し出す者。
中には、女神信仰の象徴として用いられる水色のサッシュもあった。
聖者の誓いと祈りの印だった布が、今は水を運ぶための素材になる。
差し出されたものを、ギュゲスは片っ端から受け取って材料にする。
服の袖は結んで穴を塞ぐ。布を枠に巻きつける。隙間に泥を塗りつける。
櫂の残り、小舟の肋材、そこらに転がる枝まで、全部が容器の素材になった。
泡の中で、即席の工房みたいな騒ぎが起こる。
兵、信徒、避難民。
老若男女関係なく、黄金の器を作り上げ、泡の縁ぎりぎりで外の水を汲み、受け渡し、運び込む。
即席の柄杓が作られると、リディアの魔術だけでなく、人々の手でもミュルナたちに水が注がれ始めた。
最初はぎこちなかった流れが、少しずつ整う。
作業の中で飛沫を浴び、動かなくなった者は一人では済まなかった。
それでも、人々は手を止めようとはしなかった。
黄金になった者の姿を、誰も見ないわけではなかった。
見て、それでも歯を食いしばって、次の器へ手を伸ばした。
「こぼすなよ! 持ち上げるぞ! さん、にぃっ」
「さあ、ミュリナ様、どうぞお召し上がりください!」
「いやいや、ここは是非、わたくしめの水を!」
「ちょっとあんた! そんな手付きじゃ御子様がびっくりしちまうよ! こっちにお貸し!」
「ミュシア様、お上手、お上手。まだありますからねぇ――おぉい、こっち、少ねえぞ、何やってんの!」
三人の御子が、水をかけられるたびに少しずつ輪郭を取り戻していく。
『みゅいぃぃっ!』
『だぁ!』
『じょー!』
声にも力が戻り始めた。
泡の縁の軋みが、さっきより遅い。
すぐ外では黄金の樹々が水底に沈み、人影が静止し、遠くの地面まで金色に染まっている。
泡の中にも黄金になってしまった者が幾人か出てしまった。
災厄は収まってなどいない。
けれど少なくともこの場は、まだ終わっていない。
リディアは額の汗を拭いながら、ふと群衆の顔を見た。
最初のうちは、祈るか喚くかしかできなかった人々が、今は必死に手を動かしている。
聖女だ御使いだと叫んでいた口が、今はミュルナたちにも笑いかけ、気遣うように話しかけながら、自分に出来ることをしようとしている。
それが、少しだけ彼女の胸を軽くした。
ミュルナが振り向いて、濡れた頬のまま笑う。
『りでぃや、だぁじょー!』
「うん……うん、きっと、まだ大丈夫」
リディアが答えた――その時だった。
背筋が、ぞくりと粟立った。
大波が来るのとは違う。
押し潰されるような圧はない。
それでも、とてつもなく巨大で、もっと澄んだもの。
途方もない水の霊子の動きを感じた。
リディアは思わず顔を上げる。
周囲の人々は気づいていない。
だが、ミュルナ、ミュリナ、ミュシアたちは、ぴたりと動きを止めた。
三人が同時に、水の向こう――神域の底の方へ顔を向けた。
ぱっと顔を輝かせ、泡を支える手を離しそうな勢いで声を弾ませた。
『マァマ!』
『マァマ!』
『マァマ!』
泡の中へ、その声が弾んで響いた。
リディアは息を呑んで、黄金の水底の彼方を見つめた。




