99.黄金期の終わり 〇★
こんにちは、有限会社“泉の女神”です。
株式公開の準備はありません、有限なのは弊社が限界だからです。
『マンマァー! だぁー! だぁー!』
『ミュリナァァ! メーッ!』
『まむ、まむ、もにゅ』
ミュルナは、ついさっきまで頭の上で角を掴んでご満悦だった。
ミュリナは俺の胸を餅つきみたいにぺったんぺったん叩いている。
だがそれが逆にミュルナの逆鱗に触れたのか、抱っこの先住権だか何かを主張し始めた。
そして、大人しくしていると思っていたミュシアは、羽衣の先っぽをガジガジしていた。
「ミュルナ、喧嘩すんな! ミュリナも順番な!
ミュシアなんでも口に入れるな、ぺっしろ!」
俺はひたすら暴虐ちびどもの対応に追われていた。
定期的に名前を呼んだり、かまってやらないとモンスターと化す。
育休はどこだ、誰に申請すりゃいいんだ。
周りの視線がどうなってるか怖いから、意識から追い出す。
これ、絶対、女神株暴落してるだろ。
木こり野郎が「これが女神の裁定だ(キリッ)」みたいな空気を作った後にこれだぞ。
……いや、女神株なんか暴落していいし、そもそも威厳なんかねぇな?
そんな事を考えていたら、あのリディアって子がやってきて何かを言った。
「□□□□□□……□□□□□□?」
小さな声だったが、泡の中は妙に静かになっていたから、その震えだけは伝わってきた。
もちろん、意味は分からないが、視線と表情は分かる。
リディアの目は、俺ではなく、アイオリスの肩へ向いていた。
正確には、肩と背中に刺さった矢。さらに、その周囲を固めている黄金へ。
ああ。
嫌な予感がした。
俺は、腕にしがみついてミュルナを威嚇するミュリナを片手で支え直した。
頭の上から伝い下りて、ミュリナに物申そうとするミュルナをもう片手で捕まえる。
羽衣を齧るミュシアは諦めた。あれも俺の水だし、死なないだろ……多分。
お前ら、俺を公園の遊具だと思ってないか。
そう文句を言いたかったが、今はそれどころじゃない。
アイオリスが、リディアの言葉を聞いて、俺を見る。
「黄金から戻せるか、と訊いている」
「……」
俺は固まった。
戻せるか?
戻せるかって?
いや、知らんが?
むしろ俺が訊きたいんだが?
黄金化って、俺の中でもまだ「なんかやっちまった現象」寄りなんだよ。
仕様書もヘルプもチュートリアルも無い。
最初に黄金の種を作った時なんか、俺は何をしたのかすら分かってなかった。
木彫りの花も、水底の蓋も、今のアイオリスの傷も。
全部、その場その場で必死にやっただけだ。
戻せる目処?
ない。
自信?
ない。
じゃあ正直に「分かりません」って言えるか?
言えない。
というか、言っても通じない。
いや、言ったら大炎上もんだろ。株価暴落どころじゃなくて暴動が起きる。
リディアが不安そうにこちらを見ている。
カストールとかいう兵士は、何か神妙な顔で控えている。
あのガタイの良い野郎は、人型アスレチックと化した俺を見て、まだ肩を震わせている。
あいつにはいつかちびどもの遊具になってもらおう。木こり野郎、てめえもだ。
周囲の人間たちも、全員、こっちを見ている。
期待。
畏れ。
不安。
祈り。
重い。
視線が重い。
女神様なら、当然できますよね。
やめろや。そんな空気を出すな。
こっちは中身が元社畜陰キャなんだぞ。
新人営業が安請け合いで取ってきた納期と条件のヤバい案件を「いけますよね」とか悪気のない顔で持ち込んできた時の胃の感じを思い出すだろうが。
俺が目を泳がせていると、アイオリスが人々の方を向いた。
「……大丈夫だ。問題ない」
おい。てめぇ何言ってやがるんだよ。
俺は反射的にアイオリスの袖を引いた。
問題しかねぇよ!
何を爽やかに安請け合いしてんだ、お前は!
身体の一部カッチカチになってるお前が言うな!
っていうか、お前がやれって言ったんだぞ、それ!?
俺より俺の能力を信じるな。怖いから。
アイオリスはちらりと俺を見た。
その目には、疲労と痛みがある。
それでも、妙に落ち着いている。
ああ、違う。
こいつは何も分かってないわけじゃない。
この場の人間を不安にさせないために言ったのだ。
分かる。
分かるけど、腹は立つ。
「後で覚えてろよ……」
俺が低く呟くと、アイオリスはほんの少しだけ口元を緩めた。
こいつ、今ちょっと笑ったな。……くそ。
ミュシアが太ももに抱き着いたまま『てぉよー』と真似するみたいに笑った。
そうだ、言ってやれ。俺はこいつのせいで今大変なんだから。
とはいえ、いつまでもキョドっているわけにはいかない。
実際、黄金をどうにかしないと、アイオリスの治療ができない。
アイオリスだけじゃない。
水底には、黄金になった人間や動物、物、家、荷物が沈んでいる。
戻せないなら、あれもこれも全部そのままだ。
このやらかしが全部俺のせいのまま終わる。
そんなのは、嫌だ。
俺はちびどもに絡まれたまま、改めて泡の中を見回した。
たぶん丘のてっぺんだった場所。
原っぱ、人間、人間、人間、ボートの残骸? なんもねぇ。
でも、人間ども見ていて、ふと気づいた。
どいつもこいつも顔色が悪い。
無理もないっちゃ無理もない。
いきなり洪水が来て、水に触れたら黄金化。
今も水の底だし、神様っぽいのが現れて、おまけに自殺未遂まであった。
イベント盛りすぎだろ、疲れていないわけがない。
でも、そういう恐怖や疲労だけじゃない気がする。
唇が割れかけている老人。
泣き疲れてぐったりした子ども。
浅い息を吐いてへたり込んでる兵士。
声を出しすぎて喉を押さえる信徒。
ん、と思って、アイオリスに声をかける。
「……おい」
「ああ」
「こいつら、妙に弱ってないか?
沈んでから何日も経ったわけじゃない……よな?」
アイオリスは一瞬だけ目を細めた。
それから周囲に向けて問いかける。
人々がざわつく。
いくつもの声が返るが、俺には意味は分からない。
だが、答えはすぐに分かった。
アイオリスがこちらを見る。
「水を飲めていないそうだ。外の水に触れれば黄金になる。
ミュルナたちに運んだ水も、恐れて口にはできなかった、と」
「……ああ、くそ」
そりゃそうだ。
人間は水を飲まないと死ぬ。
そんなこと、分かりきってる。
俺だって元人間だ。
なのに、気づいていなかった。
起こっている出来事があまりにもデカすぎた。
洪水だの黄金化だの水門だの魔樹だの、話が大きすぎて、当たり前のことが抜け落ちていた。
人間は、水だけじゃ生きていけない。
でも、水が無くても生きていけない。
周りには腐るほど水があるけど、触れたら黄金化する地雷原みたいな状態だった。
飲み水なしで海を漂流してたって雨くらい期待できるが、ここは水の底だ。
あるのに届かないってのは、完全に無いより堪える。精神的にも参っていたはずだ。
このまま放っておけば、黄金を戻すとか治療とかの前に、こいつらは倒れる。
「まず、そっちだ」
「イズミール?」
「黄金とかお前の傷の前に、こいつらに水を飲ませる。死ぬぞ」
アイオリスの表情が変わった。
奴も気づいたのだろう。
自分だって重傷者のくせに、周囲の人間へ視線を走らせた。
「分かった。伝える」
「いや、待て。飲んでも平気だって見せなきゃ駄目だ」
俺は周囲を見た。
手から直接水を出して飲ませることも出来るが、なんか容れ物が欲しい。
そこで、さっきカストールが置いた黄金の兜が目に入った。
俺は近くに置かれたままになっていた黄金の兜へ手を伸ばした。
カストールがびくりと肩を震わせる。
何かを言いかけて、すぐに口を閉じ、深く頭を下げた。
わからんて。
いいから、借りるぞ。
俺は黄金の兜を拾い上げて、ざっと水で満たしながら思う。
衛生?
知るか。
非常時だ。
俺の水で浄化したんだから、清潔に決まってる。
何故ならば、俺の水は綺麗だからだ!
俺は自分の水を溜めた兜を、まずアイオリスに差し出す。
「飲め」
アイオリスは、何も言わずに兜を受け取った。
人々が息を呑む気配がする。
リディアの顔も強張っている。
だが、アイオリスは迷わず口をつけた。
喉が動く。
水を飲む。
当然、黄金にはならない。
むしろ、乾いていた顔に少しだけ生気が戻る。
呼吸も、ほんの僅かだが整ったように見えた。
「よし。飲んでも平気だって言え。いや、平気じゃなくて、飲まないと死ぬって言え」
アイオリスは頷き、人々へ向き直った。
「これはイズミール様が我々の為に与えられた水だ。恐れる必要はない。
人は水を飲まねば倒れる。子どもと老人から順に飲ませてくれ」
人々はすぐには動かなかった。
まあ、そうだよな。
さっきまで水で黄金になってたんだから、飲めと言われても怖いだろう。
その時、リディアが一歩前に出てきた。
「□□……」
言葉は分からないが、表情で分かった。
あの子は、自分から飲もうとしている。
若いのに冷静で賢い子だな。肝も据わってる。
周りも「おお」みたいな反応してる。
よく分からないが、この子は周りの連中から一目置かれている。
地味な格好をしてるけど、実はお偉いさんだったりするのか?
アイオリスが兜を差し出す。
リディアは両手で受け取り、ほんの少しだけ水を口に含んだ。
飲み込む。
黄金にはならない。
リディアはほっと息を吐き、周囲へ何かを言った。
アイオリスの時よりホッした空気が広がる。あいつ不愛想だもんな。
すると、次はあの笑い転げてたガタイの良い野郎が出てきた。
何かぶっきらぼうに言って、兜を受け取る。
たぶん「じゃあ俺も飲む」みたいなことだろう。
こいつもまぁまぁ度胸あるな。
男は豪快にがぶがぶと水を飲み、口元を拭った。
それから周囲へ向けて声を張る。
すると、ようやく空気が動いた。
母親が子どもを抱えて前に出る。
老人が震える手で水を受け取る。
兵士たちも互いに顔を見合わせ、恐る恐る水を回し始める。
いちいち飲む前に祈るな、後がつかえてるだろ。
儀式にすんな。マナーなんか気にしてる場合か。
俺はそんなことを思いながら、兜へ何度も水を満たした。
もっと飲め、おかわりもいいぞ。
※※※※※
そのうちに、ふと手元が気になった。
たぶん、元は鉄だった兜。現、金ぴかド派手兜。
今はコップ代わりに使ってるが、よく見ればなかなか面白い形をしている。
浅い鉢みたいな形ではなく、額や頬を守るための曲面がある。
顔の前には動かせそうな覆いがついている。
バイザー、でいいのか? 留め金で固定されていて、上げ下ろし出来そうだ。
現物を見ると、やっぱりデザインだけじゃなくて、実用品らしい趣がある。
へぇ。
ちょっと面白い。
そう思って、バイザー部分に指をかけた。
あれ、動かない。
金だから重いのかと思ったが、そういう感じじゃない。
可動式の留め金っぽい部分はあるし、継ぎ目も見える。
本来なら開閉する構造のはずなのに、そこだけ金で埋まっている?
いや、部品同士が最初から一つの塊だったみたいに固まっていないか、これ。
「……んん?」
俺は兜を傾けた。
水が揺れる。
でも、バイザーは動かない。
鉄の兜が金の兜になっても、構造自体は変わらないはずなのに。
いや、待て。
これ、金になったから動かないんじゃなくて、“動かない兜”的な“何か”になってる?
妙な引っかかりが残った。
その時、いつの間にか頭の上までよじ登っていたミュリナが、俺の髪を引っ張った。
『まぁーまぁー』
「引っ張るな。掴むんなら角にしとけ」
ミュルナは俺の胸元にしがみついて水を吸っている。
ミュリナは角を掴んでしゃぶりついて水を吸い出した。
ミュシアはずっと羽衣からちゅーちゅーやってる。
水を吸ってる時だけは大人しいな……いいぞ、ずっとそうしてろ。
いや、今は兜より、ちびどもより、人間に水をやらなきゃだ。
それはそれとして、兜だけじゃ全然足りないな。
人間が多すぎるし、回し飲みは効率が悪い。
あと、俺の前に来た奴がいちいち跪いて祈る。
そういうのいらねえから!
もっと大きい器が要る。
そう思って周囲を見回すと、あった。
――不格好な、黄金の箱だか筒みたいなもの。
なんだ、あれ。
俺は兜をアイオリスに押し付けるとそちらへ近づいた。
歩くとちびどもがキャッキャとはしゃぐ。水吸ってなさい。
人々がざっと道を開ける。
いちいち畏まるな。
いや、しょうがないか。女神っぽいのがちび三人をくっつけたまま近づいてくるんだもんな。
変な黄金の容器っぽいのを覗き込む。
上のところは四角い枠がある。元は木か?
紐で雑に結わえてあるけど、触ってみるとがっちり固まってる。
で、下の本体は――これ、布だ。
服だか帯だか分からないけれど、質感が布っぽい。
薄いけれど、しっかり固まっている。
構造は雑だが、使う目的ははっきりしている。
こぼさないように水を汲んで運ぶための道具だ。
よく見れば枠にも、持ち手になりそうな部分が用意されている。
用途のために、そこにある材料で形を作った。
何よりも、黄金化を仕上げ工程として利用している。
俺は思わず目を見開いた。
……やるじゃん。
滅茶苦茶やるじゃん。
道具がないなら作る。
素材が弱いなら現象で補う。
俺のやらかしを、クラフト素材として活かして組み込んでやがる。
何その発想。
嫌いじゃないぞ。
うん、むしろ好きだ。
俺の中の造形好きが、かなり本気で感心していた。
「これを作ったの誰だ! 女将を呼べ! いや違う、職人を呼べ!」
勢いで言った。
当然、周囲はびくっとするだけだ。
あ、通じないんだった。
俺はアイオリスを見た。
「これを作った奴、誰か訊いてくれ」
アイオリスが人々へ問いかける。
何人かの視線が、あのガタイの良い男へ向いた。
男は、ぎょっとした顔で自分を指差す。
それから慌てて頭を下げた。
ああ、お前か。
俺はそいつの前へ行った。
肩が強張る。
視線が一瞬だけ泳いだ。
顔を見たのか、角を見たのか、服を見たのか、まあ追及はしないでおいてやる。
さっきまで笑ってやがったくせに、いざこっちが正面に立つと緊張するらしい。
俺は黄金の器を指さし、それから親指を立ててやった。
サムズアップ。
男が唖然とした顔で固まった。
周囲も固まった。
……あれ、通じない?
親指を立てる文化、ない?
俺が一瞬不安になってアイオリスを見ると、アイオリスが少しだけ困ったように人々へ言った。
「よく作った、と仰っている」
男は目を丸くして、それから、少し照れたように、しかし誇らしさを隠しきれない顔で頭を下げる。
うむ。
よろしい。
さっきどこを見ていたかは水に流そう。水だけに。
男の名前がギュゲスというらしいことを、アイオリス経由で聞いておいた。
異世界名物、なんか雑な指示で良い感じの物を造ってくれる職人ゲットだぜ!
ひとまず満足した俺は、黄金の器へ水を注いだ。
たっぷり入る。
兜とは比べものにならない。
これなら人々に水を回せる。
リディアやカストール、ギュゲスが人々へ水を配り始める。
アイオリスが指示を出す。
兵士たちが列を作らせ、子どもと老人を先に通す。
泡の中に、ようやく少しだけ人間の生活音が戻ってきた。
水を飲む音。
泣きながら礼を言う声。
子どもを宥める母親。
老人に水を運んで渡してやる男。
祈りの声。
俺はそれを聞きながら、黄金の容器を見つめた。
いかにも雑な急造品。
だが、そこでまた引っかかった。
――これ、布なんだよな。
木枠に布を張った器だ。
少なくとも、元はそうだったはずだ。
布って、糸の集まりだ。
糸と糸の間には当然、隙間がある。
なら、それがただ金になっただけなら、金の糸でできた網になるんじゃないのか?
水なんか、普通に漏れるはずだ。
なのにあの布からは水が漏れていない。
水は、ちゃんと器の中に溜まっている。
俺は黄金の縁を指でなぞった。
布目らしいものは残っている。
でも、それは糸の一本一本が別々に金属になっているというより、布が“水を受け止める面”として固まっている感じだった。
糸。
隙間。
たるみ。
木枠。
結び目。
全部がまとめて、“一つの器”として固定されている。
カストールの兜もそうだ。
部品が金になったんじゃない。
動くはずの継ぎ目ごと、その姿勢で固まっていた。
俺の視線は、自然とアイオリスの肩へ向いた。
黄金の傷口。
刺さったままの矢。
血を止め、肉を裂かせず、痛みを抑えるために固めた場所。
これ、ひょっとしてそういうことか?
――俺は、今まで本当に物質を「黄金」にしていたのか?
違うんじゃないか、と、初めて疑問に思った。
組成を黄金にしてるんじゃない。
黄金に見えるだけで、本質的には別の何かなんじゃないか。
固めた結果が、黄金に見えているだけなんじゃないか?
俺は過去に黄金に変えた物のことを思い返した。
――木彫りのルテアとかいう花。
俺は、あれを黄金にしようなんて思っていなかった。
壊して、割れたから、直さなきゃと思った。
元に戻れ。
割れるな。
腐るな。
壊れるな。
そう思いながら浄化を使った。
でも、結果は修復なんかじゃなかった。
割れた芯の部分だけが黄金になって、それ以上壊れないようになった。
――黒いのが湧く水底。
あの時も、泥を金にしたかったわけじゃない。
黒いものが俺の水に混ざろうとしていた。
あれは俺を別のものに変えてしまう。痛くて、気持ち悪いものだ。
だから、出ていけ。
来るな。
俺を塗り替えるな。
そう思った。
結果、水底の土は固まって黄金の蓋になった。
たぶん、一番最初に変えた物――あの黄金の種はどうだった?
木こり野郎が捧げものとして置いていった、あの梅みたいな実。
腐るかもしれない供物。
放っておけば駄目になるもの。
食べられないけど、無駄にするのも嫌で、食べたふりをして水の中へ通した。
あの時は、腐らせたくない。
無駄にしたくない。
おままごとでも、食べたって感じにしたかった。
そんな感じだったのかもしれない。
いつも、黄金になれなんて思っていなかった。
いつも、何かを止めようとしていた。
壊れるな。
腐るな。
混ざるな。
通るな。
動くな。
流れるな。
そしてその瞬間、ぱちん、と。
何かが切り替わる感覚があった。
まるで、データにロックをかけるみたいに。
このファイルは変更できません、削除できません、上書きできません、という状態にするみたいに。
あるいは、3Dモデルの当たり判定。
見た目の素材じゃなく、ここから先は通れませんという透明な壁を貼る衝突判定処理。
水も、黒いのも、刃も、動きも、そこから先へ行けないようにする。
俺は対象に、そういう見えない命令を貼り付けていたんじゃないか。
それが、この世界では黄金に見える。
黄金化って、金属化じゃない。
固定化だ。
保存処理だ。
状態にロックをかけている。
そういう、ルール的なものなんじゃないか。
俺はアイオリスの傷口を見た。
あれも同じだ。
肉を金属にしたんじゃない。
傷口に“動くな”を貼った。
矢が動くな。
血が流れるな。
肉が裂けるな。
痛みが広がるな。
だから、止まっている。
じゃあ、“戻す”っていうのは、金属を肉に変えることじゃない。
――俺が貼った命令を剥がして、止まっていたものを動かすことだ。
そうなると、剥がした瞬間、傷は傷として動き出すことになる。
血が出る。
痛みが戻る。
矢はまた肉を抉る。
……駄目だ。
いきなりアイオリスの傷口で試すのは、怖すぎる。
泡の中には、さっき事故で黄金になった人間もいる。
でも、それも怖い。
生きていた人間だ。
戻した瞬間、何が起きるか分からない。
もし、今の思い付きが的外れだったとしたら?
金属に変わった肉を戻しても、心臓も脳も止まった状態で戻ったら?
あの無数の黄金像が死体だってことになってしまう。
そんなの、とてもじゃないけど耐えられない。
……まずは物からだ。
※※※※※
俺はカストールの兜へ視線を戻した。
黄金の兜。ちょうどいい実験台だ。
「アイオリス……こいつを使って、黄金を元に戻せるかを試してみる」
俺が呟くと、アイオリスがこちらを見た。
「私では駄目なのか」
おい、なんだその言い方。なんか湿っぽいのやめろ。
「人でいきなりやるのは怖いだろうが。まだ、出来るって保証もない。
お前で試すのも論外だ。全身、黄金になった奴で試すのも……その前に一段階欲しい」
アイオリスは「大丈夫なのか?」とは聞かなかった。
気遣うような目を向けてきたけど、気休めも何も言わない。
言ったら蹴飛ばしてやろうと思っていたが。
「ああ」
アイオリスは頷き、人々へ説明した。
盛るなよ、絶対話を盛るなよ。
裏方の苦労をわかってない営業の安請け合い、絶対許すまじ。
客の期待値を上げ過ぎると、ロクなことにならないんだからな。
場がまた緊張する。俺も緊張してる。
カストールが深く頭を下げた。
何かを言った。
俺には分からない。
アイオリスが訳す。
「この兜が役に立つなら、いかようにも使ってほしい、と」
「……そうかよ」
別に、そんな大仰な話じゃない。
ただの実験台だ。
でも、本人がそう言うなら借りる。
俺は兜を両手で持った。
ミュルナが胸元から顔を上げ、『マァ?』と覗き込む。
ミュリナが枝角にぶら下がってじっと見る。
ミュシアが脛まで降りてきて、指を咥えて見ている。
ギャラリーが増えたけど、こいつらからはプレッシャーを感じない。
失敗しても、勝手にキャッキャと喜び出す気がする。
そんな事を考えたら、少し肩の力が抜けた。
まあ、見てろ。
ママ……じゃない、弊社の脅威の技術力ってやつをな。
成功したら誰よりも一番俺が驚きなんだが。
俺は兜のバイザーに指をかけた。
やはり動かない。
黄金のまま、固まっている。
元に戻れ、じゃ駄目だ。
そうじゃない。
こいつは壊れていない。
ただ、止まっているだけだ。
本当に黄金になったわけじゃない。そう思え。
俺は兜の表面へ水を這わせた。
固める時の感覚を思い出す。
あの、ぱちん、と何かが切り替わる音。
何かのルールが変わる感覚。
――壊れていくもの。
――変わっていくもの。
――失われていくもの。
それを変わらない形で留めおこうとする力。
流れをせき止める力。
今度は逆だ。
閉じるな。
開け。
止まるな。
動け。
もう、固まってなくていい。
……いや、違うな。
「さあ、働け――」
小さく言う。
兜の黄金に、水が染みていく。
いや、染みているように見えるだけだ。
これはたぶん、俺の命令が中へ入っていく感覚。
「覚悟しろ、ゴールデンウィーク終了のお知らせだ!」
意味不明なことを言っている自覚はある。
だが、俺にはしっくり来た。
分子とか電子だか、そういう小難しい理屈は知らん。
成分も組成も、原理だって知るものか。
とにかく、お前らの休みは終わりだ。
操業停止期間は終了。
業務再開。
「働け!」
ぱちん、と。
小さな音がした気がした。
黄金の輝きが、表面からすっと褪せていく。
金色だった兜が、濡れた鉄のような鈍い色へ戻っていく。
板金の継ぎ目が現れる。
留め金が、蝶番が、それぞれの部品に分かれる。
一塊の雑な造形になっていたものが、個々のパーツとして分かれて動いていた時を思い出す。
泡の中で、人々が息を呑んだ。
俺はゆっくりと、バイザーに指をかけた。
ぎ、と小さな音がする。
動いた。
上がる。
下がる。
俺は満足げに、兜のバイザーを上げ下げした。
ちゃんと動く。
「……よし!」
思わず口元が緩んだ。
戻った。
いや、違う。
ほどけた。
黄金を鉄に変えたとかじゃない。
就業規則を変えたんだ。
ゴールデンウィークは、終わらせられる。
ただし、次は兜じゃない。
俺は笑いかけた口元を引き締めて、泡の端で黄金の像になった人間へ目を向けた。




