93.水から、すくいあげる 〇★
92話「水に落ちた斧」のイズミール視点
――絶対戻れ。
そんな柄にもないことを言って、木こり野郎――アイオリスを送り出した後のことだ。
「くぅ……きっつ……っ」
今の俺を一言で表すなら、たぶんこれだ。
胸の奥を錆びた釘でぐりぐり抉られるみたいな痛み。
焦げつくような熱。悪寒。眩暈。なんでもありだ。
開きかけた門の向こうからは、止まることを知らない水が流れ込んでくる。
その水に、黒禍とかいう最悪の異物まで混ざっていた。
片っ端から浄化しているが、水量も勢いも尋常じゃないせいで全然追いつかない。
次から次へと、あの黒いのを浴びせてきやがる。
あいつがここにいる間は、水流もどうにか抑えて、痛みも我慢していた。
弱ってるところを見せたって、無駄に心配させるだけだ。
あいつは、俺には出来ないことを代わりに片付けに行った。
だったら、俺も俺の仕事をしなきゃならない。
外は大洪水だ。
溢れ出し続ける水は、俺の意志だけじゃ止めきれない。
森をぶっ壊した時よりデカい水柱が立っていて、森はもうほとんど沈んでる。
せめて巻き込まれた奴らを溺れさせないように、水に触れたものを片っ端から黄金化し続けていた。
やりたくてやってるんじゃない。止めたら死人が出るから、止められないだけだ。
黄金から元に戻せる保証なんてない。
それでも、ただ溺れ死なせるよりはマシだと思うことにする。
水が増え、広がるにつれて、視界も意識もどんどん広がっていく。
とてもじゃないが、俺ひとりで全部を同時に捌ける量じゃない。
だから、そのへんは俺の中にいる“真面目ぶった女神様”に投げてある。
『償いにはなりませんが、せめて苦しまないように――』
こいつは正論ぶって振る舞うくせに、やることが極端でいちいち発想が怖い。
だが、俺じゃ扱いきれない大量の仕事を黙々とマルチタスクで捌ける。
我が社きってのエリート社員様ってわけだ。
もう一人の“わたし”――木こり野郎にべた惚れのあのバカ女は、奴の斧を黄金にするのに死ぬほど気合いを入れまくった。
その物凄い力の入りようときたら、一瞬こっちの意識が飛びかけたくらいだ。
さらに、あいつを包んでる泡の維持と、その周りの水流を抑えるのにも神経を尖らせている。
『だって、あの人のために出来るのはこれくらいだもの』
「だから入れ込み過ぎなんだよ、お前は」
……止めない俺も俺なんだが。
まったく、アクの強い社員ばかりで困る。
自分でも何をどうやってんだか説明できないが、今、俺はこいつらと分担作業みたいなことをやってる。
で、社長の“俺”が何をやっているかっていうと、閉じ切ってない水門がぶっ壊れそうなのを堪えながら、黒禍の寄越してくる苦痛にひたすら耐えてる。
弊社、常々ブラック企業だと思ってたけど、ブラックって黒禍って意味じゃねえだろ。
社長だぞ、俺は。なんでこんな身体張ってんだ。
『私たちでは、黒禍に触れて、貴女ほど平静でいられません』
『わたし、アイオリス以外に触れられるとか絶対いや』
こいつらがふざけてるわけじゃないのは、さすがに分かる。
俺が雑に黒いのと呼んでたアレは、だいぶ本格的にヤバいもので、あれに触れて、多少なりとも耐えられるのは俺だけ――そう言いたいようだった。
こっちの世界で生まれたこいつらには、人間だった頃には当たり前にあった、痛みや疲れみたいな感覚に馴染みがないのかもしれない。
黒禍に触れた時のあの最悪な痛みも、源流に溶けそうになる感じも、こいつらには耐え難いらしい。
その点、俺は黒禍だの深淵だのをこの世界の連中ほど分かってなかった。
分かってないからこそ、ビビり方もどこか鈍い。
それに、人間だった頃に痛みも疲れも眠気も嫌ってほど知ってる。
だから、しんどくても踏ん張るとか、痛くても意地で耐えるとか、そういう無駄な粘りだけは社畜の魂に刻まれていやがる。
とはいえ、俺だってキツいもんはキツい。
悪態や戯れ言で誤魔化してるが、初っ端からあの魔樹とかいうのを見ていたら、もっとビビってたと思う。今だって手も足も出ない。
けど、アイオリスはあんな怪我をしてるのに、危険・キツい・汚いの三拍子が揃った最悪の現場に向かってくれた。
だったら、こっちもこのくらいのデスマーチはこなさなきゃ申し訳が立たないだろうが。
『貴女の責任感の強さと勤勉な姿勢には敬意を覚えます』
“私”が余計なことを言ってきた。
「うるせぇよ。お前らのやらかしの後始末なんだからな、黙って働け」
あと、なんか“あなた”って呼び方のニュアンスがなんかおかしい気がする。
ゾワッとくるからやめろ。
※※※※※
しばらくして、今度は“わたし”が声をあげた。
いちいち甘ったるいくせに、今は一丁前に緊張した様子だった。
『着いたみたい……』
あいつに持たせた瓶の周りの水が、重たくざらついている。
“わたし”が流れを操って泡を維持しつつ浄化してるが、その負担が急に増えた。
俺はそれを痛みとして受け取ってるから、言われなくても分かる。
アイオリスが、魔樹へ辿り着いた。
たぶん、そうだ。
『ねえ、もう思いきり浄化しちゃわない?』
「黙ってろ。あいつに呼ばれるまで待て」
俺だって今すぐ全力の浄化を叩き込みたい。
でも、それじゃたぶん駄目だ。
今、周りにある黒禍を消したところで、大元を断たない限りまた湧く。
それどころか、下手に干渉したら、あいつの足を引っ張りかねない。
『今は彼を信じましょう』
“私”が“わたし”を諫める。
『また無茶をするわ、あの人』
「うるせぇ! そんくらい分かってるっつの……!」
苛立ちと痛みと不安がごちゃ混ぜになって、吐き出す声が荒くなる。
待つ。
俺がやるべきなのは、待って、合図が来たら一気に浄化を叩き込むことだ。
その間も門は軋む。黒いのは混ざる。外の水は増える。黄金化も止められない。
全部、同時進行だ。
瓶の向こうで、水が大きく動く。
いや、あいつが動いてるんだ。
見えないけど、わかる。
あいつが戦ってる。
逃げずに、一番きつい現場に踏み止まってる。
その瞬間だった。
瓶の周り、泡の内側寄りの場所に、黒いざらつきが生まれた。
心臓なんか無いくせに、どくっと胸の奥が跳ねる。
「っ……!」
泡の外から膜を削ってるのとも違う。
もっと近い。もっと生々しい。
あいつ自身の側に、黒が混ざった。
『や、やだ、これって……』
「なんでそういう時だけ迷わず突っ込むんだよ……!」
また無茶しやがったのか。
傷があるくせに、近づきすぎたんだ。
リディアって子を庇った時みたいに、また自分を投げ出したのか。
『アイオリス! 今、わたしが助けるから……!』
「待て、駄目だ! まだだ……!」
逸る“わたし”を怒鳴りつける。
焦るな。
あいつは、必要な時には必ず呼んできた。
面倒臭くて重たい勘違い野郎だが、決して馬鹿じゃない。
細かく打ち合わせをしたわけじゃない。
でも、ここまで沈黙を通したのは、使いどころを狙ってるからだと感じた。
こっちから出せる手は限られてる。
だからこそ、現場の判断を信じるしかない。
「俺たちはあいつに任せたんだ! 最後まで信じろ!」
瓶越しで伝わってくる痛みはどんどんキツくなっていく。
同じか、それ以上の痛みに、あいつも耐えてる。
踏ん張ってる。
待つしかない。
まだか。
早くしろ。
おい。
呼べって。
……来る。
『――イズミール!』
呼ばれた。
そう思った次の瞬間、手応えが変わった。
黒いざらつきが、一気に乱れた。
向こう側の圧が崩れる。
やった。
やりやがった、あいつ!
『アイオリス!!』
「やるぞ!」
俺たちの判断は同時だった。
水門を押さえる力を一瞬だけ緩める。
外の負担は“私”に踏ん張らせる。
浮いた余裕を“わたし”が片っ端から浄化に注ぎ込み、俺は瓶に向けて、その全部を流し込む。
青白い光が、水門を越えてあいつの元へ奔った。
「そこだな! 待ってろ、今――っ」
胸が裂けるみたいに痛い。
でも知るか。
ここで出し惜しみしてどうする。
ありったけの浄化を、あいつの元へ送り届ける。
手応えがあった。
瓶の向こうのざらつきが消える。
同時に、源流から流れ込んでくる水に混じる黒禍の気配と痛みが、すっと引いた。
ぶり返しも来ない。
消えた。
やった。
――なのに。
『……アイオリス?』
返事がない。
瓶へ何度も呼びかける。
「おい」
「おい、返事しろ」
「終わったんだろ、聞こえてんだろ」
さっきまで確かにいた気配が、ふっと遠のいていた。
完全に消えたわけじゃない。
けど、声も、意識の引っ掛かりも、あまりにも薄い。
水底が凍りつくような感覚。
いや、違う。
死んだとか、そんなはずない。
気絶しただけかもしれない。
傷が痛くて声が出ないだけかもしれない。
そういうことにしろ。まだ決めるな。
『アイオリス! アイオリス! 返事をして!』
『源流の近くまで降りて探すべきです』
俺は瓶に意識を寄せたまま、水門の方へ降りていった。
源流との境目は、見下ろすだけで気分が悪くなる。
向こう側は、俺の水じゃない。
覗き込むだけで、意識が底へ引っ張られそうになる。
それでも降りる。
境目ぎりぎりまで。
向こう側の水が、俺を溶かし込んでこようとするところまで。
黒禍の痛みとは違う。
体の端から、眠るみたいに溶けていく感覚だ。
「おい、返事しろ! 木こり野郎! アイオリス!」
呼ぶ。
呼ぶたびに、声が暗がりへ吸われていく。
死んだはずない。
だって、戻るって言ったんだ。
あいつは約束を破るような奴じゃない。
その時、深みの向こうから、青白い光が一つ浮かんできた。
来た。
ほんの一瞬、そう思った。
無いはずの喉の奥がひらく。胸の中に熱が戻る。
「――っ!」
来た。
やっぱり生きてる――
そう思って手を伸ばしかけて、違和感に気づく。
小さすぎる。
浮かび上がってきたものが境目を越え、俺の手元まで来て、ようやく形がはっきりする。
昇ってきたのは――瓶だけだった。
中の水だけが青白く灯っていて、その光が照らす範囲には誰もいない。
アイオリスの姿が、ない。
「……は?」
間抜けな声が出た。
違うだろ。
なんで、これだけ戻ってくんだよ。
絶対に離すなって言ったろ。
なんでお前、それ――
「っ、ば……か、が……」
罵倒しようとした言葉が、そこで崩れた。
言葉が続かない。
怒鳴るつもりだったのに、音がひどく情けなく掠れた。
『行きましょう』
黙り込んでいた“わたし”が言った。
今度は震えてもいない。澄んだ狂気みたいに真っ直ぐだった。
『いけません。今、私たちが居なくなれば外が保てなくなります』
『アイオリスのいない世界になんて意味はないわ』
『それでも、ここで我を失えば、彼が守ろうとしたものまで消えます』
『消えればいいのよ、そんなもの!』
俺の中で“わたし”と“私”が口論する。
左右の耳から同時に叫ばれてるみたいで、耳鳴りみたいに感じる。
「……っ、うるせぇよ……!」
どっちの意見も分かる。分かってしまう。
だから最悪だった。
飛び込んででも迎えに行きたい。
でも外を放っておけない。
でもあいつがいない世界なんて。
でもここで俺まで溶けたら。
どれも選びきれない。
くそ。
瓶を握り締め、境目の向こうを睨む。
暗く、重い、恐ろしい水だ。
なのに、その向こうで、何かが動いた気がした。
最初は湧き出してくる水流か泡だと思った。
でも違う。
そこだけ流れの速さが違う。
暗い水の底から、何かが上がってくる。
「……なんだ、あれ……?」
零した瞬間、暗がりの中から人の形が少しずつ浮かび上がってきた。
アイオリスだ。
力なく、意識もなく、流されるままの体。
その背を、見えない“誰か”が最後に押した気がした。
次の瞬間には、もう何もいなかった。
『『「アイオリス!」』』
バラバラだった俺たちの意志が、その瞬間に揃った。
離したくない。
生かさねば。
帰ってこい。
その思いが一つになって、境目へ手を伸ばす。
向こう側の水が、指先から腕へまとわりつく。
俺の水が、俺の意識が、向こうへ薄まっていく。
溶ける。吸い込まれる。怖い。眠りそうだ。
それでも、あと少し。
溶け崩れる腕を何度も創り直しながら、手を伸ばす。
届け。掴め。
指先が、かすかに何かへ触れた。
すべりそうな手首。冷え切って、力のない腕。
「――っ、掴んだ!」
手首と袖口の布に指を絡め、しっかりと掴む。
触れた肌は冷たく、何より反応が薄い。
ずる、と向こう側へ引かれかける。
境目の水が、こっちまで持っていこうとする。
「う、ぉ、おお……っ!」
歯を噛み締めるみたいに力を込めた。
腕が溶けそうでも知るか。
指先が裂けそうでもどうでもいい。
引く。
引きずり出す。
水門のこちら側へ、力尽きた男の体を、少しずつ、少しずつ引き戻す。
腕の感覚がなくなる。視界が揺れる。けど離さない。
境目を越えた瞬間、向こう側の圧がわずかに弱まった。
境目が破れるみたいに水が裂け、アイオリスの身体がこちら側へ転がり込んだ。
抱きとめた身体は重い。
でも、いる。
ちゃんといる。
泡を作ったのは、ほとんど反射だった。
周囲の水を押しのけ、丸い泡の中へ隔離する。
今度は守るためじゃない。
呼吸させるためだ。
※※※※※
「っ……は、ぁ……」
息なんかしてないくせに、妙に呼吸したみたいな感覚があった。
腕の中のアイオリスは、ぐったりとして動かない。
瞼は閉じたまま。顔色は悪い。刺さったままの矢と傷口がまだ痛々しい。
「おい」
肩を揺する。
反応がない。
「おい、アイオリス!」
口元に顔を寄せても、呼吸がない。
胸も上下しない。
『ねえ、アイオリス……どうしたの、起きて。息をして』
頭の中が一瞬真っ白になって、そのくせ妙なところだけ冴える。
溺れてる。
瓶を手放して、泡が無くなった後、水を吸ったんだ。
たぶん、肺まで入り込んでる。
叩いて吐かせる、ってのがあるのは知ってる。
『駄目です。そんなことをすれば傷が悪化します』
そうだ。
肩と背に矢傷がある。
叩いて吐かせるとか、雑に逆さにするとか、そんなの無理だ。
じゃあどうする。
人工呼吸?
でも俺の身体は水だ。呼吸だってしてない。
こいつに必要な空気を流し込めない。
『……できます』
“私”が静かに言う。
『空気は送れなくても、水は抜けます。私たちの体は水です。
彼の肺に入り込んだ水と繋がれば、動かせます』
言わんとする意味を理解した瞬間、俺は固まった。
『くちづけ、ね!』
「じ、人工呼吸! 医療行為だっ!」
反射で怒鳴り返す。
何で今ちょっと嬉しそうなんだよ、お前は。
『でも、くちづけよ』
「だから違うっつってんだろうが!」
怒鳴ったのは、ほとんど自分への言い訳だった。
「そうだ、これは……そういうやつだ。医療だ。しょうがねぇだろ、死にそうなんだから」
誰に言い訳してるのか自分でも分からないまま、俺はアイオリスの顔を抱え込んだ。
意識がない。
睫毛も濡れている。
口元に触れると、冷たい。
こわい。
こうして静かなままなのが、どうしようもなくこわかった。
「……勝手に死ぬなんて許さねえからな」
零してから、すぐに唇を重ねた。
最初は、何も起こらなかった。
いや、何をどうすればいいか、俺の方が緊張しすぎてよく分からなかった。
落ち着け。
こいつの中の水を引っこ抜くんだ。
唇を重ねたまま、俺はアイオリスの口の中へ、自分の水を細く差し込むみたいに意識を伸ばした。
喉の奥、さらにその先、肺に溜まった水へ触れる。
いた。
異物みたいに重たく沈んでいる。
源流寄りの、俺じゃない水だ。
お前は俺だ――俺はお前だ。
従え。そこから出ていけ。
――こいつは俺のだ。
「っ……」
従わせた水を吸い上げるみたいに、自分の中へ取り込む。
ごぼ、と、アイオリスの喉がかすかに鳴った。
「っ、戻れ……戻れよ、馬鹿……!」
唇を離して、もう一度顔を寄せる。
もう一度。
さらにもう一度。
喉の奥の奥、肺の隙間へ入り込んだ分まで、少しずつ引く。
今度は、こほ、と小さな咳が漏れた。
「アイオリス!」
そうだ、吸え。息をしろ。
水を退けられても、泡の中の空気を使うのはこいつ自身だ。
呼吸を思い出せ。
「起きろ! 起きろってば! アイオリス!」
顔を掴んで呼びかける。
金色の睫毛が震えた。
ぐっ、と喉が動く。
次の瞬間、アイオリスの体が大きく痙攣した。
「っ、げほ……! がっ……!」
強い咳。
今度は、水を抜くためじゃない。
空いた肺へ息を取り戻すための咳だ。
アイオリスの胸が大きく上下する。
その動きが見えた瞬間、膝から力が抜けそうになった。
「……は、ぁ……」
アイオリスは苦しげに咳き込み続けてから、やがて薄く瞼を開けた。
焦点の定まらない青い目が、すぐ目の前の俺を見る。
距離が近すぎた。
唇も、額も、ほとんど触れそうな距離で見つめ合ってる。
今の今まで医療行為でしたみたいな顔を保てるほど、俺は厚かましくなかった。
少し顔を離す。
ようやく俺の姿が目に入ったのか、あいつは少しだけ目を見開いた。
「……い、ず……」
「喋んな、馬鹿」
思ったより掠れた声が出た。
「瓶も斧も落としてきやがって。お前、何考えてんだよ。
絶対、離すなって言っただろうが……っ」
途中で、声が揺れた。
怒鳴りたかった。
怒鳴ってやりたかったのに、喉の奥が勝手に痛くなる。
アイオリスはまだ朦朧としている顔のまま、それでも少しだけ口元を動かした。
「……すま、ない」
似合わない、弱々しい声だ。
けど、呼吸している。胸が動いている。生きている。
「……謝って済むか、馬鹿」
手が伸びてきた。
俺とは違って、温かくて大きくて骨張った男の手だ。
指先が目元を擦るみたいに触れてくる。
「また、泣かせてしまった」
その一言で気付かされた。
俺の目から涙が溢れていた。
「泣いて、ねぇし……っ」
言い返そうと思ったのに、うまく言葉にならない。
「違ぇし、これは、水だって……」
ぐちゃぐちゃになったまま、やっと出たのは、ひどく情けない一言だった。
アイオリスは、まだ浅い息の合間に、かすかに笑った。
指先で掬い取った俺の“水”を、じっと見つめる。
「そう、か……なら、この水も、君か……」
あいつはそう言って、“水”を掬い取った指を自分の口元へ運んで、吸った。
硬直した俺を見て、あいつはまた弱々しく微笑む。
「……なら、一滴も、零したくない」
「――ばっ……ばかやろうっ!?」
深い水の底の泡の中に、俺の叫びがこだました。




