92.水に落ちた斧 ◇★△
泡の膜に包まれたまま、深みへ落ちていく。
神域の底――イズミールの光が届いていた水の、そのさらに向こうへ。
深く、暗く、重い場所へ。
瓶の発する青白い輝きが、不意に弱まったかと思うと、泡の膜が周囲の水に圧されて、軋むように震えた。
外の水が、イズミールのそれとは違うものになったのだと、肌で分かった。
“水門”を越えたのだろう。
イズミールの力の及ばない領域――源流へ至ったのだ。
泡の膜に触れる水は濁っていない。だが、水に似た何かへ変わりつつあるような、不快な重みがあった。
水も空気も、ここでは少しずつ本来の理を忘れていく。
瓶の光が抗うように明滅し、その異質な流れを私へ近づけまいとしていた。
左肩が疼いた。
白い世界にいた間、遠のいていたはずの痛みは、焼けつくような激しさから、氷を押し込まれたような冷えと痺れへ変わりつつあった。
傷口が腐り落ちるにはまだ至らない。だが、もう左半身はまともには使えまい。
私は歯を食いしばり、右手で黄金の斧を握り直した。
黄金へ変わった刃は、水の中にあっても曇らなかった。
むしろ、暗くなるほどに、その金色は頑固に光を返す。
目を射るような眩さではない。決して侵されず、折れず、ただそこに在ると主張する光だ。
左手には瓶。
小さなガラス瓶の中で揺れる水だけが、この異質な深みにあってなお、私の知るあの泉の気配を宿していた。
――絶対戻れ。
彼女の声が、耳の奥に残っている。
脅しじみた物言いだったが、あれは命令であり、願いだった。
外で広がり続ける災厄を止めることも出来ず、手の届かぬ源流から魔樹に侵され、苦しめられている。
どれほど心細く、どれほど苛まれているか、計り知れない。
それでも、私の身を案じ、震えながらも送り出してくれた。
彼女は自分を臆病で心弱い人間だと言うだろう。
だが、私はそう思わない。
そう告げれば、きっと顔を顰めて即座に否定するに違いなかった。
「……戻るとも」
泡の中で、誰に聞かせるでもなく呟く。
声は泡の内側で溶け、重たい水を震わせることもなく消えた。
いつの間にか、水音は聞こえなくなっていた。
代わりに、足元の暗がりの底で、空間そのものがきしきしと軋み、裂け目を広げ続けているような、あの忌まわしい気配が満ちている。
――魔樹だ。
見えずとも分かる。
“深淵殺し”として何度も追ってきた、世界の傷口。
黒禍を滲ませ、周囲へ別の理を浸し、こちら側を蝕んでいくもの。
泡の膜がひときわ強く震えた。
暗がりの奥で、黒い亀裂が縦横に走っていた。
あれを樹と呼ぶのは、そのように見えるからに過ぎない。
人の言葉へ落とし込まねば、見ているだけで心が侵されそうになるからだ。
幹に見えるものは、空間へ走る巨大な裂け目だった。
太く長く、闇そのものが縦に割れている。
そこから伸びる枝もまた木の枝ではなく、亀裂が幾重にも分かれ、絡み合い、周囲の水をこちらの水ではないものへ書き換えながら広がっていた。
枝の先ごとに、別世界の残滓のようなものがちらつく。
石とも肉ともつかぬもの、鱗めいた光沢、虫の脚じみた影、見覚えのない色彩。
どれも一瞬だけ現れては黒へ呑まれ、亀裂の一部となっていく。
魔樹は、こちらを見ていなかった。
いや、そもそも“見る”という概念すら持たぬのだろう。
私が近づこうが、斧を構えようが、何ら反応しない。
ただそこにあり、伸び、侵す。
黒禍に侵された獣や人が吠え、叫び、襲いかかってくるのは、生き物だった頃の残響に過ぎない。
深淵そのものには、敵意も害意もない。
水が低きに流れるように、ただ広がり、ただ浸していくだけの存在だ。
人も獣も草木も岩も、その途中にあるから巻き込まれる。それだけのことだ。
「……ならば」
呟いた声は、泡の中でやけに近く響いた。
私は斧の柄を強く握り込む。
「伐るだけだ」
このまま枝葉が伸び続ければ、やがて水門の向こうまで食い破る。
イズミールのいる側まで。
そこへ思考が届いた瞬間、迷いは消えた。
私は泡の膜を押し出すように、魔樹へ向かった。
イズミールの泡は、源流の異質な水を完全には遮らない。
水圧も、気配も、浸蝕の不快さも、薄皮一枚を隔ててすぐそこにある。
それでも、この膜があるおかげで、私はまだ“こちら側の人間”として留まれている。
魔樹の周囲だけ、水の質感がさらに違っていた。
暗いだけではない。泡の外を満たす“源”寄りの重たい水が、なおいっそうねじれ、濁りもせぬまま異質な粘りを持っている。
あの黒い亀裂を中心に、こちらの法則が剥がされているのだと分かった。
枝めいた裂け目の一本が、目の前を横切る。
私はそれに向かって黄金の斧を振り下ろした。
「おおぉっ!!」
ぎぃん、と甲高い音がした気がした。
鈍い衝撃が腕を突き抜ける。
ただの武器であれば、理が噛み合わずにすり抜けるだけだろう。
だが黄金の刃は亀裂に食い込み、裂け目そのものを斬り裂く。
木を断つ手応えではない。骨でも鉄でもない。
相容れぬもの同士がぶつかり合い、反発を生んでいる。
黄金の刃は止まらない。
黒い筋が音もなく裂け、その断面から黒い靄とも水ともつかぬものを吹き出しながら、ほどけるように消えた。
だが、すぐ傍で別の枝が伸びる。
魔樹には己を守ろうとする意志もない。
だからこそ、断たれたことすら意に介さず、同じ速さで増殖を続ける。
「そうだろうな……!」
右腕一本で振り抜いた斧を斬り返す。
次の枝を断つ。さらにその先。
枝葉じみた先をいくら斬っても意味はない。
魔樹には意思がないが、広がり方には癖がある。
伸びの太い筋、流れ込みの脈、亀裂が亀裂を呼ぶ結節を見極め、そこだけを狙う。
どこを断てば一時でも勢いを殺せるか、“深淵殺し”として黒禍と渡り合ってきた身体が覚えている。
もっと奥だ。
泡の膜が魔樹の近くをかすめるたび、表面がぎしりと軋んだ。
イズミールの守りが、こちら側でない法則に削られているのが分かる。
急がねばならない。
振るう。断つ。
踏み込む地面がない代わりに、斧で枝葉を斬り、殴りつけ、その反動で身体の向きと流れる速さを変える。
水の中での動きは鈍い。だが、黄金の斧はよく応えてくれた。
金色の刃は浸蝕を受け付けず、こちらの法則へ強引に引き寄せるように、ただ断つことだけに徹してくれる。
かつて黒禍を斬るたび、自分の中身が向こう側へ近づいていく、あの嫌な手応えがあった。
だが、この斧にはそれがない。
代わりに返ってくるのは、左肩の痛みだけだった。
「っ……!」
一閃ごとに、焼けつくような痛みが背へ抜ける。
矢傷だ。振るたびに、残った矢が内側で肉を抉る。
呼吸も片側だけ浅くなる。左腕へ力が入らない。
だが、ここで止まれば、斬り払った以上の速さで黒が広がる。
私は痛みを無視して、魔樹の幹へと肉薄する。
その時、肩から胸へ、皮膚の下を冷たいものが這いずる感触がした。
ぞわり、と身体の内側で何かが芽吹いた。
血管でも神経でもない異物が、矢の刺さった傷を根にして、私の身体の内側へ枝を這わせていく。
「ぐぅ……っ」
息を呑む。
呼吸が片側だけ浅くなる。
左手の指が一瞬、自分のものではないように遅れて動いた。瓶を握る感覚が鈍る。
まずい。
魔樹に近づいたことで、刺さったままの矢が、ただの異物ではなく、向こう側の存在へと書き換えられ始めている。
矢が浸蝕され、黒禍を滅ぼすための“深淵殺し”に変わろうとしている。
その穢れた刃が殺すのは、深淵だけではない。
私はこの斧で、かつて仲間だった者を幾人も斬ってきた。
深淵に近づいた者は、やがて深淵に成って果てる。
”深淵殺し”の最期は、そういうものだ。
その順番が、ついに私にも回ってきた。
私は歯を食いしばり、泡の中で無理やり姿勢を立て直した。
退けない。
ここで退けば、あれはまた広がる。
イズミールは水門の向こうから手を出せぬまま、さらに削られる。
そして私は、戻ると約束した。
「……まだだ」
吐き捨て、さらに奥へ踏み込む。
見えた。
底なしの暗がりから伸びるそれは、見上げれば天へ、見下ろせばさらに深く、どこまでも続いているようだった。
幹に見える裂け目の根元から、こちら側へ異界の理を流し込んでいる筋だ。
あそこだ。
あれを断てば、この場に伸びた魔樹の勢いは落ちる。
泡の膜を押し破りそうな圧の中、私は斧を構えた。
矢が軋む。左の半身で黒いものがざらりと蠢いた。
頭蓋の内側へ錆びた釘を打ち込まれるような不快感が走った。
ここは、あまりにも深淵に近い。人が留まってよい場所ではない。
だからどうした。
これ以上、イズミールを苦しめさせるものか。
断ち切り損ねれば、次の瞬間にはこの泡ごと黒に呑まれる。
そう理解した時、痛みも恐怖も、ただ一撃のために押し潰された。
「う、おおおおっ!」
水の中で声になりきらぬ咆哮を押し出し、私は黄金の斧を振り切った。
刃が幹へ食い込む。
ぎし、と世界が軋んだ。
これまでで最も強い抵抗を感じた。
あちら側の世界そのものが、この刃を拒んでいるようだった。
だが黄金は侵されず、輝きを保ったまま、世界を侵すものを撥ね退けた。
太い幹が、半ばまで断たれる。
幾重にも伸びていた枝葉が、根を失った蔓のようにほどけ始める。
水の中を満たしていた異質な圧が乱れ、泡の膜を打つ流れが一気に荒れた。
泡がきしむ。
返した刃を、そのまま断ち切れかけた幹へ叩き込む。
右腕の骨が軋み、腱と筋肉がぶちぶちと悲鳴を上げるのを無視して、斧を振り下ろす。
「っらああぁ――!」
黄金の軌跡が暗い水の中を駆け抜ける。
次の瞬間、黒い幹が、音もなく完全に断たれた。
枝という枝が、一瞬遅れてばらばらと軋み始めた。
無数の亀裂がつながりを失い、支えをなくしたように崩れていく。
まだ、勝った、とまでは言い切れない。
ただ、いまここに伸びていた魔樹の最も太い脈は断ち伐った。
今ならば、イズミールに浄化を請えば、滅ぼしきれる。
瓶を握り締めたその直後だった。
「……っ、が、ぁ……!」
左肩が、今度こそ本当に裂けたかと思った。
矢傷を起点に、黒い熱が胸へ、喉へ、頬の裏側へと一気に駆け上がる。
断たれた魔樹の残滓が、行き場を失って浸蝕された矢を通して、私の中へ雪崩れ込んできたみたいだった。
斧の柄を取り落としかける。
泡の中で膝が折れ、私は辛うじて瓶だけは抱き込んだ。
左の指先の感覚がずれた。
遅れて自分の身体がついてくる。
自分の身体なのに、自分のものではなくなっていく。
「……っ、ぁ」
傷の奥で、何かが芽吹いている。
自分の中へ、もう一本の小さな魔樹が生え始めたみたいだった。
矢を起点に、向こう側の法則が体内へ根を張ろうとしている。
断ったはずの幹の痕跡も、まだ完全には消えていない。
ばらばらになった裂け目の残滓が、黒い煤のように周囲へ漂い、泡の縁へまとわりつく。
これを残すわけにはいかない。
私はよろめきながら、震える手で瓶を胸元へ引き寄せた。
ガラス越しに、水が微かに脈打った。
――名前を呼べ。
そう言っているように思えた。
そう思った瞬間には、もう口が動いていた。
「イズミール……!」
声が掠れた。
痛みで、呼吸で、言葉がばらばらになる。
祈りではない。ただ、彼女を想い、名を呼ぶ。
水の中へ吐き出した声は、泡の内側でくぐもった。
だが、届くはずだと思った。
いや、届けと願った。
「がっ……あ……っ」
黒い熱が喉元までせり上がる。
視界の端が歪む。呼吸が苦しい。胸の中で異物が脈打つ。
傷口から何かが枝分かれし、肋骨の裏を這っているような嫌悪感。
体内に黒禍が根を張ろうとしている。
その時、瓶の水が、ぱっと青白く灯った。
その光は、先ほどまでの微かな脈ではなかった。
深い水の底へ差し込む、一筋のせせらぎのような、しかし確かな意志を持つ光だった。
『――アイオリス!』
声が、来た。
暗い水の向こうからではない。
瓶の内側から、心の裡へ直接流れ込んでくるような呼び声だった。
その一声だけで、黒い筋の這い上がりが一瞬だけ止まる。
『そこだな! 待ってろ、今――っ』
青白い光が瓶から溢れ出した。
いや、それは光というより、水そのものだ。
優しく、清浄で、けれど力強さもある。
イズミールの気配を宿した浄化が、瓶を通じてこちらへ流れ込んでくる。
断たれた幹筋からまだ残っていた黒い亀裂の痕が、青白い光に触れた端から消えていく。
泡の外、水そのものに刻まれかけていた異質な筋が、焼かれるように溶けて失せる。
同時に、肩の矢傷へ食い込んでいた黒もまた、ぐっと引き剥がされる。
「ぁ、が……っ!」
身体が焼けるようだ。
だが、さっきまでの“向こう側へ持っていかれる”痛みではない。
生きた肉が、こちらへ引き戻されて痛みを思い出したのだ。
黒い筋が肩から胸、喉元へと浮かび上がり、青白い光に焼かれて霧散していく。
矢そのものは残ったままだ。傷も消えない。
だが、向こう側へ書き換えられかけていた部分だけが、きっちりと削ぎ落とされていく。
私は瓶を握ったまま、歯を食いしばった。
『ばか、ほんとに……っ、無茶しやがって……!』
泣きそうで、怒っていて、けれど安堵の混ざる声だった。
私は返事をする余裕もなく、ただ息を吐いた。
泡の外では、断たれた魔樹の痕跡が最後の黒い靄となって揺れ、それもまた青白い光に触れた瞬間、跡形もなく消えた。
――終わった。
少なくとも、いまこの源流に巣食っていた魔樹は。
※※※※※
そう悟った瞬間、全身から力が抜けた。
魔樹の痕跡を焼き切るのと引き換えに、瓶から溢れていた青白い光が痩せていく。
守りの力は、もう尽きかけていた。
しかも、浄化で引き剥がされた黒と一緒に、浸蝕されていた左半身から力まで抜け落ちていく。
痺れた腕は、もう瓶を支えることすら出来なかった。
『……アイオリス? おい、返事しろ! お――』
イズミールの声が遠ざかっていく。
ごぼり、と口から泡が零れる。
それとほとんど同時に、身体を包んでいた泡の膜が音もなく弾け、私は重く冷たい水の中へ投げ出された。
真っ暗な中で、頭上に青白い光が揺らめいているのが見えた。
ゆらゆらと揺れるその光が、まるでこちらを見つめる目のように見えた。
イズミールの瞳だ、と思った。
――離すな。絶対に。
彼女の声が蘇る。
……そうだ。あの光、あれは瓶だ。
離してしまっていたのか。
拾わねば。
動かない左手の代わりに、右手を伸ばして掴み取ろうとする。
だが、重たい水の中、腕の動きはひどく緩慢で、やっと手を伸ばしきった頃には、青白い光は遠く、星のように小さく瞬くだけになっていた。
その時になって、右手にあったはずの斧までも落としてしまったのだと、遅れて理解する。
――ああ、彼女にまた叱られてしまうな。
――大切な仕事道具を水に落とすなんて、木こり失格だ。
場違いなことが思い浮かんで、口から洩れた笑みは泡になって上っていく。
身体はもう言うことをきかなかった。
源流の水は重たく圧しかかるように、私を底へ、底へと誘う。
水色、金色、銀色、黒。
様々な色をしたイズミールの顔が思い浮かぶ。
けれど、どれも哀しく沈んだ表情をしていた。
(だめだ……そんな顔をしないでくれ……)
私は暗い水底へと沈んでいく。
――死にたくない。
――逢いたい。
ぴちゃん。
小さな水音が聞こえた気がした。
その音を最後に、私の意識は闇の中へと溶けて沈んだ。




