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91.聖女は水から浮かび、富者は黄金と共に沈む ◆★ ※挿絵追加

 神域からあふれ出した水は、夜明けとともに森を浸し、地面を走り、建設中だった水上神殿の足場も、湖畔の社も、資材置き場も、人の営みごと呑み込みながら広がっていた。


 丘の下では、草も石も道も関係なく水が這い上がり、触れた木々は朝の薄光の中で根元から黄金へ変わっていく。幹が、枝が、葉が、ぬらりとした金色へ染まり、その輝きのまま風にも揺れなくなる。葉擦れの音すら届かぬ距離だというのに、その金色だけが不気味なほど鮮明だった。


 聖地のいたるところから、人々がこの丘を目指して逃げてきた。

 肩で息をし、何度も後ろを振り返り、自分の足が金に変わっていないかを確かめている。みな同じような顔をしていた。


「どうしてこんな……どうして……」

「お赦しを、女神様……お赦しを……」

「見よ! あの黄金の輝きを! 奇跡だ!」

「お怒りだ、誰か不敬を働いたのだ!」

「ふざけるな、何が女神だ! こんなもの災いじゃないか!」

「黙れ、不敬者! だから怒りを買うのだ!」


 喚く者、祈る者、責任の所在を求めて怒鳴り合う者。

 敬虔な信徒も、外縁部から逃れてきたどこかの都市の守備兵も、街から這うように上がってきた避難民も、今では同じ土の上に膝をつき、同じ恐慌の中で息を荒げている。


 大工のギュゲスは、その喧噪の中で、何度目かも分からぬ舌打ちを飲み込んだ。


 下を見れば、昨日まで道だった場所を水が滑り、木立の隙間を金色が侵し、澄んだ水の中にはところどころで人の形をした黄金が朝日に光っている。

 あれが昨日まで歩き、祈り、怒鳴り、酒を飲み、飯を食っていた人間だと思うと、腹の底が冷たくなった。


 この丘もそう高くはない。


 今はまだ、群がる人の足元に草と土が見えている。

 だが、水位はじわじわと、しかし確実に上がってきていた。

 ここに集まった人間の数を見れば、それだけで分かる。

 みな、もっと低い場所を捨てて、押し上げられるようにここへ来たのだ。

 けれど次は、ここが沈む番だというのは明白だった。


「畜生……」


 吐き捨てたその時だった。


 下から迫ってくる水の筋のひとつが、不意に大きく盛り上がった。


 誰かが悲鳴を呑み込む。


 丘に迫る水が大きく波打ったかと思うと、白く弾けた。

 水の中から飛び出してきたのは、一艘の小舟だった。


「んなぁ!?」


 ギュゲスは驚愕の声をあげた。

 丘を駆け昇る途中で見た奇妙な舟、見間違いだと思っていたそれが、再び姿を現したことへの驚きだった。


 それは浮かび上がって打ち上げられたというより、底の方から突き上げられたように飛び出してきた。

 泡のような透明の膜に包まれたその小舟は、黄金になることもなく、濡れた木の質感をそのままに、丘の斜面へ半ば叩きつけられるように落ちた。


「きゃぁ……っ!」


 舟から小柄な影が放り出され、草の上を転がる。


 まだ年若い少女だった。

 栗色の髪は水気を帯びて乱れ、服も泥と水に濡れているが、黄金になる様子はない。痛みに顔をしかめながら起き上がろうとする少女を追いかけるように、水面から三つの水の塊がぽんぽんと飛び出した。


『リィヤーっ!』

『だーじょ?』

『じょーっ?』


 角とヒレを持つ、水でできた幼子たち――女神イズミールの御子だった。

 御子たちは少女のもとへ飛んでいったかと思うと、その頭上でくるくると回り始めた。


 だが、人々が息を詰めたのは、その神々しさゆえではなかった。


『ミューリッナ! だぁめーっ!』

『チァーッ! メーッ! ミュシア!』

『ヤーッ! ミュルナ! ミュルナッ!』


 幼子たちは、ぺしぺしと水の腕で叩き合い、ひれを引っ張り、頬を押しのけ、誰が悪いのかも分からぬまま転げ回る。

 どうやら、勢い余って舟が水中から飛び出してしまったことの責任を押し付け合っているらしい。

 もっとも、精霊の言葉なので、周囲にはただ水の子ども同士が取っ組み合いの喧嘩をしているようにしか見えなかった。


「ちょ、ちょっと、やめて、やめてってば!」


 少女が起き上がって、慌ててその間へ割って入った。


「わ、私は大丈夫だから!

 ほら、ね? だから喧嘩しないの、ミュルナ、ミュリナ、ミュシア!」


 少女――リディアは、とっくみ合いをする三人の一人を抱え、もう一人を押し止め、三人目の手を握って必死に宥める。


挿絵(By みてみん)


 そのあまりにも普通の仕草に、丘の上の人々は逆に凍りついたようだった。

 水の幼子たちはなおも『だぁ!』『みゅ!』などと不満げに鳴いていたが、リディアに押さえられると、しぶしぶ動きを止めた。


 御子だ。


 あれは、どう見ても女神の御子だ。


 ならば、その幼子たちを当たり前のように抱き上げ、あやしているあの少女は何者なのか。


 誰もが息を呑み、見守るしかない中で、最初に我に返ったのはギュゲスだった。


「おい」


 声をかけると、リディアがびくりと肩を跳ねさせてこちらを見た。

 頬に泥がついている。ギュゲスは一度息を呑み、声を落として問いかけた。


「あんた……その、そいつらは……御子様、だよな?」


 リディアがびくりと肩を震わせる。


 ギュゲスが話しかけたことが口火になった。

 群衆が息をするのを思い出したように、口々に叫び出す。


「御子様っ、御子様だ……!」

「やはり女神様は我らを見捨てておられなかった!」

「どうか! どうかお助けを!」

「御子様と一緒に……もしや、女神様の御使い……?」

「いや、聖者様と共におられたのを見たことがあるぞ」

「聖女様……?!」


 人々が一斉にざわめき、縋るように身を乗り出した。


 リディアは目を見開き、怯んだ。


「え……ち、違っ、待って、私は――」


 否定しようとするが、誰も聞いていない。

 御使い、聖女、救い。言葉だけが先走り、少女に勝手な意味を押しつけようとする。


 ミュルナたちは、抱き上げられたままきょとんとしていた。

 自分たちが囲まれている意味が分からないらしい。

 ミュルナが『マァー?』と首を傾げ、ミュリナが黙って首を振る。


 ギュゲスは腹の底から怒鳴った。


「――うるせぇ!」


 群衆が一瞬、止まる。

 リディアが肩を竦め、ミュシアが『るせぇー』と真似をした。


「その子の話くらい、聞け!」


 ギュゲスはリディアを背に、群衆の前に立ちはだかると、丘の下を指差した。


「見ろっ! 水がそこまで来てるんだぞ! 喚く前に、頭を使え!」


 怒声に押されて、人々の顔がようやく一度だけ現実へ向いた。


 リディアもまた、その声に押されるように、初めて周囲を見た。


 そして息を呑んだ。


 丘の下には、金色に染まっていく森があった。

 湖と陸の境目はもう曖昧で、水が木々の間を滑り、足場も家も道も飲み込みながらこちらへ迫っている。遠くの建物の屋根が半ばまで沈み、人が豆粒のように走り、ある者は倒れ、ある者はそのまま黄金の像となって動かなくなるのが見えた。


「……あ……」


 声にならない息が漏れる。


 神域を離れてからここまで、リディアに見えていたのは暗い水と、目まぐるしく流れる景色だけだった。

 舟にしがみつき、アイオリスやミュルナたちの名を呼び続け、気づけば地面へ投げ出され、喧嘩を止め、知らない人々に囲まれていた。

 それだけで、もう頭はいっぱいだった。


 だが今、ようやく世界の全体が見えてしまった。


 外はこんなことになっていたなんて。

 アイオリスさんは無事なんだろうか。


 水が、あんなに。

 人が、こんなに。


 女神様はやっぱりお怒りなんだろうか。


 怖い、と思った。


 その時、ミュルナがすぐさまリディアの腕にしがみついた。


『だぁーじょー』


「……ミュルナ」


 ミュルナはにこ、と笑って、泡に包まれた小舟を指さす。


『リィーディヤ、いこぉー』


 小さな手で、まだ舟を指している。

 乗ればいい、あそこへ戻れば大丈夫だと、そう言いたいらしい。


 リディアははっとした。


 この子たちは、自分を気遣い、助けようとしてくれている。

 無邪気で、活発で、姉妹喧嘩をしがちだけれど優しさを持っている。

 嬉しいと同時に、それでは駄目だと思った。


 舟へ乗れば、自分だけは助かるのかもしれない。

 けれど、ここにいるたくさんの人たちはどうなる。

 舟に乗れない人々は、皆この丘ごと呑まれて終わりではないか。


 目の前には、怖がっている人たちがいる。

 怒っている人も、祈っている人も、みんな同じように追い詰められている。


 リディアは唇を噛んだ。


「……だめ」


 リディアは首を振った。


 ミュルナがぱちぱちと目を瞬く。

 ミュリナとミュシアも、不思議そうにこちらを見る。


「わたしだけじゃ、だめなの」


 声が震える。喉が詰まる。怖い。けれど、言わなければならない。


「お願い、ミュルナ、ミュリナ、ミュシア……この人たちも、助けてあげて」


 ミュルナたちは、きょとんとした。


『たしゅけぇー?』

『おねぁい?』

『メー?』


 三人とも、自分たちが何を頼まれているのか、すぐには分からない顔をしている。


 リディアは必死に両手を広げ、周囲の人々を示した。

 泣いている者、祈る者、頭を抱えて蹲る者、呆然と立ち尽くす者。


 自分とアイオリスを神域に送り出した師匠の姿を思い出す。

 今はもう、黄金になって、水の底にいるはずだ。


「ここにいる皆を……助けたいの。力を貸して」


 ミュルナは少しだけ眉を寄せ、ミュリナは唇を尖らせ、ミュシアは姉妹の顔を交互に窺う。

 三人とも、意味は完全には分かっていない。

 けれど、リディアが必死なのは分かるのだろう。


 三人で手を繋ぐと、リディアを見上げて言った。


『みんぁー、たしゅけーぅ! だぁじょぶ!』


「ありがとう、皆! ありがとう!」


 群衆たちには御子の言葉は理解できなかったが、少女の声でどんなやり取りかは察せられた。この少女は、御子様に自分たちの助命を嘆願し、それが聞き届けられたのだと。


「御子様と言葉を交わしておられた……」

「ああ、御使いの方が、我らのために……」

「やはり聖女様に違いない」


「だから! そういうの、やめろって言ってるだろうが!」


 ざわめく群衆たちにギュゲスがまた怒鳴る。


 その時だった。


 遠く神域の方角で、地の底から何かが捻じ切れるような、低く重い震えが走った。


 だが、まだこの丘の上の誰も、その意味を知らない。


◆◆◆◆◆


 ドン、ドン、ドン。


 頭蓋の内側を直接、金槌で殴られたような音が響き渡る。


 扉が叩かれる音だ。


 分厚い樫の扉が、蝶番ごと外れんばかりに叩かれている。


 寝台の上で、私は顔をしかめた。口の中には酒の臭いが残っている。

 舌は乾ききって喉に張りつき、頭は鈍く重い。


 昨夜は、確か、最後の瓶まで空けたはずだ。

 そうでもしなければ、あの湖の方角から聞こえ続ける忌々しい水音が耳から離れなかった。


 ドン、ドン、ドン。


 もう一度、扉が鳴った。


 硬く、重い音が、頭の芯にずしりと居座る不快感へさらに痛みを上乗せしてくる。

 下男どもにしては遠慮がなく、護衛にしても礼を欠いている。

 どちらにせよ気に入らない。


「何事だ、この朝っぱらから……!」


 怒鳴った声が自分でも少し掠れていた。喉が酒精に焼けついている。


 扉の向こうで、一拍だけ間が空いた。


 それから、聞き慣れた声が返ってきた。


「旦那様。ヘレノスです」


 ヘレノス。


 その名に、私は半身を起こした。


 あれを聖地へやったのは昨夜――いや、もう昨日か。

 聖地の動向を探ってこいと命じたのは、私だ。

 だが、こんな時刻に、こんな叩き方で帰ってくるとは思わなかった。


 無遠慮で乱暴な扉の叩き方に対して、その声は奇妙に落ち着いていた。


「一体、何のつもりだ、この阿呆めが!」


 吐き捨てるように無礼の理由を問い質したが、扉の向こうから返ってくる声には動揺がない。


「最後のご報告にあがりました」


 最後?


 何を言っている?


 私は眉をひそめた。


「何をふざけたことを言っている。報告なら早く――」


 私が言い終える前に返事が来た。


「聖地は沈みます。あなたは、莫大な黄金を得るでしょう」


 私はしばし黙った。


 意味の分からぬことを言う。この男は疲労で頭でもやられたのか。

 いや、あのヘレノスがそんな無様な崩れ方をするとは思えない。


 ならば、壊れたのは状況の方か?


 だが、残った酒と寝起きのせいで、頭に霞がかかっているようにうまく働かない。

 その“壊れた状況”がどんなものか、具体的には何も思い浮かばぬまま、聞き返す。


「……何だと?」


「ああ……残念です」


 残念。


 そこで初めて、声に感情が乗った。

 落胆のようでもあり、諦めのようでもあり――わずかに、嘲りに似てもいた。


「意味の分からぬことばかりを抜かすな! 何が残念だ!」


 私が怒鳴ると、向こうからの声はもう細かった。


「あなたの――」


 そこで、途切れた。


「おい」


 返事はない。


「ヘレノス」


 また呼んでも、扉の向こうは静まり返ったままだ。


 得体の知れぬ苛立ちに背を押され、私は寝台を降りた。

 床へ足をつけた瞬間、ぐらりと視界が揺れる。

 吐き気がこみ上げるのを噛み殺し、ふらつく足で扉まで歩いた。


 開けるなり、怒鳴りつけてやるつもりだった。私は乱暴に鍵を開け、閂を外した。

 念のため、覗き窓から外を窺う。


 ぎらついた朝日を背に、ヘレノスらしき人影が扉の前にいる。

 黄金色の光が闇に慣れた目に刺さり、眩しさより痛みを覚える。


「ヘレノス、貴様――」


 扉を開く。


 そこで、私は言葉を失った。


 ヘレノスがいた。


 いや、そこにいたのはヘレノスの形をした黄金だった。


 息を呑む。


 肩幅、姿勢、手の位置、衣服の皺まで、そのままだ。

 まるで、さっきまでそこに立っていた男を、一瞬で丸ごと鋳型へ流し込んだみたいに。


 だが何より目を引いたのは、その顔だった。

 目はわずかに細められ、口元が少し吊り上がっている。


 忠義深い部下が主人へ見せる笑みではない。

 露骨な侮蔑でもない。ただ、少しだけ心残りだとでも言いたげな、嘲りの笑みだった。


 私は一歩、後ずさった。


「な……なんだ、これは」


 思わず呟く。


 返事はない。その沈黙が、先ほどの「残念です」よりはるかに雄弁だった。

 黄金像は、ただ朝の光を浴びて、硬質な輝きを放つばかりだ。


 私は廊下へ踏み出そうとして、像の足元に躓いた。

 ぐらりと傾くが踏ん張り切れず、床に転げて肩を強かに打った。


 悪態を吐きながら黄金像の腕を掴んで起き上がる。

 指に触れた感触は、冷たく、硬い。紛れもない黄金の手触りと重さだった。


 訳が分からない。


「この……役立たずが……!」


 邪魔だけは一人前か、と毒づきながら、私は黄金像の脇を抜け、廊下へ出た。


 本当は聖地の景色など見たくはない。


 だから寝室の窓の鎧戸は閉め切り、さらに分厚いカーテンまで引いて、視界から追い出していた。

 水音だけなら、酒でどうにかなる。

 だが、見えてしまうのは不味い。向こうからも見られるような気がしてならない。


 だが、この期に及んでは、そうも言っていられない。


 廊下に出て、角を曲がり、聖地の方が見える窓に寄って開ける。

 眩しい光とともに、朝の湿った空気がぬるりと顔へまとわりついた。


 光に目が慣れてきた頃、見えたものに、しばらく頭が言葉を拒絶していた。


 森の色が変わっていた。


 聖地の方角、ズミュルナ湖と名付けたあの水域を取り囲んでいたはずの緑が、ところどころ、いや、もはや隠しきれぬほどに金へ侵されている。

 朝日を受けて、自然の森にはありえない黄金の輝きを放っていた。


 そして、さらに奥――神域の方角には、天高くそびえる巨大な水柱が見えた。


「――ぁ」


 悲鳴とも息ともつかない声が漏れた。


「あぁ……あの化け物がぁ……っ!」


 叫んだ時には、もう身体が動いていた。


 あれだ。


 何もかも、あの化け物が、やったのだ。


 そうだ。いつか綻ぶとは思っていた。だが、まだ先だと思っていた。

 もっと上手くやれると思っていた。

 こんなふうに、一晩で全部ひっくり返されるなど聞いていない。


「あの女神は人の都合で囲って扱えるような代物ではなかった……!」


 口の中で呻くように吐き捨てる。


 人間の男に執着し、男の気を惹くためなら何でもやってのける狂った淫売だ。

 金塊のように思えた女神は、結局、金塊などではなかった。


「ひっ、ひっ……!」


 息を吸おうとして、喉で引き攣って上手く呼吸ができない。

 だが、呼吸を落ち着けるより前に、もう身体が動いていた。


 逃げ出す準備はしてあった。


 こういう時のために、持ち出せる分はまとめてある。

 馬車も用意してある。逃げる道筋も確認してあるし、潜伏先も確保済みだ。

 人間、先を見てこそだ。何もかも失う間抜けと一緒にしてもらっては困る。


 馬に乗って逃げる?


 馬鹿を言うな。手ぶらで逃げて何になる。

 ここまで積み上げたものがあってこそ、次がある。

 金があればやり直せる。金さえあれば、どこでも。


 私はその理を信じてきた。いまさら捨てられるものか。


 私は使用人どもを怒鳴りつけ、財宝箱を馬車へ積ませた。

 聖地の方を見て腰を抜かし、跪いて祈り出した愚か者を蹴飛ばし、怒鳴りつける。


「早くしろ、早く!」


 聖地の方角からは、絶えず低い水音が響いてくる。

 耳の奥を揺らされるたび、背中が冷たくなった。


 馬が怯えて嘶き、今にも駆け出しそうだった。

 私は荷物の積み込みが八割方済んだのを見て、御者台へ飛び乗った。


 鞭を入れると、馬車は軋みながら動き出した。


 後ろで使用人どもが声をあげ、追い縋ってくるが構うものか。


 馬車は石を蹴立てて走り出した。

 車輪が揺れるたびに箱同士がぶつかり、金属の重い音が背後で鳴った。

 その響きが、奇妙に心を落ち着かせる。


 坂を下り、街道へ出る。朝の光はもう十分に明るい。

 逃げているのは自分だけではなかった。

 下働きの女、荷を抱えた男、裸足の子ども、みすぼらしい老人。

 皆がめいめいに高い方へ、遠い方へと走っている。


 赤子を抱えた女が馬車に近寄って助けを求める視線を向けてきたが、返事の代わりに馬に鞭を入れた。


 あんな重しにしかならない連中を載せるなど冗談ではない。


 背後から異様な気配が迫ってくる。


 突然の雨が降り出す直前の、あの奇妙な匂い。

 霧の中にいる時のような、肌に纏わりつく湿り気。

 頭の中に響く、せせらぎのような唄声――


 違う。あの化け物の声ではない!

 あの女は、あの湖から離れられないはずだ。


 だが、気配は一向に消えない。


 しばらく馬車を走らせてから、私はついに振り向いてしまった。


 ずっと遠く、聖地の方角に壁が見えた。


 空と大地の隙間にそびえる水の壁だ。


「……は?」


 高く、広い。あの湖から立ち上がったとは思えない水量だ。

 視界の端から端までずっと水の壁が続いている。

 それが遠くから静かに、ゆっくりと迫ってくる。


「ひっ……来るな……来るなっ!」


 鞭を叩く。疲れ切った馬が悲鳴みたいに嘶く。


「化け物め……! 聖者も、女神も、揃いも揃って狂ったか……っ」


 水は速くは見えない。

 だが、どれだけ馬車を走らせても、距離が縮まってくる。

 水の壁の下の方で、宝石をちりばめたように黄金色のきらめきが生じ、水の中に消えていく。


「くそっ……! あの気狂い女めが……! 何もかも沈める気か……!」


 悪態を吐きながら手綱を引く。だが手のひらは汗で滑る。

 路面も、いつの間にか妙に湿っていた。馬車が跳ねる。積んだ箱が音を立てる。


 背後で、水の鳴る音がまた一段と大きくなった。


 振り向いた、その一瞬がまずかった。


 車輪が石を踏み、馬車が横へ流れる。

 立て直そうとして、逆に手綱を引きすぎた。馬が大きくいななき、荷台が傾く。


「待て、待て、待て――」


 次の瞬間、馬車は片輪を浮かせ、そのまま横転した。


 箱が飛ぶ。蓋が割れる。金貨が、朝の光の下で馬鹿みたいに散った。

 転げた馬が悲鳴をあげながらも、必死に軛から逃れ、馬車を置いて駆けていった。


 私は荷台から投げ出され、地面へ叩きつけられた。

 肺から息が抜ける。頬に泥がつく。

 起き上がった時には、頭の中で鐘が鳴っていた。


「待て! 行くな! 止まれ!」


 私は呻きながら起き上がり、逃げていく馬に声を張り上げた。

 だが、当然止まらず逃げていった。賢明な畜生だ。


 目の前に、割れた箱から金貨がこぼれて、朝日を浴びて輝く。


 私は両腕で抱えられるだけの財をかき集めた。

 首飾り。金貨袋。細工箱。指の間から滑り落ちても、また拾う。


 ここで捨てれば、何のために走り続けてきたのか分からない。


「ひぃ……ひぃっ」


 私は金貨袋を抱えて走る。

 酒に溺れた日々は、行商をしていた頃の体力を失くしていて、金貨の重みで足並みが鈍る。


 背後の地面が揺れた。


 水音だけでなく、濃い水の匂いが近づいてきていた。


 足を止めるな。振り返るな。

 理性がそう訴えかけてくるのに、振り向く衝動を堪え切れなかった。


 水の壁が、白くも濁りもせず、地を均して迫っている。


「あ……、あ、あぁ……」


 私は袋を見た。


 手の中の重み。ここまで信じてきたもの。その瞬間だけ、迷った。


 次の瞬間には、私は手にした財を放り出していた。


 耳障りな音を立てて袋が裂ける。黄金が土へ散らばる。

 普段なら膝をついてでも拾わずにいられない光景を、私は見もしなかった。


 今度こそ、身一つで駆け出した。


 走る、走る。


挿絵(By みてみん)


 息が切れる。酒の残りと恐怖で腹がひっくり返りそうだった。

 足元の石に躓きながら、それでも前へ出る。


 近くに一本、樹があった。

 選り好みをしている余裕などなかった。私は必死で幹に取りついた。


 樹皮に爪を立て、膝で幹を抱え、泥だらけの靴を蹴り出して、身体を上へ上へと押し上げる。爪が割れ、靴底が滑っても、必死で枝を掴んでよじ登った。


 真下から、水音が聞こえた。


「ふざ、けるなっ……役立たずどもが、誰のお陰で……っ」


 何に向かって言ったのか、自分でも分からない。


 もっと上へ。もっと高く。

 枝が顔を打っても、必死で登る。息が切れる。腹が焼ける。

 悲鳴みたいな呼吸が勝手に漏れる。


 だが、下から迫る水の方がはるかに速かった。


 異変はすぐ手元にも現れた。

 いつの間にか、指先に触れる木の感触が違っていた。


「……え?」


 見れば、さっきまでただの樹皮だったはずの表面が、金色へ変わり始めている。

 水が来る前に、木そのものが黄金化しているのだ。


「いや、待て、違う、違うんだ……!」


 口が勝手に言葉を吐き出す。私はそれでもさらに上へよじ登ろうとした。

 だが、黄金と化した幹には爪が立たず、しがみつくだけでも精一杯だった。


「や、止めろぉ……! お赦しください、女神様! イズミール様ぁ……っ!

 私はっ、私はただ、貴女に手をお貸ししただけでっ、御恩を返そうと――あ、ああ、くそぉ!」


 手が滑り、ずるりと身体が下へとずり落ち、喚き声をあげる。


「また、アイオリスか!? あいつに唆されて邪魔になったんだろう!

 おい! 聞いているんだろう! お前のためにどれだけ金を使ってきたと思っている!」


 赦しを乞うているのか、罵っているのか、自分でも分からない。


 分かるのは一つだけだ――私は黄金になどなりたくない。


「待ってくれ! 金なら返す! もう、手を引くから――」


 次の瞬間、足元から追いついた水が、私の靴を浸した。


 感触は、何もない。

 濡れた、冷たいという感触すらない。


 それが、何より恐ろしかった。


「――ぁ」


 声が止まる。


 爪先から、膝へ。

 冷たくも熱くもない、ただ確実な硬さだけが這い上がってくる。


 身体が重い。

 腕の力だけで支え切ることが出来ず、私は枝から滑り落ちた。


 どぼん、と水音が響いた。


 視界が反転する。


 水の中だった。


 顔を上げる。

 見えたのは、水面越しに揺らめく朝日の白い光だった。


 ゆらゆらと揺れるその輪が、まるで上からこちらを見下ろす一つの瞳のように見えた。


 女神の目だ、と思った。


 逃げ出し、捨て、喚き、赦しを乞い、罵り、泥に塗れた果てに、いま水の底からその目を見上げている。

 値をつける側でも、選ぶ側でも、見下ろす側でもなく、ただ裁かれる側として。


(何が女神だ、何が神秘だ、何が奇跡だ、何が――)


 私はその光に向かって、もう吐息にも声にもならない何かを吐き出した。


 赦しだったのか、呪いだったのか、自分でも分からなかった。


挿絵(By みてみん)


◆◆◆◆◆


 ――どおん、と。


 丘の土まで震わせるような音が、神域の方から轟いた。


 丘の上に逃れた誰もが反射的に振り向いた。


 朝の空へ向かって、巨大な水柱が立ち昇っていた。


 それはただ高いだけではない。天へ届くのではと思えるほど太く、重く、青白い光を孕みながら、神域の中心からまっすぐ噴き上がっている。


 水柱の周囲では、朝日に照らされた飛沫が無数の光となって散り、その下で森と湖と黄金とが一つに混ざり合って揺れていた。


 気づけば、濁りのない水の壁が、ぐるりと丘を囲みつつあった。

 逃げ場など、もうどこにもない。祈りと悲鳴と嗚咽が、朝の光の中で入り乱れる。


「御子様! 聖女様! お助けを!」

「御使い様、ど、どうか……!」

「お救いを……!」


 縋りつくような声が、次々とリディアへ突き刺さる。


 少女は唇を噛み、震える膝を叱るように踏みしめて、叫んだ。


「……だ、だから、私、聖女なんかじゃありません! 御使いでもない!

 私……私は――魔術師です! 魔術師リディアです!」


 ひっくり返りそうな声で、リディアはそれでもはっきりと告げた。

 誰かに押し付けられた役割ではなく、すべきことを自分で選ぶのだと叫ぶように。


 少女はミュルナたちへ向き直った。


「ミュルナ、ミュリナ、ミュシア……皆を信じてるから、お願い!」


 三人が顔を見合わせる。次の瞬間、ぱっと笑った。


『『『ミュィィィッ!!!』』』


挿絵(By みてみん)


 幼い叫びが、朝の空気を震わせた。


 水の子らは一斉に跳ね、迫る大波へ向かって、飛んで行く。

 少女もその後を追って駆け出した。


 程なくして、丘は水の中に没した――

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― 新着の感想 ―
聖女様!聖女様!
リディア八つ当たりされるかと思ったけど、思ったより平和でよかった
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